[この本に学ぶ]
『悪について』
エーリッヒ・フロム 著
ちくま学芸文庫(2018年)
本書は、エーリッヒ・フロムの代表作である『自由からの逃走』の続編であると同時に、『愛するということ』と一対をなす書物。『愛するということ』が人間の愛する能力を主題とするのに対し、本書では人間の破壊能力、ナルシズム、近親相姦的固着といった「悪」が中心的なテーマとなっている。
とはいうものの、「悪」そのものを解明しようとするのがフロムの狙いではなく、「悪」の実体をあぶり出すことによって「善」の本質を浮き彫りにし、それによって「人間の心の特質」を解明しようとするのが本書の主題。邦題は『悪について』だが、原題はTHE HEART OF MAN, Its Genius for Good and Evil(善と悪へと向かう人間の心の特質:馬渕訳)であり、この原題が本書の全体像をより的確に言い表している。
第1章に付けられたタイトル「人間――狼か羊か」は、本書が一冊を通じて解き明かそうとする「問い」を象徴的に示すもの。人間は、そもそも邪悪で堕落しているのか、それとも善良で完全な存在になりうるものなのかという、いわば西洋の神学や哲学的思考の根本的な問題だ。
この「問い」に対するフロムの答えは、端折って言えば「人間は羊であり狼でもある」ということになる。言葉を換えれば、人間は「生を愛するとともに死を愛する」「理性的であろうとするとともに情念に突き動かされる」「善に従って生きようとするとともに悪を渇望する」といった具合に、常に二つの相矛盾する性質の間を往ったり来たりする――それが「人間の心の特質」だとフロムは言う。が、フロムが真に言いたいことは、実はその先にあるのであって、こうした「矛盾」は人間の心を捉える上での前提に過ぎない。
これまで説明してきた矛盾は基本的には、人間は身体であり精神である、天使であり動物であるといった、互いに矛盾する二つの世界に属しているという古典的見解と同じである。私がいま指摘したいのは、この葛藤を人間の本質――つまりそれがあるために人間が人間になるもの――とみなすだけでは十分でないということだ。この説明の範囲を越え、人間の葛藤そのものが解決を強く求めていると認識する必要がある。…これらの問いに対して出すべき答えは…分離されているという感覚を乗り越え、連帯感、一体感、所属しているという感覚を得ることを助けるものでなければならない。[P.161-162]
人間が抱えるこうした「矛盾」は、人間存在の条件そのものに根差すもの。逆にいえば、こうした「矛盾」を抱えていることこそが人間を人間たらしめているのだとフロムは言う。
私たちは人間の生来の性質、あるいは本質は、善や悪といった特定の実体ではなく、人間存在の条件そのものに根差す矛盾であるという結論に達した。この葛藤そのものが解決策を必要としているが、基本的には退行的解決法か、前進的解決法かのどちらしかない。前進への内的衝動としてときどき現れるものは、新しい解決策をさがすための原動力にほかならない。人間はどんな段階に到達しても新たな矛盾が現れるので、新しい解決策を見つけるという課題に取り組み続ける。この過程が、完全な人間になり世界と全面的に一体化するという最終目標を果たすときまで続く。[P.167]
人間が生来的に抱える「矛盾」を解決するためには、「前進的解決法」か「後退的解決法」かのいずれしかないわけだが、ここで、前者を象徴するのが「善」、後者を象徴するのが「悪」ということになる。
悪は人間に独特の現象である。それは人間以前の状態に退行し、とくに人間的なもの――理性、愛、自由――を抹消しようとすることだ。しかし悪は人間的というだけでなく、悲劇的なものでもある。…悪とはヒューマニズムの重荷から逃れようとする悲劇的な試みのなかで、自分を失うことである。[P.207-208]
「善」は私たちの存在を、自分たちの本質へと限りなく近づけるものであり、一方「悪」は存在と本質をどんどん引き離していくものだとフロムは結論する。そして、私たちが「善」へと向かうエネルギーを増大させる前進のメカニズムを「成長のシンドローム」、「悪」へと向かうエネルギーを増大させる後退のメカニズムを「衰退のシンドローム」と名づけ、その構造が<下図>のようにとても明解な形で示されている。
私たちの存在をより本質へと近づける「成長のシンドローム」は、『自由からの逃走』で示された「自由」、『愛するということ』で示された「愛」、それに本書で新たに示された「バイオフィリア(生を愛すること)」の3つを前進させ続けることを通じてしだいに深まり、私たちの生を充実させていく――というのが、フロムが示した「答え」の核心だといえよう。
本書は、フロムの思想の全体像が体系的に分かりやすく示されている、『自由からの逃走』『愛するということ』にも勝る名著だと思った。

第1章 人間――狼か羊か
- 狼は殺したがり、羊は従いたがる[13]
- 人間が狼か羊かという問題は、西洋の神学や哲学的思考の根本的な問題の一つ――人はそもそも邪悪で堕落しているのか、あるいは人間は善良で完全な存在になりうるのか――の、特殊形態にすぎない。[15]
- 旧約聖書では、人は堕落しているという立場はとらない。アダムとイヴの神への不服従は、人間の自我のめざめ、選択する能力を獲得するための条件であり、自由への第一歩なのだ。人は善と悪どちらにもなりうるもので、善か悪か、祝福か呪いか、生か死か、どちらかを選ばなくてはならない。[15]
- キリスト教においては、教会制度が発展する過程で、アダムの不服従は罪と考えられた。そのために人間の本質が堕落し、その子孫たちすべてが罪を負ったため、人は自らの努力だけでは堕落から免れえない。神の恩寵、つまりキリストが出現して人間のために死ぬことによってのみ堕落は止まり、人びとは救われると説いた。[16]
- 原罪という教義に、教会内部のルネサンスのヒューマニストたちはそれを軽視しようとしたが、直接攻撃したり否定することはできなかった。ルターらの異端者たちは攻撃し、否定した。ルネサンスとののちの啓蒙主義の思想家たちは、人間の悪はすべて環境の結果にほかならないから、悪を生む環境を変えれば、生来の善なる性質がごく自然に現れると考えた。[16]
- 私自身は、精神分析家として、人間の内部にある破壊的な力を軽視するのは困難である。[18]
- “衰退のシンドローム”を生む現象:①死への愛、②悪性のナルシシズム、③共生・近親相姦的固着。“成長のシンドローム”を生む現象:①生への愛、②人間への愛、③独立。[20]
第2章 さまざまな形態の暴力
- 遊びの暴力: もっとも一般的で病的でない形態の暴力。主な動機はスキルを見せること。[21]
- 反動的暴力: 自分あるいは他人の生命、自由、威厳、財産を守るために使われる暴力。恐怖に根差す、もっともよく見られる形態の暴力。個人にも、集団的にも起こる。[22]
- 欲求不満から生じる暴力: 満たされなかった目的を暴力によって果たそうとするもの。明らかに生きるためのものであって、破壊のためのものではない。[24]
- 羨望と嫉妬から生じる暴力[24]
- 復讐の暴力: すでに害を受けているので、身を守る働きはない。が、なぜか帳消しにする非合理的な働きを持つ。多くの後進的な集団では復讐の願望が特に強い。[25]
- 信頼の崩壊によって生じる破壊性: 子どもの生は善意、愛情、正義への信頼から始まるが、こうした生への信頼が打ち砕かれることで生じる、生への失望、生への憎悪。こうした絶望を乗り越えるために、世俗的な目的――金銭、権力、名声――を必死で追及することも多い。[27]
- 補償的暴力: 無力者(インポテンス)が、生産的行為の代用(埋め合わせ)として用いる暴力。生への復讐。ポテンシーとは、意志を目標に向けて努力し続けることができる、人間の能力。無力である(ポテンシーがない)ことを人間は受け入れがたく、行動する能力を取り戻そうとせずにはいられない。そのための方法は、①権力を持つ人や集団に従って一体化する、②人の破壊力に頼る(暴力の使用)。強力な武器さえあれば、無能な人であっても他人や自分の生を破壊できる。反動的暴力とは違って生の役には立たない。しかしながら、それでもやはり生きたい、不自由でいたくないという人間の欲求があることを実証している。[29]
- サディズム: 他人を完全に支配し、自分の意のままにできる無力なものにしたい、その神となって好きなようにしたいという願望。[32]
- 原初的な“残虐性(血の渇望)”: 何かが欠如した者の暴力ではなく、野生とつながりが守られている人間の残虐性。個が確立する前の状態に退行し、動物のようになって理性の重荷から解放されることで生に対する答えを見出そうとする人にとって、血は生の本質となる。血を流す結果は死であり、精液を流す結果は誕生だ。[34]
第3章 死を愛すること 生を愛すること
- ほとんどの人にはバイオフィリア的な傾向と、ネクロフィリア的な傾向が共存しているが、どちらがどれぐらい強いかはそれぞれ違っている。ここで重要なのは、どちらの傾向が強いかによってその人の行動が決まるということ。[42]
- ネクロフィリア的な傾向を持つ人は、生きていないもの、死んでいるものすべてに心奪われる。そこには死体、腐敗物、排泄物、汚物なども含まれる。[43]
- ネクロフィリア的な人間は、未来ではなく過去に住んでいる。彼らの感情は基本的には感傷であり、つまり昨日持っていた――持っていたと思っている――感情の記憶を抱き続けている。彼らは冷淡でよそよそしく、“法と秩序”を信奉している。[43]
- ネクロフィリア的な人間の特徴は、力に対する態度にある。力とは、人を死体に変容させる能力である。生が生命を生み出すことができるのと同じように、力は生を破壊できる。死を愛する者は必然的に力を愛する。[44]
- 生を愛する人にとって、人間のもっとも根本的な極性は男女の間のものだが、ネクロフィリア的な人間にとってのそれは、殺す能力を持つ者と持たない者だ。ネクロフィリア的な人間は、殺す者を愛し、殺される者を見下す。[44]
- ネクロフィリア的な人間を駆り立てるものは、有機物を無機物に変容させ、機械的な生へと接近し、すべての人間をモノであるかのように扱いたいという欲望である。すべての生命プロセス、感情、思考がモノへと変容させられる。体験よりも記憶が、存在よりも所有が重要なのだ。ネクロフィリア的な人間が対象に関われるのは、それらを所有しているときだけである。そのため所有物への脅威は、自分自身への脅威となる。所有物を失えば、世界とのつながりを絶たれてしまう。彼は支配を愛し、支配という行為の中で生を抹殺する。彼が生に深い恐れをいだくのは、それが本質的に無秩序で支配できないからだ。[46]
- スピノザ「あらゆるものがそれ自身である限り、自らの存在を維持するために努力する」。生命を守り死と闘う性質は、バイオフィリア的成功のもっとも基本的な形態であり、すべての生き物に共通している。[52]
- さらにポジティブな面は、生きているものはまとまって一つになろうとする性質がある。異質で反対の存在と融合して、組織的に成長しようとする。それは細胞レベルだけでなく、感情や思考にも当てはまる。[52]
- 生のサイクルは、結合、誕生、成長であり、死のサイクルは、成長の停止、崩壊、腐敗である。[53]
- エロスと破壊、生への親しみと死への親しみとの間の矛盾は、人類に存在するもっとも根本的な矛盾である。しかしこの二重性は、生きようとする(生への執着)原初的でもっとも根本的な性質と、人がその目的を果たせないとときに生じる矛盾との間のものである。[59]
- バイオフィリアを育てるのに特に必要な条件: 幼児期に他人とあたたかく愛情深いふれあいを持つこと。自由であること。脅威がないこと。内なる調和と強さを助ける原則を――説教ではなく模範によって――教えること。“よりよく生きるための技術”を指導すること。他人からのよい影響とそれに対する反応。本当に張り合いのある生き方をすること。[61]
- バイオフィリアを発達させる社会的条件: ①品位ある生活をおくるための基本的な物質的条件が脅かされないという意味での「安全」、②誰もが他人の目的のための手段になってはならないという意味での「公正」、③各人が社会の活動的で責任のある一員となる可能性を持つという意味での「自由」。[62]
- 合理化、数量化、抽象化、官僚化、物象化といった、まさに近代産業社会の特徴を、モノではなく人に当てはめてみると、生でなく機械の原理となる。そのようなシステムに生きる人は、生に無関心になり、死に惹かれさえする。[72]
第4章 個人と社会のナルシシズム
- ナルシシスティックな人が必ずしも「全体としての自己」をナルシズムの対象として捉えているわけではなく、人格の一部にナルシシズムを備給していることが多い。たとえばその人の名誉、知性、体力、機知、美貌などである。[91]
- 性や生存と同じく、ナルシシスティックな情熱もまた、重要な生物学的機能だと思われる。生物学的な生存という見地からすると、人は他の誰よりも自分のほうがはるかに重要だと思う必要がある。そうでなければ、他人から自分を守り、生存のために闘い、他人と主張をぶつけ合うためのエネルギーや関心を、どこからもってくればいいのだろう? 目的論的にいえば、大量のナルシシズムが自然から与えられたおかげで、人は生存のために必要なことをできるようになったのだ。[94]
- ナルシシズムは生存に必要であり、同時に脅威にもなるという、パラドキシカルな結論に至る。[95]
- ナルシシズムの病理: ①合理的判断が歪められる。自分と自分のものは過大評価し、他のものはすべて過小評価する。②批判に対し感情的に反応する、③抑うつの感情。ナルシシズムがひどく傷つけられ維持できなくなると、彼のエゴは崩壊する。この崩壊に対して内部で起こる主観的反射がうつの感情。[96]
- 良性のナルシシズムの場合、その対象となるのは、その人の努力の結果。人を仕事にかりたてるエネルギーはだいたいがナルシシスティックな性質をもつものの、仕事そのものが現実とのかかわりを必要とするという事実によって、ナルシシズムは限界を超えないよう抑えられている。悪性のナルシシズムの場合、その対象はその人が持つものである。身体、外見、健康、富など。[101]
- 集団的ナルシシズムの病理: ①客観性と合理的判断の欠如、②自分が属する集団は優秀で、他はすべて劣っているというイデオロギーに基づく「満足」、③集団はそのナルシシズムを自己と同一視できる指導者に投影し、強力な指導者に服従する。[113]
- 「価値」の視点からみたナルシシズム: ナルシシスティックな人にとって、パートナーは決して独立した一個の人間、あるいは完全に実在する存在ではなく、ナルシシスティックに肥大化した自己の影としてのみ存在している。病理的でない愛は、自らを独立した存在として経験しつつ、相手に心を開いて一つになれる二人の関係である。愛を経験するためには、分離を経験しなければならないのだ。[118]
- ナルシシズムと仏教: 人間の目的は自己のナルシシズムを克服すること。仏教の教えにおける“目覚めた人”とは、自らのナルシシズムを克服し、そのため完全に自覚することができる人にこと。[119]
- 神と偶像崇拝: 偶像崇拝では、人間の特定の能力が絶対視されて偶像化される。偶像はその人を飲み込み、彼の熱いナルシシズムの対象となる。神の概念はそれとは反対で、ナルシシズムの否定にある。全知全能であるのは神だけだから。しかし人間は自分をナルシシスティックに神と同一視して、神の概念のもともとの機能とはまったく逆に、宗教は集団的ナルシシズムの現れとなった。[120]
- 良性のナルシシズムの特徴はすべて、成果に目を向けているということ。特定の集団、階級、宗教ではなく、誰もが人間であることを誇れるような仕事を完成させることをめざすべき。[122]
- ナルシシズムの克服: ①教育的努力の方向性を、技術重視ではなく科学重視に切り替えること、②ヒューマニズムに基づく哲学と人類学を教えること。「自覚の領域」を広げ、意識を超えて社会的無意識の領域を照らし出すことによって、自己の内部にあるすべての人間性を経験することを可能にする。自分は罪人であり聖人である、子供であり大人である、正気であり狂気でもあり、過去の人間であり現在の人間でもあるという事実――自分の内部にこれまでの人類とこれからの人類を持っていること――を経験するのである。[124]
第5章 近親相姦的な結びつき
- 母親的な人物、あるいはそれに相当するもの――血族、家族、部族――と結びついたままでいようとする性質は、すべての男女が生来的に持っている。それは常に反対の性質――生まれ変わり、進歩し、成長すること――と対立している。通常の発達では、成長する性質が勝利する。病理学的に深刻な患者では、共生的な結びつきへの退行傾向が勝り、その人はほぼ全面的に無力化されてしまう。[147]
- 近親相姦的願望は、人間のもっとも基本的な性質の一つをつくりあげている。自分が生まれたところと結びついたままでいたいという願望、自由であることへの恐怖、自分を無力化し、独立心を明け渡している、まさにその対象によって破壊されるという恐怖である。[148]
- これら3つの性向(ネクロフィリア、ナルシシズム、近親相姦的共生)はさまざまなレベルの退行において起こる。それぞれの性向での退行が深くなればなるほど、3つは1点、つまり極度の退行状態へと収束して“衰退のシンドローム”を形成する。反対に適度なかたちの成熟に達した人の場合にも、この3つの性向は収束する傾向があるようだ。[157]
- ネクロフィリアの反対はバイオフィリアであり、ナルシシズムの反対は愛であり、近親相姦的共生の反対は独立と自由である。これら3つの性質を合わせたシンドロームを、私は“成長のシンドロームと呼ぶ。[157]
第6章 自由、決定論、二者択一論
- 人間は身体であり精神である、天使であり動物であるといった、互いに矛盾する二つの世界に属しているという古典的見解と同じ。だがこの葛藤を人間の本質とみなすだけでは十分でない。この範囲を越え、人間の葛藤そのものが解決を強く求めていると認識する必要がある。その答えは、分離されているという感覚を乗り越え、連帯感、一体感、所属しているという感覚を得ることを助けるものでなければならない。[161]
- 分離を乗り越え一体化を果たすための第一の答えは「退行的な回答」。多くの人が原始的な状態に退行するようになると、万人精神病ともいうべき現象が現れる。多数の人が同意するという事実によって、愚行が賢明な行動に、虚構が現実になる。もう一つの解決法は「前進的解決法」。退行ではなく、人間的な力、内なるヒューマニズムを最大限発達させることによって新たな調和を発見する方法。[163]
- 原初的・退行的宗教からヒューマニズム宗教へ: 人間の新たな目標、つまり完全に人間らしくなって失われた調和を取り戻すという目標が、異なる概念と象徴で表現された。が、その信託を聞くとすぐに、人びとは解釈をねじまげるようになった。自らが完全な人間になるのではなく、神と教義を“新たな目標”の現れとして偶像化し、像や言葉を自らの経験による現実に置き換えたのだ。[164]
- 人間の生来の性質、あるいは本質は、善や悪といった特定の実体ではなく、人間存在の条件そのものに根差す矛盾である。人間はどんな段階に到達しても新たな矛盾が現れるので、新しい解決策を見つけるという課題に取り組み続ける。[167]
- 旧約聖書のハーターはふつう“罪”と訳されるが、実は(道から)「それる」という意味である。そこには罪や罪人のような非難の意味はない。タルムード経典では、悔い改めた罪人として“戻ることの名人”という表現を使い、罪を犯したことのない人々より優れているとしている。[179]
- 情念に支配されると人間は縛られ、理性に支配されると人間は自由である。自由とは、非合理的な情念に反して、理性、健康、幸福、良心の声に従う能力にほかならない。[181]
- 自らの合理的な決心に従う自由があるかどうかという問題。[182]
- 選択の自由は「持つ」「持たない」という性質のものではなく、むしろ性格構造の働きなのだ。善を選ぶ自由がない人がいるのは、その人の性格構造から、善に従って生きる性質が失われれてしまったからだ。悪を選ぶ性質を失った人もいて、これはまさにその人の性格構造から悪への渇望が失われているのだ。[182]
- 私たちの選択能力は、生活をおくるなかで絶えず変化する。誤った選択を長く続けるほど、私たちの心は硬化する。正しい選択をすることが多ければ、心は柔軟になる――いや、おそらく生き生きとする。[188]
- 人間は自らを意識すること、つまり目をくらませ鎖につなぐ情念(受動的感覚)を、人間としての真の興味に基づいて動けるようにする行為(能動的情動)へと変えることにより、それを成し遂げる。「受動という感情は、はっきりした明瞭なイメージをつくりあげられたとたん、受動ではなくなる」。スピノザによれば、自由は与えられるものではない。それはある制限のなかで、洞察力と努力によって手に入れられるものである。[202]
- スピノザの“倫理”の概念は、まさに自由の獲得である。それを獲得するには理性、適切な考え、自覚が必要だが、それはほとんどの人が進んで行おうとする以上の労力をもって初めて可能となる。[204]