[この本に学ぶ]
『禅マインド ビギナーズ・マインド』
鈴木俊隆 著
サンガ新書(2012年)
『ティール組織』や『U理論』、さらには少し遡った『7つの習慣』といったアメリカの最近の組織・経営論を読んでいると、その中核には、非常に東洋的・仏教的なものの見方が潜んでいることが窺がわれる。また今日ではより直接的に、マインドフルネス瞑想といった形のものがGoogle、Facebookをはじめとする多くの企業で採り入れられる傾向にあるが、本書『禅マインド ビギナーズ・マインド』は、米国におけるこうした「禅」への関心の大きな流れを生み出した、いわば「源流」といっていいだろう。
著者の鈴木俊隆(1905-1971)は、日本ではあまり知られていないが、欧米では、鈴木大拙と並んで「2人の鈴木」と呼ばれる著名な禅僧。1959年、55歳でアメリカに渡り、サンフランシスコ近郊で禅の普及に生涯を尽くした。本書は、その鈴木俊隆の法話集。1970年の出版以来24か国以上で翻訳された仏教書の世界的ベストセラーであり、あのスティーブ・ジョブズが青春時代にむさぼり読んだ本としても知られている。
『ティール組織』をはじめとする、組織を「機械」的にではなく「生命」的に捉える組織・経営論の核心的な部分には、「私たちの組織は、いったい何のために存在しているのか?」という「存在」に対する問いかけがある。たとえばこんな具体だ。「人間は組織の進化への目的に調和できます。しかし重要なことは、自分と他人と自分の属する組織をきちんと分けて、『この組織の使命は何か?』を見極めることです。それは、『私たちはこの組織を資産としてどう活用したいのか?』ではなく、『この組織は何のために生を受けているのか? この生命体の創造的な可能性は何か?』ということです」(『ティール組織』)。
こうした「存在」に対する根源的な問いかけ、さらにはそれを、自らを取り巻くすべてのものとの「つながり」として捉えていこうとする発想は、まさに仏教的であり、鈴木俊隆が60年前に、アメリカ人に何とか伝えたいと念願した「禅マインド」に他ならない。
本書『禅マインド ビギナーズ・マインド』は、「初めての人の心<ビギナーズ・マインド>」をそのまま保つことが大切であり、坐禅はそのための修行であることを説くもの。「初心忘るべからず」という教えは、日本人であれば誰もが肌感覚として理解できるものだが、1960年代のアメリカ人にとっては、まさに衝撃的な発想との遭遇だったという。スティーブ・ジョブズもその一人だ。
鈴木俊隆は明治38年、神奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺に生まれ、永平寺や總持寺で修行を積んだ後にアメリカに渡った。ゆえに本書は、道元禅師の仏教理解をベースとしているが、日本人にとっても極めて難解といわれるその教えを、とても分かりやすく解いてくれる。アメリカ人の日常生活を題材とした比喩を用いながら、ユーモアを交え、易しく語り掛けてくれる。
この分かりやすさは、鈴木の、「禅マインド」をアメリカ人に何とか伝えたいとの一途な想いが生み出したものに違いないが、その格闘の跡がここに、私たち日本人にとってもとても貴重な禅の解説書として遺されていることに感謝を捧げたい。
道元は、ブッダの教え、すなわち仏教の正統な教えを受け継いでいるとの自信と信念を持っていたといわれるが、鈴木もまたこの姿勢を徹頭徹尾貫いていて、次のように言う。
本来仏教とは、特定の教えではありません。仏教とは絶対の真理のことです。そこには、さまざまな真理が含まれています。坐禅の修行とは、生命のさまざまな働きが含まれている修行なのです。道元は自分のことを、曹洞宗の師とか、曹洞宗の弟子であるとは呼びませんでした。「ほかの人は私たちを曹洞宗と呼ぶかもしれないが、私たちは自分をそう呼ばない。曹洞という名も使うべきではない」。…実際、私たちは曹洞宗ではありません。私たちはみな仏教徒です。私たちは、禅の仏教徒でもありません。ただの仏教徒です。宗教というのは、特定の教えのことではありません。宗教はいたるところにあるのです。…特別の教えというのは、あるべきではありません。教えとは、今、ここ、一瞬一瞬の、すべての存在の中にあります。それが真の教えです。
道元の、そして鈴木俊隆のこうした「無宗教」的姿勢が、今日のアメリカの組織・経営論へと繋がる大きな流れを生み出す最大の要因となったのではなかろうか。この流れが、さらなる大河となって広がることを願いたい。

プロローグ ビギナーズ・マインド -初心者の心―
- 禅の修行が難しいのは、私たちの心を、根本的な意味で、混じりけのないものにしておくこと。それをお手伝いするのが私の役目。
- 修行の目的は、「初めての人の心<ビギナーズ・マインド>」、そのままを保つこと。
- 禅の修行で一番大切なことは「二つ」にならないこと。私たちの「初心」は、その中にすべてを含む、それ自体で満ち足りている心の状態。
- 初心には「私はなにかを得たい」という思考がない。ゆえに初心を保ち続ければ、仏の教えは自然に守られていく。
- 初心者の心は、すべてを受け入れる慈悲の心。
第1部 正しい修行
1 姿勢
- 結跏趺坐を組むと、日本の足があっても、右足と左足が一つになる。この姿勢は、二つではない、一つでもない、という「二元」性の「一者」性を表わす。
- 私たちの心と身体は、二つでありながら一つ。私たちは、互いに支えあう、と同時に、自立している。私たちは死ぬ。そして死なない。これらは同じコインの表と裏。
- 坐禅の姿勢をとること自体が修行の目的。なにかを得ようとすると、心はさまよい始める。得ようとしないとき、あなたの身体も心も「今、ここ」にある。
- 姿勢、動作に関する規則は、自己をもっとも自由に表すことができるようにするためのもの。身体と心があるべきところにあるとき、ほかのすべてのものも、あるべきところに、あるべきように、ある。
- 私たちは普通、自分以外のものを変えようとする。自分自身があるべきところにないとき、ほかのすべてのものをきちんとさせようとしても、無理。
- ブッダが自分自身を見出したとき、存在するすべてのものは仏性を持っていることも発見した。
- 正しい姿勢で座ったときの心の状態そのものが悟り。
2 呼吸
- 息を吸うと、空気は身体の「中の世界」に入ってくる。吐くときは身体の「外の世界」に出ていく。「中の世界」と「外の世界」は、実際は一つの全体の世界。この無限の世界では、「私」というのは、息を吸ったり、吐いたりするときに動く回転扉のようなもの。そこには時間や空間の観念はない。時間と空間はひとつ。
- 純粋に宗教の領域では、時間と空間、善と悪の混乱はない。私たちがすべきことは、そのとき、そのとき、すべきことをするだけ。
- 青い山と白い雲。男と女。師と弟子。お互いに極めて独立しながら、お互いに寄り添っている。これが私たちの生き方であり、これが座禅の修行のやり方。
3 コントロール
- 仏性の世界で生きるということは、一瞬一瞬、あなたの小さな存在として死ぬ、ということを意味している。バランスが失われれば私たちは死ぬが、同時に私たちは成長する。
- 万物は、仏の世界に生きている。完璧なバランスという背景に対して、バランスを失いながら生きている。もし仏性という背景を見なければ、すべては苦しみのように見える。しかし、この存在の背景を知れば、苦しみとは、それ自体が、私たちの生き方であり、人生を高めることでもあることがわかる。
- 羊や牛をコントロールするには、広々とした、余裕のある草地に放すこと。人についても同様。好きなようにさせておいて、そして見守る。これが一番いいやり方。
- 本当の目的は、ものごとをしっかりと、ありのままに見るということ。すべてを起こっては消えていくままにしておく、ということ。これがもっとも広い意味で、すべてをコントロールするということ。
4 心の波
- さまざまな感情や思考やイメージ、それはあなた自身の「心の波」。私たちは、心は外側から知覚や印象などを受けると考えるが、実際には「心の中に現れた」ということ。
- 小さな心<スモール・マインド>は、外側のなにかと関連する心。大いなる心<ビッグ・マインド>は、なにもかも包み込む心。この二つは、実は同じものなのだが、ものごとに対する見方が違う。
- 波とは、水の修行。波と水は、一つ。波のある心というのは、わずらわされた心ではなく、増幅された心。あなたがなにを経験しようとも、それは大いなる心の表現。大いなる心の働きとは、さまざまな経験を通じて、それ自身を増幅させようとする働き。
- 私たちは、人生のあらゆる局面を、大いなる心の広がりとして喜んで迎えるので、過剰な喜びを求めない。そのため私たちはいつもなにものにもわずらわされることはない。
5 心の雑草
- 抜いた雑草は植物の肥料になる」。心の雑草にはむしろ感謝すべき。やがては、あなたの修行を豊かにするものだから。
- 厳密にいえば、どのような努力も、修行のためにはよくない。それが心に波をつくり出すから。しかし、なんらの努力もなしに、心の絶対の静寂を得ることはできない。努力をしなければならないけれども、努力をしているという自分を忘れ去らねばならない。主体も客体もない、この「非―意識」<意識のない意識>の中では、努力も、観念も、思考も、消えている。
- 修行の力によって、努力はどんどん純粋なものになっていく。あなたの努力が純粋なものになるとき、あなたの身体も心も純粋になっていく。
6 禅の神髄
- 惨めに感じたときは、座るほうがよい。坐禅の姿勢によって、あなたの心と身体は、好き、嫌い、よい、悪いなしに、あるがままに受け入れる偉大な力を持つ。
- 自分の問題の中で座っているとき、どちらがよりリアルか。あなたの問題か。あなた自身か。「今、ここにいる」という気づきだけが、究極の事実なのだ。よい状況、惨めな状況の連続の中で、修行を続けることによって、あなたは、禅の神髄を悟り、真の強さを獲得するだろう。
7 二つではない、ということ
- 「心を止める」ということは、あなたの心が全身を浸しているということ。心は呼吸に従う。そうした全身に満ちた広々とした心で、あなたは手に印相<ムードラ>を結ぶ。これが、なんらの考えも得ることなしに座る、ということ。
- 窮屈さの中で、自分の道を見つけること、それが修行の道。そうした窮屈さにわずらわされないでいると、あなたは「色は色であり、空は空である」の意味がわかる。
8 合掌礼拝
- 合掌礼拝をすることで、私たちは自分自身をあけ渡す。自分自身をあけ渡すとは、自分の持っている二元的な考えを捨ててしまうということ。
- ありのままでいるとき、あなたはすべてのものと一つになり、本当の意味で礼拝ができる。礼拝はとても真剣な修行である。
- 合掌礼拝は、自己中心的な考えを取り除く助けになる。自己中心的な考えを取り除くのが完全には不可能ではあっても、その努力こそが、もっとも深い望みを満たす。涅槃<ニルバーナ>は、そこにある。
- 活動のないときに、平静を見出すのは簡単。活動の中で平静を見出すのは困難。しかし活動の中の平静こそが本当の平静。
9 特別なことはなにもない
- 「宇宙の本性」「仏性」「悟り」、いろいろな名前で呼ぶが、悟りを得た人にとっては、それはなんでもない。しかし、なにかでもある。
- 「大般涅槃経」で、ブッダは「すべては仏性を持つ」といった。道元禅師は、それを「すべては仏性である」と読んだ。仏性とは、言い換えれば人間の本当の性質のこと。
第2部 正しい態度
10 一途の道
- 菩薩の道は「一途の道」と呼ばれている。「何千マイルも続く線路を行く」といもいう。線路とは、真剣さ、誠実さのこと。線路の上を走るのが、私たちの修行。しかし、線路自体に興味を持つのは危険。線路自体を見るべきではない。線路を見るとめまいがする。列車からの景色そのものを楽しむのだ。
- 誰の本性も、線路がいつも同じように、同じ。「議論は十分だ。お茶でも飲もう!」
11 繰り返し
- 繰り返し行うという精神を失うと、修行はとても難しくなる。しかし元気で強い気持ちがあれば難しくはない。いずれにしろ私たちは、じっとしていることはできない。なにかをしなければならない。私たちの方法は、パンの生地をオーブンに入れ、そして注意して見守ること。
- 私たちが大事にしている修行を、あまり理想主義的なものにしてはいけない。あまり理想主義的だと、理想と実際の能力のギャップがありすぎ、そのギャップを埋める手段が見当たらず絶望的になってしまう。それが通常の精神的な道。
12 禅と興奮
- 禅は、なにか気晴らしの興奮ではなく、毎日のやるべきことに対して、集中すること。いつも落ち着いて喜びに満ち、そして興奮からは遠ざかるべき。「夢中にならない」、自分自身に対して働きかけるには、これがいちばん賢く、効果的で、いちばん早い道。なぜなら、平静で、日常的な心で修行していれば、毎日の生活自身が悟りそのものだから。
13 正しい努力
- 修行でもっとも大切なのは、正しい努力が正しい方向へ向かっていること。私たちの努力の方向は、達成するということから、「達成しないこと」へと向かわねばならない。なにかを達成するために特別に努力しようとすると、余分な性質、過剰な要素が加わってしまう。余分なものは取り除かねばならない。
- なにか特別のものを見ようとしないこと、なにか特別のものを達成しようと思わないこと。あなたはすでに、その純粋性の中にすべてを持っている。この究極的な事実を知ると、恐怖はなくなる。
14 痕跡をとどめず
- 私たちの通常の心は、とても忙しく複雑なので、一つのことに集中するのが難しい。その理由は、行動する前に考え、その考えがなんらかの痕跡をとどめるから。私たちがシンプルで透明な心を持ってなにかをするとき、私たちは観念や影を持たない。そして行動は、強く、まっすぐなものになる。
- 自分の行動に痕跡をとどめると、その痕跡に対して執着が生まれる。痕跡をとどめないためには、なにかを行うとき、完全に集中する。さながら、よく燃え上がっている焚火のように。禅とは、つねに完全に燃やしつくして、灰しか残らないことをいう。「灰は、薪に帰らない」。
15 神は与える
- 私たちに与えられているすべてのものは、もともとは一つなので、私たちは実際には、すべてを与えている。一瞬一瞬、私たちは何かをつくり出す。それが人生の喜び。だが、この創造している「私」、つねになにかを与えている「私」は、「小さな私」ではなく、「大きな私」である。
- 道元禅師は「与えることは、執着しないこと」といった。つまり、なにものにも執着しない、ということは、与えること。
- 「なにかをつくり出すこと、人間の活動に参加すること、これは布施般若波羅蜜多である。人々に渡し舟を与えること、人々に向こう岸へ渡るための橋を架けてあげること、これはみな布施般若波羅蜜多なのである」
- 「大いなる私」とともになにかをつくるということは「与える」ということ。自分たちのためになにかをつくり出し、つくり出したものを所有することはできない。しかし私たちは、創造しているのは誰なのか、またなんのために創造しているのか、ということを忘れてしまうために、物質的な価値、あるいはお金など、それを交換するための価値にとらわれてしまう。
16 修行における間違い
- あまりよくない修行の仕方の一つは、「理想」を追い求めすぎてしまい、獲得すべき、あるいは達成すべき理想像なりゴールなりを設定してしまうこと。なぜなら、理想を獲得することがいつも時間的に「未来」であるために、今の自分を、未来の理想のために犠牲にしてしまうから。
- やる気を失うのは、修行が理想を追いかけるものになっているから。それを警戒信号と見るとよい。曹洞宗では「只管打坐」を大事にする。
- もう一つの修行の間違いは、修行で見つけた自分の喜びのために修行すること。小乗仏教では修行を4つに分け、一番よいのは、何も喜びを感じない、精神的な喜びすら感じないで行う修行。自分の身体的な感覚、心の感覚、すべてを忘れてしまって、ただ行う修行だとされている。
17 自分の活動を制限する
- 私たちの修行は、特定の目的やゴールを持たない。また特定の崇拝の対象も持たない。しかし「道」はある。一切の目標を持たない修行の道とは、自分の活動を制限すること、あるいは、今この瞬間に行っていることに集中するということ。自分の活動を制限してしまえば、自分の本性を十分に表すことができる。あなたの本性、それは普遍的な仏性――これが私たちの修行の道。一行三昧。
- 普通、なにか特定の宗教を信じると、その姿勢は、どんどん遠く自分から離れる方向へ向かう。しかし私たちの道は、自分たちに鋭く方向を向ける。したがって仏教と、あなた方が信じている他の宗教との違いについては、心配する必要はない。
18 自己を学ぶ
- 私たちには「教え」が必要。しかし教えは、私たち自身ではなく、私たちについての説明にしかすぎない。教えに固執したり、師に執着したりするのは大きな間違い。師に会ったとたんに師を離れ、独立しなければならない。師が必要なのは、自立するため。
- 師とともに学ぶのは、自分の毎日の生活の一部、すなわち止むことのないあなたの働きの一部にすぎない。この意味では、修行と毎日の生活とは、なにも違いはない。
- 自分のことを身体とすると、教えとは衣のようなもの。しかし、身体も衣も、実際には私たち自身ではない。私たち自身が大きな働きそのものであって、私たちは、ただ大きな働きの中の、ほんのちいさな部分を表わしているにすぎない。
- 私たちについて語るのは、大いなる働きにおける、時間の中の、この特定の身体という形や色に執着しているときの、間違った理解をただすことが目的。「仏道を学ぶことは、自己を学ぶことである。自己を学ぶとは、自己を忘れることである」(道元)
19 瓦を磨く
- あなたとは離れて、なにかがあるという妄想の中にさまよいはじめると、あなたの周囲は、もはや実在ではなくなる。あなたが妄想に迷うときには、周囲もまた深い霧の覆うような幻想となる。妄想には果てしがない。そして問題を解決しようとして、問題の中に捲き込まれる。
- 問題を解くには、問題の真ん中に座る。問題の中で生きる。問題の一部となり、問題と一つになる。あなたが坐禅を修行しているときは、あなたの伴侶がベッドで寝ていようが、やはり坐禅を行っている。真の修行をしていれば、なにもかもが同時に私たちの道の修行をしているのだ。
20 つねに空であること
- 私たちの仏教に対する理解は、いろいろな知識を得ようとして、いろいろな情報の断片を集めることであってはならない。知識を集めるかわりに、自分の心をきれいにする。心がきれいで透明であれば、真の知識は、すでにあなたのものだ。それを「空性」「全能の自己」「すべてを知る」という。
- すべてを知ったとき、あなたは「暗い空」のようになる。そして雷光が閃いたとき、すばらしい景色が目に映る。空性でいるときは、突然雷光が閃いてもおどろかない。いつも雷光が閃くのを見る準備ができている。
- 空<エンプティネス>の状態を理解した人は、いつも、ものごとをありのままに受け入れる、という可能性に開かれている。すべてを受け入れる。なすことすべて、それがたとえ困難なことであっても、こうした人は、つねに問題自体を消滅させてしまうことができる。
- 悟りの光が閃いても、私たちの修行はそれをすべて忘れる。そしてつぎの悟りに備える。
21 コミュニケーション
- 直接の経験として「実在」<リアリティ>を把握すること、これが坐禅を修行する理由であり、仏教を学ぶ理由。仏教を学ぶことを通じて、あなたは人間の実際の働きの中に現前している人間性、知性、そして真実を理解する。
- 普通、私たちが誰かの発言を聞くとき、それを自分の反響(こだま)のようにして聞いてしまう。実際は、自分自身の意見を聞いている。師の言葉を真の意味で理解していないと、なにかその発言にあるものを、簡単に自分の主観的な意見で解釈してしまう。
- 親と子どもの間で、よく意思を疎通させることは難しい。親はいつもある意図をもっているから。
- 意図的な、かっこうのいいやり方で自分を適応させるのではなく、自分をありのままに自由に表現することは、あなた自身を、そして他の人々を幸福にするうえでもっとも大事なこと。
- 私たちの教えとは、つねに実在<リアリティ>の中に、実在という言葉の本当の意味の中で、ただ生きること。一瞬一瞬にこの努力を払うことが私たちの道。正確にいえば、私たちが自分の人生で学べることは、一瞬一瞬での、私たちの働きだけ。
- 真のコミュニケーションは、互いに率直であること。しかし、一番のコミュニケーションは、なにもいわず、ただ座ること。
22 否定と肯定
- 真の道は、常に二つの側面がある。否定的な道と肯定的な道であり、この両者を一度に話すことはできない。仏教については話すことは、ほとんど不可能。だから何も言わないで、ただ修行するのが一番の道になる。
- 曹洞宗では、いつも否定的な意味、肯定的な意味の二つの意味を込める。私たちの方法は、小乗的でもあれば、大乗的でもある。実際、私たちの修行は、小乗の精神を持った大乗の修行。自由な心をもった、厳格で形式を重んじる修行。私たちの坐禅は、形式を重んじるように見えるが、心は自由。
- 大乗の心を持つと、小乗の修行、大乗の修行といった区別はなくなる。戒律を破ったように見えても、実際その真の意味では守っている。ポイントは、あなたが大いなる心をもっているか、小さな心をもっているか。それについて、よいか悪いかを考えず、なにかを心と身体の全部で行うとき、それが私たちの道となる。
- 「相手を知的に理解させようとしてはいけない。議論してもいけない。ただ彼の反対の意見を聞き、自分が間違っていることに気がつくまで待つのがいい」(道元)
- 大いなる心は、表すものであり、推測できるものではない。あなたがすでに持っているものであり、外に向かって探し求めるものではない。大いなる心は、それについて話すもの、行動で表すもの、そして楽しむべきもの。
23 涅槃とは滝のよう
- 永平寺の半杓橋。川の美しさを感じるとき、水と一つになるとき、私たちは直観的に道元禅師のように水を汲む。それが私たちの本性なのだ。しかしそうした本性が、経済性とか効率性という観念で隠されてしまうと、道元禅師のやり方はまったく意味がないように感じられてしまう。
- 生まれる前、私たちは宇宙と一つだった。それを「意識だけ」「心の本質」「大いなる心」という。生まれることによってそうした「一者」から隔てられたとき、私たちは「感情」を持つ。「恐怖」を感じる。水滴として一滴一滴、別々であろうとなかろうと水は水。生と死は、同じもの。この事実をはっきり認識すると、死に対する恐怖はなくなる。そして人生における困難もなくなる。
- 私たちは「一切は空から生まれる」という。この理解に達すると、人生の美しさを見ることができる。この事実に達する前、私たちの見るものはすべて幻想だ。私たちの小さな心が実在に一致していないから。
- 坐禅によってこのような感覚を育てることができる。すると、毎日の生活は、人生の古い解釈に執着することがなく、まったく新しいものになっていく。
第3部 正しい理解
24 伝統的な禅の精神
- 仏教は、哲学として非常に深く広い、堅固な思想のシステム。しかし禅は、哲学的な理解にはそれほど関心を持たない。私たちが重んじるのは修行であり、もっとも大切なのは姿勢と呼吸の仕方。教えの深い理解よりも、自分たちの教えに対する強い信頼が必要。その教えは、私たちは本来仏性を持っている、ということ。私たちの修行とは、それに対する信頼<信心>を基礎にしている。
- 私たちは、禅をブッダと同じ真剣さで修行しなければならない。したがって私たちは、精神、姿勢、いろいろな活動を伝統的なやり方で調和させる。
- エゴとは妄想であり、私たちの仏性を覆い隠してしまう。私たちは、いつもエゴの考えをつくり出しては、それを追いかけている。そして、そのプロセスを何度も繰り返すので、人生がすっかりエゴを中心にした考えで占領されてしまう。それを業<カルマ>と呼ぶ。
25 無常ということ
- ブッダの基本的な教えは、ものごとは移ろうということ、変化ということ。常に変化しているということ、このことこそがすべての存在の本性。この教えは「無我」の教えでもあり、また「涅槃<ニルバーナ>」の教えでもある。この永遠の真実をはっきりと理解し、そこに平静さを見出すと、私たちは涅槃にいる。
- 私たちは、不完全な存在を通して、完全な存在を見つけなければならない。困難を通じて、苦しみを通じて、真実を見出そうとしている。善悪というのは同じコインの裏表。そこで悟りは、修行の中になければならない。苦しみの中に喜びを見出すことが、無常という真理を受け入れる道。
- 困難さは喜びである、ということを受け入れるまで強くなる、それまで、私たちはこの努力を続けなければならない。
26 存在の質
- 「落ち着きの中に活動があり、活動の中に落ち着きがなければならない」。「落ち着き」と「活動」は同じこと。活動の中に調和があり、調和があれば、そこには落ち着きがある。この調和が「存在の持つ質」。しかし、存在の質とは、同時にすばやい活動に他ならない。
- なにかを行うときには、自信をもって、その活動に心を置けば、その心の質が、その活動そのものになる。自分という「存在の質」に集中すれば、その活動に対する準備ができている。動きとは、私たちの存在の質に他ならない。
- 「すべては、広大な現象の世界の中で閃く光にすぎない」(道元)という言葉は、私たちの存在や活動の自由ということを意味している。私たちは、実際は一つの同じ存在であり、しかも異なっている。私たちが独立した存在であるがゆえに、それぞれが完全に、広大な現象の世界の中に閃く光なのだ。あなたが座るとき、万物があなたとともに座る。万物はあなたという存在の質をつくり上げている。
- あなたは静かに座っているように見える。しかし、あなたの活動、あなたの過去、あなたの現在というものは、すべてそこに包含されている。すべての活動はあなたの内部に包含されている。それがあなたの存在だ。
27 自然さについて
- 「自然」というのは、すべてのものから独立している存在の感覚。あるいは「無」をもとにした活動のこと。なにかが無から生まれるとき、そこには自然がある。⇔自然見外道(じねんけんげどう)=勝手にさせておく、放任する
- 種には、自分がある特定の植物であるという考えはない。しかしそれは、それ自身の形を持ち、大地や周囲と完全な調和を保っている。育つにつれてその性質を表わしてくる。どんなものも、形や色をもっている。が、それは他の存在と完全な調和を保っている。
- のどが渇いたときに水を飲むようにして座るのが、真の坐禅の修行。そこには自然さがある。
- (ねたみ、そねみなどの感情を抱くとき)あなたの心は、ほかの考え、だれかの考えとからまりあっている。そのため、あなたは独立していない。あなた自身ではなくなっている。自然ではない。
- 「真空妙有(しんくうみょうう)」とは、真の空<エンプティネス>から驚くべき存在が現れてくること。真の存在は、一瞬一瞬、無から現れてくる。しかし普通、無というものを忘れてしまい、まるで自分が何かを所有しているようにふるまって、自然ではなくなる。誰かの話を聞くときに、自分自身の考えを持つべきではない。
- 柔軟心(にぃうなんしん)とは、柔らかで、かたくなではなく、滑らかで、自然な心。このような心で、あなたの行うことが無から生まれるとき、あなたはすべてを持つ。人生は喜びとなる。
28 空
- 仏教では、生命とは存在と非存在の両方を含むと理解する。鳥は存在するが、同時に存在していない。存在だけに基づく人生の見方は、的がはずれている。真の存在は、空<エンプティネス>から生まれ、空に戻る。
- 私たち一人一人が、自分の真の道をつくっていかなければならない。自分の道をつくろうと一所懸命になると、人を助けることになる。そのとき、あなたは人から助けられるだろう。自分の道をつくるまでは、誰も助けることができず、また誰もあなたを助けない。
- 真の理解は空から生まれる。仏教を学ぶときには、心の大掃除をしなければならない。
- 集中とは自由のこと。自由なしに、本当になにかに集中することはできない。自由を得る前には、あなたの行うことは二分法にとらわれるか、ないしは二元性を帯びてくる。二元性にとらわれていると、絶対の自由を獲得できず、集中できなくなるのだ。
29 待ち受けている。とらわれないで見ている
- 「空」ということを理解する前には、すべてのものは実質として存在しているように見える。しかし、物事の空性を悟ると、すべては真の実在<リアル>となり、単なる実質ではなくなる。見るものすべてが空性の一部であると悟ると、どのような存在にも執着しなくなる。すべては仮の形と色を持つだけ。こうして私たちは、仮の存在ということの真の意味を知る。
- 「悟る」とは、理解とか修行とかの問題ではない。それは私たちが一瞬一瞬、今、ここで、目の当たりにしている絶対の真実。「修行する前にすでに悟りはある」というのが、菩提達磨の禅。
- 智慧とは、学習して見につけるものではない。智慧は、マインドフルネスから生まれる。ポイントは、つねにものごとをありのままに観察するように待機しているということ。
30 無を信じる
- 「無」とは、虚無という意味ではない。なにかがある。そのなにかは、いつも、特定の形をとろうと待機している。その働きには、規則、理論、あるいは真実がある。これを仏性と呼ぶ。あるいはそれはブッダ自身である。
- もし自分を真理の仮の体現者であると理解すれば、どのような困惑も悩みもなくなる。
- 私がいう「悟り」の意味は、「無を信じる」ということ。なんの形も色もなく、特定の色や形になろうといつも待っているものを信じる、ということ。これは悟りの不変の真理。この本来の真理の上に、私たちの活動や思考、そして修行の基礎が置かれなければならない。
31 執着と非執着
- 多様性と一者とは同じもの。それぞれの存在の中に一者性を見るべきである。このため私たちは、なにか特定の心の状態ではなく、日常の生活を重視する。私たちは、一瞬一瞬に、そして、それぞれの現象に、実在<リアリティ>を見なければならない。
- 「すべては仏性を備えている。とはいえ、私たちは、花を愛で、雑草は気にかけない」(道元)。これは人間の性質の真実であり、美しいものに執着するのもブッダの働き。雑草を気にかけないというのもブッダの働き。愛と憎しみは、一つのもの。愛だけに執着すべきではなく、憎しみも受容しなければならない。雑草も、それに関してどのように感じるかにかかわらず受け入れる。気に入らなければ、愛さなければいい。もし好きであれば、好きになればいい。
- 感情的には、私たちはたくさんの問題を抱えている。しかし、それらの問題はつくり出されたもの。私たちの自己中心的な考えや見方によって、問題だと示されているにすぎない。困難な中に幸福はあり、幸福の中に困難はある。感じ方は違っていても、実際にはそんな違いはなく、本質は同じ。
32 静けさ
- 禅の価値は、座っているときよりも、毎日の暮らしの中にみつけることができる。禅を学ぶものにとっては、ほとんどの人にとってなんの価値もない雑草は、宝なのだ。
- 「悟りを得る前に、すでに悟りを得ていなければならない」。なにかをなそうとすること、それ自身が悟りである。つらさを感じること、それ自身において悟りを得ている。汚れた中にあるとき、落ち着きを見なければならない。人生の儚さの中にのみ、永遠の命の喜びを見出すことができる。
33 哲学ではなく、経験を
- 努力の意味を知るには、努力の源を見つけなければならない。初源を知らないで、努力の結果だけについて関心を払うべきではない。一瞬一瞬、あなたの努力が、純粋な初源から起きてくるものであれば、あなたの行うことはすべてよいものとなるだろう。
- 坐禅の修行とは、私たちの本来の純粋な生活を始める、ということ。修行によって、私たちは、自分の本来の姿をありのままに保つのである。
34 もともとの仏教
- 本来仏教とは、特定の教えではない。仏教とは「絶対の真理」のこと。坐禅の修行とは、生命のさまざまな働きが含まれている修行なのである。
- 私たちは曹洞宗ではない。私たちはみな仏教徒である。私たちは禅の仏教徒ではない。ただの仏教徒だ。
- 宗教というのは、特定の教えのことではない。宗教は、いたるところにある。教えとは、今、ここ、一瞬一瞬の、すべての存在の中にある。それが真の教えだ。
35 意識を超えて
- すべてをありのままにしておく。するとどんなものごとも、あまり長い間こころにはとどまっていない。やがてあなたは透明で、空の心を、長い時間持つようになる。心は、もともと空なのだ、ということをしっかりと確信すること、それが修行においてもっとも大事なこと。
- 「妄想のただ中で、自分の修行を打ち立てなければならない」(道元)。妄想の中で純粋な心、本来の心を持てば、妄想は消え去る。「これは単に妄想だ」として、それにわずらわされないようにすると、あなたは真実の落ち着いた心を持つ。それをなんとかしようとすると、妄想に巻き込まれる。
- 通常、宗教は、意識の世界で発達する。しかし仏教は、無の意識の世界を重視する。仏教の教えの目的は、私たちの純粋な、初源の心の中に存在している「意識を超えた生命」、それ自身をさし示すことである。
36 ブッダの悟り
- どこに行こうとも、あなたは周りの主人でなければならない。つまり自分の道を見失わない、ということ。このようなあり方でいつもいるために、あなたはブッダ自身なのだ。
エピローグ -禅の心―
- あなたの側にいつもある心は、単にあなただけの心ではなく、普遍的な心であり、いつも同じであり、他人の心と異なったものではない。それが禅心<ゼン・マインド>。大きな、大きな、大きな心。
- 皆さんの心は、つねに皆さんが見るものとともにある。したがって、心とは、同時にすべてなのだ。真の心とは、見守っていく心である。
- 自分がなにかを行っている誰かである、ということを見つけるのが大事。それは、自己という実際の存在を、修行を通じて取り戻すこと。つねに、すべてとともにある自己、つねにブッダとともにある自己、すべてによって完全に支えられている自己というものを取り戻すこと。今、ここで! このような自身があれば、それが悟りだ。