ダイアローグ190329

指揮者は、その場の“気の塊”を動かしている


[この本に学ぶ]
棒を振る人生 指揮者は時間を彫刻する
佐渡 裕 著
PHP新書(2014年) 


動画配信サイトで「1万人の第九」を検索すると、本書の著者が、1万人の市民合唱団を前に渾身の力を振り絞って指揮する姿がたくさん映し出される。なかでも万感の想い極まれるのは、2011年12月に催された第29回大会。東日本震災の犠牲者への鎮魂の祈りを込めた合唱で、動画の再生回数も200万回に及んでいる。

本書は、バーンスタインの最後の弟子として世界で活躍する著者が、「指揮者とはなにか?」「音楽とはなにか?」という問いを自身に投げかけながら、その答えを、さまざまなエピソードを通じて語り綴ってゆくもの。そんな佐渡に一つの大きな答えを与えてくれたのが、ベートーベンの「第九」であり、またそれを1万人という空前絶後の規模で繰り広げる「1万人の第九」の体験だった。

「第九」には最低限の音しか使われていない。シンプルな石のかけらを緻密に計算しながら、たくさん積み上げて音の大聖堂をつくっている。

僕が気を発すれば発するほど、その気が1万人に吸い取られていく。でも新しい気がどんどん湧いてくる。そしてまた僕が気を投げかけると、1万人からグワッと気が返ってくる。それを受け止めるのがまた大変だ。…お祭り騒ぎだと思っていたイベントが、扉を開けるとまったく違っていた。

1万人の人がただ一括りになって一緒に歌っているのではなく、1年分のドラマを抱えた1万人の主人公たちの存在を感じて、一人ひとりの表情が見えるような「第九」をつくりたいと思うようになった。一人ひとりに力が集まって、まさにこの「第九」はつくられている。だらか合唱には気取ったオペラ歌手のような声はいらない。人間一人ひとりの意志をもった肉声が必要になる。一人ひとりの生命力溢れる声を導き出す必要がある。

音楽とはなにか? この問いに対する佐渡の答えは、さまざまな成功や失敗を通じて次第に焦点を定め、次のような確信へと結び着いてゆく。

生まれも環境も考え方もまったく違う人間がいることを認め合い、それぞれの個性を生かしながら、互いに鳴らす音に耳を傾けて一つの音楽を奏でる。互いの音と思いが重なったとき、心が震え合い、ほかのどこにもない音色が生まれる。

人によって価値観は違い、生き方も異なるが、一緒に生きること、それをよろこびとすることが人間の誇りだと思う。音楽はそのことを体感によって教えてくれるし、それが音楽をする本来の意味だと思う。

「オーケストラは集団で響きをつくる。そのためには互いの音を聴き合わなければならない。音楽が一つの世界をつくるためには、みんなの心が一つの方向に向かう必要がある」。この原理は、オーケストラに限らず、すべての組織に通ずるもの。稀代のマエストロが辿り着き、本書を通じて語り明かしてくれるその境地は、私たちに多くのことを示唆してくれる。「指揮者とはなにか?」「音楽とはなにか?」の極意は、また同時に「リーダーとはなにか?」「人間とはなにか?」の極意とも言えるからだ。

指揮者は指揮することで、その場の“気の塊”を動かしている。究極の指揮法というのは、気のコントロールだ。音とは単に空気の振動だ。その音が人の思いで鳴っているとき、それは音楽になる。指揮者とオーケストラの気が完全に一体化しているとき、指揮者は腕を動かす必要はなくなる。





第1章 楽譜という宇宙
  • 音楽は、言ってみれば、記号でしかない楽譜を、具体的な空気の振動に変えることで、人々に感動を与えることができる芸術である。[19]
  • 楽譜は建築でいえば設計図のようなものだ。[21]
  • ヨーロッパに行って、僕が得たいちばんの大きな発見は光だった。[25]

  • 「キャンディード」のエンディング曲「Make Our Garden Grow」は「私たちは純粋でもないし、賢くも良い人でもない。できることを一生懸命やるだけだ。家を建てて、薪を割って、庭を耕すことだ」と歌う。僕らの世界、僕らの人生はドミソ以上に神々しくもなければ、汚れてもいない。このシンプルな和音が私たち人間の音なのだと、バーンスタインは言いたかったのだと思う。[32]
  • 指揮者に求められるのは誰かの物まねではない。ただ音が鳴っているだけではなく、その音がどれだけ自分の音になっているか、どれだけ自分の体の一部になっているかが問われる。[37]
  • 楽譜を読む、作品を理解する、音楽を自分のものとする、という行為はそんなふうに、自分の無意識をも含む全人的な体験をもとになされる。[41]

  • 指揮者が指示したことを、演奏者たちに自らの意志でどうやりたいと思わせるか。must(しなければならない)からwant(したい)にどう変えるか。それには、瞬間瞬間に状況を判断し、さまざまな切り口から臨機応変に対応する姿勢が求められる。[43]
  • 楽団員に目指すべき音楽をつくり出そうとする意欲を与えることができなかった。それは僕がドイツというクラシック音楽の伝統の前に恐れをなしていたからでもあった。[50]
  • どんな事情があろうが聴衆の期待は裏切れない。それは指揮者のプレッシャーともなり、醍醐味でもあるのだから。[51]

  • 指揮者には、オーケストラという共同体のリーダーであるという自覚が必要になる。その意味で、どこかで演じなければいけない部分もあるのも事実だ。[55]
  • 我々音楽家の目的と幸せは、いい音楽をつくることだ。自分の思いを伝えるために音楽をするわけではない。楽譜がそう語っているならば、楽譜がそれを求めているのならば、僕はオーケストラに何でも言えるし、何度でも同じことを要求する覚悟はある。楽譜がまずある。それが指揮者と演奏者を近づける。だから楽譜は指揮者とオーケストラの共通言語なのだ。[56]
第2章 指揮者の時間
  • 指揮者はオーケストラが鳴らす音を聴きながら、常に3つのことを同時に判断していなければならない。①これから何を鳴らすかという指示、②どこに行くかという方向性を与える、③実際にどういう音が鳴ったという過去を知らなければ、次につくる音楽が組み立てられない。未来と現在と過去、この3つを瞬時に耳で判断する。この3つが入り組んで、音に酔ってしまうと、いい音楽はつくれない。[65]
  • 自分の中に立ちあがったイメージをオーケストラに伝えるとき、言葉にして伝えることがとても大切になる。「一人の貴婦人を舞踏会にエスコートするときに、指揮者の僕が差し伸べた手の上にそっと女性の手が重なってくる。手が重なったその瞬間に音を鳴らしたい」。そんなふうにオーケストラに伝える。[67]
  • ヴァイオリンには、こちらが静かに合図を出したら、いつ出てもいいと指示している。弦が出るタイミングをこちらが出してしまうと、オーケストラは想像することをやめる。わかりやすく言うと、「せーのー、はい!」とタイミングを出すとところを、指揮者が「セー」だけを言う。「のー」は、演奏者みんなが自分の中で感じとり、それぞれに始める。集中して丁寧に。[67]

  • ここで大事なのはオーケストラの想像力だ。だからこそ指揮者はオーケストラの想像力を呼び起こすように、イメージを言葉で表現して伝える必要がある。[67]
  • 演奏会はサーカスの綱渡りに似ている。綱を渡るパフィーマーが落ちてしまっては困るが、絶対位落ちないとわかっていてもつまらない。落ちそうで落ちない、サーカスの面白さは、そのハラハラドキドキのスリリングな緊張感にある。[72]
  • 指揮者はオーケストラに綱渡りをさせているようなもの。それは緊張と緩和のコントロールとも表現できる。桂枝雀師匠の笑いの「緊張と緩和」論にも通じる。つまり「場の雰囲気が緊張してしているときに、その緊張をふっと緩和させてやると笑いが生まれる」。[73]

  • 指揮者とオーケストラの勝負がデッドヒートを演じ、僕の能力が全開して針が振り切れた状態になる。それが僕の言う「ハチキレ感」に満ちた演奏だ。僕の発するパワーにストップがかからずに、レッドゾーンに入るほど集中して生き生きとしている状態である。[73]
  • いい音楽は音楽家自身の体のすみずみまで浸透していく。より本質的なことは筋肉が音に対して驚いたりよろこんだり恐怖を感じたりすることだ。頭で音符を理解することも大事だが、音楽は体が欲していなければならない。[74]
  • 客席から指揮を通して譜面が見える、作曲家が求めている音楽がわかる。[77]

  • 指揮者は指揮することで、その場の“気の塊”を動かしている。究極の指導法というのは、気のコントロールだ。音とは単に空気の振動だ。その音が人の思いで鳴っているとき、それは音楽になる。指揮者とオーケストラの気が完全に一体化しているとき、指揮者は腕を動かす必要はなくなる。[78]
  • そこで忘れてはならないことは、演奏される音楽を聴く聴衆がいてこそ、ホールの中の気が十全に巡るということ。舞台から客席に送られるのは音だけではなく、一種のエネルギーであり、それは客席から舞台に向かっても送られる。[79]
  • カラヤンの腕の中にはカラヤンのイメージする「理想のオーケストラ」がある。演奏者は、カラヤンの腕の中にある理想のオーケストラを自分で想像して演奏することを求められる。[82]

  • バーンスタインは、「名前の付いた音」を大切にして音楽をつくっていく。[83]
  • 普通の人間にはできない技をとても美しい流れで見せた瞬間、それは「芸術」と呼ばれる。[99]
  • 僕自身は自分のことを「音楽を扱う職人」だと思っている。楽譜という設計図をもとに、なかなか思い通りにはならないヴェイオリンやフルートの専門家たちを動かして、地道に音を組み立てていく。その作業はむしろ現場監督の仕事に近い。[99]
  • その僕がオーケストラに向かうときに心掛けている姿勢は、音楽に対して誠実であるという一点に尽きる。演奏家たちと誠心誠意、向き合っていく。[99]
第3章 オーケストラの輝き
  • 最初のリハーサル(ファーストコンタクト)で、指揮者は曲に対する独自の解釈と統率力を示さなければならない。そこで最も重要なのは、曲に対する自分のイメージを演奏家に伝えるコミュニケーションのあり方だ。[111]
  • ベルリン・フィルのメンバーたちは、楽譜に書かれていない“行間”を指揮者がどう捉え、どんな音楽をつくっていくのかを知ろうとした。僕が自分のイメージを伝えると、それが何十倍にも増幅されたすごい音が返ってくる。そして、あるパートに「こういうイメージで」と一つ指示を出すと、次はそれをオーケストラ全体がバーンと膨らませてくる。すると、一つの指示が二つ目、三つ目の指示を同時に解決する。[115]
  • 時という川の流れの中で、人の一生とはこの世に生を享けて、やがて消えてゆく小さな波のようなものだ。人のいのちだけでなく、音のいのちもまた生まれては消えてゆく。それを繰り返して音楽ができる。だから、音楽をすることは、いのちを扱っているようなものだ。音楽もまた時間の中にある。[127]

  • オーケストラを含めて会場にいる2500人ほどの人間が、音のためだけにそこに向かっている。そこにいる人間のすべてが最高の音を味わうためだけに存在していて、途中から涙が止まらなくなった。最後の重厚なティンパニの音が響いたその瞬間に、僕は祈りのポーズをとっていた。[129]
  • 五角形のホールの真ん中に立って指揮をしているうち、聴衆や楽団員が指揮者に何を求めているのか、僕はようやく気がついた。それは、ただ音楽のためにそこにいればいいということだった。[130]
  • 楽団員たちがはっきり示したのは、音楽のためなら何でもするという音楽家としての献身的な態度だった。彼らは音楽に仕える人間であり、そのことに誇りを持つ人たちだった。僕はただ、音楽をつくる幸福感の中にいた。[130]

  • 地元のママさんコーラスや女子高の吹奏楽団の指揮者をしていた20代のころ、練習に行くだけで幸せだった。同じよろこびが、世界最高峰とされるオーケストラでも得られるかどうか。それが僕の夢であり、挑戦だったのだ。上手に演奏するだけのベルリン・フィルなんてつまらないではないか。[131]
  • あのとき得た幸福感をこれからどんな場所で追い求めていくのかが楽しみだ。[132]
第4章 「第九」の風景
  • 音楽は何のためにあって、人間はなぜ音楽を求めるのか。そんな僕の問いに一つの答えをくれたのは、ベートーベンの「第九」だった。[134]
  • 「第九」には最低限の音しか使われていない。シンプルな石のかけらを緻密に計算しながら、たくさん積み上げて音の大聖堂をつくっている。[143]
  • ニ短調がなぜ「死」を意味するのか。長調を構成する音に人間が等しく明るさを感じるように、人類が自然の中で本能的に感じるとるものがある。調性の意味は、そんなふうに自然と密接にリンクして決まっていると思う。[144]

  • 1万人に自分の思いを伝えるためには、自分の中に強固な核をもっていなければならない。夢中で音楽と向き合っているか。理想の音をつくろうとしているか。その確信とともに、自分の思いを伝える飾りのない言葉、シンプルな表現が必要になる。[153]
  • 僕が気を発すれば発するほど、その気が1万人に吸い取られていく。でも新しい気がどんどん湧いてくる。そしてまた僕が気を投げかけると、1万人からグワッと気が返ってくる。それを受け止めるのがまた大変だ。…お祭り騒ぎだと思っていたイベントが、扉を開けるとまったく違っていた。[154]
  • 1万人の人がただ一括りになって一緒に歌っているのではなく、1年分のドラマを抱えた1万人の主人公たちの存在を感じて、一人ひとりの表情が見えるような「第九」をつくりたいと思うようになった。一人ひとりに力が集まって、まさにこの「第九」はつくられている。だらか合唱には気取ったオペラ歌手のような声はいらない。人間一人ひとりの意志をもった肉声が必要になる。一人ひとりの生命力溢れる声を導き出す必要がある。[157]

  • 本当に大切なことは、小さな子どもからおじいちゃん、おばあちゃんまでが一緒になって音楽をつくるということだ。一緒に音楽をつくりながら、ここで生きているということだ。[159]
  • それまでは、いい音をつくり、多くの人によろこんでもらえるところに感動が生まれ、それが音楽の醍醐味だと思っていた。しかし今は、音楽とは人と人が一緒に生きていることによろこびを感じる証であり、だからこそ人は本能的に音楽を求めるのだと思っている。[167]
  • 小学生のとき、教室で僕が「タイガーマスク」の主題歌を縦笛で吹くと、クラスじゅうが弾けるような勢いで沸き立った。教室を満たした無条件の楽しさ、まぶしいような幸福感。僕はあのときから音楽が本質的に持つよろこびを知っていたのだ。[168]
第5章 音楽という贈り物
  • バーンスタインが生前、僕について語った言葉。「ジャガイモをみつけた・・・」。この言葉を繰り返し自分の胸に刻んできた。[171]
  • バーンスタインは音楽のよろこびの種を世界中にまいた。[173]
  • 音楽を通した教育を考えたとき、僕の中にあるイメージは、音楽に夢中になっている大人がいて、それを見つめている子供がいる。そして一緒に挑戦したり一緒に緊張しながら一つの音楽をつくっていく、そんな光景だ。[176]
  • 大人の心が動いていなければ、子どもの心は動かない。例えば父親が夢中になっている姿を見れば、子どもたちは自然に音楽に興味を持つようになる。大人は子供に素敵な音を与えるのではなく、その存在に気づかせてあげるだけでいい。[177]

  • クラシックは以前より身近な存在になった。しかし、矛盾するように聞こえるかもしれないが、あがめたてまつるに値する神々しい世界が音楽にはある。音楽のよろこびは神様が人間に与えてくれたものだと思う。人間はなんとすばらしい感性を自らの中に宿しているのかと思う。[87]
  • 生まれも環境も考え方もまったく違う人間がいることを認め合い、それぞれの個性を生かしながら、互いに鳴らす音に耳を傾けて一つの音楽を奏でる。互いの音と思いが重なったとき、心が震え合い、ほかのどこにもない音色が生まれる。[191]
  • 人によって価値観は違い、生き方も異なるが、一緒に生きること、それをよろこびとすることが人間の誇りだと思う。音楽はそのことを体感によって教えてくれるし、それが音楽をする本来の意味だと思う。[212]
終章 新たな挑戦