ダイアローグ180415

「言葉」という財産


[この本に学ぶ]
イスラームという生き方(上・下)
 小杉泰/小杉麻李亜 著
NHK出版(2017年) 


本書の著者である小杉泰/小杉麻李亜の二人は父娘。父の泰氏(京都大学大学院教授/イスラーム学)と、父がエジプト留学中に生まれた娘の麻李亜氏(立命館大学講師/文化人類学)のコンピにより、本書が著され、また1年にわたる30分×12回のラジオ放送が行われた。

本書執筆にあたっての著者らの想いは、『イスラームという生き方』という書名に深く刻まれている。即ち、著者らは本書を通じて、ムスリム(イスラーム教徒)たちが抱いているイスラームの考え方、あるいは彼らが「イスラーム的って、こんなことだ」と思って生きている、その実像を日本人に何とか伝えたい。そして、そこで得た、今までの日本にはなかった新たな視点を活かすことにより、この国とここに住む人びとに是非もっと元気に
なってもらいたい――そんな願いが込められている。

先進国では世俗化が進んで宗教が弱まり、宗教の社会的な役割が縮小するなか、イスラーム圏では逆に、20世紀半ばから始まった宗教復興の流れがますます強まる傾向を示している。そのような現象が起きているのはなぜなのか? この点を理解するためには、「現在進行形のイスラーム」とつきあうこと、即ち、現代を人間として互いに理解しあうことが何よりも肝心だと著者はいう。そして、ありふれた生活シーンなどを通じて、イスラームの素顔を教えてくれる。また歴史的な解説についても、昔の話というよりも、それが今を生きるムスリムにとってどういう意味を持つかを明らかにしてくれる。

本書を通じて筆者(馬渕)がいちばん学んだのは、「言葉を大切にする」ということだった。クルアーンは、ムハンマドが受け取った「神の言葉」が綴られた聖典。そこに示された言葉を、ムスリムは当然ながら何よりも大切にする。世界人口の約4分の1にあたる世界各国の人びとが、毎週金曜にモスクに集い、アラビア語で書かれたクルアーンを原音のままに朗誦する。片や我らが日本は、といえば――

最近のモリカケ報道には辟易とする。辟易ならまだいいが、本当に深刻なのは、そうした現象の陰で「日本語の劣化」という問題が、シロアリが家屋の土台をむしばむように進行していることではなかろうか。それを象徴するのが「忖度」だ。

「忖度」の本来の意味は、相手の気持ちを推し量ること。「おもいやり」や「おもんばかり」とも通底する、日本文化の大切な特徴を担う言葉のはず。それが、心ないメディア(ばかりではないが)により、一気に通俗的で薄っぺらなコトバに貶められている風景を目の当たりにすると、本当に悲しくなる。

私たちの先人は、日本語を「言霊」あるいは「言の葉」と捉え、和歌や俳句といった独自の様式も生み出しながら、大切に大切に育ててきた。そのお陰で、私たちは豊かな言葉によって形づくられた社会に生きる恩恵に浴しているはずなのに、それがいま、音を轟かせながら崩れようとしている。「言霊」としての日本語が、深みや厚みや詩情を失い、「情報化」の名のもとに単なる記号へと姿を変えようとしている。

私たちは、私たち日本人の最大の財産である日本語をもっともっと大切にし、この国の未来を生きる人びとのために、より豊かに育てていく責務を負っているのではないか。みんなで一緒に「日本語を育てる」こと。それがすなわち「日本を育てる」ための最善の方法なのではないか――。「イスラームという生き方」は、私に、そんな新たな視点を授けてくれた。

経営者が、その想いを言語化した「経営理念」という言葉を育てることが、同じ意味で大切なのは言うまでもない。




<上巻>

第1回 帰依する人々
  • 金曜礼拝: 週に1回、皆がモスクに集合をして礼拝をする日。帰依の行為を「集団で共有」する日ともいえる。
  • 神の前の平等: 挨拶は、目を見つめ合って握手する文化では、人間同士では頭を下げる所作をしない。唯一神にだけ頭を垂れ、額づいて帰依を誓う。イスラームとは、額をつけて平伏する姿を帰依する信徒の象徴とする宗教ということができる。礼拝の時に横一列に並ぶのは、神の前の平等を表わしている。
  • 政教一元論: 西洋型の「政教分離」「政教一致」は、政治と宗教を二元的に分けた上で分離・一致を論じるのに対し、イスラームではそもそも、そういうふうに分けない。

  • アラビア書道: イスラームではアラビア語の「音」を重視する。聖典クルアーンも、朗誦して聞かせるのが本体。アラビア書道は、「音」の視覚化、聖典の朗誦のリズムの視覚化という側面を強く持っている。イスラーム(Islam)の語根である「S-L-M」は、「安全である」「安心できる」という意味をもち、イスラ―ムは「身を任せて安心すること(帰依)」「帰依して安心を得ること」という意味の動名詞。同じ動詞を元にした「行為者」を意味する名詞が「ムスリム」(帰依する人=イスラーム教徒)。
  • セム的一神教: クルアーンは、ムハンマド以前の諸預言者のすべてを真実と認めるよう求めている。ムスリムは元来「帰依する者」の意味であり、特定の宗教や特定の時代にかかわらないし、人間の生き方そのものを指すという考え方がある。クルアーンでは、ムスリム=帰依者とはイブラーヒーム(アブラハム)に発するものとされる。特定の宗教とは言えない唯一神への帰依の形を「純粋な一神教」と呼んでいる。その意味で、イスラームはまったく新しい宗教なのではなく、イブラーヒームの信仰を再興させるものだという。
  • 無明時代の改革: イスラームが登場する以前のマッカはクライシュ族が「富と血統」によって支配する無明時代。イスラームは、そうした悪弊を否定し、社会改革を行うもの。その原理は「唯一神の信仰」「神の前での人間の平等」に要約される。

  • ムスリム=自然の摂理に従うもの: 「自然界はすべてムスリムである」「すべての被造物が神の摂理に従うしかないのに、人間だけが、神に帰依することも、それを否定して生きることもできる」「その選択肢を与えられているのが人間存在の素晴らしいところ」。ところが赤子は自然の摂理に従って生きている。成長にともない、人間には自分の考えも選択も備わってくる。そこから「帰依か自由か」という問題も出てくる。
  • 帰依か自由か: 人種や民族的出自、部族的系譜や血統などによる差別や不正、社会的階層や経済的階級による不正や不義から自由であることが、神に帰依することの意義であり、帰依と自由を対立させるのは間違い。
第2回 語りかける聖典
  • 朗誦する聖典: ムハンマドが受け取った啓示は天使が届けた「神の言葉」。文字を朗誦するのではなく、最初から耳で聞いたものを暗記して、それを朗誦するのがイスラームの基本。クルアーンはおよそ23年間にわたってムハンマドに届けられた。彼は晩年になると、毎年ラマダーン月にそれまでに蓄積されたクルアーンを通して朗誦
  • 声の文化、文字の文化: 日本語は同音異義語が多くあり、口頭で話すときも文字の知識を前提としている、ロゴセントリックな言語。このような文化では、視覚的なイメージが大きな役割を果たす。例えば、仏像に代表される宗教芸術。一方、アラビア語はフォノセントリックな言語、アルファベットは純粋な表音文字で、文字は音価だけを表わす。音を重視する文化では、視覚的なイメージはさほど発達しない。
  • フォノセントリックな言語の背景にあるのは遊牧文化の影響。絨毯や宝飾品は「携帯可能な財産」として発達したが、その最重要なものが「言語」。
  • 言語の超常的な力: ムハンマドは、クライシュ族の人々から「ジン(幽精)憑きの詩人」と悪罵された。マッカの人々はムハンマドが伝えるクルアーンの章句に超常的な言語力を感じ取った。イスラームが仕掛けたのは、いわば言語の超常性をめぐる戦いだった。
  • 奇跡としての聖典: イスラームでは「クルアーンは奇跡(ムウジザ)である」と主張する。ムウジザは「まねをするよう挑発されても、できないもの」を意味する。クルアーンは「詩人の時代」のアラビア半島に登場した、詩人たち、あるいは彼らを擁して言語を誇るアラブ人たちは、言語の魔力を操り、その力を信じていた。ムハンマドは彼らに挑戦して、啓示の言葉の優越性を示す必要があった。
第3回 ムハンマドという人生モデル
  • ヒジュラ(聖遷): ムハンマドは「ムスリムはみな同胞」という新しい精神で、幾重にも亀裂が入ったヤスリブ社会を平和に戻そうとして、マッカからの移住者とマディーナの元からの住民からなる「イスラーム共同体」を樹立した。イスラーム国会が樹立され「統治者・政治指導者」となった。クルアーンの章句はイスラーム国家にかかわる法規定を含むようになった。
  • イスラームのいろいろな特徴は、ムスリムとは「ムハンマド大好き人間」であり、彼らが「ムハンマドを人生モデルとするから、そうなっている」と説明することもできる。
第4回 「失敗しない商売」のロジック
  • 契約とは合意: 一神教には「神を信ずるとは、神と人間が契約を結ぶこと」とみなす発想がある。人間関係についても契約を非常に重視する発想があり、それは彼らの「商習慣」とも関係している。
  • 教経統合論: イスラームは、宗教の教えと経済の論理が一体となっている。信仰としてのクルアーン読誦、礼拝、喜捨は、失敗のない商売であると、宗教的な善行を功利的な商業倫理で説いている。
  • イスラーム商業帝国: ムハンマド没後わずか120年で、東西の広がりが9000キロを超える版図が生まれた。
  • イスラーム金融①ムダーラバ契約: クルアーンには、神は「商売を許し、リバー(利子)を禁じた」とある。「利子」の定義は、あらかじめ利率が決められていて、事業の成否にかかわらず銀行が元利を取るもの。これでは銀行側はリスクを負わず不公平。皆がリスクを負い、成功したら成果を分け合うのが公平。また利子禁止の背景には、「不労所得が良くない」という考えもある。
  • イスラーム金融②ムラーバハ契約: 顧客の依頼によって物品を購入し、顧客に転売する契約。自動車ローンの代替などとして利用。
  • イスラームの「三項連関」: 中国文明と西洋文明は、都市・農村を基盤として、遊牧民を外部の野蛮な脅威とみなした。それに対しイスラームは、都市・農村・遊牧文化が有機的に結びついた「三項連関」の文明。遊牧文化の特徴である「持ち運べる財産」としての言語が重要な意味をもつ。遊牧民の言語は、時間の経過によって変化しにくい。「時を超える言語」がクルアーンを通じて、その後の時代に向かって、さらに恒久化された。
第5回 結婚力、子作り力の源泉
  • 「異性愛」に基づく男女観: 人間も家畜も男女・雌雄の対に創られており、男女は互いに惹かれ合うようになっているという人間観。イスラーム法は、性欲や食欲などのすべての欲望を肯定すると同時に、それを戒律の体系で律することを求める。そこでは、男女の異性愛は結婚を通じて実践すべき、とされている。
  • 結婚: 結婚とは一組の男女の間の「民事契約」。結婚式は誰でも飛び入り歓迎。結婚を社会全体にとってもめでたい善事と思うイスラーム社会を表わす。
  • ズィナー: 婚姻契約に基づかない性行為を禁止。「ズィナーに近づいてはならない」。そのためイスラーム法学者は、ズィナーにつながる道を手前から塞ぐべきと考える。
  • 人生の肯定: ムスリムは、自分たちが帰依者である、つまり神に帰依する契約をしっかり結んだ上で、その契約の上に生きていると確信している。そして、アッラーもその契約を必ず守ってくれると確信している。私はアッラーに愛され、アッラーに守られているという自己肯定は、とても根源的なもの。ムスリムは、子ども=生命自体を善きところから来たと信じ、そこから、正しくムスリムとして育った結果である自分は全知全能の神に愛され、その人生はいつも見守られている、という大きな自信に繋がっている。
第6回 ハラール食品を食べる
  • 「ハラール」の本来の意味: 「ハラール」とはムスリムにとって「いいもの」「嬉しいもの」「ほしいもの」「快感があるもの」を指す。食品に限定していえば「美味しいもの」「体にいいもの」「栄養になるもの」「腹の足しになるもの」。そこには、食欲を肯定する根本的な考え方がある。生きていることはいいことだ、食欲を満たすことはいいことだ、という理念がある。
  • ハラール人生哲学: 例外的な禁止物以外はすべてハラールで食べていい「神の与えた糧を食べなさい(そして感謝しなさい)」が大前提。ハラールなものを食べる自分という存在の肯定、自己肯定が根底にある。信徒の義務である「五柱」の第一は「信仰告白」。具体的には「アッラーのほかに神なし」「ムハンマドはアッラーの使徒なり」と公言すること。「在れ!」という命令によって、すべてを存在せしめる神が「在れ!」といったので、自分がここにいる。
  • 欲しいものを手に入れたいと「ハラールな儲け」を追求するのがイスラーム経済。原則は「どんどん儲けていいよ」、ただし「利子や賭博はダメ」ということ。
  • 法規定: 「法」は宇宙原理や人生哲学、倫理的な原則や美徳、礼儀作法なども含んでおり、日本語でいう「法」とはかなりのズレがある。いわば「イスラームの教え」。その原則は「自己肯定、欲望の肯定、ハラール=よいものの追求、例外としての禁止事項」。
  • 断食月の昼と夜: 断食月でも日が暮れると、光景が一変する。「日が沈んだら、仲良く大いに食べなさい。夫婦でセックスを楽しみなさい」というのが、というのがイスラームの教え。
  • 恩恵と試練: ハラールなものは神からの「恩恵」であり、豚肉の禁止などは、ムスリムがイスラーム法を守るかどうかが試される「試練」と理解できる。食物が「神の恵み」であることを意識することこそが大事。禁止物を意識的に避けることで、ハラールな食品がいよいよ「よきもの、美味しいもの」となる。「神に愛されている」と思えるムスリムは、さらに愛されるために、そしてもっと糧をもらうために、禁止物を避けて感謝する。


<下巻>

第7回 切れ目のない宗教と世俗
  • 世俗化論: 世俗化とは、それまで伝統的なイスラーム社会であったものが、世俗的な空間の拡大で、宗教の役割が限定的となっていくこと。世俗化論とは、「社会が近代化すれば必ず世俗化も起きる」という通念。近代化には随伴現象として世俗化が起きる、という見方。
  • イスラーム復興: 1960年代後半からイスラーム世界のあちこちで発生し、1973年の第4次中東戦争あたりから、祖国を失ったパレスチナ人を助けることを意味する「アラブの大義」のもとに本格化した。1975年に、初めての商業的なイスラーム銀行である「ドバイ・イスラーム銀行」が開業。1979年には「イラン・イスラーム革命」が勃発した。
  • イラン・イスラーム革命: ムスリムの社会的生活の基底にはイスラーム的な価値観や理念が生きている。現代社会の動きの中で、水面には見えていなくても深海に潮流があるように、深いところでイスラームが伏流をなしている。

  • 政教一元論: 西洋は正教二元論。世俗の王権である「俗権」と宗教を代表する権力である「教権」が、結合した場合は「政教一致」。近代になって分離したのが「政教分離」。一方、イスラームはそもそも俗権と教権の区分がない。マッカからマディーナに聖遷したムハンマドは、一気に共同体と国家を樹立して、すべてにわたる指導者として活躍した。一方、キリスト教は、すでに存在するローマ帝国の版図の中で広がった。
  • 現代になっても、人々がイスラームの教えに従いたいと思うのは、イスラームが生活スタイルであり、生き方であり、文化だから。イスラーム法の規定は、ほとんどが俗事に関するもの。
第8回 人間の価値は何に由来するか
  • ナフス: 「魂」「自己/おのれ」という意味があり、両方が重なって人間そのものを指す。人間の魂には3つの状態がある。①命令するナフス=己の欲望のままに振舞う状態。この身勝手な自己と克己心によって闘うのが「ジハード」。②非難するナフス=信仰があって善を信じるけれども、ついつい欲望に負けてしまう段階。③安らいだナフス=心が平穏となり安寧の状態に達した段階。
  • イスラームの人間観: 生まれたての赤子は「天性」すなわ自然の摂理に従っている、という性善説が基本。ただし「欲望のままに振舞う」のであれば堕落してしまう。そこで克己心によって、人間としてよい生き方をしなければならない、というのがイスラームの人間観。アーダムとハウワー(アダムとイヴ)は禁断の木の実を食べて、楽園から地上に落とされるが、二人は反省して、悔い改め、赦される。それが地上における人類のスタートだと考える。キリスト教のような「原罪」の概念はない。
  • 天動説と地動説: 科学のどの分野でも、科学者の学説に依拠するのがイスラーム科学の基本。天文学については、天文学者が「これが真理だ」と合意したことが科学的真理となるのであり、ほかの分野の学者は口を出さないという原則があった。天動説と地動説の違いは、一方は宗教的な人間中心の価値観、イスラーム的宇宙論であり、もう一方は天文学的なメカニズムないしは科学的事実、と分けることができる。二つはコインの両面のようなもの。
  • 進化論: アラビア語では今でも日常語で、人類を「バニー・アーダム」つまり「アーダムの子孫たち」と言う。これは、人種や民族の間に優劣を認めないことを意味する。神は「アーダムの子ら」をわざわざ多数の民族や部族に分けた。それは、互いに知り合うことが目的である一方、分かれた人々が互いに争うこともまた現実だということ。しかし、争いに勝ったものが勝者というわけではなく、究極的には神を畏れる者、つまり信仰と善行に励む者が貴い、とされている。
  • 系譜意識: アラビア半島とその周辺では、系譜意識(父系)が現代まで続いている。イスラームはそのような部族主義の伝統を、「信徒たちはみな同胞」という新しい原理によって戒めた。ところが、イスラームの同胞意識を優先すれば、個々人の系譜を維持することも許容された。
第9回 世界に広がるウンマ(共同体)
  • ウンマ: 預言者を指導者とする共同体。モーセを指導者とするユダヤ教のウンマ。イエスを指導者とするキリスト教のウンマ。ムハンマドのウンマ→「イスラーム・ウンマ」。イスラームは、信仰を単に個人の内面のことと考えないという意味で、「共同体的な宗教」だといえる。
  • 想像の共同体: 知らない人を「同じ共同体に属する人」と思う仕組み。ハッジ(大巡礼)、それを終えるとそれまでの罪がすべて許され、生まれた時と同じ「天性」に還るといわれる信仰行為としての意味の他、「共同体」として、「同胞」の一体感を体験できる巨大な舞台装置ともなっている。カアバ聖殿を囲む「円形」は、同心円的に世界中に広がっている。
第10回 現代の争いはどう生まれたか
  • パレスチナ問題が起きた最大の理由は、ヨーロッパから「ユダヤ人問題」という「民族差別」がこの地に一方的に輸出されたこと。他の地域の問題がイスラーム世界に持ち込まれただけでなく、現地の人には理解できない形で持ち込まれたことが、この紛争が複雑になった原因。フランス革命以降、19世紀には人間を「宗教」で区別するのではなく、「民族」で区別する考えが広がった。
  • ヨーロッパ各地では、「同化主義」が長らく主流だったが、ドイツでナチス政権ができて以降シオニズムが急速に台頭、パレスチナ移住者が増えた。パレスチナでは、それまではムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存していたが、そこへ「ユダヤ人」という民族の移住が始まった。民族問題は「領土」の取り合いを生んだ。
  • シオニズムは、ナショナリズムを取り込みことにより、「ユダヤ教徒」をすべて「ユダヤ人」と規定することに成功した。アラビア語話者の中で、残ったムスリムとキリスト教徒がアラブ民族主義を採用し、アラブ人意識を高めてきた。イスラエルが建国されると、イスラエルは「ユダヤ人の国」となり、パレスチナ人はムスリムとキリスト教徒の連合体となった。
  • 1947年英領インドが解体し、インド(ヒンドゥー教)とパキスタン(ムスリム)に分離独立。1971年にはパキスタンが東西パキスタンへと分裂し、バングラデシュとして独立。ムスリムの国が別々のナショナリズムを掲げて別れたのは、ウンマの理念にとって大打撃となった。
  • 1969年、イスラーム諸国国会議機構(OIC)が設立。ウンマ意識を国際社会の中で実現する機構がようやくできた。
第11回 楽園の縁、火獄の炎
  • 人生は試練: 苦難は試練として与えられているのであり、それに耐えることが求められている。この世は楽園ではなく、人生とはそういう「試練」だということ。
  • 悪行は白日のもとに曝される日があると知っているから、自分の心を苦しめる重荷を神に預け、自分の心を軽くして生きていくことができる。
第12回 イスラームと近代の調和をめざして
  • タウヒード的科学: マレーシア国民大学のユソフ教授が唱える科学のありかた。タウヒードとは、神を唯一とする信条。イスラームもユダヤ教もキリスト教も一神教であり、それは宇宙の真理を一つのものとみなす立場。
  • マレーシアの国作りは、近代化しても世俗化しないモデル、イスラームと近代化が両立するモデルを追求する。「ワワサン2020」は、「イスラーム圏から初めての先進国への仲間入り」を2020年までに実現することを目標とする。
  • アジア的経済発展: 経済発展をアジア諸国に固有の文化と適合させながら追求する。

  • 文明的イスラーム: バダウィ・マレーシア首相が提唱した概念。ウンマを基本に戻し、よき価値と本源的な原則に重要性を与える努力。ムスリム諸国やコミュニティが体現すべき10の原則を次のように提起する。①アッラーへの信仰と篤信、②公正で信頼できる政府、③自由で独立した人びと、④知識の熱心な追求と熟達、⑤均衡的で包括的な経済発展、⑥人びとの良質な暮らし、⑦少数グループと女性の権利の保護、⑧文化的・倫理的高潔さ、⑨自然資源と環境の保全、⑩強い防衛力
  • ホメイニ師は、イラン・イスラーム革命の指導にあたり、あくまでイスラームの教えを現代に適用しただけで、特殊な思想ではないとうい立場を貫いた。「文明的イスラーム」もしかり。イスラームは一つでも、それをどう実践するか、何に重点を置くかは、人によって異なってくる。
  • 近代的な価値は、人間の「自由」を重視するが、イスラームは「帰依」にもとづいている。イスラームでは「自由意志にもとづく帰依」であってこその帰依であり、神以外には服従しないのだ、という考え方がある。自由論さえ、神の存在と人間の帰依を前提としている。

  • イスラームにおいて、「自由」と対置されるべきは従属や服従ではなく、「幸福」ではないかと思える。ムスリムが日々の暮らしの中で一番気にしているのは、幸福ないしは幸福の前提条件となる「恵み」がいかに手に入るかということ。自由はそれに付随する問題として生ずるが、近代思想のように自由が人間の存立にかかわる基本的価値であるという考え方はない。「ワーク・ライフ・バランス」ならぬ「フリーダム・ハピネス・バランス」が問題となる。
  • 「幸福」とは、安心した状態で、ほしいものが手に入ることであり、行動や思想についてどのくらいの自由度がほしいかは、人によって異なり、自分が望む量の自由が手に入ればそれでいい。