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『アドラー心理学入門』
岸見一郎 著
ベスト新書(1999年)
本書『アドラー心理学入門』は、ベストセラーとなった『嫌われる勇気』の著者である岸見一郎氏が、『嫌われる勇気』に遡ること14年の1999年に著したもの。アドラー心理学の鍵となる諸概念がコンパクトにまとめられている。
アドラーによって体系化された心理学を、アドラー自身は「個人心理学」(individual psychology)と呼ぶ。それは、それまでの心理学のように人間を、精神と身体、感情と理性、意識と無意識といった二元論で捉えるのではなく、分割できない(in-dividual)全体として捉え、人間は統一されたものであるという考えに基づくもの。別の言葉でいえば、人間をそれ単独では生きることのできない、全体性をそなえた「生命体」と捉えるところに特色がある。
そしてアドラーは、生命としての人間が、どうすれば生き生きとその命を輝かせて生きることができるか、どうすれば幸せになれるかを追求するわけだが、そこで鍵となるのが「目的論」という概念。普段、私たちはある問題に直面すると、その「原因」がどこにあるかという視点から問題解決に当たろうとするが、アドラーはこれを徹底的に「目的」の側からながめることによって解決しようとした。すなわち、人は「原因」によって後ろから押されて生きるのではなく、目的や目標がまずあって、その「目的」実現のために行動すると考えたのである。
アドラー心理学は、いうまでもなく人間「個人」を対象としたものだが、こうした「目的論」によるアプローチは、個人のみならず「法人」に対しても非常に有用性に富んだものと、筆者(馬渕)は本書を読んで一人大きく頷いた。
分割できない生命としての私たちは、家族や学校、職場、社会、国家といった社会に組み込まれた社会的存在(social embeddedness)であり、それらの「共同体」の一員として生命を維持している、というのがアドラー心理学の基本的な考え方だが、ということは、共同体もまた生命であり、「目的」の実現にむけて活動を行うときに、それは最も輝く存在となるに違いない。輝く個人との間で互いに反応しあう「場所」となるに違いない。
そう考えると、組織は、その「ビジョン」を目的に、ビジョンから逆算する形で現在の為すべき活動を考えていくと、当該組織が幸せを掴むための最善の途を見出すことができる、ということになる。さらにまた、本書では言及されていないが、アドラー心理学における究極のゴールともいわれる「共同体感覚」(人が根本的に理想として持っているのは「所属」しているということ、共同体に受け入れられているということ)という概念は、日本の組織風土とも非常に親和性の高いもの――アドラー心理学は、「目的志向の経営」を実現する上でも非常に有益な、示唆に富む方法論だと確信した。

1章 アドラーはどんな人だったのか
- 個人心理学: 人間を分割できない全体ととらえ、人間は統一されたものであると考える。人間を精神と身体、感情と理性、意識と無意識に分けるというようなあらゆる二元論に反対する。
第2章 アドラー心理学の育児と教育
- 育児と教育の「目標」: アドラー心理学ははっきりとした「目標」を掲げ、絶えずその目標を達成する方向で子どもを援助する。育児の行動面の目標として、①自立する、②社会と調和して暮らせる。心理面の目標として、①私は能力がある、②人々は私の仲間である、を提示する。
- ライフスタイル: 行動は信念から出てくると考えるから、適切な行動ができるためには、それを支える適切な「信念」を育てなければならない。ここでいう信念は、自己や世界についての意味づけの総体であり「ライフスタイル」と呼ばれている。親や教師は、子どもと接する際、自分の行っていることが子供の信念を形成する援助となっているかを絶えず点検していかねばならない。
- 子供は、体験を試行錯誤的に繰り返す中で、信念を身に付け固定する。人は不断に変わらないでおこうと決心している。が、そのような決心を取り崩せば、ライフスタイル(性格)を変えることは困難ではない。
- 意味づけ: 人は誰もが等しく同じことを経験しているのではない。即ち、人は客観的な世界に生きているのではない。
- 私は能力がある: 自分の人生の問題を自分の力で解決することができるという意味。このような能力があると感じることが、自信を築く唯一の方法。
- 対人関係の中で考える: 個人はただ社会的な(対人関係的な)文脈においてだけ個人となる。私たちの言動は、その言動が向けられる「相手役」がいて、その相手役から何らかの応答を引き出そうとするもの →人間の悩みはすべて対人関係の悩みである。
- 目的論と原因論: アドラーは、「なぜ」と問うとき、行動の「原因」ではなく「目的」を答えとして期待している。人は原因によって後ろから押されて生きるのはなく、目標を設定してそれを追求する。「どこから」ではなく、「どこへ」を問うている。私たちは、目的や目標がまずあって、その目的の実現のために行動をしたり、感情とか思考を創っている。感情は、私たちの心の中にあるのではなく、私たちと相手との間にある。
- 劣等コンプレックス: 闘う、攻撃的な子どもたちにはいつも「劣等コンプレックス」とそれを克服したいという欲求を見出すことができる(=行動の目的)。注目を引く/闘う/権力争い=自分を実際より大きく見せようとする
- いいコミュニケーションがあるところに愛の感情は生まれる。愛の感情は、うまくいっている対人関係ではなく結果である。
- 未来: 行動の目的を見ていくことのメリットは、適切な対処の仕方が明確に分かること。目的は過去にあるのではなく未来にあるから。
- 不適切な行動には注目せず、適切な行動に注目する。ただしそれは「ほめる」ことではない。ほめるというのは、能力のある人が能力のない人に、あなたは<よい>と上から下へと相手を判断し評価する言葉。下に置かれて人は愉快ではない。
- 問題行動をとる子どもは、「普通であることの勇気」をくじかれているから。普通でないという安直な方法によって「成功と優越性」を手に入れようとしているから。
- 優越コンプレックス: 優越性の追求(=優れていようとすること)は普遍的な欲求。ことさらに他の人よりも優れていなければならないと考える優越性の追求を「優越コンプレックス」と考えた。これと対をなすのが「劣等コンプレックス」。
- 勇気づけ: 自分には課題を達成できる能力があるという自信を持つように援助することができれば、「勇気づけができた」といえる。どうすれば勇気づけになるかは一概にはいえないが、原則的には、ほめる、即ち「評価する」のではなく、喜びを共有すること、自分の気持ちを伝えることは勇気づけになる。
- 「存在」への勇気づけ: 理想の子どもを基準にして現実の子どもをそこから引き算するのではなく、「存在」していることが既に喜びであることを伝える。
- 課題の分離: 「これは誰の課題か?」。誰の課題かは、最終的に誰が責任を引き受けなければならないかという問題。
第3章 横の関係と健康なパーソナリティ
- 競争と縦関係: アドラー心理学では、縦の人間関係は精神的な健康を損ねるもっとも大きな要因であると考え、横の人間関係を築くことを提唱する。ほめることに対して勇気づけは、「横の関係」を前提とする。
- ヤコブの階段: 人は水平面に生きている、人は皆それぞれの出発点、目標を持って前に進んでいくのだ。そこには優劣はなく、ただ先に行く人と後を行く人がいるだけで、しかしその皆が協力して全体として進化していくのである。このように、子どもと大人は同じではないが、対等なのである。
- 進化: 人は進化をめざして「前」へと進むのであって「上」へと進むのではない。(ジッハー)
- あらゆる人との対人関係の中で横の関係でいられるとすれば、自分をよく見せようという努力をしなくていい。何かを証明しないといけないと感じるときは、いつでも行き過ぎる傾向がある。
- 精神的に健康であるためには、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」はどれ一つ欠くことができない。他の人に貢献できる自分が受け入れられるのであり、貢献するためには他の人を信頼できていなければならないから。
- 共同体感覚: 人が根本的に理想として持っているのは「所属」しているということ、共同体に受け入れられているということである。人は一人だけで孤立して生きているのではなく、全体とのかかわりの中で生きているわけだから、まったくの私的な、あるいは個人的な意味づけ(私的感覚)ではなくよりコモンな(普遍的な)判断としての「コモンセンス」(共通感覚)を持つことが重要だ。この「共同体感覚」こそが人類を救い、人が精神的に健康であるかどうかをテストする唯一の妥当な方法だ。
- 善と幸福: コモンセンスをただちに共同体感覚であると見ることは、多数決原理を帰結することになり危険。そこで私(岸見)は、それに代わって、社会適応でもなく、共同体感覚でもない「善」あるいは「幸福」を、私的感覚が単なる私的でないための判断基準として考えてみようと思う。
第4章 アドラー心理学の基礎知識
- 人生の課題: 仕事の課題、交友の課題、愛の課題
- 人生の嘘: 「Aであるから(あるいはAでないから)、Bでない」という論理を日常のコミュニケーションの中で多用することが「劣等コンプレックス」。劣等コンプレックスは、心の中で起こっている現象ではなく、対人関係の中でのコミュニケーションのパターンに他ならず、人生の課題を回避するための口実を持ち出すこと。持ち出される口実は、まわりのものが思わず「しかたない、そういう理由があるのなら」と思うようなことが多い。
- 反決定論: ある人について、社会的条件だけでは説明することはできない。それらは「影響因」ではあっても「決定因」ではない。環境や教育、また素質ではなく「自分」が自分を決める。アドラー心理学は「法則定立的」ではなく「個別記述的」である。たとえば「遺伝」。それは実際には何も因果関係のないところに、因果関係を見出すこと。その目的は、自分の行動の責任を他のものに転嫁すること。
- 経験: 「原因」はいくらでも出してくることができる。私たちは経験によって決定されるのではなく、「経験に与えた意味」によって自分を決める。
- 個人の主体性: アドラーは、アクラシアー(意志薄弱)は認めない。葛藤という事態を認めない。全体としての「私」があることをする、と決めたり、また、しない、と決めたりするのであり、心のある部分はしたいと思っているが、別の部分はしたくないというような乖離はいっさいありえない。わかっているできないというのは、できない(cannot)のではなくしたくない(will not)のだ。ある行為を選択する時点で、選択の責任はその人にある。アドラー心理学は、責任を問う厳しい心理学である。
第5章 人生の意味を求めて
- 「人生の意味は何ですか?」。アドラーは答えた。「一般的な人生の意味はない。人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」
- 楽観主義: 楽天主義は、何が起こっても大丈夫、悪いことは行らない、失敗するはずがないと思うこと。大丈夫だと思って何もしない。悲観主義は、状況に対する勇気を欠いていて、何ともならないと諦めて結局何もしない。人があらゆる状況で楽天的であれば、そのような人は間違いなく悲観主義者。これに対して、何とかなるかどうかは分からないが、何ともならないと考えることはない、とにかくできることをやろうと思ってやるのが楽観主義。