ダイアローグ190119

“本当の充足”はいかに得られるか?


[この本に学ぶ]
『完全なる経営
アブラハム・マズロー 著
日本経済新聞出版社(2001)年) 


「この上ない安らぎや本当の充足」を得るためにはどうすれば良いのか? この永遠の課題に、人間性心理学の生みの親とされるアブラハム・マズローが真正面から取り組んだ名著『完全なる経営』。原題の「Maslow on Management」が示すように、心理学者であるマズローが「マネジメント」について語った、唯一の貴重な著作と位置づけられる。
マズローといえば、すぐに思い出すのが、あのピラミッド状の「欲求階層説」とその最上位概念である「自己実現」の欲求。本書も、この「欲求階層説」をフレームワークとして用いながら、頭書の課題を解き明かしていくものだが、本題に入る前に、この著名なフレームワーク、とりわけ「自己実現」に概念については、多くの誤解が広まっていると思われるため、まずその点を簡単に正しておくと――。

実は私自身もこの本に出合うまでは、「自己実現」とはてっきり、いわゆる「成功哲学」のような野心的なものと思い込み、これまでまったく関心を抱かずにきたのだが、それは大きな誤解だった。というか、浅薄な成功哲学とはむしろ対極をなす実に深遠な概念であり、その究極のあり様は東洋思想の「無我」にも通ずるもの、と著者はいう。少し長いが引用すると――。

仕事を通じての自己実現は、自己を追求しその充足を果たすことであると同時に、真の自我とも言うべき無我に達することでもある。自己実現は、利己―利他の二項対立を解消するとともに、内部―外部という対立をも解消する。なぜなら、自己実現をもたらす仕事に取り組む場合、仕事の大義名分は自己の一部として取り込まれており、もはや世界と自己との区別は存在しなくなるからである。内的世界と外的世界は融合し、一つになる。同じことは、主観―客観の二分法についても当てはまる。

そして「自己実現」を次のように定義する。

この上ない安らぎを得たいのであれば、音楽家は曲を作り、画家は絵を描き、詩人は詩を詠む必要がある。人間は自分がそうありうる状態を目指さずにはいられないのだ。こうした欲求を自己実現の欲求と呼ぶことができよう…。それは自己充足への欲求、すなわち自己の可能性を顕在化させようという欲求、なりうる自己になろうとする欲求である。

頭書の課題に即していえば、“本当の充足”を得るために必要となること、それこそが「自己実現」だということになる。

上記の理解を前提に、さて本題に入ると、マズローは本書を通じて、心理学の知見を基に導きだした「経営」に関する独自の構想である「ユーサイキアン・マネジメント」を、終始確信に満ちた論調で主張する。ユーサイキア(eupsychia)とは、「精神的に健康で実現可能な理想郷(ないところを意味する「ユートピア」ではなく)ことを指すマズローの造語で、したがって、ユーサイキアン・マネジメントとは「働く人びとが精神的に健康でありえるためのマネジメント」という意味になる。

それは、人間という存在を徹底的にポジティブな視線で捉えることを基本とするものであり、マズローは、ユーサイキアン・マネジネントの実践たる「進歩的な経営管理」を、次のような人間観の上に構想する。

人間のあらゆる好ましい性質は、少なくとも生まれた時点ではだれにでも備わっており、その後次第に歪んだり失われたりするということも考えられる。そうなると、人間の邪悪な面は後天的なもの、あるいはその人物が受けた不当な扱いに対する反動によって生み出されたものだと言える。

真の問題は「何が創造性を育むか」ではない。誰もが創造的とは限らないのは一体なぜなのか、ということだ。創造し革新するのが人間の本来の姿であるから、組織の成員を変えようとするよりも、創造や革新を阻む組織内の要因を探ったほうがよい。

つまり、人間は、そしてその集合体たる組織や社会は、人間の本来の姿を阻害する要因が取り除かれれば、おのずと「自己実現」をめざす方向へと歩もうとする創造的な存在であり、そうした創造的な営みの結果“本当の充足”が得られるようになる、というのである。

翻って、私たちが生きる現代社会を眺めるに、“本当の充足”は、マズロー(1908-1970)が生きた時代以上にずっと得づらいものになっているのではなかろうか。それは「欲求階層説」の成り立ちがもつ、以下のような性質からも明らかだと言えよう。

「欲求階層説」のピラミッドは、①生理的欲求、②安全の欲求、③所属と愛の欲求、④他者からの承認と自尊心の欲求、⑤自己実現の欲求、の5階層から成るが、これらの欲求は上位の階層に行けば行くほど「貨幣経済」とは縁遠いものになるとマズローは言う。再び本文を引用すると――。

基本的欲求の階層を上昇するにしたがって、欲求にかける費用は少なくなることに気づくはずだ。そうして、最も上位の階層に至ると、ほとんど無料と言っていいほどになる。言い換えると、より高次の欲求、つまり、所属の欲求、愛情や友情を求める欲求、尊敬されたいという欲求、自尊心を確立したいという欲求などは、いずれも貨幣経済の枠外にあるということだ。どんなに貧しい家庭であっても、衣食住が確保されていさえすれば、こうした高次欲求を満たすことは可能なのである。

衣食住に関わる基本的な欲求(①生理的欲求や②安全欲求)はそれほど苦労することなく充足されるようになった現代、人々の欲求はより高次なものへと向かっている。つまり物質的なものから精神的なものへとシフトしており、この流れは不可逆的なものとなっている。

ところが、だ。皮肉にも、その物質的満足を支えているのは貨幣経済に他ならず、そうした「貨幣化」のさらなる進展にともない、より高次の欲求を支えるはずの非貨幣的基盤は、ほとんど壊滅の危機に瀕している――というのが、私たちが生きるこの社会であり、両者のギャップの拡大こそが、“本当の充足”をますます困難にしている構造的要因だといえよう。

ユーサイキアン・マネジメントに基づく「進歩的な経営方針」。その意味をマズローは次のように位置づけて、私たちに、未来の職場のあるべき姿をどこまでも熱く語り掛けてくれる。

進歩的な経営管理方針が目指すものは、高次の欲求の充足に他ならない、進歩的な経営管理方針とは、職場において非金銭的な方法で高次欲求を満たそうとする試み、すなわち、人間が本来備えている高次欲求を満たすよう職場を整える試みと定義することもできる(金銭を与え、高次欲求を満たすものは職場の外で購入しろという姿勢ではないのだ)。


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新版への序文――37年後に
  • 本書の至る所に顔を出す道徳上の2つの難問: ①人間の本性はどれほど優れた社会を築きうるのか、②社会はどれほど人間性を高めうるのか
  • マズローは常々、科学の究極の目的は「むりやりにでも真実を伝えること」だと考えていた。宗教的、神秘的、超自然的なものを自然的なものに変えること、これがマズローの成し遂げたことであった。マズローは2つの大切なことを教えてくれた。人間としてより完全に近づく方法や科学と、精神の民主化である。
第一版への序文
  • ユーサイキア: 「よい心の状態」。千人の自己実現者が外部からいっさい干渉を受けない島に暮らした場合に生まれる文化と定義。この言葉は、現実的な可能性や向上の余地といった概念のみを包含する。
  • ユーサイキアは、「心理学的な健康を目指す動き」「健康志向」という意味も持っている。また健康を増進するような精神状況や社会状況を言い表すための言葉でもある。さらには理想上の到達点、つまり治療や教育、仕事等の目指す究極の目標という形で理解することもできる。
はじめに
  • 言葉はどれも、人間およびその人の未開発の潜在能力こそが問題の核心であるという事実を覆い隠してしまうものなのだ。人々は、潜在能力の開発を支援してくれない組織の中で、実に多くの時間を過ごしている。
義務、仕事、使命に対する自己実現者の態度
  • 個人の成長という観点から見た場合、企業は自律的な欲求充足に加えて、共同体的な欲求充足をもたらすことが可能であり、この点において個人的心理療法に優っている。これまで私は、創造的教育は単に個人を発達させるものではなく、共同体やチーム、組織などを通じて個人の成長をもたらすものだと考えてきた。現在では、創造的経営も同様の効果があると考えている。
  • 第三勢力の心理学(人間主義心理学)が何であるかは、以下の有名な一節の中で簡潔に表現されている。「この上ない安らぎを得たいのであれば、音楽家は曲を作り、画家は絵を描き、詩人は詩を詠む必要がある。人間は自分がそうありうる状態を目指さずにはいられないのだ。こうした欲求を自己実現の欲求と呼ぶことができよう…。それは自己充足への欲求、すなわち自己の可能性を顕在化させようという欲求、なりうる自己になろうとする欲求である」
自己実現、仕事、義務、使命に関する追記
  • 自己救済: 救済を求める人は利己的で、他人や社会に対して何の貢献もなしえない。まじめに働くこと、自分に運命づけられた「天職」を何としてもやり遂げようとすること、それが救済につながるのだ。救済とは、自己実現をもたらす仕事や義務の副産物である。
  • 幸福: 幸福とは、何かにともなって生じる状態であり、副産物なのだ。直接求めるものではなく、善き行いに対して間接的に与えられる報酬なのである。私の知る幸福な人々は、いずれも、自分が重要とみなす仕事を立派にやりとげている人々である。彼らにおいては、メタ欲求(B価値)によるメタ動機づけが生じており、それが重要で価値ある仕事に対する献身や専心、仕事との同化という形で示されていた。
  • 仕事を通じての自己実現は、自己を追求しその充足を果たすことであると同時に、「真の自己」とも言うべき無我に達することでもある。「自己実現」は、利己―利他の二項対立を解消するとともに、内部―外部という対立をも解消する。なぜなら、自己実現をもたらす仕事に取り組む場合、仕事の大義名分は自己の一部として取り込まれており、もはや世界と自己との区別は存在しなくなるからである。内的世界と外的世界は融合し、一つになる。同じことは、主観―客観の二分法についても当てはまる。

  • D動機(欠乏動機): 何かが自分に欠けているから、たとえば、食物や安全や愛が欠けているから、それを埋め合わせたいという気持ちによって人を動機づけること。
  • 価値ある大義や重要な仕事と一体化し、それを自己の内部に取り込むことによって、自己を増大させ、その価値を高める。こうすれば、知能、才能、技能などが現実には不足していても、それを補うことができる。この体制が、創造的でない人を創造的に、知的でない人を知的に、矮小な人間を偉大に、有限な人間を永遠で広大無辺な存在に変えるのである。
  • 真の問題は「何が創造性を育むか」ではない。誰もが創造的とは限らないのは一体なぜなのか、ということだ。創造し革新するのが人間の本来の姿であるから、組織の成員を変えようとするよりも、創造や革新を阻む組織内の要因を探ったほうがよい。

  • X理論では、責任や仕事を義務であり、世間の道徳的意識や「~すべし」という意識に強要されて不本意ながら受けた重荷だとみなされている。これに対し、理想的な環境の下では、人間は配偶者を選ぶときのような歓喜と熱意に包まれて、おのれの運命を受け入れる。このようにして運命に従った状態(降伏状態)は、二人の人間が抱き合って一体化した状態にたとえられる。能動と受動の対立は克服され解消される。同様に、欲することと身を任せることの対立も解消される。外的な決定要因に思えたものが、実は自分の意志に他ならないことを理解する。
  • 仕事が自己に取り込まれている場合、自尊心と仕事との関係は密接なものとなる。特に、健全で安定した自尊心(自分に価値があるという意識。誇り。自分は影響力のある、重要な存在だという感覚)を持てるかどうかは、りっぱな価値ある仕事を自己の内部に取り込み、自己の一部にできるかどうかにかかっている。現代人が嘆きを訴えるのは、誇ることのできない仕事や、自動化され、何の努力も要しないまでに細分化された仕事を受け入れざるをえないという状況が進展しているせいかもしれない。
  • 「真の達成」のためには、価値あるりっぱな仕事が要求される。無益な仕事は、りっぱにやり遂げる価値がない。
自己実現化した義務
  • 自己実現を促す仕事がアイデンティティや自己の内奥を照らすほど自分になじんでくれば、そんな仕事をすること自体が自己をいやす治療的効果をもつものになりうる。心の中の問題が周囲の世界に投影されて外に姿を現した結果、内省だけで直接処理するよりもはるかに容易に、しかも不安や抑制をそれほど感じることなく、問題に取り組めるようになるのである。
欲求階層のレベルに応じた経営管理原則
  • 当然のことながら、それぞれの動機づけのレベルに応じて、異なる経営管理原則を当てはめるべきである。だが、低レベルの人びと向けの経営管理原則を確立する必要性は、それほど高くない。むしろ私は、普段意識されることの少ない、人間の高次の発達レベルというものをより明確にしていくことに主眼を置きたいと思う。
進歩的な経済活動と経営管理
以下に掲げる仮定は、進歩的な経営管理の方針の基礎をなすものである。
  • 仮定(1) 人間は信頼できるものである。
  • 仮定(2) だれもが、できるだけ多くの事実や真実(つまり、状況に関連することがらのすべて)について、できるだけ完全な情報を得るべきである。
  • 仮定(3) 自分の周囲にいるすべての人間が達成意欲をもっている。すべての人間が優れた熟練のわざを求めている。時間の浪費や非能率的なやり方には納得しない。良い結果を出そうとする、等。
  • 仮定(4) 弱肉強食的、権威主義的(あるいは「ヒヒのように粗暴」な)意味での支配―被支配の関係は存在しない。存在するのは「チンパンジー的」な支配であり、兄が弟妹に示すような、責任感と愛情に溢れた支配である。
  • 仮定(5) すべての人間は、組織や職位階層のどこに位置していようとも、経営管理上の最終目標を共有し、その目標と一体化することができる。

  • 仮定(6) 進歩的な経済では、組織の成員は互いに好意を抱いており、対抗心や嫉妬とは無縁である。
  • 仮定(6)a シナジーもまたあるものだ。
  • 仮定(7) 諸個人が充分に健康であるはずだ。
  • 仮定(8) 具体的に何を意味するかはともかく、組織も充分に健康だとみなそう。
  • 仮定(9) (客観的に私心なく)「賞賛する能力」もあるはずだ。他人の能力や技能のみでなく、自分自身の能力や技能をきわめて客観的に判断できるという、特別の意味において。
  • 仮定(10) 組織内の人間は安全欲求のレベルに固着していないと見なさなければならない。

  • 仮定(11) 自己実現に向かう積極的傾向が存在すると見なそう。つまり、自己のアイデアを実行に移す自由、友人や仲間を選ぶ自由、「成長」する自由、ものごとを試みる自由、試行錯誤する自由などが人にはあるものだ。
  • 仮定(12) だれもがチームワーク、友情、グループ精神、一体感、所属意識、グループ愛を享受しうるはずだ。
  • 仮定(13) 敵意は性格に起因するものではなく、主として何事かへの反応として生じるものである。すなわち、敵意は、いまこの場に存在する正当かつ客観的な理由によって引き起こされるものである。したがってそれは悪ではなく、意味ある感情であり、抑圧したり否認してはならない(このように述べてみると、それは単に正直であると言うのに近い)。
  • 仮定(14) 人間には耐える力があるものだ。すなわち、人間は一般に思われている以上に強靭である。
  • 仮定(15) 進歩的な経営管理の下では人間は向上しうると見なす。

  • 仮定(16) だれもが、自分のことを取りに足らない、だれでも代わりができるような人間、特色のない役立たずで使い道のない人間、消耗品で尊敬されない人間と感じるよりも、重要で必要とされる有益な人間、成功者、誇れる存在、尊敬される人間であると感じたがっている。
  • 仮定(17) だれもが、上司のことを(憎むより)愛したいと考えている。ことによると、上司を愛したいという積極的な欲求さえもっている。また、だれもが、上司を(軽蔑するよりは)尊敬したいと考えている。
  • 仮定(18) だれもが、他人を(怖れるよりは)怖れない状況を好むが、上司については、軽蔑するよりも怖れる方がましだと考える。
  • 仮定(19) 進歩的な経営管理の下ではだれもが受動的な助言者であるよりも、原動力でありたいと望むというように見なす。道具や、波に翻弄されるコルクのような存在でありたいとはだれも思わない。
  • 仮定(20) 人間には、ものごとを向上させる、壁の絵が傾いているとまっすぐに直す、混乱しているものを整理する、ものごとを正す、改善する、より良く成し遂げようとする、といった傾向がみられる。

  • 仮定(21) 歓喜と倦怠が成長をもたらすものだ。この点は子供の成長と比較するとよくわかる。
  • 仮定(22) 人間は、部品、物、器具、道具、「労力」としてではなく、全人格的に扱われることを好む。人間はもてる能力のすべてを発揮すること、力を示すことを望んでおり、部分的な扱いに対しては憤りを覚える。
  • 仮定(23) 怠けるよりも働くことを好む。
  • 仮定(24) だれもが、無意味な仕事よりも意味のある仕事の方を好む。
  • 仮定(25) 人間は(名もなく、他のだれでも代わりができるような存在であるよりも)個性的であること、独特の存在であること、自分自身であることを好む。

  • 仮定(26) 進歩的な手段を生み出すためには、人間は成長に耐える勇気をもっていると見なさなければならない。
  • 仮定(27) 「サイコパスではない」とは何かを明確にする必要がある(良心を備える。恥辱、困惑、悲哀を感じる能力がある等)。
  • 仮定(28) 人間には知恵があり、自己選択に効力があると見なさなければならない。
  • 仮定(29) だれもが、できれば公の場において、公正かつ公平に評価されることを望んでいるものだ。
  • 仮定(30) ここまで積極的傾向を述べてきたが、それにも関わらず防衛と成長という弁証法的対立は存在すると見なさなければならない。これは、人間の本性の積極面を語る際には、常に逆の面が存在することも想定すべきだという主張である。

  • 仮定(31) 人間はほとんどの場合、他人に依存し受身であるよりも、自ら責任を担うことの方を好むものだ。成長度の高い人間は、とりわけこの傾向が強い。
  • 仮定(32) 一般に、人間は憎むよりも愛することの方から、より多くの喜びを得る(とはいえ、憎しみが喜びをもたらすことは事実であり、その点を見過ごしてはならない)。
  • 仮定(33) 相当高い発達段階にいる人間は、破壊よりも創造を好むものだ。創造する歓びは破壊する喜びよりも大きい。
  • 仮定(34) 相当高い発達段階にいる人間は、倦怠よりも関心を抱くことの方を好むものだ。
  • 仮定(35) 進歩的な経営管理論を究極まで押し進めた最も高次な理論的段階では、世界とよりいっそう一体化しようとする志向、神秘主義への接近、世界との融合、至高体験、宇宙意識などを仮定しなければならなくなる。
  • 仮定(36) 最後になったが、われわれはメタ動機とメタ病理に諸仮定を編み出していかなければならなくなるであろう。
経営管理方針には個人差は無視できない
  • ドラッカーの管理理論は、①適用すべき人間を正しく選別する必要がある、②世の中には邪悪な人間、病的な人間、たちの悪い人間がいるという事実を見逃している。
成長に向かう力と退行に向かう力のバランス
  • 何であれ人々の恐怖や不安を増すものは、「退行に向かう力」と「成長に向かう力」が均衡した状態に影響を及ぼす。変化を怖れる気持ちよりも、変化を望む気持ちの方が強く働くためには、恵まれた状況が必要となる。
進歩的な経営管理論ならびに組織論の目標と方向性に関する覚え書き
  • 進歩的な企業や組織、進歩的な集団などの究極の目標が吟味されなければ、いかなる試みや議論も無意味なものでしかない。あらゆる心理療法の究極の目的とは、人間を自己実現に向けて成長させることであり、自己実現においてみられるメタ動機づけの状態へと向かわせることである。したがってまた、このことが、いい社会、いい教育の果たすべき機能であるということもできる。経営者や組織論が目指すところは、心理療法や教育制度、さらには民主的な政治体制の目指すところと何ら変わらない。企業において、関係者全員が目標や方向性、究極の目的というものを明確に理解していれば、事実上そのほかのあらゆる問題は、目的に相応しい手段を選ぶという技術上の問題にすぎなくなる。
  • 従業員をもっぱらY理論的な人間として扱うことが賢明だというのは、それが経済的な成功を含めあらゆる成功に通じる道だからである。
  • 「企業の目的は単に利益を上げることではなく、基本的欲求を満たそうと努力する人々、特定の集団に属しながら社会全体に奉仕する人々によって、真の共同体となることである」(ヨハネ・パウロⅡ世)

退行に向かわせる力

職場における自尊心に関する覚え書き
  • 人間が積極的に求めるのは; 自分が原動力であること/自己決定者でいること/自分の運命を自分で支配すること/自分の行動を自分で決めること/計画を立て、実行に移し、成功すること/成功を期待すること/責任を負うのが楽しいと思えること、あるいは、とにもかくにも進んで責任を引き受けること。特にそれが自分のためである場合/受け身ではなく、積極的であること/物ではなく、人間として扱われること/意思決定の主体としての自己を経験すること/自律的であること/主導権を握ること/自発的であること/他者から能力を正当に評価してもらうこと
  • 「尊敬(他者からの)の欲求」と「自尊の欲求」を明らかに区別することが重要。自尊心形成の基礎をなすのは、他者からの尊敬や賞賛。上記のすべての事柄や、尊厳の意識、自分の人生をコントロールすること、自分が自分の支配者であること(これを「尊厳」と言ってもよい)などにかかっている。
  • 労働者が支配や、その結果もたらされる自尊心の喪失に対して示す反応は、生物一般に備わった基本的な自己防衛本能のごく自然な現れだと解釈することができるし、それ自体、人間に尊厳が備わっている徴だと見なすことができる。表立って反抗できないなら、陰に隠れてでも反抗するという奴隷の態度こそ、私に人類の偉大さを思い知らせてくれる。
  • 組み立てラインのような非人間的な環境は、産業界では避けることができないが、こうした環境を浄化し、労働者の尊厳と自尊心をできる限り保つには、どうすればよいのか。
心理学的実験としての経営管理
  • 民主主義という政治形態が、科学的には証明されていない仮定に基づいた実験であるのと同じように、進歩的な経営管理もすべて実験なのである。だから、これらは最終的な知識を箇条書きにしたものではなく、むしろ信ずるところを箇条書きにしたものである。
  • X理論、Y理論というのは、経営管理様式を指す言葉ではなく、我々の人間観の基礎にある「仮定」のこと。そして、この仮定が経営管理様式に大きな影響を及ぼすのである。「どのような方法で人間を管理するのが最も効果的だと仮定しているか(暗黙の仮定も含む)。これが経営トップに対する最も重要な問いかけである」(マクレガー)
  • マズローやマクレガーを信奉する者にとっての課題は、人々を動機づけることではなく、動機づけられた人々が最大限の貢献をしようと進んで努力するよう、環境を整えることである。
  • Z理論: 人間は経済的安定を確保すると、その後は価値ある人生や創造的で生産的な職業生活を求めて努力する。マズローは、この「Z理論」の研究半ばで他界した。
  • 「社会」が貧困ならば、長期間健全性を維持できるような企業は存在しえない。
  • 何らかの道徳的・倫理的会計制度を導入することは、きわめて困難なことかもしれないが、そでもやはり必要だと思われる。
愛国主義の一形態としての進歩的な経営管理
  • 職場における精神性: 宗教を超自然的なものや儀式、教条といった点から捉えるのではなく、人類や倫理の問題、あるいは自然との関係や人類の未来といった問題との関わりでとらえる人間には、この種の哲学を仕事生活の場に適用したものと新しい経営管理や組織のスタイルとが、きわめて近いものであることがわかるはずだ。人間は企業の人間的側面に目を向ければ向けるほど、いっそう精神性を重んじるようになる。
  • この新たな経営哲学は、旧来のユートピア思想の発展形と捉えることができる。過去、大半のユートピア思想は、それが複雑な文明社会からの「逃避」になりがちで、社会の救済や改革に向かうよりも、そこからの逃避を試みようとしていた。
  • 現代の教育が抱える問題は、教育の目標や究極の目的が何であるか、だれにもわかっていないこと。民主的教育の目標が明確に定まれば、教育手段を巡るあらゆる問題は、たちまち解決してしまうだろう。それは、人間を「心理的健康」に向けて発達させること以外にありえない。つまり、教育は健康心理学的でなければならない。
  • 進歩的な経営管理や人間主義的な監督に関するあらゆる実験は、「前に述べたような友愛的な状況の下では、企業に関わる全員が単なる従業員ではなく、共同経営者になることである」
心理的健康と優れた管理者・監督者・職長等との関係(リッカートの著作を読んで)
  • 経営に関する議論の範囲は、諸々の分野の議論と結びつけることによって、いっそう拡大することが可能となる。そうした考察を行う上で必要となる方法論は、一種の全体論的、有機体論的思考、すなわち、あらゆる要素を他のすべての要素との関連において理解する思考法。それは、各要素の関係を直線的な因果の連鎖として捉えるのではなく、クモの巣やドーム状建造物のような構造――各要素が残りすべての要素と結びついた構造――としてとらえる。全体を一つの統一体と見なすことが、こうした構造を把握する最善の方法となる。
  • 各状況における最善の管理方法とは、各状況において最も機能する管理方法のこと。どの方法が最善であるかを見極めるためには、予断や宗教的な期待を排した、完全な客観性が求められる。現実的な知覚は現実的に行動するための必要条件であり、現実的な行動は望ましい結果をうむための必要条件なのだ。
心理的健康と優れた管理者との関係に関する追記(リッカートの著作を読んで)
  • 最高の管理者は、自分が管理する労働者の健康を増進する。「基本的欲求の充足」と「メタ欲求の充足」という2つの方法によって。
  • 分水嶺の法則: 苦難に耐えられないような弱い人間はストレスによって完全に打ちのめされてしまうが、耐える力を持った人間は、ストレスを切り抜けることでいっそう強化され、鍛えられるという現象。
  • 個人の向上とグループの向上は、おのおのが一方の原因であり、結果でもある。またグループの向上と組織の向上も、同じく相互的な因果関係にある。社会というより大きな単位についても同じことが当てはまる。「すべての人間が自分の家の前庭を掃除すれば、世界全体が美しくなるだろう」(ゲーテ)
  • 経営管理論は、2種類の成果に焦点を当てている。①生産性、品質、利益向上といった意味での成果、②人的成果、つまり、労働者の心理的健康や自己実現を目指しての成長、さらには労働者の安全・所属・愛情・自尊欲求等の充足
進歩的な経営管理に関する覚え書き
  • 人間のあらゆる好ましい性質は、少なくとも生まれた時点ではだれにでも備わっており、その後次第に歪んだり失われたりするということも考えられる。そうなると、人間の邪悪な面は後天的なもの、あるいはその人物が受けた不当な扱いに対する反動によって生み出されたものだと言える。この点に関しては、少なくとも第三勢力の心理学者の間では合意がなされている。
進歩的な経営管理の副産物
  • われわれは、ある特定の種類の行動を直接求めるのではなく、ある特定の種類の人間、パーソナリティ、性格、精神を形成すべきである。権威主義的な監督者が民主的な監督者になるためには、そうなりたいと努力する意識的かつ人為的・意図的な移行段階を経なければならない。このように、重視すべきは人間そのものであり、人間の奥深いパーソナリティの副産物としての行動である。
シナジーに関する覚え書き
  • 愛とは: 二人の人間の異なる欲求が融合し、共通の欲求をもった新たなまとまりが誕生すること。相手の幸福が自分の幸福にとって必須の条件となっている状態。
  • シナジーとは: 複数の人間があたかも一人の人間であるかのようになっていて、協力し、融合して、新たなまとまりを形成すること。このまとまりという単位は各個人を包含する上位概念であり、そこでは個人の差異が解消される。
いいことの量は際限ないというシナジー説と、いいことの量は限られているという反シナジー説
  • フロイトは、人間の愛には限りがあり、ある人物に集中的に愛情が注がれると、他の人間に向けられる愛情は減少すると考えた。フロムやホーナイは、愛はより多くの愛を育み、愛することによってより豊かな愛が生まれると考えた。
  • 「あの頃のアップルは私の家族そのものだった。社員は互いに愛し合い、自分たちが特別なことを成し遂げつつあるのを感じていた」(元アップル社員)。アップルの成功の方程式の大部分を占めていたのは、その社内環境――社員が潜在能力を発揮し、目標の実現に向けて専心できる環境。仕事に大いに意味を見出せる環境――だったはずだ。
  • 生産量に制限を設けず価格を低くするという姿勢は、他者への関心の深さを示すもの。一方、生産量を制限した上でここの製品から高い利益を引き出そうとする姿勢は、他者よりも自分自身に対する関心が強いことを示している。
  • 利己主義対利他主義の超越。理想的な条件とは、人間が「高次の統一」を知覚できるほど健康的であること、そして、世界が善に満ち豊かで何の不足もないことである。シナジーとは、実在する高次の真実や現実を実際に知覚することであり、シナジーに向かっての発展は、盲目状態から開眼状態へと変化するようなもの。
  • このことはアリストテレス論理学に対する批判、とりわけ排中律――ものごとはAであるか非Aであるかのいずれかである――に対する批判と関係してくる。
  • シナジーとは、実在する高次の真実や現実を実際に知覚することであり、シナジーに向かっての発展は、盲目状態から開眼状態へと変化するようなものなのだ。
  • シナジーは全体論的(ホリスティック⇔原子論)である。「いい経営管理方針」「心理的健康」「シナジー発揮能力」はほぼ同じ意味になる。
シナジーに関する追記
  • シナジーの概念といい社会が成り立つという概念の間には、次のような仮説が導かれる。①いい社会とは、徳が報われる社会である。②いい社会とは、利己主義(わがまま)が利益につながる社会である。…⑫アダム・スミスの思想には、右と同様の考えが盛り込まれている。「進歩的な利己主義が社会全体の利益につながるのは、どのような条件の下においてなのか」
  • 人道主義などの概念をも再定義する必要性が高まってくるだろう。少なくとも、そうした概念がもっぱら良い意味でしか用いられないという状況は、改める必要がある。他者に対して気をつかうことは、シナジーに達したレベルにおいてはいっさい無用の、神経症に近い態度となるのである。そうでなければ、優れた人々や幸運に恵まれた人々が自由に振舞ったり、素直に喜びを表現したりということは不可能になってしまう。
  • この考え方は、たとえば「悟り」に対する仏教徒の二様の考え方(小乗的悟りと大乗的悟り)が融合するようなもの。いい状況の下では、優れた人物は完全に自由な、もしくはきわめて自由な境遇にあり、思う存分人生を享受しながら、思うままに自己を表現し、利己的な目標を追い求めることができる。
  • リベラル派は、人道主義は善であると見なしているが、他者を助けることは介入であり、相手を侮辱する行為であって、望ましくない行為、不必要な行為、相手を意志の弱い人間と見なす行為と受け止められるかもしれないのだ。足の弱い人に松葉づえを渡すようなやり方では、かえって相手の足を萎えさせてしまうこともある。
相互関連する全体像の動態、および全体論的・有機体論的思考に関する覚え書き
  • シンドローム: 「(相互関連する)全体像」。一群の関連しあった社会現象や制度が織りなす全体像。いわば構成要素間が結びつきながら、うまく全体的な配置が特別に定まった「社会の型」のようなもの。一般的には、マイナスの事象が生ずる事柄を対象とする場合が多いため「症状」と訳される。「全体論」は、要素還元主義の対語としてのholismを訳したもの。
  • 倍率のレベル: 「入れ子構造」の状態を説明するための概念。レベル1の内部で生じた変化がレベル1内に及ぼす影響は、同じ変化がレベル3に及ぼす影響よりも、はるかに直接的で強いものとなる。とはいえ、レベル2,3,4等にも何等かの影響を与える。
  • 世界のためになるものは、国のためになり、同時にそれは州の、地域社会の、企業の、管理者の、労働者の、製品のためにもなる。逆もまた真なり。理想的な全体論的世界、すなわち完全に有機的統合を果たした世界においては、この主張はまさに真実なのであり、また真実であるべきなのだ。

  • 全体論的な相互関係に関する理論は、結局のところ、まとまりや統合、強調、調和、協力関係等に関する理論に行きつく。言い換えれば、相互的な影響の効果が、形跡としてどれほど窺えるかによって、統合の良さの度合を相互関連の全体像として表しているのである。つまり、うまく統合されているほど、相互の影響が顕著に現れる。
  • 「私にいいことは、あなたにもいいこだ」式の考え方は、いい条件の下では、長期的に見ればどれも紛れもない真実。だが、短期的に見た場合、あるいは緊張時や悪条件の下、とりわけ食糧難の際には、決して真実ではありえない。
  • 「内部に含まれている」ことと「内部に含まれ、内部において構造化されている」ことは別の意味をもっている。

  • 一般に真理は全体像的なものになる。人間は不整合を嫌う。いったん不整合や矛盾が気になりはじめると、本人の意思とは無関係に、それが頭から離れなくなり、何とか矛盾を正そうとする(認知的不協和を解消しようとする)。全体論的な真理を志向する傾向は、人間のメタ欲求、すなわち高次の動機づけの一種とみなすことができる。また、そこには動機づけに反するものや価値の否定も認められる。つまり、あらゆる欲求やメタ欲求がそうであるように、怖れや嫌悪感、脅威、抵抗を生むのである。その結果生じるのは、たとえば、知りたい欲求と知ることに対する怖れの併存といった、一種の弁証法的状態である。
  • 異種同型説: 個人が世界を自分と似通ったものであると認識し、そのような認識に基づいて世界観を形成する一方で、世界は自らに調和する存在として人間を規定する、という傾向のこと。すなわち個人は世界とますます類似したものになる。世界の統一性が増せば、それだけ個人の統一性も増す。そして、より統一性の増した個人は、ますます世界の統一性を高めようとする。
B価値に関する覚え書き(遠大な目標、究極の目標)
  • その定義づけにおいて、他のB価値と対立、もしくは他のB価値を排除するようなB価値は存在しない。真実が他の遠大な目標、つまりB価値と対立せず、それらを属性として備えている限り、科学者は全身全霊を込めてその真実を追求しても差し支えない。
  • 現在複数のB価値が存在することと、将来はそれが一体化するであろうことを共に念頭に置いておけば、どのB価値を追求しようとも、この一体化した価値に行き着くことが
  • できる。つまりB真実、あるいはB正義の追求に生涯を捧げる人は、そのことによって、真実、美、正義、完璧さなど、他のあらゆるB価値を育むことになる。
リーダーシップに関する覚え書き
  • Bリーダーシップ(=機能的リーダーシップ): その状況における客観的要件、あるいは現実一般――自然的現実および心理的現実――の客観的要件に呼応したリーダーシップ。リーダーは一定の目的のためにその場限りで付与された権限以外には、いかなる権限も有していない。
  • B力: すごくいい人間、とても健康な人間、とても道徳的な人間、すなわち高度に発達した人間にとって、この世は矯正を要することがら、矯正されるまでは苛立ちが解消されないようなことがらに満ちている。B力とは、こうした状況を正そうとする力、ものごとをより完璧に、より真実に、より正確に、より的確に、より適正にしようとする力のこと。
  • B力が不当に評価されていた原因は、悪い力、不健全な力、神経症的な力、D力、他人を支配しようとする力と、よい仕事をしようとする力、正しいこと、良いことを行おうとする力が混同されてきたためである。力というものが、おしなべてサディスティックで利己的なものと考えられているのだ。しかし、この考え方は心理的にまったくの誤りなのである。

  • リーダーには参加型の経営管理スタイルが求められることが多いだろう。それでもなお、リーダーが強大な権力を持ち、権威主義的でなければならないような状況が、少なからずある。たとえば、救命ボートの中、軍隊、外科医のチームなど。
  • 民主的な社会では、誰もがリーダーでなければならない。これは、すべての人間がB価値を重んじ、義憤を覚え、真実や美、正義を育もうと望まなければならないということを意味している。
  • いいリーダーは父親のようでなければならない。父親は強くなければならず、妻や子供を扶養するという責任を楽しむべきなのだ。また必要に応じて躾をしなければならないし、愛情深くあると同時に厳格でなければならない。指揮官や将軍のように振舞う能力も求められる。さらに、我が子が健全に成長する姿や、妻が人格的にいっそう成熟し自己実現に近づく姿を見て、大きな喜びを感じるようでなければならない。これらはいずれも、いい管理者に求められる特質と同じである。唯一の重要な違いは、いい管理者はこれらの特質に加え、いいBフォロワーになる能力を備えていなければならないという点だ。
優れたひと――生まれつき優秀で優勢な人間
  • 民主主義が容認したがらないある事実: 知力の優れた者は、知力以外のあらゆる点でも優れていることが多く、同様に、肉体的な健康度において優れた者は、その他のあらゆる面において優れていることが多いということ。リーダーや成功者が、優秀であるという事実を隠さざるを得ないような社会の仕組みになっていることは、現代社会に潜む重大な弱点だといっていいだろう。
  • 「いい社会」とは、その地位に相応しい人間が社会のトップに位置するような社会、選ばれて高い地位につくような社会である。
  • 人間は自分に何等か権力を行使しうる者に対しては、自分と同等の者に対するときとは異なる態度をとるというのが「現実」である。管理者や上司は、軍隊における将軍と同じように、部下たちから一定の距離を取り、孤立状態の中で客観的な立場を保った方がよい。治療者は患者を誉めるべきでも罰するべきでもないとされているが、それと同じことである。

  • 自己を表現したり自己の内面を表出することは、一般の人びとには認められており、奨励もされている。だが多くの場合、リーダーはそのような行動を執るべきではない。「開放的であること」と「人の話を傾聴すること」を同一視してはならない。
  • 革新的な経営管理全般の長所は、個人の発達という観点から出発した場合でも、利益を上げ優れた製品を製造するという観点から出発した場合でも、ほとんど同じ結果が得られるという点である。
  • ひとを信頼することが現実的な場合もあるし、非現実的な場合もある。「すべて人間を信頼すべきである」というドグマは、非現実的な行為を招きがちである。つまり、現実にはどちらのタイプのリーダーも存在することを認め、状況に最適な管理者を選ぶ必要があるということだ。
  • ここでぜひとも注意すべきは、高度に指示的なリーダーを非民主的だと決めつけてはならないということ。指示をどんどん出したがるリーダーは、彼らが強い「形態(ゲシュタルト)モチベーション」を有しているということ。環境を完璧に整えたいという欲求がひと一倍強い人間にとって、それを実行できる権限を得ることは、実にすばらしいことなのだ。
きわめて優秀な上司
  • ずば抜けて優秀なリーダーは必然的に集団を抑え込んでしまう。部下を個人的に発達させ、きたえて潜在能力の開花を望むのであれば、自分は顔を出さずに部下たちだけで率直に話し合わせ、彼らの自己実現を促すのが最善の方法である。
  • リーダーに対する反抗心や敵意は、さまざまな形をとって現れる、階級間の敵対心である。そうなると、大規模な組織、あるいはすべての社会には、憲法や既存の法典に似た、詳細にわたる「律法の書」が必要となる。理由の一つは、雑多な人間で構成された集団には、病的な人間や無能な人間、その他が多数含まれる。だから、客観的なルールを定め、判事や艦長、将軍などの個人的判断に頼らない制度を整える必要があるのだ。
  • Y理論や進歩的な経営管理は、人員の選抜がなされた組織に対して有効なのであって、あらゆる種類の人間からなる一般社会に対しては必ずしも有効とはいえないのである。

  • マズローが近年再び注目を集めたのは、技術が発達すれば、人間的要素がますます重要になってくるから。
  • 人間には2つのタイプがある。①「ルーキー・ルー」は、非参加型の人間、本当の意味での人生を送っていない人間――つまり何らかのアイデアに夢中になってうちこむことのできない人間、②「参加者」は、人生の指針となる価値観や信念を持っており、危険を怖れず未知のことがらに挑戦する。芸術および民主主義の進歩は、ひとえに参加者タイプの人間によってもたらされる。
  • 経営管理論やリーダーシップ論は、理論全体の枠組みの中心を変える必要があり、リーダーの個人的特性ではなく、特定の状況もしくは特定の問題における客観的要件へと焦点を移して論じられるべきなのだ。そうした状況の下に生まれるのが「機能的リーダーシップ」であり、そこでは個人の性格上の特性よりも、技能や能力、客観的要件の方が重要となる。
レイク・アローヘッドにおける覆いのない非構造的グループに関する覚え書き
  • 人間はいい子でいたいものだ。世の中の規則に沿って行動し、世間から非難されないように生きている。つまり、自分自身を構造に適応させているのである。人間の内面の奥深くに潜む精神力や自己実現に向かう心的傾向性を引き出すには、非構造的で寛容な環境が最適となる。
  • 行動の決定要因として重視されるべきは現代の社会的状況であり、心の奥深くに潜む精神や、無意識に刻み込まれた過去の体験などは、さして重要なものではないことになる。
  • 周囲の人間は、自分が彼らにどのような印象を与えているかを映す鏡であり、その反映によって、自分が社会にいかなる刺激を価値ある形で与えているかが分かるだけでなく、究極的には明確な自己像すら得ることもできるのである。

  • いまの世の中では、論理的に構造化された思考や文章、分析的で明確に言語化された現実的な思考や文章こそが、優れたものだと見なされている。だが、より詩的で神話的に、より隠喩的に、ユングの言う意味において、より原始的(アルカイック)になる必要があることは明らかである。最善の方法は、内包的な言葉ではなく、外延的な言葉を用いること、口ごもったり、途中でやめたりしながら、断片でつなぐような形で話を進めることである。非構造的コミュニケーション。
  • Tグループで生じるほとんどすべての現象は「心的現実との初めての対峙」という観点から総括することができる。現実世界における成果を重視する実用主義的な主張、抑制や抑圧の強調、原罪の教え、人間の心(プシケ)に甚だしく邪悪なものであるとする教え。これらはいずれも、人々が心的生活に関わる一切のものを抑圧し、常に厳しく管理するように仕向けることを意図したものである。
  • 「心的現実との初めての対峙」を通じて、さまざまな概念が打ち砕かれ再構成されることによって、物的対象を中心とした現実の世界と、感性や怖れ、欲求、希望といった心的世界とを、ともに包含する新たな概念が形成されることが、より重要なこと。

  • 上司、すなわち、判事や死刑執行人や警察官の役目を担い、採用や解雇の決定権を握る人物は、やはり自分が罰すべき労働者たちと親密になりすぎることなく、距離を保っておくべきなのだ。世界各地で試みられてきた軍隊を民主化しようという努力は、いまだかって成功したことがない。
  • 「開放的態度」には2つの意味がある。①自分のところに入ってくるあらゆる提案や事実、フィードバック、情報を、それらが気に入るか入らないかにかかわらず、すべて受け入れるという意味において開放的であるべきということは、疑問の余地がない。②思ったことを述べるという意味での開放的態度は、判事や警察官、上司、艦長、将軍などにはまったく相応しくない。不安を表に出さないことは、リーダーが担うべき責任の一つ。
  • 心理療法は病んだ人間を健康にするが、Tグループは健康な人をより健康にする。ルールに則って運営されるTグループは、個人の成長を促す肥沃な土壌となっている。
  • 優れた農夫は種をまき、成長に適した環境を作り終えると、後は植物が成長するのにまかせて、本当に必要なときにだけ手を加えるものである。いいリーダーは優秀な農夫と同じで、必要以上に人を鍛えたり、型にはめたり、無理強いしたりすることがない。
  • 神経症的な防衛機能と健康で望ましい防衛機能とは別物だ。現代社会における混乱の多くは、制御の不足に起因する混乱であり、衝動によってもたらされる混乱である。衝動は制御しなければならない。それは現実の要請というだけでなく、一人の個人としてのまとまりや一貫性および価値観の要請でもある。人間はさまざまな葛藤などに苦悩しつつ、自己を制御しながら生きていかなければならないのだ。
  • 「一夫一婦制」という制度は、決定が最終的なものであることや、決意が一貫して変わらないものであることを基盤として成立しており、それ故に、望ましく、健康的な制御や防衛機制を必然的に含むものである。
  • フロイトが活躍していていた1910年代の人々は、実に多くの抑制に苦しんでいたといってよい。だが、現代人に必要なのは、むしろ衝動を制御することであり、健全な意味での抑制さえ求められているのである。
創造性に関する覚え書き
  • いま-ここで発揮される創造性の基盤にあるのは、先のことを考えない、現在の状況に即応した行動であり、現在に集中しきる姿勢、すなわち充分に耳を傾け観察するという態度である。目的をもって歩くのではなく、のらりくらりと気楽にぶらつくこと、一言でいえば、遊ぶことが肝心なのだ。
  • (構造に対する欲求の強い人間が)無秩序や混沌を不安視するということは、成文化された法や規律、原則を求めていることであり、未来を制御したい、将来起こることをすべて予測しておきたいという願望を抱いているということである。予期せぬ偶発的事態が発生しても対処できるという自信が持てれば、規則を山のように定める必要がなくなくなり、必要最小限のものだけで済むようになるはずだ。
創造性に関する覚え書き(追記)
  • 創造的な人間にとって、「計画」とは先に進む道を探すための足場以上のものではなく、それゆえ、後悔や不安を伴うことなく、やすやすと放棄することができるのである。
  • 「自尊心」とは、自分自身を原動力、責任ある自律的人間、自己の運命の決定者として見ることなのである。
起業家に関する覚え書き
  • 「発明」は、すでに知られていたものの適切な形式を与えられていなかった断片的知識が、突如として統合されたものと見るべき。「ゲシュタルトの閉合」によって生まれたもの。
  • 卓越したいい社会と退行的で堕落した社会とを分けるものは、起業家精神を発揮する機会に恵まれているかどうか、そして、その社会に起業家が大勢いるかどうかという点である。
  • 企業とは働く人々の集まりである。人間が真の資産である。
  • どのような社会にも、自ら率先して点火プラグの役割を果たす人物、対等な関係で人々をつないでいくタイプの人物は等しく必要なのである。
利益、税金、コスト、金銭、経済学等を再定義するための覚え書き
  • どの経済学の教科書を見ても、古典的経済理論が、もっぱら低次の基本的欲求の理論に基づいたものであることがわかる(つまり、高次の欲求やメタ欲求はいっさい考慮されていない)。さらに、低次欲求のそれぞれが相互に代替可能なものと見なされており、結果として会計学は、金額によって表すことのできる対象、品質、特性のみを扱い、それらを貸借対照表に記載するものとされている。
  • 基本的欲求の階層を上昇するにしたがって、欲求にかける費用は少なくなる。最も上位の階層に至るとほとんどゼロと言っていい。つまり、所属の欲求、愛情や友情を求める欲求、尊敬されたいという欲求、自尊心を確立したいという欲求などは、いずれも貨幣経済の枠外にあるということだ。どんなに貧しい家庭であっても、衣食住が確保されていさえすれば、こうした高次欲求を満たすことは可能なのである。
  • 進歩的な経営管理方針が目指すのは、高次の欲求の充足に他ならない、進歩的な経営管理方針とは、職場において非金銭的な方法で高次欲求を満たそうとする試み、すなわち、人間が本来備えている高次欲求を満たすよう職場を整える試みと定義することもできる(金銭を与え、高次欲求を満たすものは職場の外で購入しろという姿勢ではないのだ)。
  • X理論が低次の欲求を扱う動機づけ理論であるのに対し、Y理論はより高次の欲求を扱い、それらを職場や経済活動の要因と見なす、より包括的で科学的、現実的な動機づけ理論なのである。
  • すべての企業、およびその従業員、さらには社会全体が健全さを維持するためには、自由市場や自由競争において合理性や真理性、誠実さ、正義が保たれる必要がある。いい社会とは、徳が報われる社会のことである。徳が報われるようになるまで、いい社会は実現しないと言い換えることもできる。
利益に関する覚え書き(追記)
  • あらゆることを数字で表さなければ気の済まない会計士と、組織におけるいっさいの人間関係は単純な組織図に還元できると主張する権威主義的な組織理論家との間には、共通点が認められる。
利益、コスト等を再定義するための覚え書き(追記)

進歩的ないいセールスパーソンと顧客

セールスパーソンの顧客(追記)

セールスパーソンとセールスパーソン気質に関する覚え書き

低次の不平、高次の不平、メタ不平について
  • 人間は動機づけの段階のさまざまなレベルに位置しながら生きている。すなわち、高次のレベルで生きることもできるし、低次のレベルにとどまりながら生きることもできる。
  • 完全に充足された基本的欲求は忘れ去られ、意識にのぼらなくなる。したがって、ある人間の切望や欲望や願望は、その人間が属している動機づけの階層の一段階上の階層の欲求であることが多い。
  • 不平は、否定的なものと積極的なもので区別する必要がある。よりいっそうの向上を求めた不平や提案は、現在の動機づけよりも一段上の階層に関する不平であり、一段階上の願望を表明したものである。
社会改善理論――ゆっくりと革命を実現する理論
  • アメリカ文化において最も影響力をもち、最も基本的で、最も強力な制度とは「産業」という制度である。
  • 「健全な利己主義」の素晴らしいところは、利己的であると同時に利他的でもありうるという点。利他的になるための最善の方法は、自分の能力を最大限に発揮できる仕事をみつけ、それに従事すること。
  • 社会改善とは、永続的で固定的で最終的な効果を発揮する変革を一気に起こすことではなく、科学的な方法によるオープンで実験的な試みを積み重ねながら、ゆっくりと着実に進められるべきものである。
  • 科学者は自説の正しさを確信しながらも、そこに何らかの誤りが含まれる可能性を十分に認識している。ここにおける確実性は「科学的確実性」であり、決して「永遠不変で完璧な数学的確実性」ではない。
進歩的な経営管理方針の必要性