ダイアローグ200311

「トポス」を取り戻せ


[この本に学ぶ]
「リベラル保守」宣言
中島岳志 著
新潮文庫(2016年) 


著者のいう「リベラル保守」とは、今日「保守vsリベラル」という対比で使われるところの「保守」と「リベラル」を足して二で割るといった意味では決してなく、いわば“真の保守”のことを指す。真の保守思想家こそがリベラルマインドを有し自由を積極的に擁護すべきというのが著者の想いであり、著者はその自らの信念を、静かな情熱をもって読者に語りかける。「真の保守と何か?」を知る、恰好の書だといえよう。

「リベラル保守」における「リベラル」の意味は、今日のそれとは大きく異なり、以下のような、この言葉本来の意味として使われれている。


「リベラル (liberal)」という単語を辞書で調べると「自由」以外に「寛容」という意味が出てきます。「自由」はつねに「寛容」と共に存在します。リベラリズムは、宗教戦争を繰り返していたヨーロッパ中世末期に宗教的寛容を認める思想として成立しました。そのため、世界観を異にする人々が、違いを越えて同意できる原理こそが、リベラルの名に値するものと考えられてきました。リベラルには本来的に、異なる他者を容認するための社会的ルールや規範、常識の体系が埋め込まれているのです。[P.21]

そしてもう一方の「保守」という言葉が意味するところのエッセンスは、次のような姿勢にあるという。

「左翼」思想とは、…「人間の理性によって、理想社会を作ることが可能と考える立場」と言えるでしょう。…保守は、このような左翼思想の根本の部分を疑っています。つまり「人間の理性によって理想社会を作ることなど不可能である」と保守思想家は考えるのです。…人間は、どうしても人を妬んだり僻んだりしてしまう生き物です。時に軽率な行動をとり、エゴイズムを捨てることができず、横暴な要素を持っています。保守はこのような人間の不完全性や能力の限界から目をそらせることなく、これを直視します。そして、不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるを得ないという諦念を共有します。[P.34-37]

人間とは、このようにどこまで行っても不完全な生き物であり、だから社会も、いつまで経っても理想のものなど出来はせず、常に葛藤に満ち満ちている――であるがゆえに、多様性を認め、葛藤としっかり向き合いながら、寛容な姿勢でよりbetterな答えを探し続けていく。それが「保守」がとるべき態度であり、真の保守とは、つまり言葉を換えれば「中庸」ということになる。

現実は常にうつろいやすく、日々変化をくりかえします。「中庸」という立場は、そんな現実に埋没し流されることではありません。むしろ逆に、現実がいくら変わろうとも「変わることのない精神の尺度」を身に付けることこそが「中庸」のポイントです。あくまでも現実に即しながら、正しく現実を判断する「精神の定点」を獲得することが「中庸」の目指すところです。[P.93]

「中庸」を獲得するためには、人間交際を積み重ね、その経験のうちに平衡感覚を見出す必要があります。「基準」「支点」「尺度」を身に付けるためには、歴史という縦軸と社会という横軸の交差点に立たなければなりません。その交差点に立っているという自覚を持ち、その場所を意識的に引き受ける再帰性こそ、中庸的主体の条件です[P.95]

「歴史という縦軸と社会という横軸の交差点に立つ」。この概念は、本書を貫く著者の「中庸=保守思想」の根幹を成すものといえるが、かつての日本では、人びとはこうした感覚を知らず知らずのうちに身に付けていった。地域社会や職場といった共同体は、いずれも「歴史という縦軸と社会という横軸の交差点」に存在するのであり、人びとは、そうした共同体を生活の基盤として育っていったからだ。

だが今日、共同体は急速に崩壊した。人々にとっての「精神の定点」を育むシステムは消失した――。そうした現代にあって、いかにして真の自由、真の寛容を取り戻すか? それを構想するための鍵概念として本書に登場するのが「トポス」だ。

トポスとは、自己の存在根拠となる場所のこと。かつての共同体は、このトポスとしての機能をしっかりと担ってきた。

我々は常に何かに縛られて生きています。時間と空間を超越して生きられる人間など、存在しません。我々は過去からの連続した時間の中に生を受け、特定の空間の中で生活しています。我々は時間と空間を引き受けることによって、自己の存在意義を確認します。いまここで生きている自分が、歴史的に構成された社会や共同体の中で意味ある存在として「存在している」ことを認識します。

自己には他者との関係性の中で果たさなければならない役割があり、その役割をはたさなければ「他に支障が出る」という実感が、自己の生を支えます。この時間と空間の接点で「所を得る」ことが、トポスを獲得するということです。トポスを剥奪された人間は、居場所も出番も喪失し、アイデンティティを見失います。[P.199]

もちろん、かつての共同体にも欠点はあった。いつの時代にも「完全な社会」など存在しないのだ。だから、単純に「昔に戻れ」というのではない。かつての共同体に負の側面として存在した閉鎖性を克服しながら、新しい共同体づくりをめざしていく。「ボンディング(結束型)」の関係の中に「ブリッジング(橋渡し型)」の機能を採り入れ、ボンディングとブリッジングのバランスをとりながら、人びとを社会の中に包摂していく――それが、トポスを失った現代社会に求められる施策といえるのではないかと著者は結語する。





序章 「リベラル保守」宣言
  • リベラル保守: 真の保守思想家こそリベラルマインドを有し、自由を積極的に擁護すべき[14]
  • バークの「自由」: バークが愛する自由は「利己的な自由」ではなく「社会的な自由」。自由は、道徳や倫理、良識という「自然の節度」の枠組みの中で享受されるべきものであって、放縦に至るような身勝手なものではない。自由は、先人たちの経験の積み重ねの上に獲得された歴史的成果。「平等な抑制によって確保される」ものであり、法や制度によって限定づけられている。[17]
  • 「一切の関係から切り離されて形而上的抽象」として生きている人間など存在しない。私たちはいやおうなく時空間に縛られた具体的存在として生を送っている。そのため、人間の具体的な権利は、あくまでも具体的な歴史によって獲得されたものに他ならない。[18]

  • 「伝統的な固定観念の中にこそ英知が宿っており、歴史的に受け継がれてきた暗黙知を尊重してこそ、人びとの自由が保持される」(バーク)[20]
  • リベラリズム: 「自由」はつねに「寛容」と共に存在する。リベラリズムは、宗教戦争を繰り返していたヨーロッパ中世末期に宗教的寛容を認める思想として成立。世界観を異にする人々が違いを超えて同意できる原理こそが、リベラルの名に値する。[21]
  • 人々は共通の言語でコミュニケーションを継続し、伝統や習慣に基礎づけられることで他者への寛容を育んでいく。真のリベラルは、無色透明の抽象化された個人に宿るものではない。常に共同体や社会に関係づけられ、他者へのモラルと節度を身に付けた人間こそが、高次の自由を獲得することができる。[23]

  • 相対主義の限界: コミュニタリアンは公的な「共通善」を追求せよと説く。が、多元主義が相対主義に陥るとき、真の寛容は崩壊し、自己と他者を切り離す<断絶のポリティクス>が起動する。[24]
  • 「多一的なリベラル保守」へ: 宗教や文化の差異は、真理の差異ではない。それはあくまでも真理に至る道の多様性であって、言語化できない究極の真理は常に一つだ。一つでない真理は真理の名に値しない。ただし、我々が知りうるのは「真理の影」であって、真理そのものではない。真理はつねに地平の向こう側に存在する。[27]
第1章 保守のエッセンス
  • 左翼思想とは: 人間の理性によって、理想社会を作ることが可能と考える立場。[34]
  • 保守とは: 人間の不完全性や能力の限界から目をそらせることなく、これを直視する。そして、不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるを得ないという諦観を共有する。[37]
  • 漸進的な改革: 保守は、急進的な革命主義ではなく、現状にしがみつく固執的な反動主義でもなく、グラジュアル(漸進的)な改革を望む。漸進的な改革にとって重要なのは、歴史に基づいた平衡感覚。保守は、伝統という無限の暗黙知の中で生き、過去の集合知に依存して日々の判断を下す。保守が改革に着手するときには、過去を未来に映すという心構えが必要になる。「理性に基づく進歩」ではなく「過去へと遡行する前進」を志向する。[43]

  • 優れた老舗にあっては、先代から受け継いできた無形の伝統が内在化しているからこそ、新しい挑戦が可能になる。伝統は固定化した実体ではなく「精神のかたち」として存在する。[45]
  • フランス革命: フランス革命後の権力は、中間団体への敵意を露わにした。彼らは社会を個人に分解し、個人の合意に依拠する契約論的社会の構築を目指した。同業者や労働者の団結は自由競争を妨げるとして排斥された。結果、裸の個人が「平等な主権者」という新しい衣をまとって世の中を形成した。[48]
  • 多数者の専制: 既存の権威が解体され、秩序を支えていた社会の底は抜けてしまった。何者でもない自己へと転落した不安とともに、無秩序への恐怖を抱き、新たな権威にすがろうとし始めた。その結果「多数者の専制」という事態が発生した。その主体は「公衆」から「群衆」へ変容し、後見的権力への熱狂的服従を生んだ。[50]

  • 保守のロゴスと再帰性: 保守のロゴスは「保守すべきものの存在に自覚的・意識的になること」からスタートする。保守のロゴスの中心には「再帰的な意識」が存在する。「再帰的」というのは、特定の価値をいったん客体化した上で、主体的に引き受け直す意志のあり方を指す。保守にとっての「伝統」を考えるとき、この「再帰性」こそが重要なポイントとなる。[64]
  • 習慣と伝統: 「習慣はわざわざ見つけ出して、信ずるというような必要は少しもないものだが、伝統は、見つけだして信じてはじめて現れるものだ」(福田恒存)。「伝統」とは、常に「伝統とは何かという問い」を発するところに芽生えるもので、主体的な意志を持って背負っていく存在。[66]
  • 精神のかたち: 保守にとって重要なことは、習慣の中に潜んでいる「精神のかたち」であり、その「精神のかたち」(つまり伝統)こそが特定の集団の安定的秩序を構成しているという自覚を持つこと。保守にとって「伝統」とは、習慣という実体を伴いつつ、その実体を通して表現されている「精神のかたち」である。[68]

  • 驚嘆と安住: 彼にとって、非日常的な未知と恐怖の連続は、世界から安定的秩序を奪うもの。一方で、既知のものだけに囲まれて安住する日常の連続は怠惰を生みだす。重要なのは、この矛盾する両者が弁証法的に合一することであり、その弁証法を積極的に引き受けようとする意志だ。保守は、常に人間交際を重んじ、世界への「驚嘆」と「安住」の弁証法を引き受けようとする存在なのだ。[74]
  • 単独性と共同性: この寓話は、単独性と共同性の弁証法も説いている。我々は常にバラバラな個人でありながら、他者との共同性の中に生きている。共同性の中に埋没すると単独の個が溶解し、個が孤立すると個を支える社会が崩壊する。単独性と共同性の弁証法的合一こそが、我々の生を支えている。[75]
  • オークショットの政治主義批判: 「政治は政治自体がもたらすことのできないある目的の成就に寄与するものである。政治において達成されるものは触ってわかる善であり、それゆえ全体としての善を構成する救済から切り離しうるものではないが、救済そのものより劣った何物かである」[77]

  • 政治の万能性を疑う: 人間社会は、人間が不完全である以上、永遠に完成しない。そして、社会は絶えざる時間的な変化の荒波にさらされ続ける。そんな中、政治家は歴史的に構成されてきた社会的経験知に依拠しながら、漸進的な改革に取り組み続けなければならない。その行為に終わりはなく、その行為から解放されることはない。私たちはニヒリズムを超えて、人間社会の完成不可能性に堪える意思と覚悟を持たなければならない。[82]
  • 政治はすべてを救済してくれるものではなく、人間の真に重要なアイデンティティに解をもたらしてもくれない。政治に耽溺せず、かといって政治をみくびらないあり方こそ、保守派に要求されている生き方だ。[83]
  • 熱狂: 「保守思想が「熱狂」を嫌ってきたのは、熱狂によって議論が邪魔されるからである。熱狂することができるのは、単一の価値が信じられているからにほかならない。それにたいして保守思想が議論を通じて探求するのは、葛藤しあう諸価値のあいだの平衡(もしくはそれらの総合)である」(西部邁)[88]

  • 熱狂と冷静: 我々は時に熱狂しながらも、常に熱狂に懐疑的まなざしを持つという二律背反を引き受けなければならない。この熱狂と冷静の平衡を保つとことこそが保守の資質として要求される。[89]
  • 中庸: 「中庸」は極端なものと極端なものの「間を取る」という単純な精神を意味しない。むしろ逆に、現実がいくら変わろうとも「変わることのない精神の尺度」を身に付けることこそが「中庸」のポイント。あくまでも現実に即しながら、正しく現実を判断する「精神の定点」を獲得することが「中庸」の目指すところ。チェスタトンはこの精神の定点を「荒馬に乗りこなす知恵」に喩えている。現実という荒馬を統御する平衡感覚こそが「中庸」の本質。「中庸」とはあくまでも「総合的なもの」。[93]
  • 集合的な経験知: 私たちは、現実社会という名の平均台を日々渡っている。このとき重要な平衡感覚は、歴史的に蓄積されてきた社会的経験知によって構成されている。平均台や自転車は個人的な経験の蓄積によって何とかなるが、社会は一人では成立しないので、集合的に積み重ねられてきた経験知が重要になる。この平衡感覚を獲得すれば、無意識のうちに「精神の定点」が確立される。[94]

  • 中庸的主体の条件: 「中庸」を獲得するためには、人間交際を積み重ね、その経験のうちに平衡感覚を見出す必要がある。「基準」「支点」「尺度」を身に付けるためには「歴史」という縦軸と社会という横軸の交差点に立たなければならない。その交差点に立っているという自覚を持ち、その場所を意識的に引き受ける再帰性こそが、中庸的主体の条件[95]
  • 平等への隷属: トクヴィルの見るところ、デモクラシーを原理化していくと、どうしても秀でた人間や異質な者の足を引っ張り、横並びにしようとする「平等への隷属」に陥る傾向がある。平等への隷属は、人びとを「平準化」する権力を生み出し、「均一化」したマス(大衆)による「多数者の専制」を起こすという。多数者の熱狂が「世論」を構築し、その構築にマスメディアが手を貸す。次第に誰も肥大化した「世論」に抗することができなくなり、「多数者の専制」が拡大する。[97]
  • トクヴィルは、人びとが教会の活動や地域コミュニティ、社会的結社などに参加することを通じて異質な他者と出会い、その他者の価値との葛藤に耐えながら合意を形成することの重要性を説いた。さらに現在ばかりに関心を向け、浮足立つ傾向のある大衆を着地させるために、過去との連続性を担保する共同体的「伝統」(「心の習慣」)こそが必要であり、社会の流動性を食い止め、不安定性を埋め合わせる「宗教」が重要な役割を担うと説いている。[98]

  • 神なき時代の人間中心主義: バークやトクヴィルは、近代のデモクラシーの根底にある近代合理主義や「神なき時代の人間中心主義」が人間の能力への過信を助長し、結果的に社会秩序の破壊を生み出すと論じた。[99]
  • 宗教: 保守思想にとって、宗教への関心は欠かすことのできない要素。人間の不完全性を認識するための指標として「超越なるもの」を必要とする。
  • 理想と現実: EHカー「およそ健全な人間の行為、したがって健全な思考はすべて、ユートピアとリアリティとの平衡によって成り立っている」。[100]

  • 高坂正堯: 「国家が追求すべき価値の問題を考慮に入れないならば、現実主義は現実追随主義に陥るか、もしくはシニシズムに堕する危険がある。また価値の問題を考慮に入れることによってはじめて、長い目で見た場合にもっとも現実的で国家利益に合致した政策を追求することが可能となる」「平和というような…絶対的目的を達成するにいたる個々の具体的目標――たとえば中立――は、とりうる手段との相互関連において決定されるべきものなのである。手段と目的との間の生き生きとした会話の欠如こそ、理想主義者の最大の欠陥ではないだろうか」[107]
  • 絶対理念と相対理念: 福田恒存は「絶対レベルの理念」と「相対レベルの理念」を明確にkぅ分し、絶対者の次元でこそ成立する「絶対平和の理念」を想起するがゆえに、相対世界における絶対平和の不可能性を受け止めようとする。[110]
  • 一人二役: 福田は、絶対レベルと相対レベルの二元的二重の生き方を「一人二役」と呼び、そこから人間を「演劇的動物」と捉えた。絶対平和を語る進歩的文化人も、安全保障問題をアメリカに委ねてしまっている現実追随主義者も同じ穴のむじな。両者ともが人間の演劇性を引き受けられない「相対主義者の群れ」。[111]
第2章  脱原発の理由

第3章  橋下政治への懐疑

第4章  貧困問題とコミュニティ
  • 保守にとって重要なのは、自己の存在を規定づけているものに対する自覚。「自分であることの理由」の意識化。自分の意志によって選んだものでない宿命的な環境こそが「自分であることの理由」を強く規定し、主体形成の核となっている。それらの環境が、歴史的に構成された社会的経験知を伝達し、個人の主体を構成する。個人は特定の時間的・空間的環境に基礎づけられることによって自己を形成し、社会的ルールや規範、良識を身に付けていく。[154]
  • 重要なのは、自己をめぐる環境を客体化した上で、再度、主体的に引き受け直す意志を持つこと。演劇的であることを、再帰的であるということ。[155]
  • ボンディング: かつての日本の共同体にはインクルージョン(包摂)の中にエクスクルージョン(排除)の力学が働くという傾向があった。閉鎖的なコミュニティの中では、ヒエラルヒーや同調圧力に従順であれば、既存の利益集団の中に包摂され、場合によっては村八分にされてしまった。このようなボンディング(結束型)の関係には、プラス・マイナスの両側面がある。[161]

  • ブリッジング: 今日のコミュニティやソーシャル・キャピタル(社会関係資本)には「ブリッジング(橋渡し型)」が必要。社会的包摂を図るためには、単一的で閉鎖的な関係性だけでなく、複数の公共的集団を行き来するような多元的ブリッジングが重要。[163]
  • ボンディングとブリッジング: ボンディングとブリッジングのバランスをとりながら、人びとを社会の中に包摂していくのが、トポスを失った現代社会に求められる施策。[163]
第5章  「大東亜戦争」への違和

第6章  東日本大震災の教訓――トポスを取り戻せ
  • 関東大震災: 「江戸っ子」とはトポスを生きる人間だった。「宵越しの金は使わぬ」という気前は、「顔」という人類最高のパスを持っていたから。彼らは「町内」という故郷を持っていたから、こうしたパスが利くようになった。が、震災は東京の下町からトポス(=自己の存在根拠となる場所)を奪った。[190]
  • 阪神淡路大震災: 震災後、人びとは「断言」を求めた。複雑な世の中を丁寧に読み解くことよりも、強い言葉で答えを与えてくれる存在を希求した。これ以降、みのもんたのような断言口調の司会者が支持を得るようになった。[195]
  • 生を支えるトポス: 自己には他者との関係性の中で果たさなければならない役割があり、その役割をはたさなければ「他に支障が出る」という実感が、自己の生を支える。この時間と空間の接点で「所を得る」ことがトポスを獲得するということ。トポスを剥奪された人間は、居場所も出番も喪失し、アイデンティティを見失う。[199]
  • 福澤諭吉: 福澤は「存在の根源的な平等性」に注目する。しかし、人の「有様」はそれぞれ異なる。人は決して均一の存在ではない。[200]
第7章   徴兵制反対の理由

第8章 保守にとってナショナリズムとは何か
  • リベラル・ナショナリズム: 「再配分の動機づけとなるナショナリズム」として注目が集まっている。愛国心に基づく国民間の信頼を通じて、国家的再配分の強化とデモクラシーの活性化をめざす。[219]
  • ネイション・ステイト: ネイション・ステイトは「領域内に住む国民はすべて平等な主権者であることを前提とする国家」として、フランス革命によって確立された。[219]
  • 近代的ナショナリズムの形成(1): 『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン)。出版資本主義の発展による「世俗言語の優位化」、時計や暦によって計測される「均質で空虚な時間の敷衍」によって中世的な宗教共同体を支える前提が崩れ、代わって同一の世俗言語を共有するネイションが立ち上がった。同じ世俗言語によって同じ情報を同時に共有する領域が次第に国民共同体として認識され、国民主権の確立を説く啓蒙主義によってそれが政治化していった。[221]

  • 近代的ナショナリズムの形成(2): 『民族とナショナリズム』(アーネスト・ゲルナー)。産業社会の到来は人の流動化を加速させ、都市化を進めた。そこでは見知らぬ他者との高度なコミュニケーションが要求される。結果、同一言語でコミュニケーション可能な集団が構成され、その範囲が次第にネイションとして認識されていった。[221]
  • トポスの喪失: 世俗言語と均質的時間によって基礎づけられた新しい社会において、人びとは「自己の場所(トポス)」を失っていった。世襲的な職分を果たすことで存在論的な意味を獲得し、ホリスティックな世界の中に包摂されてきた人類は、有機体的な社会から切り離され、個人としての産業社会の荒野に放たれた。[222]
  • エドマンド・バーク: 彼が問題視したのは、民主的ナショナリズム(大衆ナショナリズム)の熱狂による「多数者の専制」が、「トポスの論理」を全面的に破壊するという事態だった。バークは「トポス」が失われることによって、人間がバラバラな個人に溶解し、アイデンティティの喪失に直面することを恐れた。根無し草化した人間は、やがて群れとなって大衆化し、個別的な特異性(個性)を失う。そんな「均質的な多数者」がデモクラシーの論理によって政治を支配する「専制」を、バークは容赦なく批判した。[223]

  • 保守が擁護すべきナショナリズム: それはトポスの論理を基礎としたデモクラシーであり、ナショナリズム。国民それぞれが自らの社会的役割を認識し、責任と主体性をもって「場所」を引き受けるところから生まれてくるデモクラシーであり、ナショナリズム。[226]
  • ネイションは再帰的な存在だ。「歴史的共同体」としてのネイションは、無条件でそこに存在するのではない。私たちが、自分たちを存立させている他者の集合体に意識的になったときに、そこに現れるものだ。[232]
  • 私たちはナショナリズムを排外的な意識へと安易に先鋭化させるのではなく、国内のネイションに対する責務へとつなげていくべきではないか。[233]