ダイアローグ190402

「ギャップ」が生み出す豊かな響き


[この本に学ぶ]
偉大な指揮者に学ぶ 無知のリーダーシップ
イタイ・タルガム 著
日経BP社(2016年) 


著者のイタイ・タルガムは、巨匠レナード・バーンスタインの愛弟子としてイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団などで指揮を執る傍ら、その経験を通じて紡ぎ出したリーダーシップ論をグローバル企業や諜報機関など幅広い組織で指導している奇才。オーケストラという企業組織の縮図ともいえる真剣勝負の現場から帰納的に導き出されたリーダーシップ論は、珠玉の知見に満ちている。

本書は、そのタルガムが数多くの講演を通じて練り上げてきたリーダーシップ論を書き下ろしたものだが、それは「無知」「ギャップ」「メインリスナー」という3つの概念をキーワードとして組み立てられている。

新しい知識や新たな未来を発見するためには既存の知識をあえて手放すことが大切と説く「無知」は、仏教の教えに親しむ私たち日本人には馴染みのある概念。また、いわゆる「傾聴」の大切さを説く「メインリスナー」という概念も耳慣れたものだ。問題は「ギャップ」。かなり理解しづらい目新しい概念だが、この「ギャップ」こそがタルガムのリーダーシップ論の神髄を成している。

即ち、まずは組織の各所に存在する「ギャップ」を認識することを起点に、そこに光を当て、自ら「無知」に徹することであらゆる可能性を受け入れ、「メインリスナー」として有意義な対話が生まれる場を醸成する。換言すれば、一般的には「障害」とみられるギャップを決して覆い隠すことなく、逆にそれを露わにし「機会」に転ずることによって新しい知識や新たな未来を発見していく――というのが、タルガムのリーダーシップ論の大枠だといえる。

「ギャップ」について、もう少し詳しく見てみよう。指揮者は、作曲家が曲に込めた想いを楽譜を通して深く読み取り、その曲に対する自身の「世界観」を頭に描く。そして、その世界観をオーケストラのメンバーと共有することによってハーモニーを創り出していくわけだが、曲に対する理解の仕方やイメージは各人各様で、そこにはさまざまな「ギャップ」が存在する。

さて、ではこの「ギャップ」にどう対処していくか――というのが本書のテーマとなるわけだが、指揮者の指揮法、即ちリーダーシップの執り方にはこれまたさまざまなタイプがあって「これが正解」とは一概には言えない。本書においても、結局のところは「自分らしさ」を見出すしかないというのが結論となるわけだが、著者が理想するところは、指揮者の世界観をそのまま奏者に押し付けるのではなく、現実的な制約の下、指揮者と奏者との共同作業によって理想的な音を創り出していく、師匠バーンスタインが体現した方法であり、本書ではその“バーンスタイン流”の勘どころが分かりやすく説かれている。

“バーンスタイン流”は、まず指揮者が奏者との間で進める対話の指針となるコンセプトを示すところから始まる。コミュニケーションを活発に展開するための「土台」といえるものだが、橋の建設工事に喩えていえば、指揮者がまず、これから橋を架けようとする峡谷をしっかりと覗き込み(=ギャップの存在とそのあり様をしっかりと認識し)、そこに適するであろう橋を仮設のものとして建設する。これはあくまでも「仮設の橋」であり、目的は各奏者がこれを渡って峡谷の様子を自分の眼で確かめ、最終的にあるべき橋の理想の姿を自分なりに掴むことにある。

仮設の橋は、決して堅牢な構造物ではなく、さまざまに調整しうる柔軟な構造物であることが求められる。このため、指揮者が自身のイメージを奏者に言葉で伝えるに際しては、コンクリートな表現ではなく、比喩的表現を用いることを強く勧める。比喩には提案力はあるが決定力は持たない。調性を可能とする「解釈の幅」を有するからだ。

例えば「ここは黒いガラス片を通して日食を見ているときのような音にしてほしい」といった感じ。これは、ありきたりな耳タコ表現でなく、新鮮な比喩表現を用いることによって、ここにも意図的に「ギャップ」を創り出す。それにより、これを解釈し体現しようとする奏者たちの心の中にエネルギーを生み出す――という効果も同時に狙ったもの。俳句が生み出す17文字の世界の豊かさを知る日本人であれば、この意味はすぐに解る。

こうして「仮設の橋」を目印に各奏者の頭の中に描き出されたイメージが、今度はリハーサルを通じて、指揮者と奏者、さらには奏者と奏者の間で擦り合わされていく。それは正解に対する「答え合わせ」では決してなく、答えのない問題を皆で答えを探しながら解いていくという実に微妙な、絶え間ない相互作用を積み重ねるプロセスだといえる。本書の表現をそのまま借りれば、次のようになる。

ここでリーダーは最も難しい役割を果たさねばならない。ギャップが開いたままの状態で、組織のメンバーがみな進んで無知を受け入れ、真実をわかっていると主張しない状態で指揮を執るのである。このデリケートなバランスを求められる行為の目的は、ギャップに付与されたさまざまな意味を未来に向けた一つのストーリーにまとめあげ、メンバーが前へ進み、変化し、協力するための新たなフレームワーク、新たな視点を生み出すことだ。

「ギャップ」は、ただ単に埋めればよいという単純な話ではない。ムリムリ埋めた金太郎飴のようなオーケストラからは、豊かな響きは決して生まれない。オーケストラは、デジタルオーディオ機器ではなく、生き物だからだ。

バーンスタインは、「ギャップ」を認識するところから生まれ出る対話の中心に「意味」を置いた。「なぜ」という問いに対する答えである。「なぜわれわれはこの曲を演奏するのか」「なぜそれに耳を傾けるべきなのか」。この「意味」を比喩表現したのが「仮設の橋」に他ならない。そして最終的に懸けられる「本物の橋」、即ち最高のハーモニーは、奏者個人個人の「解放」の上にこそ築かれるもの、というのがバーンスタインの信念だった。

バーンスタインのオーケストラの一員となるには自分の意見を持たなければならない。解放されていなければならない。…「解放」という言葉は、自律的行動をする責任を引き受けるという、個人の意思による行動を示唆する。解放は常に自発的だ。…リーダーは動機づけを与え、意思を支え、個人が解放という行動を取れるような機会をつくり出さなければならない。

本書のPART2では6人の偉大な指揮者を取り上げ、それぞれのリーダーシップが「無知」「ギャップ」「メインリスナー」という要素をどのように取り入れているか(あるいは取り入れていなか)を分析している。登場するのはバーンスタインに加えて、リッカルド・ムーティ、アルトゥーロ・トスカニーニ、リヒャルト・シュトラウス、ヘルベルト・フォン・カラヤン、カルロス・クライバーだ。


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PART1 ビジネスという楽曲

PART2 リーダーシップの3つの新たな主題
  • 3つの要素にはつながりがある。「無知」は新たな領域を探求する意思と切り離せない関係にあり、「ギャップ」には発見されるべき新たな可能性が潜んでおり、「メインリスナー」(人々の問題意識や見解を変えるように話しを聴く)は、対話の相手に自らを存分に表現してもらうための余白を生む。[23]
第1章 すばらしき無知
  • 新しい知識は、既存の知識、意思、そしてあえて無知であろうとし、答えを求めず予測すらしようとしない姿勢を組み合わせた結果として得られる。[24]
  • オーケストラで演奏する行為には二面性がある。一方においては、一人の演奏家である自分がなにより大切。もう一方では、グループの定める基準に完全に忠実であることも必要。両者のギリギリのバランスが求められる。[29]
  • ハーモニー: 音楽における、そして人生におけるハーモニーとは、よく調整された動きが流れるように続いていく状態。そしてすべての参加者の関係が発展していく状態である。ときには不協和な関係がより高い次元の調和に昇華し、達成感と喜びが感じられることもある。[30]
  • 「無知なる者は別の無知なる者に、自分でも知らないことを教えられる」(ジョセフ・ジャトコ)[35]

  • 教師の役割は、学生が学問の大変さに直面して(知性ではなく)意思の力がゆらいでしまったときに手を差し伸べること。学生が集中力を絶やさないように見守る。そうすることで学習の成果ではなく、学習する過程がしっかりしたものであることを確認する。[36]
  • 誰もが学び、教えることができるのと同じように、誰もがリーダーにもフォロワーにもなれる。[37]
  • リーダーには、予想不可能なことにオープンな姿勢を持ち、過去と違う成果を引き出してもらいたい。無知であることを選び、惰性的思考の産物ではなく選択の余地(組織に属する人々の意見も尊重される)のある未来に導いてほしい。[40]
第2章 ギャップを恐れるな
  • ビジネスにおけるリーダーシップの役割は、無意味な空白を有意義なギャップに変えることである。[47]
  • お互いがビジョンを同じ現実に当てはめようとし、それによって食い違いが顕在化したときに初めてギャップが生じる。ある人の世界観の調和が崩れたときに生じるのだ。[48]
  • 強く感じられるほど、ギャップは強いエネルギーを生み出す。[49]

  • ギャップへの興味は未来志向のものであり、「それをどうするつもりなのか?」とわれわれの意図を問うもの。ひとたび認識されたギャップは、われわれに行動を促す。[49]
  • 人生における多種多様な創造性の決め手となるのは、ギャップを認識し探求する能力だ。ギャップとはさまざまな解釈を試し、それによる意味の変化を発見する機会である。[54]
  • ギャップがなぜ「イノベーション」を生み出すのに適しているか? それはギャップがモノと違って、非物質的だから。ギャップはわれわれの心、記憶、直観、感情の中にある。[55]

  • ギャップを探求するプロセスを開始するには、リーダーが対話の枠組みとして指針となるコンセプトを提示する必要がある。その際には比喩を用いるのがよい。比喩には提案力はあるが決定力はないからだ。[57]
  • コミュニケーションの土台を作ろうとする最小の試みは、ギャップの周りに枠組みをつくるための努力といえる。すべての参加者がギャップをさまざまな角度から眺めるための仮説の足場である。[58]
  • 平等主義的イデオロギーでは個人間のギャップを隠すことはできず、ギャップに対処する土台として機能しない。ギャップにきちんと対処すると一体感が生まれる。否定すると一体感は損なわれる。[64]

  • リーダーの役割の一番目は最も有望なギャップ、すなわちきちんと対処すれば組織に最も大きなプラスの変化をもたらすようなギャップを特定すること。[64]
  • ここでリーダーは最も難しい役割を果たさねばならない。ギャップが開いたままの状態で、組織のメンバーがみな進んで無知を受け入れ、真実をわかっていると主張しない状態で指揮を執るのである。このデリケートなバランスを求められる行為の目的は、ギャップに付与されたさまざまな意味を未来に向けた一つのストーリーにまとめあげ、メンバーが前へ進み、変化し、協力するための新たなフレームワーク、新たな視点を生み出すことだ。[66]
第3章 メインリスナー
  • メインスピーカーではなくメインリスナーになろう。メインリスナーは、知識を伝えることではなく、対話を生み出すことに注力する。対話が生まれ、人それぞれの価値のある学びが収穫されるための場を提供する。学びの結果ではなくプロセスを担保する。[68]
  • フランチェスコの強い意志と能力が組織のギャップを明らかにし、新たに生まれる対話(そのためのプラットフォームもつくった)からエネルギーを引き出すことを可能にしたのだ。[76]
  • 成果ではなく、オープンな場を維持することに心を砕いた。音楽に例えれば、オーケストラのすべての楽器が聞こえるようにすることで、不協和音を浮き彫りにし、その解消につなげたのだ。[76]
  • メインリスナーに耳を傾けてもらうと、話し手の話し方が変わる。聞いてもらえるという安心感から、言葉やアイデアを聞き手の既成概念に合わせるようとするのをやめ、未知なる領域に踏み出す自由を感じる。[77]
PART3 リーダーシップを主題とする6つの変奏曲
  • 指揮には、ルールが守られるように目配りするだけでなく、創造という要素もある。高い次元のメッセージを解釈し、それを伝達する機能だ。さまざまなディテールの総和は、ここの構成要素を足し合わせたよりも大きいだけでなく、質の異なる全体性を帯びるものだ、機械ではなく生き物としての全体性である。オーケストラという生き物は相互依存性と成長という原理に従う。マネジメントにはそれを促す役割があるが、直接コントロールすることはできない。[83]
  • リーダーシップのスタイルは、リーダーの人格の中に宿るものだ。リーダーの発信したメッセージが受け手に届き、心を動かすには、リーダーが本物だと思われることが欠かせない。真実味がなければメッセージは不信感やシニシズムに歪められ、非生産的になってしまう。[88]
第4章 指揮統制/リッカルド・ムーティの場合
  • 指揮者は作曲家の代弁者として唯一無二の権限を持つべきである。奏者たちの自律性を信頼しないがゆえに、ムーティは自らのメッセージを徹底的に明確に伝えなければならないと考える。[96]
  • スカラ座の楽団員は、ムーティとともに楽曲を解釈するパートナーではなく道具のように使われていると感じていた。[113]
  • スカラ座退団後のムーティはなぜ悲劇的なのか。それはムーティがゼロか一かという二元論から脱却できていないから。すべてを指示するか、それができないなら自分は哀れな不要の存在だとカメラに向かっておどけてみせる。3つ目の選択肢「ほかの人々に主体的に行動する力を与えるリーダーシップ」については、いまだに認めることができない。[114]
第5章 ゴッドファーザー/アルトゥーロ・トスカニーニの場合
  • トスカニーニとオーケストラとの関係は、家族的モデルに立脚しており、トスカニーニは自らを「家族における父親」とみて、保護者のような父親的リーダーシップ・スタイルを採った。[118]
  • トスカニーニが叫ぶのは、ひどい音楽から感じる本物の痛みのためであり、それは彼自身と楽団員の共同責任なのだ。[119]
第6章 ルールどおりに/リヒャルト・シュトラウスの場合
  • 主人公は私ではない、とシュトラウスは言う。主人公は作曲家の書いた楽譜である、「ルールどおりに演奏せよ」とシュトラウスは言う。解釈は一切許されない。要求されるのは楽譜に書かれたことを執行するのみである。[135]
  • ルールは安全を保証してくれる。だがそうして得られる安全は本物の安全ではない。長期的な成功や安定につながるはずのイノベーションの妨げになりかねない。ルールは出発点に過ぎない、と考える姿勢が求められる。[147]
第7章 カリスマ的リーダー/ヘルベルト・フォン・カラヤンの場合
  • 「指揮者が明確な指示を与えるほど楽団員にとって有害な行為はない。なぜなら楽団員の注意が自分に向き、ほかの演奏者を無視するようになり、自然な一体感が失われるからだ、明確な指示を与えるのを避けることで、楽団員がお互いの音に耳を傾けるようにしているのだ」(カラヤン)[157]
  • カラヤンはオーケストラに何よりも大切な一体感を自ら生み出す責任を持たせた。上司と部下との間に存在する互いへの責任感に加え、集団内にヨコの相互依存関係を生み出すことで、もう一つの新たな次元の責任感を醸成した。[157]
  • 演奏者のストレスは、演奏者が直面する恐ろしいギャップ、すなわち責任と権限のギャップから生じる。演奏者は適切な瞬間に入るという重責を担っているが、一方適切な瞬間がいつなのか決定する権限は与えられていない。[159]

  • カラヤンが目を閉じてフルート奏者を見ようとしない以上、フルート奏者に残された選択肢はただ一つ、カラヤンの思いを読もうと努力することだけだ。カラヤンの世界においては、真の音楽は彼の頭の中にだけあった。[162]
  • アヴィニョン・フォーラムのコンセプトは文化を社会の中の独立した要素としてではなく、国家の政治および産業の一部として発展させていくというもの。この高邁で困難な目標を達成するには利害、視点、考え方の多様なギャップを超えた協力が必要だ。こうしたギャップを障害から機会へと変える唯一のツールがコミュニケーションである。[164]
第8章 踊るリーダーシップ/カルロス・クライバーの場合
  • クライバーは人を支配するのではなくプロセスを支配するという、開放感のある独特なコントロールの形を生み出した。楽団員はプロセスへの参加を促され、それが協力関係の基盤となった。自由に解釈し、独創性を発揮する裁量の余地を与えられ。そうした意味では解放された。他の指揮者に比べ、楽団員はさまざまなレベルの責任と権限を与えられた。[177]
  • 全員がプロセスに参加している組織の明かなメリットは、失敗への恐怖感が大いに緩和されること。失敗がダイナミックな連続体(プロセス)の一部になると、容易に修正できる一時的な逸脱となり、ときにはイノベーティブに発展していくこともある。[178]
  • 「クライバーとの演奏はジェットコースターに乗っているようなものだ」。リーダーの役割は、常に引力や摩擦に抗いながら、プロセスを始めるのに必要なエネルギーを供給すること。人間本来の惰性を克服するのは、リーダーの能動的な意思力である。[177]

  • クライバーは楽団員を強く信頼していたためメインリスナーとなることができた。そこから途方もない集中力が生まれ、また奏者には仲間の演奏に耳を傾ける自由が生まれる。[180]
  • 直接コントロールの効かない要素を含んでいる機械は扱いが厄介だ。たとえばヨットでは風自体がコントロールのギャップとなる。[181]
  • 他の人々に指示を出すことによってコントロールする場合、もともと存在するギャップの存在を無視しながら対象をコントロールしている。ここではコントロールを受ける側は常に従わないことを選択できる。[182]

  • クライバーはオーケストラが生み出す音楽の流れも、そして奏者たち自身もモノではなくプロセスと見ていた。演奏中のオーケストラは絶え間ない流れの中にいる。だからこそクライバーのオーケストラの一人ひとりの奏者は初めから完全な自律性と自己制御を持ち、それゆえに意欲的で責任感があり、仲間の演奏を聴き、クライバーの指揮の中で認められ誇りに思われていた。[183]
  • 奏者たちが与えられた範囲内での自律的コントロールを楽しんでいただけでなく、クライバー自身も完全なコントロールを握っていた。奏者に対してではなく、彼らそれぞれの貢献を持ち込むスペースに対するコントロールである。そのスペースは指揮者が設計しつづけるもので、連続的な流れの中で奏者が生み出す音と相互作用しながら音楽をつくっていく。[183]

  • 「ここは黒いガラス片を通して日食を見ているときのような音にしてほしい」。こうしたギャップが、それを解釈しようとする奏者たちの心の中でエネルギーを生み出し、うまく消化されて演奏に反映されていく。[184]
  • プロセスは強い熱意を持つステークホルダー全員のエネルギーを使って実行されるべきで、その強い熱意は責任の共有から生まれる。クライバーの場合、責任の共有はリハーサルの中で、一人ひとりの奏者が主体的に解釈し共有することを目的に、音楽を議論しながら行われた。[192]
第9章 意味の探求/レナード・バーンスタインの場合
  • バーンスタインの演奏は「プロセスとしての音楽」の持つ強力なパワーのさらに上を行き、音楽の「意味」を探求しながら個人と集団の成長と解放を促がした。そして私にとって彼は組織を良い方向に変えていくだけでなく、仕事とそこに関わる人々の人生の質を高めていく究極のリーダーの模範だった。[198]
  • バーンスタインは全人格的に創作、演奏、傾聴、作曲,指揮に取り組んだ。この全人格的アプローチこそ、レニーの主要なコミュニケーション・スタイルの特徴で、それは感情的、知的、音楽的、さらには倫理的レベルまでを含めた包括的対話と言えるものだった。[202]

  • バーンスタインは奏者を説得して対話の当事者としての責任を引き受けさせる。「ブラームスのオーボエ・ソロをどう吹くか、私が君に指示することなどできないよ。私ができるのは、それに対する自分の感覚を伝えることだけだ。『甘く!』とかね。それに対して、愛犬への想いとか幼い日々の思い出とか、甘さについて知っている知識をすべて動員して応えるのは君だ。それに加えてブラームスについて、正しい演奏法について、オーボエの吹き方について、君の知っていることもすべて動員してほしい。要するに一式そろえて君の全人生を掛けて、ここをどう吹くべきかという君の考えを伝えてほしい。それに対して私は反応することができる。それがわれわれに必要な対話なんだ」。[205]
  • バーンスタインの対話の中核にあるのが「意味」だ。「なぜ」という問いへの答えである。なぜわれわれはこの曲を演奏するのか。なぜそれに耳を傾けるべきなのか。「なぜ」に応えるのに専門能力はいらない。それは人間の経験全体に関わるものだ。目的、価値観、考えや感情に関わる問いだ。つまり誰もが専門家であり、対話には全員が参画する。[206]

  • 「何を」や「どうやって」の対話は、集団がまとまって効率的に動けるようにギャップを閉じ、解消していく傾向がある。最終的に唯一の建設計画に基づいて川の上に一本の橋が架けられていく。それに対して「なぜ」の対話では、共同作業を実現するためにギャップを閉じて、唯一の「正解」を導き出す必要はない。多様な個人の回答は仲間と共有され、お互いが豊かになれば、集団にとって新たなエネルギー源になる。[207]
  • リーダーの課題の一つは、そのような対話のための文脈と舞台を用意し、100人あまりのオーケストラの構成員とともにそれを上手く実施することだ。演奏者たちがギャップを探求し、生かすためには、指揮者が主題となる比喩を提示する必要がある。それは峡谷を見下ろすための仮設の橋のような役割を果たす。[207]

  • バーンスタインのオーケストラの一員となるには自分の意見を持たなければならない。解放されていなければならない。「解放」という言葉は、自律的行動をする責任を引き受けるという、個人の意思による行動を示唆する。解放は常に自発的だ。リーダーは動機づけを与え、意思を支え、個人が解放という行動を取れるような機会をつくり出さなければならない。[209]
  • 組織とその活動に関わる意味を共有することは、集団の解放に欠かせない条件であり、それなくして組織の潜在力を完全に引き出すことはできない。[210]
  • バーンスタインの対話は、共有の信念に達する手段として、理性と理解を通じてパートナー関係を確立することを目的としている。[211]

  • 一つひとつの対話は、バーンスタインが発見したオーケストラ固有のギャップを解決するためのもので、あらゆるレベルのステークホルダーから最大限の貢献を引き出すことを目的としていた。ただ一つ共通の要素があった。どの対話も、バーンスタインがとことんメインリスナーに徹する中で行われたということだ。[211]
  • 対等な者同士として相手に敬意を払うことは、強力な権限を維持することと矛盾しない。2つの折り合いをつける上でカギとなるのは、パートナーの話や要求や期待に耳を傾け、その上で全員に仕事に取り組むのに最も有用な個人や集団としての優れた資質をフィードバックしてあげる能力だ。それは「評価」することに他ならない。部下があなたの評価を信頼できれば、あなたからの批判も信頼するだろう。[216]

  • バーンスタインは、若者たちに自らを解放する機会を与えた。意味を作り出す土台は与えたが、実際に意味を作りだすのは若者たちの仕事だった。オーケストラは意味を受け入れ、聴衆に向けて投射しなければならない。・・・いまや彼らは探求のパートナーとなった。・・・バーンスタインは、意味を発展させるのにふさわしい比喩を探そうとしているのだった。[223]
  • 「芸術の目的は一時的なアドレナリンの放出ではなく、むしろ生涯にわたる漸進的な驚異や静謐な状態の構築にある」(グレン・グルード)。[228]
  • 「われわれを隔てるのは違いではない。そうした違いを認め、受け入れ、大事にする能力の欠如である」(オードリー・ロード)[232]
  • どんな作品にも正攻法などなく、特定の状況から生じる新たな疑問への一時的な答えがあるだけだ。耳を傾けよ。一つひとつの新たな出会いから新たな解が生まれるのだから。[232]