[この本に学ぶ]
『知恵の樹 生きている世界はどのようにして生まれるのか』
ウンベルト・マトゥラーナ/フランシスコ・バレーラ 著
ちくま学芸文庫(1997年)
著者のウンベルト・マトゥラーナ(1928-)とフランシスコ・バレーラ(1946-2001)は共にチリの生物学者。オートポイエーシス[自己創出]理論の提唱者として知られている。本書は、子弟関係にある、その二人の天才・生物学者が、オートポイエーシス理論に基づきながら、<知ること>とは何かを解き明かすとともに、その理解をベースに「だから人間はどう生きるべきか」という根源的問いへの答えを、見事なまでに示してくれる珠玉の一冊だ。
なぜ<知ること>なのか。それは「ぼくらがこんにち直面しているさまざまな困難の核心には、まさにこの<知ること>についての無知そのものがある」という認識が、著者らの主張の原点になっているから。そして「この本の全体は、いわば<確信への誘惑>へと身をゆだねてしまうという(私たちの)習慣を、いったん中断してみようということへの呼びかけなのだ」。<確信への誘惑>とは、いわば自分の思い込みに対して頑な態度をとること。私たちは誰しもそうした傾向を持つものだが、そうした<確信>こそが人と人、集団と集団の対立を生む原因となっているのであり、だからこそ、まずは<知ること>とは何かを知ることこそが大切だ、というのである。
本書は、<生物は絶えず自己を産出しつづけるということによって特徴づけられている>とするオートポイエーシス理論の上に展開されるもの。軸足は常に「生命とはなにか」という原点に置かれているため、本書に登場するさまざまな解釈や概念は、動植物から人間、集団から社会に至るすべての事象に対して適用可能な、いわば普遍の原理といえるもの。ゆえに例えば、「人と人、集団と集団の対立を解消するにはどうすれば良いか」といった個別の現実問題にまで、実に明解な答えを示してくれる。例えばこうだ――。
共=存在の唯一の可能性は、より広いパースペクティブ、両者が一致して共通の世界を生起させることができるような存在の領域を選ぶことだ。争いとは、つねに相互的な否定だ。争う者たちが「確信」をもっているとき、争いは、生じた場所ではけっして解決されない。争いは、ただぼくらが、共=存在が生じるようなもうひとつの場所[反対物の一致を見いだせる、より広いコンテクスト]へと移動したときにのみ消滅する。この認識を認識することが、人間を中心にすえたエシックスのための社会的命令[規則]となるのだ。[P.298]
ここだけを読んだのでは、おそらくチンプンカンプンかと思う。それもそのはず。本書で述べられている事柄は、最初の章から最後の章まですべてが「円環的」に繋がっていて、それらを「まるごと」理解することでやっと「全体」像が見えてくる。だから「部分」だけを取り出して説明するのはきわめて困難と言わざるをえないわけだが、このことはまた<知ること>の本質をも言い表している。だから、この比類なき名著が説く<知ること>の意味をきちんと理解されたい方にはぜひ本書を「まるごと」読んでいただければと思う次第だが…。
さて上記の引用が意味するところは、要は、互いの<確信>と<確信>とがぶつかり合うことによって生じる争いは、その同じ場所では決して解決できない。だから両者でそろって「一段の高見」をめざす必要がある、というわけだ。では、その「一段の高見」にはどうすれば至れるのか?
人間の社会システムにおける、メンバー間の関係=相互作用の統一性と調和は、メンバーの成長の中から生まれる統一性と調和によってもたらされる。この成長とは、メンバー自身の社会的(言語的)作動によって決定され、メンバーに構造的可塑性をあたえている再生産・個体発生プロセスによって可能になる、進行する社会的学習としてなしとげられるものだ。[P.240]
争いを解決するカギは、つまり「成長」にあるという。それは言葉を換えれば、本書の題名ともなっている「知恵」を生み出すということに他ならないが、人類はこのことを過去数百万年にわたり、「ことば」をつかって積み重ねてきた。それによって今日まで、人間らしく成長を遂げてきたわけだ。
われわれ人間は人間として、われわれの行動についての恒常的な言語的栄養交換を通じて絶えず織りなし続けている構造的カップリングのネットワークにおいて、存在している。<言語する>ことによって、言語という行動の調整の中で、認識[知ること]という行為が、<世界>を生じさせるのだ。ぼくらはぼくらの生を、相互的な言語的カップリングにおいていとなむ。[P.284]
人間が互いに成長を遂げることで争いを解消し、人間らしい豊かな社会を築く。そのカギは、「ことば」にこそあるというのだ。このくだりに接し、私は、ソフトバンクグループの代表・孫正義氏が、その想いを熱く語りかける姿を思い出した。孫氏は言う。ことあるごとに、この一言を繰り返す。「私が創業以来、ずっとやりたいと思ってきたことは、ただひとつ。<情報革命で人々を幸せに>ということです」と。
創業以来38年。いまや8万人にならんとするグループを率い、常に「高見」に挑み続けてきた天才経営者は、「ことば」が持つ力のすごさを誰よりもよく心得ているに違いない。だからこそ「情報革命で人々を幸せに」という、たった一つの言葉に万感の想いを込める――そのことによって、人々のアクションを、協同を、意識と精神を、そして成長を生み出すことを、巨大なスケールで成し遂げてきた。
人間の進化の歴史は、その言語行動と関連している。その歴史は個体発生的な行動の可塑性をはらみ、それが言語の領域を可能にする。そしてその歴史において、有機体としての人間が適応を維持するためには、言語の内部で作動することと、「行動の可塑性」が維持されることが要求される。[P.239]
天才経営者は「ことばが創り出す世界」という柔軟な道具を用いることによって「行動の可塑性」を確保してきた。事業そのものには拘泥することなく、「情報革命で人々を幸せに」という「ことば」だけを信じて、その主力とする事業の対象を選択し続けてきたのである。ソフトウェア流通からインターネット検索、ブロードバンド通信、移動通信サービス…といった具合に。
本書『知恵の樹』は、経営理念という「ことば」が創り出す世界の意味とその力の凄さを、改めて教えてくれた。

第1章 <いかにして知るのか>を知る
- 確信の誘惑: この本の全体は、いわば、確信の誘惑へと身をゆだねてしまうという習慣を、いったん中断してみようということへの呼びかけなのだ。[17]
- 孤独は、彼がほかの人々がともに生起させる世界においてのみ、のりこえられるものだ。[17]
- ぼくらには自分が見えていないということが見えていない。[20]
- ある色彩を何色と呼ぶかは、<ニューロンの状態>とは関連づけることができるが、<波長>とは関連づけることができない。異なったさまざまな攪乱が、ニューロンのどんな活動状態をひきおこすかは、人それぞれにおいてその人の構造によって決定されるのであり、攪乱の作因の性質によって決まるのではない。[22]
- いま述べたことは、視覚的経験のすべての次元(動き、構成、かたち、など)にあてはあまるし、さらには視覚以外のいなかる知覚様式にもあてはまる。[22]
- ぼくらは世界の「空間」を見ているわけじゃない。ぼくら自身の個別の視野を、生きているのだ。[23]
- 反省的思考[リフレクション=反映]とは、ぼくらが<いかにして知るのか>を知るプロセスのこと。それは自分自身にむかって帰還していく行為だともいえる。それは自分の盲目性を見いだし、他人の確信や知識[認識]にしたところで、ぼくら自身のそれと同じくらい、困った、頼りないものだと認識するための、唯一の機会なのだ。[25]
- <いかにして知るか>を知るという、この特別な状況は、西洋文化にあっては伝統的に見過ごされてきたものだ。ぼくら(西洋人)は反省的思考ではなくアクションに重点を置くようになっているので、ぼくらの個人生活は、ふつう自らについてまるで盲目だ。[25]
- アクションと経験のこの円環性、この連結、ある特定の<ありかた>[存在様式]と世界の見え方とのこの分離不可能性は、ぼくらに、それぞれの認識行為はひとつの世界を生起させるということを教える。①「すべての行動は認識であり、すべての認識は行動である」[28]
- すべての考察は<言語>によって行われる。②「言われたことのすべてには、それを言った誰かがいる」。反省的思考とは、ある特定の場所である特定の誰かが行った、具体的人間によるアクションなのだ。[28]
- 認識に関わる①②の問題は、認識者としてのぼくらの存在のもっとも深い根と結びついている。だからこそ、<ひとつの世界を生じさせてしまう>というこの事実は、われわれのすべてのアクション、存在のすべてにおいて、浮かび上がってくるのだ。社会的・人間的なすべてのものと、その生物学的な根とのあいだには、断絶はない。[30]
- 科学的に正当化されうる説明を得るためのぼくらの出発点は、認識を有効なアクション、つまり生物が一定の環境において、認識によってひとつの世界を生起させつつ存在を維持してゆくことを可能にさせるようなアクション、として性格づけることにある。[33]
第2章 <生きていること>の組織
- <知ること>は<知る人>のアクションなのであり、それは<知る人>の生物としてのありかたそのもの、つまりその組織に、根差している。認識の生物学的基礎は、ただ神経システムを調べるだけではわからない、とぼくらは考えている。認識のさまざまなプロセスが、いかにひとつの全体(ホール)としての生きている存在に根差しているかを、理解する必要があるのだと思う。[39]
- <自分自身を作りだしてゆく>とともに<みずからの境界を設定する>という、これらの分子的ネットワーク、分子の相互作用こそ<生きている存在>[生物]そのものなのだ。[46]
- <生命は絶えず自己を産出しつづけるということによって特徴づけられている>というものだ。生物を定義する組織をオートポイエーシス[自己創出]組織という名前で呼ぶとき、ぼくらはそのようなプロセスのことを言っているのだ。[51]
- オートポイエーシス・システムのもっとも驚くべき特性は、それが自分自身の力によって立ち上がり、自分自身のダイナミクスによって環境から区別されたものとなることだ。[55]
- 生物にかんして特別なのは、その組織が生み出すただひとつのものはその組織自身だということ、生産者と生産物とのあいだに分離がないということだ。[57]
- オートポイエーシス単体は、物理学的現象論とは違った特性をもつ独自の現象論として、生物学的現象論を特定する。[61]
第3章 歴史――生殖と遺伝
- ぼくらは現在存在するすべての生物、すべての細胞と、もともとの祖先から数えて同じ年齢なのだ。こうして、生物をそのあらゆる次元において理解し、そうすることでぼくら自身を理解するためには、生物を歴史的存在としているいろいろなメカニズムを理解することが必要になってくる。[64]
- 単体を生み出すさまざまなモード: ①レプリケーション、②コピー、③再生産。再生産は必然的に、歴史的に連結された単体を生み出す。これらの単体は、分割によって再生産されてゆくにつれ、ひとつの歴史的システムを形成する。[74]
- 再生産による遺伝: 再生産された単体の初期構造のいろいろな様相のうち、オリジナル単体と同じものだと評価されるもののことが<遺伝>と呼ばれる。違っていると評価されるものは<再生産によるヴァリエーション>と呼ばれる。[79]
第4章 メタ細胞体の生活
- <個体発生>とは、ある単体において、その組織が失われることなく行われる構造的変化の歴史のこと。この変化は、単体において、単体がおかれている環境との各瞬間ごとの相互作用によってひきおこされた変化として、あるいは単体自身の内的ダイナミクスの結果として、起こる。[85]
- ふたつの(あるいはそれ以上の)オートポイエーシス単体は、それらの間の相互作用が再現的(リカレント)つまりはより安定した性格をもつときには、カップリングされた個体発生を行うことができる。[87]
- オートポイエーシス単体とその環境が分離されてしまわないかぎり、相互的・合同的な構造的変化の歴史が続く。そこには構造的カップリングが存在する。[87]
- 系統発生: 各細胞の現在の構造的カップリングのタイプは、その細胞が所属する系統発生の構造的変化の歴史の現段階なのだ。それはそのリニイジにおいて先行する細胞の構造的カップリングが維持されていることの結果にほかならない。[88]
- メタ細胞体、あるいはセカンド・オーダーの単体は、複合的単体としてのその構造に見合った、構造的カップリングと個体発生を、もつことになる。[91]
- 個々の細胞が、ほかの細胞たちとともにメタ細胞体の一要素として行う相互作用の歴史を通じて経験する構造的変化は、相互補完的なもの。[91]
- ひとつの細胞から分化してきたひとつのメタ細胞単体を形成している細胞たちの緊密な凝集は、それら個々の細胞の個別の連続的なオートポイエーシスと、完全に両立する。[92]
第5章 生物のナチュラル・ドリフト
- 生物とその環境との、相互作用の結果としての変化は、攪乱する動因によってひきおこされるものではあるが、それを決定するのは攪乱されるシステムの構造だ。同じことが、環境についてもいえる。[109]
- ある環境における生物の個体発生的構造的変化は、つねに、環境の構造的ドリフトと合同する構造的ドリフトとして起こる。そしてこのドリフトは、生物が生きているかぎり行われる相互作用の歴史において、環境によって「選択」されてきたものだと、観察者には見える。[116]
- <進化>とはナチュラル・ドリフト[自然の成り行き=定向変化]であり、オートポイエーシスならびに適応の維持から生まれるもの。[135]
- 進化とは、進行する系統発生的選択のもとでの構造的ドリフト現象として起こる[133]
- 進化は、<放浪への衝動>をもった彫刻家に、どこか似ている。調和をもって連結された部品群によって出来上がったそれらの作品は、デザイン[意図]の産物ではなくてナチュラル・ドりフト(気ままな漂流)の産物だ。これと同じようにして、<アイデンティティおよび再生産能力の維持>以外の法則はなんら持たないまま、われわれすべての生物は出現した。それこそ、ぼくらにとっての根本原理として、ぼくらをあらゆる生きている存在と連結するものだ。[136]
第6章 <行動域>
- 神経システムの存在が有機体にもたらす構造的可塑性について注意を促しておきたい。つまりそれぞれの有機体にとって、その相互作用の歴史がいかに、そこにおいて神経システムが可能な状態の範囲を押し広げることによって参与してきた、初期構造からの変化の歴史であったかを示したい。[145]
- 生物の行動は神経システムが作り出すものではなく、また神経システムにだけに関わるものでもない。神経システムが行っていることは、有機体にたいしてきわめて融通のきく可塑的な構造を与えることによって、可能な<行動の領域>を拡げることなのだ。[160]
第7章 神経システムと認識
- 神経システムは認識という現象に、ふたつの相互補完的なやり方で参与する。第一のものは<有機体がとりうる状態の可能性を拡大すること>による。この可能性の拡大とは、神経システムが可能にする感覚=運動パターンの大きな可能性によってもたらされる。第二のものは、有機体において、有機体が巻き込まれているいろいろな[外部との]相互作用と、多くの異なった[有機体の]内的状態とを連合することを可能にする、<有機体にとって新しい構造的カップリングの次元をひらくこと>によるものだ。[206]
- 人間のように豊かで巨大な神経システムをもった有機体においては、その相互作用の領域は、構造的カップリングの新しい次元を許すことによって、新しい現象群への道をひらいている。人間では、これが<言語>と<自意識>へと向かったのだ。[208]
第8章 <社会>現象
- ある社会的メンバー間に相互的にひきおこされた調整行動のことを、ぼくらはコミュニケーションと呼ぶ。コミュニケ―ションの特別な性格は、それがほかの行動とは区別されたメカニズムによって生まれるものだというのではなくて、それが<社会行動>という領域で起こるものだという点にある。[228]
- 社会現象: いくつかの個体が、みずからがその内部に含まれるような作動的境界を画定する再現的相互作用をつうじてサード・オーダーの単体を構成することに参与するとき、この参与にかかわる現象のことを、ぼくらは社会現象と呼ぶ。[230]
- <チューブ>というメタファー: 生物学的にいって、コミュニケーションにおいて「伝達される情報」は存在しない。構造的カップリングの領域における行動の調整が行われるたびごとに、コミュニケーションは起こっているのだ。コミュニケーションという現象は、伝達される何か、にではなく、それを受ける人には何が起こるか、にかかっているのだ。[233]
- ナチュラル・ドリフトの中における生きた有機体の存在は、競合原理に連動しているわけではなく、適者[最適者ではない]の生存という結果へとゆきつく環境世界と個体ごとの出会いにおける適応の維持と連動している。[235]
- 利他行動と利己行動: アンテロープの行動は、グループの一員としての個別性を表現するものであるかぎり、そこに矛盾はない。それは「利他的に」利己的なのであり、「利己的に」利他的なのだ。[236]
- 人間の進化の歴史は、その言語行動と関連している。その歴史は個体発生的な行動の可塑性をはらみ、それが言語の領域を可能にする。そしてその歴史において、有機体としての人間が適応を維持するためには、言語の内部で作動することと、行動の可塑性が維持されることが要求される。[239]
- 人間の社会システムにおける、メンバー間の関係=相互作用の統一性と調和は、メンバーの<成長>の中から生まれる統一性と調和によってもたらされる。この成長とは、メンバー自身の社会的(言語的)作動によって決定され、メンバーに構造的可塑性をあたえている再生産・個体発生プロセスによって可能になる、進行する社会的学習としてなしとげられるものだ。[240]
- スパルタ: 所属メンバーのあらゆる次元の行動の安定化を強要するメカニズムを実現しているような、欠陥のある社会は活力を失い、その構成要素である個人から人格を剥奪してしまう。[240]
- <文化的行動>とは、ある社会環境のコミュニケーション的ダイナミクス内部において、新しいメンバーが個体発生的に獲得したパターンが、世代を超えて安定したものを意味する。[242]
- <文化行動>では、<模倣>と進行的な<グループ内での行動選択>が決定的な役割を果たし、こどもとおとなの[世代間の]カップリングを果たすことになる。これが、人間においては文化と呼ばれる、ある種の個体発生へとゆきつくのだ。したがって<文化>行動とは、その他の学習された行動と、本質的に異なったものではない。文化が特別なのは、メンバーがつぎつぎと交代してゆく何世代をも超えて、社会において生きることの結果として生じるものだからだ。[243]
第9章 <言語域>と人間の意識
- 性的カップリングが、食料分配と子育てにおける男性の参加という行動の維持をつうじて、協同とアクションの言語的生態をもたらした。[267]
- こうして人間における言語の出現と、[それと同時に起こる]言語が出現する社会的コンテクスト全体の出現は、人間のもっとも内密な経験としての、精神および自意識という(ぼくらが知るかぎり他に例を見ない)新しい現象を生み出してきた。適切な相互作用の歴史がなければ、この人間らしい領域に入ることは不可能だ。[283]
- 言語活動による現象としての精神は、私の脳の中にある何か、ではない。意識と精神は社会的カップリングの領域に属している。社会的カップリングこそ、意識と精神のダイナミクスの所在地なのだ。[284]
- われわれ人間は人間として、われわれの行動についての恒常的な言語的栄養交換を通じて絶えず織りなし続けている構造的カップリングのネットワークにおいて、存在している。<言語する>ことによって、言語という行動の調整の中で、認識[知ること]という行為が、<世界>を生じさせるのだ。ぼくらはぼくらの生を、相互的な言語的カップリングにおいていとなむ。[284]
- ぼくらは自分自身を、この共=個体発生的カップリングの中で、あらかじめ存在するレファランスや起源との関係によってではなく、ほかの人間たちとともに作り上げる<言語による世界>の生成における、進行的変化として、見出すのだ。[285]
第10章 知恵の樹
- 第一の目標: きみがもし、きみが行うすべてのことを「ほかの人々との共=存在において生成された世界」として見ざるを得なくなったなら、この本の第一の目標を達成したといっていい。[289]
- 表象主義(客観主義)と唯我論(観念論)の両極を避けながら、かみそりの刃の上を歩かなくてはならない。この本でのぼくらの目的は中庸を見いだすことだった。それは、各瞬間ごとにぼくらが経験しつつあるこの世界の規則性を理解する、ということだ。[290]
- 伝統: 伝統とは、社会システムの歴史において、あきらかで、規則的で、受け入れられるものになった、すべての行動(ふるまい)からなっている。それらの行動が実行されるためには反省的思考[=反映]は必要とされないので、それらは失敗しないかぎり眼に見えないものだ。<伝統>をなす行動が失敗したときに、はじめて反省的思考が登場する。[292]
- 認識的円環: この本の中でぼくらが提示した、認識現象についての説明は、<科学>という伝統にたったもの。けれどもこのぼくらの説明は科学の伝統において、つぎのような根本的な考え方の転換をもたらしているという点で特異なものだ。<認識とは有効な「アクション」であり、対象をえらばない>。そして<ぼくらがいかにして知るのかを知るにつれ、ぼくらは、自分自身を想起させている>[認識について認識するにつれて、<私>のアイデンティティが生成する]。[294]
- みんなが見ている世界は、唯一の[定冠詞つきの]世界なのではなく、ぼくらがほかの人々とともに生起させているひとつの世界でしかない。[296]
- 共=存在の唯一の可能性は、より広いパースペクティブ、両者が一致して共通の世界を生起させることができるような存在の領域を選ぶことだ。争いとは、つねに相互的な否定だ。争う者たちが「確信」をもっているとき、争いは、生じた場所ではけっして解決されない。争いは、ただぼくらが、共=存在が生じるようなもうひとつの場所[反対物の一致を見いだせる、より広いコンテクスト]へと移動したときにのみ消滅する。この認識を認識することが、人間を中心にすえたエシックスのための社会的命令[規則]となるのだ。[298]
- 生物学はまた、ぼくらは認識の領域を拡大することもできるのだということを教えてくれる。これはぼくらに他者を見せ、彼あるいは彼女にたいしてぼくらのかたわらに存在の空間をひらくような生物学的個体間合同の表現をつうじてもたらされる新しい経験によって、生じるものだ。この行為は<愛>と呼ばれる。[299]
- 生物学的にいって、愛がなければ、つまり他者の受容がなければ、社会という現象は生じない。[299]
- 認識とアクションの同一性を無視すること、<知ること>は<おこなうこと>だということを理解しないこと、人間のあらゆる行為は<言語すること>の中で起こり、そのようなものとして(社会的行為として)倫理的意味をもつものだと理解しないことは、とりもなおさず人間を生きた実体として見ていないということになる。[300]
- ぼくたちはただほかの人々とともに生起させる世界だけをもつのであり、それを生起させることを助けてくれるのは愛だけだ、ということだ。[301]
- ぼくらがこんにち直面しているさまざまな困難の核心には、まさにこの<知ること>についての無知そのものがあるのだと、ぼくらは主張する。[301]