ダイアローグ180516

「日本型経営」の新しい姿


[この本に学ぶ]
本当に日本人は流されやすいのか
 施 光恒 著
角川新書(2018年) 


日本のビジネスマンは疲れている。そしてその疲れは1990年代後半以降、ますます度を増している。バブル期の1989-91年に「24時間戦えますか」のCMが爆発的にヒットしたリゲンインのキャッチコピーも、「その疲れに、リゲインを。」(1996年)「たまった疲れに。」(1999年)「疲れに効く理由がある」(2004年)と、明らかに“疲れ”を見せている。

日本人ビジネスマンはなぜ疲れているのか? そして、やる気を失っているのか? 著者はその「深層/真相」を、文化心理学、発達心理学、文化人類学、社会学、宗教学、言語学など幅広い領域の研究成果を援用しながら分かりやすく解き明かすとともに、日本人が再び活力を取り戻すための処方箋を提示する。

著者は、“疲れ”の最大の原因は戦後の日本社会に溢れつづけてきた「ダブル・バインド」なメッセージと、それにより人々が抱えることとなった「自己矛盾」にあるという。

ダブル・バインド(二重拘束)なメッセージとは、半ば無意識の暗黙のレベル(習慣的レベル)では、人間とは他者との関係のなかで暮らし、他者との調和を求めつつ、自己を活かしていくべき存在であるという関係志向的なメッセージが根強くある一方、明示的・言語的レベルにおいては、戦後日本では、関係志向的な思考や行動はあまり推奨されず、むしろ「遅れたもの」「ムラ社会的なもの」とされてきた。知識人の著作やジャーナリズムの報道などは、関係志向的なものを否定し、より個人主義的な倫理を主張するもので溢れていた――そうした状況のことを指す。アタマでは理解できても、カラダやココロがついていかない、というわけだ。

「相互独立的自己観と相互協調的自己観」「原理重視の道徳観と状況重視の道徳観」「自己主張的要請と配慮的要請」「顕教的な価値と密教的な価値」「タテマエとホンネ」なども、ダブル・バインドな状況を生み出してきた類似概念として本書で紹介されている。

日本人ビジネスマンの“疲れ”の最大の原因となっているダブル・バインドはどうすれば解消できるのか? 著者は次のように結語する。

「日本経済の本来の強みは、いわゆる起業家や経営者という一握りの者たちだけでなく、現場の従業員や作業員に至るまで、非常に多くの人が創意工夫を重ね、創造性を発揮し、よいよい仕事をしようという意欲をもってきたところにあるはずだ」

「私は、かつての「日本型資本主義」や「日本型経営」をそのまま復活させるべきだと言いたいわけではない。私が訴えたいのは、グローバル・スタンダード幻想から脱却し、自分たちの半ば無意識のものの見方や感覚に自信をもち、自分たちの能力を最も引き出しやすい仕組みや制度、ルールを試行錯誤的に作っていく努力をあらためて行っていくべきだということである。その試行錯誤の努力のなかから、徐々に現状に合う新バージョンの「日本型資本主義」「日本型経営」の姿が立ち現れれてくるはずである」




第1章 同調主義的で権威に弱い日本人?
  • 進歩的文化人による日本社会批判: 日本人は、いまでもムラ社会的な体質が抜けきれておらず、自律性や主体性を確立していない。権威・権力や世間、周囲の多数派の意見に同調しやすい。一歩間違えば、戦前の軍国主義や全体主義に再び流されてしまう危険性もある。このような批判を、リベラル派の知識人やジャーナリズムの多くが展開してきた。
  • そういう事態に陥らないように、日本人を、自律性や主体性を持ち、確固とした自己を備えた「近代的個人」に変革しなければならない。欧米のような主体性を持った「市民」からなる社会へと日本社会を改造していかなければならない――という議論が処方箋として提示されてきた。
第2章 日本文化における自律性――ベネディクト『菊と刀』批判を手がかりに
  • 恥の文化: ものの善し悪しを判断する際に、他者の目や世評を基準とする外面的道徳が支配的な文化。同調主義的で他律的な道徳観を有する文化、とベネディクトは規定した。
  • 罪の文化: プロテスタンティズムの文化に特徴的に見られるように、道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする文化。罪の文化では、先験的に存在する道徳の絶対的原理に確信を持って従うことが道徳的行為であると考えられる。したがって、他者の目や世評を気にかけて行為するようなことは、罪の文化では「道徳の弛緩」、つまり堕落であり、望ましいことではないと理解される。

  • 相互独立的自己観: 自己は、状況や他者との関係性から分離した自己充足的・自己完結的な実体として認識される傾向が強い。自己は、状況にかかわらず比較的不変の内的属性とされるもの(例えば能力、才能、動機、性格的特性など)との関係で定義されがち。
  • 相互協調的自己観: 自己は、周囲の状況や他者と密接に結びついたものと知覚され、それらとの関連で規定される傾向が強い。
  • 原理重視の道徳観: 道徳的思考・判断の際に、状況を超越した原理――例えば公正さや普遍的平等、人権などの原理――を強調する見方。
  • 状況重視の道徳観: 具体的人間関係や他者の気持ち、自分の社会的役割などの状況における具体的事柄を道徳的思考の際に重視する道徳観。

  • 「思いやり」の能力: 状況重視の道徳観では、他者の期待や感情や思考を敏感に察知し読み取るために必要な感情移入の能力――「思いやり」の能力――の獲得が要求される。交錯した人間関係の網の目や他者の社会的役割に対する複雑な意味や期待などからなる非常に多義的なもの。状況適合的な行為をなすためには、状況に関する世間や他者の解釈や自己の行為に対する反応を常に参照し、敏感に察知することが必要だから。
  • スミスとミード: GHミードは、アダム・スミスの『道徳感情論』から多くを学び、「社会的自己」の理論を構築した。両者の議論は、多様な他者の視点の内面化を通じた自律性、いわば「恥の文化」における自律性獲得のメカニズムを明確に示している。

  • 状況重視の道徳における自律性: 人が、内面化した世間の目から自己と自己の周囲の状況を見つめる見方と、実際の世間がその人と人の状況を見つめる見方とは、必然的に乖離していく。ひとたびこの「乖離」の事実に気づくと、人は、内面化した「一般化された他者」の同意(つまり自分自身を見つめる自分の同意)や実際の観察者である現実の他者や世間の同意だけでは満足できなくなり、当該状況において真に賞賛に値するもの(スミスの用語でいうところの「公平な観察者」)に自分の思考や行為を近づけることを目指すようになる。ここに自律的な思考や行為の契機を見出すことができる。
  • お天道様: 日本人は通常、周囲の特定の他者や世間に無批判に同調するよりも、「お天道様」の同意を得られるように行為する方が望ましいとみなす。お天道様とは、「公平な観察者」に当たる。つまり、自分の置かれた複雑な状況をすみずみまで非常によく理解したうえで偏りのない判断を下す第三者の視点。

  • 離見の見: 世阿弥はその芸術論のなかで、演技者は「離見の見」を内面化することによって、「我見」だけでは見ることのできない自分の後ろ姿まで意識することができるようになり、美しい表現を行うことができると説く。他者の視点を内面化することにより、自己を見つめ、状況により適ったものへと自己の振る舞いを吟味・洗練していく一種の反省能力を身に付けるという意味での「自律の理念」、そしてそうした自律の能力の獲得・発揮を通じた「成熟の理念」だということができる。
  • 守破離: 最後の「離」の段階では、その芸道や武道において伝承され、自分が身に付けようと専心してきた技芸の型自体の意味を、状況との関連でさまざまな角度から問い、真に状況に適ったよりよきものへと洗練していこうとする。

  • 内観法: 内観法によって、考え方や生き方が自己―中心的なものから関係―中心的なものへと転換する。内観をうまくやりとげたクライアントは、このように新たに経験された「関係―志向的な姿勢」において、本当の(本来の)(オーセンティックな)自分に出会えたという気持ちを抱き、より活力をもっていきいきと生きられるようになる。
  • 過去の世代の視点: 「死者」に関する日本的観念の特徴は、死者は、生きている我々のそばを離れず、我々の行いをそれほど遠くないところ(草場の陰)から常に見守っている点にある。すなわち、日本で優勢な道徳観では、本来、内面化すべき多様な他者の視点の一つとして、死者の視点、つまり過去の世代の人びとの視点も含まれなければならないと考えられてきた。さらには、人間だけでなく、動植物、あるいは事物(モノ)も含まれうる。

第3章 改革がもたらす閉塞感――ダブル・バインドに陥った日本社会
  • 「1990年代後半」という転換点: ロナルド・ドーアは、日本経済の転換点として、90年代後半、特に97年に注目すべきだと指摘する。ケインズ主義に基づく日本型資本主義(日本型経営)の路線から、グローバル化への対応を至上命題とする新自由主義に基づく構造改革路線への転換である。
  • 日本人を動かす要因: 「相互協調的自己観」の持ち主にとって、他者とのよい関係を作り出し、維持すること、他者の期待を受け止めそれに応えることが動機づけの中心となる。部下に頼りにされる上司になること、組織の大黒柱として期待されること、縁の下の力持ちとして評価され感謝されること、などが日本人を動かす主要因である。

  • 現代日本人の「自己矛盾」: 現代の日本社会では、暗黙裡の反応から読み取れる価値観としては極めて関係志向的であるにもかかわらず、明示的・意識的なレベルでは関係否定的である。つまり半ば無意識のレベルと意識的レベルとの間に大きな自己矛盾が生じている(北山忍)。
  • 戦後の日本の親は、英独仏の親と比べて、親孝行や自己犠牲という徳を少なくとも明示的・意識的レベルでは自信をもって教えることが難しくなっている。その結果、意外なことに、日本の親や子のほうが意識の面では個人主義的な様相を示しがち。

  • ダブル・バインド(二重拘束): 異なったレベルのコミュニケーションのなかで相互に矛盾するメッセージが発せられ、その受け手が混乱し、がんじがらめとなり、そこから抜け出せない状態。
  • 現代日本社会のダブル・バインド: 自己矛盾に陥っている現代日本人のメンタリティを作り出してきたのは、現代の日本社会にダブル・バインドなメッセージが溢れているため。半ば無意識の暗黙のレベル(習慣的レベル)では、人間とは他者との関係のなかで暮らし、他者との調和を求めつつ、自己を活かしていくべき存在であるという関係志向的なメッセージが根強くある。一方、明示的・言語的レベルにおいては、戦後日本では、関係志向的な思考や行動はあまり推奨されず、むしろ「遅れたもの」「ムラ社会的なもの」とされ、低い評価を受けることが少なくない。
  • ダブル・バインドとひきこもり: ひきこもり現象の背後には、日本に昔から多い「対人恐怖症」が。その原因の一つに、日本における相対立する「2つの社会的要請」の存在がある(近藤章久)。「配慮的要請」は、「人に好かれなければならぬ、よく思われねばならぬ」という要請。「自己主張的要請」は、明治以来の近代化による競争社会を反映して強くなったもので、他者よりも「偉いものに見られなければならない」「劣ったものに見られてはならない」という要請。対人恐怖症者は、この2つの要請を双方とも強く内面化しており、矛盾する2つの要請の間で心理的緊張や葛藤を抱え込む。

  • 「自立社会」の落とし穴: 「自立」を強調する社会では、本来ならば、それを可能とするきめ細かい対応が工夫される必要があるが、現代の日本はそうなっていない。その結果、①潜在能力を有する一握りの人間か、②他人からどう思われようとも関係ないと割り切れるか、でなければ生きにくい社会になっている。これに該当しない多数派の若者のなかで、「自立」という課題を深刻に受け止めつつ、それが達成できないと脅威に感じてしまったものが対人関係から脱却していく。(高塚雄介)
  • 「自分を大切にする」「自己実現こそ大事」などの言葉に象徴される近代的(欧米文化的)な自我を今の若者たちは育まれている。一方で、他人との調和を大事にするという、極めて東洋的/日本的な自我もまた育まれており、両者が内面において共存している。そして、「本音」と「建前」を使い分けること自体を悪と捉える今日的価値意識のため、若者たちに内的な乖離状態をもたらしやすくなっている。(高塚雄介)
  • 日本人の「しあわせ」感: 米国人は、自分が他者から独立しており、他者よりも勝っていると自分の優位性が感じられたときに幸福感を多く覚える。他方日本人は、他者との調和的なつながりや結びつきが感じられたときに幸福だと感じる度合いが高い。

第4章 「日本的なもの」の抑圧――紡ぎだせないナショナル・アイデンティティ
  • 言説の二重性: 改革論への疑問は、決して「世論」という言説の表面には表れなかった。「世論」という名の下に集約される人々の主流の声は、あくまで構造改革の必要性を説くものであり、それが「公式」のものとして認知された。こうした「言説の二重性」は構造改革に対する賛否に限られず、戦後日本社会にかたちを変えつつ、常に流れているテーマソングではないか。(佐伯啓思)
  • GHQによる占領政策の基調には、先の大戦を「ファシズム・軍国主義に対する民主主義の戦い」と位置付ける米国の立場があり、人間社会は集団主義的な封建主義から、自立した個人の市民社会へと進歩すると解釈する米国のイデオロギーがあった。この認識もしくは宣伝によって、米国は対日占領政策を正当化した。(佐伯啓思)

  • この西洋市民社会論の表層をすくって作り出したようなイデオロギーが、戦後日本人の「公式言説」の中心部となった。「民主主義 対 軍国主義」「市民社会 対 封建社会」という図式は、ほとんど吟味されたり検討に付されたりすることなく、「公式」にはほぼ無条件に受容されることとなった。
  • 戦後レジーム: 戦後日本では、マスコミや学者、評論家が広く用い、喧伝するアメリカ的で「普遍的」な理念が「公式的」なもの、つまり「顕教的な価値」となった。他方、「日本的なもの」「日本的な価値」と称されるようなさまざまな伝統的もしくは土着的な習慣や思考は、言語化し、公の場で語ることが憚られるものとなった。いわば「密教的な価値」となり、非公式な場でしか扱われにくくなった。終戦以来の日本の最大の課題は、国際社会に迎え入れられ、承認を得、名誉ある地位を占めることであったため、米国的な理念に彩られた「公式的」なものだけでやっていこうとした――こうした、「顕教的な価値」と「密教的な価値」との二重構造こそが、いわゆる「戦後レジーム」だといえる(佐伯啓思)

  • 不安定なナショナル・アイデンティティ: 日本の伝統文化の基底にある危険な前近代的、古代的な層が何らかのきっかけによって噴き出し、恐ろしい事態を招かないように、国際的相互依存の度合いを増大させ、つまり「グローバル化」を推し進め、日本が自らの意思で自由に動けないようにする――こうした自らの基底にある「日本的なもの」を嫌悪し、恐れる心理が、朝日をはじめとする日本の「リベラル派」「左派」にはある。

  • 日本の怪談話の特徴: 日本の「怖い話」には、ある人が自分の過去の悪い行いのため、その人自身が幽霊や妖怪から罰を受けるという「自罰的構造」「因果応報的構造」をもつ話が多い。幽霊は、基本的に自分に害を及ぼした者(つまり加害者)の前だけに現れ、加害者がそれに悩まされるという話が普通。一方、欧米で多いのは、キリスト教の戒律を破ったため神に罰せられ、さらし者的にさまよっている亡霊にある人が遭遇する、あるいは襲われるというもの。
  • 『リング』ヒットの背景: 現代の日本人の多くは、前世代からの教えに背き、継承の連鎖を断ち切ろうとしてきた。先人が大切に育み、世代から世代へと伝えてきた「日本的感受性」に基づく道徳を事実上裏切り、それを「井戸」の奥底に、つまり意識の深層に沈めようとしてきた。また、日本をそうした感受性とは無縁のものへと改造しようとしてきた――それについて、少なからぬ日本人は、半ば無意識のレベルでは罪悪感や不安感を覚えてきたのではないか。『リング』は、零落した巫女としての貞子――「日本的感受性」の象徴――を井戸の奥底に沈め、そのために貞子の怨念に悩まされる物語として見ることができる。

第5章 真っ当な国づくり路線の再生
  • 不統合を解消する2つの方法: 不統合を解消するための方法には、①意識レベルの価値観を重視し、こちらに半ば無意識のレベルを適合させる、②半ば無意識のレベルの心理的傾向性に重きを置き、それに適合するように意識レベルの価値観を調整し更新していく、という2つが考えられるが、私は第2の道を模索すべきと考える。
  • 心の働きの相互構成: どの社会でも、伝統的な慣習や規範、社会構造といったものが長い時間をかけて形成される。これらは、各々の社会で独自の特徴、つまり文化的特徴を帯びる。各々の社会に生まれ落ちた個人は、そうした文化的特徴を備えた慣習や規範、社会構造に参加するなかで自らの「心の働き」を形成していく。その結果、個々人の心の働きも社会ごとの文化的傾向性を帯びたものとなる。また心の働きの面で文化的特徴を共有する人々が、その社会の慣習や規範、社会構造といったものを維持し、時代に応じて修正を施していく――北山忍は、このように、慣習、規範、社会構造などの周囲の事物と人々の心との間の「相互構成(mutual construction)」の過程に注目する必要性を指摘する。

  • 和魂洋才: 明治以来の日本の外来の知の摂取には、「採長補短」「和魂洋才」という考え方があったが、戦後好まれなくなったことを梅棹忠夫は嘆く。
  • 日本型個人主義: 北山忍は「…何を正しいとして、何が望ましいとして、何をもって価値観として考えるかを社会全体として見直すことのほうが容易かもしれない」と述べ、明示的な意識レベルのもののほうを変えることを推奨する。この作業は、人間関係こそが個を実現するための糧であると捉える一種の「日本型個人主義」を構想する作業かもしれないとも語っている。

  • 脱・構造改革路線の方向性: 私が提案したい今後の脱・構造改革路線は、関係を重視する半ば無意識の心理的傾向性やそれと密接な関係を持つ日本の習慣や規範のあり方をまず認識することを前提に、人々が、最もなじみやすく、仕事への高い動機づけや人生の充実感、幸福感を抱けるような経済や社会のあり方、そしてそれを支える政治のあり方を試行錯誤的に探究していこうとするものである。
  • 日本型資本主義: ドーアは、かつての日本型資本主義は、多様な他者との関係性を重んじるという意味で共同体的な日本の文化を基盤とするものだとみる。そして、そうした文化的傾向を前提に、人々がよりよき暮らしを求めて試行錯誤を繰り返すなかから主に戦後、自生的に発展してきたものだと考える。

  • グローバル化の本質: グローバル化とは、そもそも、ヒト・モノ・カネ(資本)・サービスの国境を越える移動を自由化・活発化させることを指す。このなかで最も大きな影響力をもったのはカネ、つまり資本の国境を越えた移動の自由化・活発化である。この自由化が進んだことが、各国のそれまでの特徴ある資本主義の形態が変えられ、株主中心主義的なアングロ・サクソン型の資本主義に収斂していった主な要因である。
  • 脱・グローバル化の可能性: グローバル化の反対概念は、鎖国や孤立主義ではなく、むしろ国民主権の復権である。ヒト・モノ・カネ(資本)・サービスの越境的な流れを国が民主的に監督、調整していく力の復権である。各国・各地域の文化や慣習に根差し、それを基盤とする複数の資本主義や自由民主主義からなる文化的多元性に富んだ世界秩序というものが、脱・グローバル化の新しい世界秩序構想の有力な候補の一つであろう。

  • 芸術の生まれ方: 欧米の考え方だと、詩歌をはじめとする芸術は、啓示を受けた個人が生み出すという発想に基づく。神を背負った個人が作ると想定される。他方、日本の伝統では、詩歌は常に、人と人との関わりのなかで生まれると考えられてきた。和歌も俳句も、歌会や句会といった社交の場で作られるのが基本。茶道や華道にしても、日本の芸術は、社交の場で人をもてなすなかで作られるものだった。
  • 「創造性」の捉え方: 日本と欧米のこうした相違は、芸術観ばかりでなく、人の「創造性」に対する見方の違いでもある。欧米では、創造性を担うのはあくまでも個人だが、日本では、創造性が生じるのは、よき人間関係がある場である。状況を共有し、そこに生まれる感情を分かち持つ人々の相互作用のなかから新奇でユニークなものが生じるという発想である。
  • 創造を生む「場」: 新製品の開発など創造性が必要とされる場合、よき信頼関係が得られる「場」を作り、その場における「知の共有」「感覚の共有」を図っていく。そして皆で、忌憚のない意見や感想のやり取りや試行錯誤を繰り返しながら、新奇な、優れたものを生み出していく、というのが日本のスタイル。そうした「場づくり」が個々の人々に活力を与え、新しい発想の創造や個々の成長にもつながると半ば無意識に捉えてきた。
  • 「日本型資本主義」の新バージョン: 日本経済の本来の強みは、いわゆる起業家や経営者という一握りの者たちだけでなく、現場の従業員や作業員に至るまで、非常に多くの人が創意工夫を重ね、創造性を発揮し、よいよい仕事をしようという意欲をもってきたところにあるはず。私が訴えたいのは、グローバル・スタンダード幻想から脱却し、自分たちの半ば無意識のものの見方や感覚に自信をもち、自分たちの能力を最も引き出しやすい仕組みや制度、ルールを試行錯誤的に作っていく努力をあらためて行っていくべきだということ。その試行錯誤の努力のなかから、徐々に現状に合う新バージョンの「日本型資本主義」「日本型経営」の姿が立ち現れれてくるはずだ。