ダイアローグ190720

ブッダであることは人間であること


[この本に学ぶ]
100分de名著「法華経」
植木雅俊 著
NHKテキスト(2018年) 


「法華経」のサンスクリット原典からの全和訳を8年がかりで行い(2008年に出版)、さらにその縮訳版を2018年に出版するなど、法華経を愛して止まない、法華経の第一人者である著者が、法華経にはいったいどんなことが書かれているのか、なぜそんなことが書いてあるのかを分かりやすく解きほぐしてくれる好著。

「法華経」成立の背景には、釈尊入滅後500年の間に大きく変容した仏教(後に「小乗仏教」と呼ばれる)とその弊害を克服すべく登場した「大乗仏教」との対立がある。大小併存の時代の中で、まず、大乗仏教の側から小乗仏教の出家者たちを痛烈に批判する「般若経」が成立。また紀元1から2世紀頃には、保守的で権威主義的な小乗仏教を糾弾する「維摩経」が成立した。

こうした流れに対し、紀元1~3世紀頃、小乗と大乗の対立を止揚(アウフヘーベン)する、対立を対立のままで終わらせず、両者を融合させてすべてを救うことを主張するお経が成立した。それが「法華経」であり、その最大の特徴は「普遍的平等思想」にある。そして、それはまた「原始仏教の原点に還れ」という一貫した主張でもある。

「法華経」は別世界にいる絶対者のような存在は認めず、あくまでも歴史上に実在した人物である釈尊自身による覚りの永遠性を説く。そこにあるのは、人間として人間の中にあって、人間関係を通して、言葉によって利他行を貫くことこそが大切だとの姿勢であり、その神髄は、本書の以下の記述の中に読み取ることができる。

中村元先生は「西洋の絶対者(=神)は人間から断絶しているが、仏教における絶対者(=仏)は人間の内に存し、人間そのものである」と言われました。これが仏教なのです。個々の人間から一歩も離れることはない。仏教は、人間を原点に見すえて、人間を“真の自己”(人)と法に目覚めさせる人間主義なのです。[P90]

これまでは、「菩薩行を実践した結果、ブッダになる」という順序が前提となっていました。この場合、菩薩はブッダになるための手段です。寿量品では、「菩薩行を実践した結果、ブッダになる」のではなく、菩薩もブッダも同時進行だということになっている。つまり、人間として菩薩行は手段かもしれないが、同時に目的でもある、ということです。ブッダになることがゴールなのではなく、人間の真っ只中で善行を貫くことが目的であるということです。これは、人間であることとブッダであることは二者択一の関係ではなく、同時にあり得るのだということであり、人間を離れてブッダがあるのではなく、人間として完成された存在がブッダであるということです。[P92]


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第1回 すべてのいのちは平等である
  • 釈尊滅後の仏教の変容: ①修行の困難さの強調と釈尊の神格化(即身成仏/一生成仏→歴劫修行/三阿僧祇劫)、②釈尊の位置づけの変化(真の人間である目覚めた人→私は人間でない。ブッダである)、③覚りを得られる人の範囲(出家・在家・男女の別なし→ブッダに至れるのは釈尊一人だけ)、④仏弟子の範囲(出家・在家・男女の別なく仏弟子→仏弟子は男性出家者のみ)、⑤釈尊の“遺言”(自帰依・法帰依=覚りを得るというのは、真の自己に目覚めることであり、法に目覚めること→ストゥーパ信仰/莫大な布施/自分たちだけの解脱)[13]
  • 大乗仏教の興隆: 「菩薩」を「覚りが確定した人」から「覚りを求める人」に読み替え、あらゆる人が成仏できると主張。二乗不作仏/炒れる種子。[20]
  • 法華経の成立: 小乗と大乗、両者の差別思想と対立を克服し、普遍的平等思想を打ち出す。当時の仏教界に対する皮肉や批判が、場面設定の仕方など間接的な表現で、だまし絵のように散りばめられている。「原始仏教の原点に帰れ」[21]

  • 序品(1): あらゆる人の成仏を解く経典であることの象徴として、あらゆる階層の人々を列挙。「法華経」はセクト的なものではなく、あらゆるブッダにとって普遍的な真理が説かれている経典であることを強調。[26]
  • 方便品(2): 一仏乗=すべての仏にとって、あらゆる衆生を成仏させるのが究極の目的なのだから、声聞・独覚・菩薩を区別する(三乗)のは方便。白蓮華のように最も勝れた正しい教え(妙法蓮華)。[32]
  • 譬喩品(3): 「この広大なる菩薩のための教え」を「声聞たちに説き明かす」。 三車火宅の譬え=相手が納得していないのに強引に外に連れていくのではなく、子どもたちが自分で自覚し、自分たちの意思でそこを抜け出してくることを尊重。釈尊は、超能力や神がかり的な救済を説いたのではなく、方便などの言葉を駆使して、子どもたちの自覚的行動を促がした。[39]
第2回 真の自己に目覚めよ
  • 信解品(4): 長者窮子の譬え=菩薩の教えを自分とは無縁なものと考えて、自ら求めようともしなかった声聞たちも、実は菩薩であった、すなわち成仏できることを知った喜びを表明する譬え。失われた自己の回復。真の声聞=今までは自分だけが教えを聞くという受け身の姿勢の声聞だったが、これからは自ら率先してその教えを語って聞かせていく真の声聞になるという決意表明。[44/47]
  • 薬草喩品(5): 同一の雨水によって潤される植物は千差万別だが、それらが生い茂っている大地は同一。植物に違いはあっても、その違いは対立することもなく、根底は同一の大地に根差している。声聞、独覚、菩薩という3つの立場には違いがあるが、すべて人間として平等であり、互いに差別されるものではない。[49]
  • 化城喩品(7): 化城宝処の譬え=方便による導きの譬え。休息のために見せた幻の化城が、声聞、独覚、菩薩の三乗を表す。方便としてそれらの三乗を説いてはいるが、本当に説きたいのは宝処である一仏乗の教え。[52]

  • 五百弟子受記品(8): 富楼那は、声聞のふりをして、あるいは周りにそう思わせることによって、実はすでにブッダのやるべき仕事をやっていた。声聞のふりをするというのは、高見からではなく二乗と同じ地平に降り、同じところに立って菩薩への道を説いたということ。富楼那に与えられる仏国土には女性がいない(←極楽浄土には女性は一人もいないとする浄土教思想の影響)。[54]
  • 如来の寿命: 十大弟子の授記における寿命の違い。利他行の観点を重視して、寿命に差をつけている。[58]
  • 法師品(10): 滅後の弘教の付嘱。善男子・善女子=弘教の担い手として『法華経』を受持・読誦・解説・書写する法師。ブッダの国土への勝れた誕生も自発的に放棄して人間の中に生まれてきた。別世界にいってブッダになることよりも、人間の中に生まれ、この現実社会で「如来によってなされるべきことをなす」ことが重要であり、その人は「如来によって派遣された人」(如来使)と見なすべき――ここにあるのは、人間として人間の中にあって、人間関係を通して、言葉によって利他行を貫くことが大切だという主張。[61]

  • ストゥーパ信仰から経典重視へ: 経典が書写されたり暗誦されたりする場所にはチャイティア(経典を安置する塔)を造りなさい。遺骨が安置される必要はない。釈尊は経典の中にこそいる。『法華経』を通じて《釈尊・『法華経』・衆生》の三者が一体の存在となる。[63]
  • 衣・座・室の三軌: 困難な状況下でも法師の実践を貫くために必要とされる規範。どんなに嫌がらせをされたとしても、それにとらわれることなく、耐え忍び、慈悲の振る舞いを貫き通すこと。[63]
  • 見宝塔品(11): 地上から虚空へ。釈迦滅後500年の間に考えだされたさまざまなブッダを、再びすべて釈尊に統一する意図。虚空とは、さまざまな対立概念を越えたところ。六難九易=差別思想が横行する中で『法華経』の平等思想を語るのがいかに困難であるかを、「九易」と比較することで表現。[66]
第3回 「永遠のブッダ」が示すもの
  • 提婆達多品(11続き): 悪人成仏=悪人とされる提婆達多が、過去世において釈尊に法華経を教え、釈尊が提婆達多に仕える――二人の関係を逆転させることで、提婆達多は実は悪人ではなく「提婆達多こそが私の善き友(善知識)なのだ」という話を展開する。[70]
  • 龍女の成仏: 女人成仏。「変成男子」は、女性の成仏に必要不可欠な条件ではなく、あくまでも説得の手段だった。[74]
  • 原始仏典における女性観: 『シンガーラへの教え』で釈尊は、「夫は妻に五つのことで奉仕せよ」と、女性の自立と財産権を認めた。が、この話が漢訳されると「婦(つま)は夫に五つのことで事(つか)えよ」と、奉仕する側とされる側が逆転されてしまった。[74]

  • 勧持品(12): 不惜身命=「私たちは身体も生命も実に惜しむことはありません」。[78]
  • 安楽行品(13): 安楽の境地に住するための行[79]
  • 従地湧出品(14): 地湧の菩薩=釈尊の十大弟子などの歴史上の人物たちや、その頃までに考えだされていた菩薩たちのあり方では到底、通用しない。それよりもさらに強固な決意に立った人でなければならないという思いを込めて、ここに『法華経』を護り伝える新たな人格像を作り上げようとしている。[83]

  • 如来寿量品(15): 釈尊は40数年前ではなく、はるか遠い昔にすでに覚っていた(久遠実成)。そして種々の国土に出現しては、いろいろな立場や名前で衆生を教化してきた。「本当はすべて私なのだよ」と言うことで、種々の仏を釈尊に統一しようとした。一仏乗は、小乗仏教と大乗仏教の対立を教えの面から統一しようとしたもの。「如来寿量品」は、それを仏の面から行ったもの。「見宝塔品」は、仏を空間的に統一しようとしたもの。「如来寿量品」は、それを時系列の中で行おうとしたもの。[85]
  • ブッダとしての永遠性: 「釈尊は本当は死んだのではない。仮にそういう姿を見せているだけであって、どんな時にも私はこの娑婆世界にあり続けている。そしてこの世界で説法教化しているのだ」。一歩間違えると一神教的な解釈にもなるが、『法華経』は別世界にいる絶対者のような存在は認めず、あくまでも歴史上に実在した人物である釈尊自身の永遠性を説いている。[88]

  • 「西洋の絶対者(=神)は人間から断絶しているが、仏教における絶対者(=仏)は人間の内に存し、人間そのものである」(中村元)。仏教は、個々の人間から一歩も離れることはない。人間を原点に見すえて、人間を“真の自己”(人)と法に目覚めさせる人間主義。「人」と「法」、これは言い換えれば、人間のあり方と思想の関係性。「法」は普遍的真理、法則。「法」は誰かの発明品や専用品ではなく、誰にでも開かれているもの。しかし、その「法」は人間の生き方に活かされて初めて価値を生じる。[90]
  • 釈尊が覚った「法」は経典として残った。その経典を読むことで、私たちも「法」を我が身に体現することができる。その「法」と「真の自己」に目覚めることが、仏教の目指したこと。[91]
  • 釈尊は、自分は常に娑婆世界にあり続けて、菩薩としての修行を続けているのだと述べている。[91]

  • 寿量品では、「菩薩行を実践した結果、ブッダになる」のではなく、菩薩もブッダも同時進行だということになっている。つまり、人間として菩薩行は手段かもしれないが、同時に目的でもある。ブッダになることがゴールなのではなく、人間の真っ只中で善行を貫くことが目的であるということ。これは、人間であることとブッダであることは二者択一の関係ではなく、同時にあり得るのだということであり、人間を離れてブッダがあるのではなく、人間として完成された存在がブッダであるということ。[92]
  • 方便現涅槃: 釈迦は衆生に仏道に入らせるための方便として涅槃に入ってみせたという考え方。それを譬えたのが「良医病子の譬え」[93] 
  • 『法華経』がやろうとしていることは、仏教が現実や人間から離れることを戒めるということ。人間を見失うな。この現実社会を離れるな。別世界にいる絶対者を仮想するな。[95]
第4回 「人間の尊厳」への賛歌
  • 常不軽菩薩品(19): ①常に軽んじない、②常に軽んじる、③常に軽んじられた、④常に軽んじられなかった。[99]
  • 仏教は、自己への目覚めが他者への目覚めへと発展するという形で他者とのかかわりを説いている。釈尊自身、まず自らが覚り、その内容を他者に語って伝えた。それは相手に対しても自分と同じものを認めていたからだ。常不軽菩薩にもそうした原体験があったのだろう。「自分はつまらない人間だと思っていたけれど、こんなに尊い命が自分にもあったのだ」と気づいた。だから、人々に語りかけることを続けたのだろう。[104]
  • 『法華経』における救済とは、人間対人間の具体的な関係性を通じた対話によるものであるとされている。目の前にいる人間に語りかけ、罵られようが誤解されようが、それでも誠意を貫き通していく。そのことによって誤解を解き、理解され、互いに意思疎通がなされ両者が何かに目覚めていくというあり方。それを可能にするのが「法師品」に出てきた「衣・座・室の三軌」に則ること。忍耐の鎧を着て、物事にとらわれない空の座に坐り、慈悲の部屋に住する。[107]