ダイアローグ190725

一切は衆生なり、悉有が仏性なり


[この本に学ぶ]
100分de名著「正法眼蔵」
ひろさちや 著
NHKテキスト(2016年) 


道元の『正法眼蔵』は、これまで何度か別の解説本を読もうと試みてきたが、その都度挫折してきた苦い経験がある。が、この本は違った。最後までスラスラ読むことができた。私が年を取ったせいもあるだろう。しかしそれは、なんといっても著者の、大意をざっくり捉えて分かりやすい言葉で語る、肩の力の抜けた話っぷりに負うところが大きい。「分からないことが分からないと分かることが悟りなのです」などと言われると、一見開き直りのようにも聞こえるが、そうした姿勢こそが、まさに道元禅の神髄たる“身心脱落”を体現したものなのだと言えよう。

おかげで、「正法眼蔵は世に言われるように難しいものでは決してない」という著者の魔法に、私もすっかり嵌ってしまったようだ。「難しい」のは『正法眼蔵』の内容それ自体のことではなく、実は、その内容に素直に耳を傾けるのが難しいという「こちら側」の問題なのだ――そんな気分にさせられた。

『正法眼蔵』を「分かった」気になるカギ。それは「一切衆生、悉有仏性」という言葉の解釈にある。この言葉、従来は「いっさいの衆生(人間ならびにあらゆる生き物)は仏性を有している」と解されてきたが、道元は「一切は衆生なり、悉有が仏性なり」と読んだ。つまり、衆生は生き物だけでなく全存在。山も川も、草も木も、すべてのものが仏性と説いたのだ。

山や川や石ころにまで仏性があるとは、にわかに信じがたいところだが、ここのところに素直に向き合い、得心がゆけば、『正法眼蔵』ははらりと解ける。「而今の山水は、古仏の道現成なり」(諸仏は、われわれの前に山水といった形態をとって出現され、そしてわれわれに説法しておられる)という、道元が脳裏に思い浮かべていたであろう風景が、私の眼前にもパーッと開ける――そんな気がした。





【はじめに】智慧を言語化した哲学書
  • 正法眼蔵: 曇りのない眼でもって対象を見たとき、私たちは対象を正しく捉えることができる。蔵に納められた経典も、そのような「眼」(=智慧)でもって読み取れば、仏教の教えを正しく理解できる。[5]
  • 禅: 仏教の真理を言葉によらずに師から弟子へと伝えていく営み[5]
  • 不立文字・以心伝心: 文字(言葉)を立てずに、心から心へと真理を伝えていく=禅[5]
  • 末法思想: 道元は、末法思想に対する念仏宗の信仰に反対した。釈迦の教えを正しく伝える者、つまり正法眼蔵を持っている者さえいれば、釈迦の教えが廃れることはないとの信念をもっていた。[6]
  • 哲学: たとえ末法の世になっても、仏教の真理を正しく読み取る眼が後世に伝わるよう、自らの智慧を言語化して残そうとした。[6]
第1回 「身心脱落」とは何か?
  • 政治と宗教: 政治の世界は、目的論的思考=「〇〇のために」の世界。しかし宗教では、目的など設定しない。そうではなく、生きているものはただ生きている。その事実から出発するのが宗教。[9]
  • 身心脱落: 身心脱落とは、あらゆる自我意識を捨ててしまうこと。自我のあること自体は良くも悪くもないが、問題はそれが他人との対抗意識や競争意識につながること。[14]
  • 角砂糖: 身心脱落とは自己の消滅ではない。角砂糖が湯の中に溶け込んだとき、角砂糖は消滅したわけではない。[15]

  • 悟り: 悟りは求めて得られるものではなく、悟りを求めている自己のほうを消滅させる。身心脱落させるのだ。そして悟りの世界に溶け込む。それが「悟り」。悟りの中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だからこそ修行できる。それが道元の結論。[16]
  • 迷いと悟り: 一大発心して仏道を歩もうとする。そうすると、とたんに迷いが出てくる。迷いが出てくるのは、悟りが意識されるから。悟りに向かって歩もうとするから、自分はいま迷っている衆生だと自覚される。[22]

  • 悟り: 悟りとサンスクリット語のブッダとは語根が同じで、ブッダとは「目が開ける」という意味。これは自動詞。「〇〇を悟る」という他動詞ではない。だから、宇宙の真理「を」知り尽くしたがゆえに迷いが消滅する、ということではない。目を開いた状態のなかにも迷いはある。[23]
  • 迷いと悟り: 自分のほうから悟りの世界に近づいて行こうとするのは迷い。悟りの世界のほうからの働きかけがあって、それではじめて身心脱落できる、つまり悟りの世界に溶け込むことができる。[24]
  • 他己の脱落: 仏道をならふというは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝというは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。[25]

  • 他己: 他なる自己、自己のうちにある他人。「蜘蛛の糸」の犍陀多が目にした大勢の人たち。[26]
  • 薪は薪、灰は灰: 灰は灰のあり方において、のちがあり先がある。灰を灰としてしっかり見ることができれば、それが悟り。[28]
第2回 迷いと悟りは一体である
  • 普勧坐禅儀: 宋から帰国し建仁寺に入った道元は『普勧坐禅儀』を著した。坐禅が仏教の基本であることを確認し、人々に普く坐禅を勧めた書。仏教においては、仏道の修行者が必ず修学せねばならないものとして、戒律と禅定(坐禅)と智慧が重んぜられてきた(戒学・定学・慧学の三学)。しかし道元は、禅のうちに戒も慧も含まれるとして、禅を「三分の一」から「一分の一」に変えた。[32]
  • 禅の立宗宣言: 『普勧坐禅儀』と『弁道話』をもって、道元による立宗宣言と受け取ることにする。1233年、道元32歳。[33]
  • <生死の巻>: 「生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどわず」。「ただ生死すなはち涅槃とこゝろえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし」。迷いのなかに悟りがあれば迷わないし、悟りを求めてあくせくしなければ迷わない。「涅槃」とは煩悩を克服すること。煩悩を克服していない状態が「生死」。[35]

  • 「生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅にほかのものなし」。私たちが迷うのは、生死を超越したいと思うから。「妄想」というのは、生死にこだわり、生死を超越しようなどと考える心の働き。[37]
  • なりきる: 「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて…」。[38]
  • <祖師西来意の巻>: 「いかなるか、これ西来の意」(仏教の根本教義は何か)。人が西来意になりきれば、西来意をわざわざ勉強する必要はない。そこには言葉が不要。[39]

  • 自力と他力: 猿の道=自力、猫の道=他力。仏教は、まず最初に仏の力の働きかけがあって、その上に自分の力を加えていくか、あるいはまったく仏の力に委ねるかのどちらか。道元禅は「自分がやれることはやりなさい」という自力の仏教。[41]
  • <唯仏与仏の巻>: 「仏法は、人の知るべきにはあらず」(=法華経方便品「ただ仏と仏のみ、すなわちよく諸法の実相を究尽す」)。人間が悟りを求めるのではなしに(そんなことをすれば、悟りと人間が分断されて二つになってしまう)、わたしたちが本来の相になりきればいいと道元は言う。本来の相が仏なのだから、そのときわたしたちは仏になっている。仏であれば、仏と知ることができる。分からないことが分からないと分かるのが悟り。[44]
  • 諸法実相: 「はなにも月にも今ひとつの光色おもひかさねず」。いま目の前にあるものを大事にすること(=拝む)。[46]

  • 悟りの世界: 「むかしより自いへることあり、いはゆるうをにあらざればうをのこころをしらず、とりにあらざれば鳥のあとをたづねがたし」。わたしたちは、水の世界、空の世界、あるいは悟りの世界をすべて学びきってから歩もうとしてはだめ。自分の必要な分だけ悟っていればいい。一度悟ってしまえば迷わないのではない。迷いながら歩んでいくのだ。迷いと悟りはコインの裏表のようなもの。[49]
  • いま迷っているのであれば、その迷いを一生懸命迷えばよい。「もっと迷う」ではだめ。「しっかり迷う」のだ。「そのまま迷う」でいい。[52]
第3回 全宇宙が仏性である
  • 正伝の仏法: 道元の禅は、道元の意識の中では曹洞宗/臨済宗の区別はない。禅宗という呼び方さえ嫌う。道元が昌道するのは「正伝の仏法・純一の仏法・全一の仏法」。釈迦から正しく伝えられた仏教・純粋なる仏教・全体としての仏教を自分は守り、後世に伝えていくのだ、という自負をもっていた。[57]
  • 永平寺における道元の禅は、出家至上主義ではなく「修行中心主義」。[58]
  • <仏性の巻>: 「一切衆生、悉有仏性」。道元の読み方は「一切は衆生なり、悉有が仏性なり」。=すべての存在、全世界は仏性なのだ。[63]

  • 無仏性: おまえはいま「無の仏性」の状態にある(この“無”は活性化されていない状態と解することができる)。だから、なにもあがく必要はない。いずれ活性化されたとき、おまえは悟りに至るのだ。[67]
  • 時節因縁: 仏性を知りたいのであれば、時節因縁(そのときそのときのあり方)が仏性と知らねばならない。「時節因縁」は、『現成公案』の「しるべし、薪は薪の法位(存在のあるがままの姿)に住して、さきありのちあり」と同意。病気が治って健康になるのではない。病気のときは病気という仏性がそこにあるのだ。[68]

  • <有時の巻>: 時間というのは「過去→現在→未来」へと流れていくものではなく、「現在・現在・現在…」なのだと道元はいう。「現在1」には「自己1」が、「現在2」には「自己2」が対応する。過去について思い悩むのは、「自己1」を「現在2」に対応させようとするようなもの。[71]
  • <山水経の巻>: 「而今の山水は、古仏の道現成なり」。諸仏は、われわれの前に山水といった形態をとって出現され、そしてわれわれに説法しておられるのだ。人も、山も、水も、すべて衆生なのだ。「一切衆生」。[74]
第4回 すべての行為が修行である
  • 風があるのになぜ扇を使うのか: 風は常住であり、あらゆるところに充満している。しかし、その本性を観念的に「ある」と理解していてもだめ。扇であおぐことで風が起き、それによってはじめて、そこに風があることがわかる。これが修行。「一切衆生、悉有仏性」を知っているだけではだめ。仏性を仏性として活性化させるためには、やはり修行が必要。[78]
  • 行住坐臥: 修行とは禅堂にあって坐ることだけではない。行住坐臥(歩き・止まり・坐り・臥す)、すなわち日常生活のすべてが修行。[79]
  • 只管打坐: 只管とは「ひらすらに」。全身全心でもってひたすら坐り抜き、眠り抜き、歩き抜き、その姿こそが仏であり、悟り。悟りが目的で修行が手段なのではなく、修行の中に悟りを見、悟りの中に修行がなければならない。それが道元の考える禅。[79]

  • 生活禅: 喫茶去(お茶を召し上がれ)。一杯のお茶を飲む、それも修行。このように生活そのものを修行にすることで、私たちはあらゆる機会において仏性を活性化させることができる。[80]
  • 無記性: 物事には「善性、悪性、無記性(善でも悪でもないもの)」があるが、「その性これ無生なり」、つまりそれらの性質は固定的・実体的なものではなく、縁(条件)によって善になったり悪になったりする。[84]
  • <諸悪莫作の巻>: 「諸悪莫作」とは「悪いことをするな!」という命令ではない。仏は、ゴッドとは違い造物主ではなく、人間の支配者でもない。だからそもそも命令はしない。そうではなく、悪いことをしようと思っても、自然に悪いことができなくなる。善をしようと意気込むことなく、ごく自然に善をしてしまうようになる。心を浄くしようなどと思うことなく、自然にこころが浄まる。そういうふうになることが「莫作」。[86]

  • 菩提薩埵四摂法: ①布施=自分の欲望を抑えること、へつらわないこと ②愛語=人に接したとき、まず慈愛の心を起こし、いたわりの言葉をかける。相手をそっくりそのまま肯定する言葉。あなたはあなたであっていいという気持ちを伝える言葉 ③利行=すべての衆生に利益を与える行いをすること。「利行は一法なり」。「自他不二」。他を利することは自分を利すること、自分を利することは他を利すること。④同時=相手と自分は同じ人間だと思うこと。4×4つの実践項目=16の実践項目[87]
  • <八大人覚の巻>: ①少欲=物足りないものを、物足りないままにしておくこと、②知足=与えられてたものを、全部が全部自分のものとしないで、一部を他人にために回すこと、③楽寂静=寂静を楽しむ、喧騒の場所を離れること、④勤精進=精進に勤める。おのれ一人の利益のために頑張らないこと、⑤不忘念: 常に仏法を思っていること、⑥脩禅定=心静かに真理を観察すること、⑧不戯論=物事を複雑にせず、あるがまま、単純そのままに受け取ること[93]