ダイアローグ190125

世の中の人がもっと自由に生きられるように


[この本に学ぶ]
『100分de名著 スピノザ「エチカ」
國分功一郎 著
NHK出版(2018年) 


オランダの哲学者であるスピノザ(1632-1677)。私たちが今日、この17世紀の思想家に学ぶことの意味はどこにあるのか? 本書の著者は次のように語る。

現代社会は、近代の選択した方向性の矛盾が飽和点に達しつつある社会だと思います。そんな社会を生きる私たちにとって、選択されたなかったもうひとつの近代の思想であるスピノザの哲学は多くのことを教えてくれます。近代のこれまでの達成を全否定する必要はありません。しかし反省は必要です。スピノザはその手助けをしてくれるのです。

17世紀という歴史の大きな転換点にあって、私たちの先達が「選択した近代」とは、近代国家という制度を基盤に、デカルトの哲学やホッブスの政治思想といった新しい思想をインフラとして構築されたもので、それらが、今日に至る私たちの社会を大きく規定している。なかでも最も大きな影響を及ぼしているのがデカルトで、私たちは、いわば知らず知らずのうちにデカルト的な視点と方法とによって物事を捉え、考えるように習慣づけられてしまっているわけだ。

そして問題は、そのようにして築かれてきた「近代」が、実は多くの矛盾を抱えるものであり、それらの矛盾が今日「飽和点に達しつつある」というところにあるわけだが、それに対してスピノザの思想は、「選択されたなかったもうひとつの近代の思想」と位置づけられるもの。いわばデカルトとは正反対の方向を向いたもの、と理解することができる。

スピノザの思想の具体的な内容は、完璧なまでに“デカルト頭”となってしまった私たちには簡単には理解しがたいものだが、次の一文にはそのエッセンスが凝縮されているので、ちょっと長いが引用してみると――。

自由であることは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。

もちろんそれを考えるためには、これまでも強調してきた実験が必要です。実験をしながら、自分がどのような性質のコナトゥスをもっているかを知らなければなりません。その際、自分がどんな歴史を生きてきて、どんな場所、どんな環境の中にいるかを知ること、すなわちエソロジー的なエチカの発想も大切になるでしょう。スピノザの哲学の全体像が人間の自由に向かって収斂していくことがよく分かると思います。

ここに登場する「自由」「能動」「原因」「力」「実験」「コナトゥス」「エチカ」といった概念は、すべてスピノザが独自の解釈で定義した、我々の常識とは大いに異なるものであり、それゆえに上記の引用文を理解するためには、それぞれの言葉の意味と使い方をまず理解する必要があるわけだが、ここで私が言いたかったのは、こうした言葉の解釈・定義は、ことごとく深遠な洞察に基づく“眼からウロコ”ものであり、さらにはその全体が見事なまでに整合的に体系化されている、ということ。「なるほど!」と膝を百回叩かずにはいられない。

上記の引用文にもあるように、スピノザは「世の中の人がもっと自由に生きられるように」と願って『エチカ』を書いたという。スピノザが示した「もっと自由に生きる」ための方法は、決して容易く理解できるものとは言えず、これまでもっぱら「難解」のレッテルが貼られてきたが、本書の著者は、その肝となる概念を「善意」「本質」「自由」「真理」の章立てのもと、とても易しく解き明かしてくれる。そして最後に、次の言葉で本書を結ぶ。「ここまで学んできた概念が皆さんを少しでも自由にしてくれることを私も心から願っています」。





第1回 善悪
  • 真理を追究しようとする立場は、必ずしも世間の人々を喜ばせない。それどころかきわめて強い反発すら生み出す。
  • 汎神論: 神は無限である。神には外部がない。すべては神の中にある。
  • 神即自然: 神すなわち自然は外部を持たないのだから、他のいかなるものからも影響を受けることがない。つまり、自分の中の法則だけで動いている。
  • 道徳と倫理: 道徳は、超越的な価値の判断基準を上から押し付けてくるもの。倫理は、自分がいる場所に根ざして生き方を考えていくこと。
  • 完全と不完全: それぞれの個体はただ一つの個体として存在しているにすぎない。それぞれがそれ自体の完全性を備えている。つまり、すべての個体はそれぞれに完全なのだ。

  • 自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しない。あるのはただ「組み合わせとしての善悪」のみ。
  • 善と悪: 我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるもの、言い換えれば、我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。私にとって善いものとは、私の「活動能力を増大」させるもの。「より小なる完全性から、より大なる完全性へと移る」もの。
  • 何と何とがうまく組み合うかは、あらかじめ分からない。→スピノザの倫理学は「実験すること」を求める。
  • 感情は喜びと悲しみの2つの方向性をもっている。より大なる完全性へと移る際には、我々は喜びの感情に満たされる。
第2回 本質
  • コナトゥス: 個体をいまある状態に維持しようとして働く力のこと。恒常性(ホメオスタシス)の原理に近い。あるものが持つコナトゥスという力こそが、その物の「本質」である。
  • 本質: 古代ギリシアの哲学は、「本質」を基本的に「形」ととらえていた。それに対しスピノザは、各個体が持っている力に注目した。物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えた。
  • 変状: 変状とは、ある物が何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びること。変状する力は、コナトゥスを言い換えたもの。
  • 欲望: 私の本質は、aという茂樹によって、Aという状態になることを「決定」される。そしてそのAという状態は私に、「あることをなす」ように働きかける。この働きかけが「欲望」。
  • エソロジー: 生態学、動物行動学。生物がどういう環境でどういう行動を示して生きているか、つまり具体的な生態を観察し、記述するという研究方法をとる。=スピノザの考え方に通ずる。

  • 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるものは、人間にとって有益である。これに反して身体のそうした適正を減少させるものは有害である。
  • 私たちは「身体が何をなしうるか」を知らない。また「精神が何をなしうるか」もよく分かっていない。
  • 自殺: 何人も自己の本性の必然性によって食を拒否したり自殺をしたりするものでなく、そうするのは外部の原因に強制されてするのである。
  • 実体: 神は自然であるだけでなく「実体」とも呼ばれる。実体とは、実際に存在しているもの。神は唯一の実体であり、神だけが実際に存在している。私たちは、神という実体の変状である。神の一部が、一定の形態を帯びて発生するのが個物である。
  • 様態: 私たちを含めた万物は、それぞれが、神が存在する様式である。個物は神が存在する仕方であり、その存在は様式なのだ。

  • 表現: それぞれの個物はそれぞれの仕方で、神が存在したり作用したりする力を表現していると考えることができる。個物が神の力を表現しているということは、自然の中で働いている「自然法則」という力を表現していることになる。「個物、すなわち様態は、名詞ではなく副詞のようなもの」(ジョルジョ・アガンベン)
  • 心身並行論論: デカルトは精神と身体を分け、精神が身体を操作していると考えた(心身二元論)。これに対してスピノザは、精神と身体で同時に運動が進行すると考えた(心身並行論)、
  • 属性: 神という実体が変状して様態が生まれる。その様態は思惟の属性においても存在するし(たとえば人間の精神)、延長の属性においても存在する(たとえば人間の身)。神は思惟と延長の2つの属性だけでなく、無限に多くの属性からなっている。
  • コナトゥスと社会: コナトゥスが働いて活動能力が増大するのは、組み合わせがうまくいくとき。社会であれば、人と人とがうまく関係を築いているとき。そうした時、人は自由である。そのような自由な人たちは、互いに助け合い、偽りの行動を避け常に信義をもって行動し、国家の共通の法律を守ることを欲する。コナトゥスは自分本位の原理だと考えるのではなく、人々が共同で安定して暮らしていくためには一人一人のコナトゥスを大切にすることが必要だと考えねばならない。
  • 反復的契約説(⇔一回性の契約説): スピノザは確かに契約説の立場をとっているが、「一度きりの契約」という考え方はしない。毎日、他人に害を及ぼすことがないよう、他人の権利を尊重しながら生活すること、それこそが契約であり、一つの国家の中で互いに尊重し合って生活していく。それによって契約はいわば、毎時、毎日、更新され、確認されている。
第3回 自由
  • 自由とは: 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されるといわれる。
  • 実験の必要性: その人の身体や精神の必然性は本人にもあらかじめ分かっているわけではない。誰もがそれを少しずつ「実験」しながら学んでいく必要がある。だから、人は生まれながらにして自由であるわけではない。人は自由になる、あるいは自らを自由にするのである。
  • 強制とは: 自由の反対の概念が「強制」。強制とは、その人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押しつけられている状態。その人に与えられた条件は、その人の本質に結びついている。ゆえに、強制は本質が踏みにじられている状態といえる。
  • 自由と不自由: 不自由な状態、強制された状態とは、外部の原因に支配されていること。自由であるとは、自分が原因になること。人は自由であるとき、また能動でもあることになる。
  • 原因と結果: 原因は、結果の中で自らの力を表現する。神という原因は、万物という結果において自らの力を表現している。

  • 能動と受動: 私は自らの行為において自分の力を表現しているときに能動である。逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現しているとき、私は受動である。
  • スピノザ哲学と「人間の自由」: どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作りだせるのか。そのためには、実験をしながら、自分がどのような性質のコナトゥスを持っているかを知らなければならない。その際、自分がどんな歴史を生きてきて、どんな場所、どんな環境の中にいるのかを知ること、すなわちエソロジー的なエチカの発想も必要となる。このようにして、スピノザ哲学の全体は自由に向かって収斂していく。
  • 行為における表現は決して純粋ではない。純粋に私の力だけが表現されうるような行為を私が作り出すことはできない。つまり私は完全に能動的になることはできない。スピノザはいつも「度合い」で考える。完全な自由はありえない。が、自由の度合いを少しずつ高めていくことはできる。

  • 意志と行為: 「意志の自由」を否定したら人間がロボットのように思えてしまうとしたら、それは人間の行為をただ「意志」だけが決定していると思っているから。行為は実際には実に多くの要因によって規定されている。行為は多元的に決定されているのであって、意志が一元的に決定しているわけではない。
  • 意識と行為: 意識とは「観念の観念」。観念について観念が作られること、言い換えれば、ある考えについて考えが作られること。観念に対するメタレベルであり、観念に対して派生的、二次的なもの。行為はさまざまな複数の要因によって多元的に決定されるが、意識もその要因の一つ。人間の精神の特徴の一つは、意識を高度に発達させ、それよって自らの行為を反省的に捉えることができるようになった点にある。
  • 意志教: 現代社会は「意志教」のようなものを信仰しているのではないか。意志というのは「無からの創造」であり、それは合理的に説明できないもの。意志の概念は信仰の中で発見されてきたもので、つくったのはパウロやアウグスティヌスらのキリスト教哲学者であったとアレントは言う。
第4回 真理
  • デカルトの真理: デカルトは「我思う、ゆえに我あり」を第一真理とし、それを足掛かりに哲学を構築した。デカルトの真理は、その真理を使って人を説得し、ある意味では反論を封じ込めることができる、そういう機能を備えた真理といえる。
  • スピノザの真理観①: 真理の基準を真理の外に設けることはできない。真理そのものが真理の基準とならなければならない。そして何が真かを教えるものは、何が偽であるかも教えてくれるだろう。
  • スピノザの真理観②: 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。これはつまり、真の観念を獲得していない人には、真の観念がどのようなものであるかは分からない。
  • 私たちは物を認識することによって、単にその物についての知識を得るだけでなく、自分の力をも認識し、それによって変化していく。スピノザにおいて、真理の獲得は一つの「体験」として捉えられている。

  • デカルト的契機: かつて真理は体験の対象であり、それに到達するためには主体の変容が必要とされていた、デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象となってしまった(ミッシェル・フーコー)。
  • 科学はとても大切なもの。ただ、それが扱える範囲はとても限られている。
  • AI: 人間の知性の重要な機能に想像力がある。想像力には他者感覚が必要。AIには「自分」がないため他者感覚を持ちえない。AIは欲望を持つこともできない。ゆえにコナトゥスもない。そのような存在にはとても人間の代わりは務まらない。
  • 現代社会は、近代の選択した方向性の矛盾が飽和点に達しつつある社会。そんな社会を生きる私たちにとって、選択されなかったもうひとつの近代の思想であるスピノザの哲学は多くのことを教えてくれる。
  • スピノザは世の中の人がもっと自由に生きられるようにと願って『エチカ』を書いたのだ。