[この本に学ぶ]
『100分de名著「般若心経」』
佐々木 閑 著
NHKブックス(2014年)
「般若心経」とは何かを、とても分かりやすく教えてくれる好著。仏教のことをこれほど分かりやすく解説してくれる本に、私はこれまで出会ったことがない。何が分かりやすいかといえば、本書は「般若心経」を、いわば「虫の眼」と「鳥の眼」の両方を巧みに織り交ぜながら解説してくれていること。つまり、「般若心経」それ自体の解説とともに、このお経が、仏教史全体の流れのなかで、どう位置付けられ、それがどのような意味を持つかといったことを、とてもクリアな俯瞰図をもって紐解いてくれるているのだ。
具体的にはまず、初期仏教(本書ではこれを「釈迦の仏教」と呼ぶ)と「般若心経」が属する大乗仏教との違いを解き明かし、その図式のもとに「般若心経」の全貌をくっきりと浮かび上がらせてくれる。
「釈迦の仏教」と「大乗仏教」。その根本的な違いは「自利利他」という言葉を使っていえば、両者が、[自利→利他]の関係にあるのが釈迦の仏教、[利他→自利]の関係にあるのが大乗仏教になるという。
「釈迦の仏教」では、まず自己救済の「自利」があり、それが回り回って結果的に他者の救済、つまり「利他」に転じるという「自利→利他」の流れを基本構造としてもっています。一方、大乗仏教では最初から「利他」をよしとして他人の救済に目を向けます。…他者を救った結果として最終的に自分が救われるのですから、こちらは「利他→自利」の構造といえます。[P82-83]
上記にも見られるように、「釈迦の仏教」と「般若心経」とでは、その世界観に根本的な違いがあり、「般若心経」は「釈迦の仏教」の大胆な否定の上に成り立っているとするのが著者の見解。だが、それは決して優劣をいうのではなく、「釈迦の仏教」には釈迦の仏教にしかできない仕事があり、「般若心経」には般若心経にしか為し得ない働きがある――というのが、著者が本書を通じて発信している大切なメッセージとなっている。「釈迦の仏教」は、心の苦悩をなんとか自分の力で消したいと願う人たちのために生まれました。…「自分で自分を変えることで、生きる苦しみを消す」というとても端正な教えです。しかし、釈迦が説く「修行一筋の道」では救われない人たちもいることは確かです。不思議な力に身をまかせ、そこに抱かれることで安らぎを得たいと願う人々、それしか安らぎを得る道が残されていない人々、そういう人たちのために「般若経」が作られたのだと考えれば、むしろ「釈迦の仏教」を否定しているからこそ、そこに確固とした独自の存在意義がうまれてくるということが理解できます。[P93-94]
「釈迦の仏教」にあっては、この世は隅から隅までが「論理的因果性」で動いている。が、「般若心経」は、それとは逆に、神秘の力に満ち満ちている。つまり、両者のもっとも大きな違いは「神秘」の有無にこそある、と著者は説く。そして、この「神秘」を、時に応じて自らの生活に上手に取り込むことを、私たちに薦めている。
具体的にどうすればいいかというと、自分の中の、「理性で考える」部分と、「神秘を信じる」部分を明確に役割分担するのです。大なり小なり、合理的な論理性をもって判断すべきことがらは、意思でしっかり判断します。そして、判断したことに対して自信をもって進んでいくために――いわば“後押し”として――神秘の力を求めるということです。私はこういった生き方が一番、人生の苦しみを軽減してくれるのではないかと考えています。[P111]
「理性」ばかりに偏ることなく、ときに「神秘」に身をまかす――このことこそが、現代社会に生きる私たちに「般若心経」(意味は「智慧の完成」)が授けてくれる本当の智慧なのかもしれない。

第1章 最強の262文字
- 五蘊: われわれ人間はどのようなものからできていて、どのようなありかたをしているのか。①色、②受、③想、④行、⑤識[18]
- 自利利他: 釈迦の教えの最大の特徴は、自分の苦しみを自分の力で解決する「自己救済」の宗教であるということ(=自利)。こちらから押し付けることはしないが、求める人にはすべてを与えるという姿勢。ここで「自利(自己の救済)」が「利他(他人の救済)」に転じる。いわば“後ろ姿”の救済活動。[23]
- 「釈迦の仏教」には釈迦の仏教にしかできない仕事があり、大乗仏教には大乗仏教にしか為し得ない働きがある。そう思ってこそ、仏教はどんな人にとっても助けとなる、幅の広い宗教として存在することができる。[27]
- 「釈迦の仏教」では、ブッダと呼ばれる人はこの世に一人しか現れない。釈迦が2500年前に入滅後、ブッダのいない世が何十億年も続く。次にブッダとなるのは弥勒。[32]
- 大乗仏教では、“パラレルワールド”のように並行する世界が無数にあって、それぞれにブッダがいると想定する。「仏」とか「如来」と名のつく聖者(釈迦、阿弥陀、薬師、大日など)や、「菩薩」と名の付くブッダ候補生(観音、文殊、普賢、地蔵など)[33]
第2章 世界は“空”である
- 釈迦の世界観: 釈迦は、絶対的に実在しているのは目や手がとらえた「いろ」や「かたち」や「手触り」の方であり、「石」というのは、それらを心の中で組み上げた架空の集合体にすぎないと考えた。「私」もまた「石」と同じような“仮の姿”だが、人の場合は「肉体」だけでなくそこに「心」を加えなければならない。「認識」とか「思考」とか「記憶」とか、あるいは「執着」とか「怒り」とか「感性」とか、様々な心的作用もその集合体の要素になっている。[56]
- そのような「肉体」と「心」が、目や耳といった感覚器官によって連結され、絶えず変化しながらかりそめのまとまりをなしている――それが「私」。無数の要素の集まりが、時間の経過に沿って絶えず変化する複雑系、それが「私」。[56]
- 釈迦の仏教の「空」: われわれが普段、そこに実在すると思っている様々な対象物は、諸要素を集めた架空の存在であり、実態のない虚像。真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけ。[56]
- 大乗仏教の「空」: 「五蘊」「十二処」「十八界」のような基本要素も実在しない。要素と要素を結んでいる因果関係のようなものも存在しない。釈迦が構築した世界観を「空」という概念を使うことによって無化し、それを超えるかたちで、さらなる深遠な真理と新しい世界観を提示した。[57]
- 大乗仏教では、この世の厳密な因果のシステムを「空」の概念によって無化したから、すべてが漠然とした。が反面、見果てぬ夢にも希望が持てるようになった。本来は自己修練の道であった仏教が、神秘の上に成り立つ宗教らしい宗教へと変化した。[65]
- 大乗仏教は「お釈迦様のおっしゃったことは立派だったけれども、お釈迦様のように深い知性で世界を見、論理でものごとを突き詰めることは難しい。人間は情緒で世界を見、感情でものごとに納得することだってあるのだ」と考えたのかもしれない。[66]
第3章 “無”が教えるやさしさ
- 十二支縁起: 人の心に苦しみが生じるメカニズムを説明したもの。あらゆる苦しみの根源は無明にあり、この無明のせいで様々なよからぬ状態が連鎖的に起こり、最後には堪えがたい「老死」の苦悩に悶えることになる。①無明、②行、③識、④名色、⑤六処、⑥触、⑦受、⑧愛、⑨取、⑩有、⑪生、⑫老死[72]
- 四諦八正道: 私たちの中に苦というものが生まれる理由を分析し、それにどう対処すべきかを説いた「仏教の基本方針」のようなもの。①苦諦、②集諦、③滅諦、④道諦。「道諦」は「八正道」と呼ばれる、煩悩を消すための具体的な八つの道を実践すること。①正見、②正思惟、③正語、④正業、⑤正命、⑥正精進、⑦正念、⑧正定[74]
- 『般若心経』は、厳正に決まっている宇宙の法則性(この世の「因果則」)をどうしても変更可能なものにしたいと考えた。[76]
- 因果と業: 因果とは、ものごとの原因と結果の法則のこと。仏教が誕生する以前からインド世界に広く定着していた「業」や「輪廻」の思想を土台としている。「業」は、私たちがなんらかの意思をもってものごとを行おうとする際に発生するパワーで、悪いことをすれば「悪業」のパワーが、善いことをすれば「善業」のパワーが生まれる。①いったん発生してしまった業は自然消滅することはない。②業と、その結果との関係は1回限り。[76]
- 輪廻: 輪廻とは、この宇宙には複数の違った生まれがあり、生き物はそのいずれかの生まれを永遠に転生しつづけるという考え方。六道輪廻:①天、②人、③阿修羅、④畜生、⑤餓鬼、⑥地獄[77]
- 釈迦の仏教: 「この世界の因果則は厳然たるものであって変えることはできない。だから、特別な努力をして自分の心のあり方のほうを変えよう。それによって生きる苦しみに打ち勝っていこう」[82]
- 大乗仏教: 最初から「利他」をよしとして、他人の救済に目を向ける。「善行」を日常の中で積んでいけば、出家して仏道修行を行わなくても悟りに近づいていけるとした(=回向)。利他→自利の構造。自己犠牲。[83]
第4章 見えない力を信じる
- 独善的な宗教は、まわりの社会に不幸をまき散らす。様々な状況で苦しんでいる人々に安心を与えるのが宗教の目的なのだから、その教えは様々であるはず。[93]
- 「釈迦の仏教」は、心の苦悩をなんとか自分の力で消したいと願う人たちのために生まれた。「自分で自分を変えることで、生きる苦しみを消す」という、とても端正な教え。一方、不思議な力に身をまがせ、そこに抱かれることで安らぎを得たいと願う人々、それしか安らぎを得る道が残されていない人々、そういう人たちのために「般若心経」が作られたのだと考えれば、そこに確固とした独自の存在意義が生まれてくる。[93]
- 「釈迦の仏教」と「般若心経」のもっとも大きな違いは「神秘」。「般若心経」に充溢しているエネルギーの源泉は神秘の力。一方、「釈迦の仏教」の場合、この世は隅から隅まで論理的因果性で動いている。[98]
- 「釈迦の仏教」は必要なことを過不足なく述べるという意味で、その言葉は等身大に近い。一方「般若心経」は最小限の言葉しか示さないことによって無限大の神秘を表現しようとするので、表現方法が非常に逆説的になる。[103]
- 「般若心経」は「個人の心」を救済するお経であり、公共性はまったくない。一方「法華経」は世直しとか、国の安泰とか、国全体をよくすることを考えている側面がかなりある。[107]
- 迷信と神秘: 迷信は、因果関係を想定してはならない2つの現象の間に、誤った因果関係を想定すること。一方神秘は、それぞれが心の中で感じ取る、世の因果関係を越えた不思議な力や存在であり、それは一人ひとりの感性に依っている。[111]
- 自分の中で「理性で考える」部分と、「神秘を信じる」部分を明確に役割分担する。合理的な論理性をもって判断すべきことがらは、意思でしっかり判断する。そして、判断したことに対して自信をもって進んでいくために、いわば“後押し”として神秘の力を求める――そうした生き方がいちばん人生の苦しみを軽減してくれるのではないか。[111]
- 仏教が「心の病院」ならば、神秘は「心のパワーを生み出す触媒」といえる。[112]
第5章 「私とはなにか」を再考する
- 釈迦の世界観に基づく「私」: 外部存在(六境)からもたらされる情報を、六つの根(六根)が感知して情報を「心」に送り、心はそれを認識として表出する。そしてその認識に対して、四十以上もある心的作用(心所)が様々なパターンを作って働きかける。その全体が「私」だととらえる。[132]
- 物質的要素と心的要素が、決して切り離すことのできない一体化した組織として機能している状態。それを「私」の本性とみる。[133]
- 般若心経の世界観に基づく「私」: 「私」とは、「物質と精神」といった二元論はおろか、釈迦の仏教が考えた「要素集合体」という概念さえ跳び越えて、「感じ取るしかない、規定不可能な存在」。[136]
- 般若心経「分析の否定」: 「そこにあるものは、そこにあるものとしてそのまま理解せよ。しかもその理解はあくまでも人の知恵による限定的なものであり、その奥には人智を越えた法則があるということを承知せよ」[136]