ダイアローグ180404

「詩」としての経営理念


[この本に学ぶ]
詩と出会う 詩と生きる
 若松英輔 著
NHK出版(2018年) 


本書は「NHKカルチャーラジオ/文学の世界」のテキストブック。「詩と何か」「詩情とは何か」、そしてそれらの世界に触れることが、私たちにとってどのような意味を持つかを、批評家・随筆家の著者・若松英輔氏が、30分×全13回のラジオ放送ならびに本書を通じて熱く語りかける。そして、私たちを素晴らしき「詩の世界」へとやさしく誘ってくれる。その名ナビゲータぶりは、折り紙つきと言ってよい。

そんな著者も、詩と向き合うようになったのは、実は40歳を越えてから。それまでは「詩は自分には必要ないと信じ込んでいたように思われる」とのことだが、そうした世界観は、ある個人的な出来事と東日本大震災を境に大きな転機を迎えたという。

科学的見地、あるいは経済的価値が重んじられる現代にあって、私たちは「詩を味わう」という機会をほとんど失くした日々を送っている。いや、詩に限らず「文学」全般がその力を失ってしまった社会を、いま私たちは生きているが、著者は、そうした今日的状況を憂え、それに対する処方箋として若者たちを「詩の世界」へと誘う。そして、世界は目に見えるものだけでなく、目には映らないものによってつながっていることを、彼らに何とか伝えようとする。

「詩とは何か」「詩情とは何か」。この問題は、そもそも容易に言葉にすることのできない思いをなんとか言葉で表現しょうとするのが「詩」というものであるがゆえ、答えを言葉で示すことは困難を極めるわけだが、それを著者は、以下のような表現を重ねることで、私たちに語り掛けてくれる――。
  • 詩は、容易に言葉にすることのできない思いをどうにか言葉で表現しょうとする一つの挑みである。
  • 詩とは、世にあるさまざまな人、物、出来事、想念、そして象徴を扉にしながら、その奥にあるものにふれようとする営みである。
  • 詩は、この世界に深みのあることを教えてくれる。言葉の意味が多層であるように、世界にもまた層があることを、さらにもう一つの世界とこの世界が分かち難くつながっていることを示してくれる。

  • 「詩情」は煙突から出る煙のようなもので、どんなことをしても捉えることはできない。しかし「言葉」によってそれが顕現した瞬間を文字でこの世に刻むことはできる、と中原中也はいう。
  • 詩とは、過ぎ去るものを言葉という舟で永遠の世界に運ぼうとすることだといえるのかもしれない。
  • 詩は、詩人によってのみ生み出されるとは限らない。また、文学だけが詩の現場でもない。宗教、哲学、あるいは芸術の世界においても詩情が人と人の心を通じあわせている。

  • 詩とは、事実の奥に、事実という視座では把捉できない「真実」を描き出そうとする試みだといえるかもしれない。
  • 詩はときに、私たちを支える人生の杖になる。
  • 詩とは、世界にあまねく存在する詩情を言葉によってすくいとろうとする営みである。

  • 詩に動かされるのは、私たちの心に詩情を受け止める場所やはたらきがあるから。詩情を言葉にするのが詩であるとすれば、詩情を受け止めるものは詩心と呼ぶことができる。
  • 詩は、私たちを「記号」の世界から「意味」の世界へと導いてくれる。同じ意味が二つとない「意味」の世界で私たちは、世に二つとない自己に出会うのではないか。
  • 人間の捉えがたい「気」を、言葉をかりて捉えようとするのが詩だ。気は形も意味もない微妙なもので、しかも人間世界の中核を成す。(高村光太郎)

  • 詩は、詩情があるところに存在するのであって、詩という形式のあるところに宿るのではない。
  • 詩とは、「出来事」と呼ぶべきものを言葉に結実させようとする、ほとんど不可能といてよい行為への挑みである。それは言語の領域で行われるものではないゆえ、外界を見る「目」とは別な、内なる世界を観る「眼」を開くように、とリルケは諭す。
  • 詩とは、無常を描き、「常」なるもの、すなわち永遠を描き出そうとする営みである。

  • 詩は、うごめいているさまをコトバによってすくいあげようとする営みだということもできる。
  • 人は誰も、自らの詩情を、心情を詠うに十分なコトバを宿している。それを内なる宇宙に探せと、リルケは若者に語りかける。
言葉として示された「経営理念」。そこに綴られる言葉には「深み」が求められる。単なる記号的/機能的言語でなく、言葉の背後に経営者としてのさまざまな「想い」を凝縮した厚みが求められる。そう捉えると、経営理念もまた、豊かな詩情に溢れた「詩」であることが求められているのではないか――そんな新たな視座を本書は私に教えてくれた。






第1回 詩を感じるには――岡倉天心と内なる詩人
  • ユングは、人は、自らの個人的無意識を有するだけでなく、普遍的無意識によって、広く、また深く他者と繋がっていると考えた。普遍的無意識は、詩のこころ、詩情の別の名でもある。
  • 詩は、容易に言葉にすることのできない思いをどうにか言葉で表現しょうとする一つの挑みでもある。
  • 詩を読む、これは空気を吸うこと。詩を書く、これは吐くこと。
  • 詩とは、世にあるさまざまな人、物、出来事、想念、そして象徴を扉にしながら、その奥にあるものにふれようとする営みである、ということもできる。
第2回 かなしみの詩――中原中也が詠う「おもい」
  • 鴨長明は、刻一刻と変わりゆく「無常」を見ながら、その彼方にある「常」すなわち、永遠なるものを観ようとしている。
  • 詩は、この世界に深みのあることを教えてくれる。言葉の意味が多層であるように、世界にもまた層があることを、さらにもう一つの世界とこの世界が分かち難くつながっていることを示してくれる。
  • 「かなしみ」とは、単に悲痛の体験であるだけでなく、「哀れ」という感情を呼び覚ます。「悲」「哀」「愛」「美」「愁」という5つの「かなしみ」があるのではない。「かなしみ」という感情が、いつもこの5つの「おもい」の色彩によって彩られていると考えるべき。
  • 「詩情」は煙突から出る煙のようなもので、どんなことをしても捉えることはできない。しかし「言葉」によってそれが顕現した瞬間を文字でこの世に刻むことはできる、と中原中也はいう。
  • 詩とは、過ぎ去るものを言葉という舟で永遠の世界に運ぼうとすることだといえるのかもしれない。
第3回 和歌という「詩」――亡き人のための挽歌
  • 越智保夫は、『古今和歌集』の出現によって日本人は、人間、自然、ことばという関係のなかにこれまでにない調和を生み出すことができるようになったという。この和歌集の成立によって人間にとっての自然(世界)は、対峙する対象ではなく、互いに呼びかけ合う関係になっていく。私たちが四季を感じる心もそのうちの一つ。
  • やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなりける(紀貫之)
  • 日常生活で私たちは、いろいろなところで「コトバ」にふれている。身ぶり、手ぶり、行動、祈り、あるいはまた沈黙もまた、豊かな意味を持った非言語的な言葉である。
  • 詩は、私たちの心の奥にあって、容易に言葉になろうとしないものが開花したものでもある。
第4回 俳句という「詩」――正岡子規が求めた言葉
  • 芭蕉にとって「幽玄」とは、さまざまな「無常」なもの――過ぎゆくもの――の奥にある「常」なるもの――永遠なるもの――を指していた。人間は「幽玄」を作り出すことはできない。可能なのは、それに出会い、それを発見することだけ。しかし人は、それを作りだせるものだと感じるようになった。それを碧梧桐は「幽玄」を「主観化」したという。子規のいう「写実」は、「幽玄」を創作する次元から「発見」する次元へと立ち返らせた。それを碧梧桐は「客観化」という言葉で表現している。
  • 子規が強く拒んだのは、人が言葉を、人間の心情を表現するだけの道具にすることだったのではないか。人は言葉でもってこの世界の随所にある存在の秘密を解き明かさなくてはならないにも拘わらず、自分の心ばかり掘り下げている。託されたのは「自分」という小さな場所ではなく、「世界」というべき場所ではないのか、というのが子規の実感だったように思う。
第5回 つながりの詩――吉野英雄が感じた存在
  • 「調べ」と「意味」はちょうど絵でいう「色」と「線」の関係に似ているかもしれない。
  • 吉野英雄は、「写生」とは単に、ありのままの世界を映しとるだけでなく、世界を「再構成」する働きに他ならない、と語る。世界の実相を、言葉という抽象性の高いものを通過させて詠いあげる以上、そこに「再構成」の働きが生まれないはずはない。
  • 「写生」は事象をひとたび突き放す、ひとたび客観化する。かりにここに死別や失恋の悲嘆があるとすると、悲しみに捲き込まれてジタバタしているだけで歌にはならない。ジタバタする自分をちゃんと見据えている自分があって、はじめて表現にまで到達することができ、そこに歌よみの「救い」が成就する。
  • 詩は、詩人によってのみ生み出されるとは限らない。また、文学だけが詩の現場でもない。宗教、哲学、あるいは芸術の世界においても詩情が人と人の心を通じあわせている。
第6回 「さびしみ」の詩――宮沢賢治が信じた世界
  • 詩とは、言葉を扉にしてもう一つの世界とのつながろうとする営みだと言えるのかもしれない。
  • 詩人にはそのひと特有の「鍵語」がある。宮澤賢治の場合は、「火」「焚く」「燃える」といった言葉が鍵語になる。
  • 詩とは、事実の奥に、事実という視座では把捉できない「真実」を描き出そうとする試みだといえるかもしれない。
第7回 心を見つめる詩――八木重吉が届けた声
  • 写生論が子規にとって重要だったのは、世界が語る「コトバ」は、人間が語る言葉よりも豊かに存在の秘密を物語ると信じていたから。子規が警戒したのは、ありのままの事象を人間の心情によって歪曲することだった。
  • プネウマ: 古典ギリシャ語。気息,風,空気、大いなるものの息、ギリシャ哲学では存在の原理、呼吸,生命、命の呼吸、力、エネルギー、聖なる呼吸、聖なる権力、精神、超自然的な存在、善の天使、悪魔、悪霊、聖霊などを意味する。
  • 「願い」は、私たちの思いを大いなるものに届けようとすることだが、「祈り」は違う。神父にとって祈りは、神の無言の「声」を聞くことだった。神のおもいを受け止めようとすることだった。
  • 詩とは、世界にあまねく存在する詩情を言葉によってすくいとろうとする営み。
  • 詩は、人間界を超えた彼方の世界からやって来る言葉を受け取ろうとするところに始まる。
第8回 「いのち」の詩――岩崎航がつかんだ人生の光
  • 「こころ」は感覚的な反応をもとめがちだが、「いのち」からの呼びかけは、五感を超えてやってくる。
  • 詩に動かされるのは、私たちの心に詩情を受け止める場所やはたらきがあるから。詩情を言葉にするのが詩であるとすれば、詩情を受け止めるものは詩心と呼ぶことができる。
  • 人間の「いのち」には、大きく分けて4つのはたらきがあると考えられる。知性/理性/感性/霊性の4つ。「性」というのは、ある「いのち」のはたらきのこと。人が人生の深みをかいまみるためには、この4つの働きが必要。岩崎航がいう「いのち」とは、これらを統合したものに他ならない。
  • 単に思考を働かせ(思う)、創造力をふくらませ(想う)、記憶をたどる(憶う)だけでなく、祈念という思いの奥の「おもい」のちからをめざめさせ(念う)たとき、人は、本当になにかを「おもう」といえるのではないか。これらが一つになったとき、私たちの霊性が目覚める。
  • 岩崎航は、真の幸福とは、「今」と深くつながり、「自分」を生きることだという。ほんとうの「自分」は、「今」の世界にしか存在しない、という厳粛な事実を発見し、それを味わうこと、それが真の「幸福」だという。
  • 言葉は、あるべき場所にあるとき、美しいだけでなく、ちから強くも感じられる。
  • 真の祈りのはたらきは、肉体の奥にけっして滅びることのない「いのち」があることをまざまざと経験させてくれるもの。
  • 岩崎航にとって詩を書くとは、言葉によって他者の「こころ」の杖となり、「いのち」への道を「伴走」すること。
第9回 生きがいの詩――神谷美恵子が背負った生きる意味
  • 詩は、私たちを「記号」の世界から「意味」の世界へと導いてくれる。同じ意味が二つとない「意味」の世界で私たちは、世に二つとない自己に出会うのではないか。
  • 生きる意味を問う言葉は、哲学や宗教の書だけでなく、真摯に生きた者によってつむがれた詩にありありと存在している。
第10回 語りえない詩――須賀敦子が描いた言葉の厚み
  • この講座での「コトバ」は、必ずしも言語としての言葉を意味しない。色、香り、律動、響き、あるいはかたち、沈黙という姿をしている場合もある、うごめく意味そのものを指す。
  • 人生の大事の多くは、語ろうしても語りえないもの。詩は、あるいは文学は、不可能であることを前提にした挑みである。
  • 詩は、コトバの構造において、あるいは意味の構造において、祈りと大変近しい関係にある。詩の読み手は文字の奥に、記されない意味を感じることを促されている。
  • 「認知」と「認識」: 「認知」は、社会的な事実を他者と同様に受け入れることを指す言葉。五感や意識で世界を感じ、判断するちから。一方「認識」は、その人が、今、ここで、ただ一度だけの経験を全身で感じることを意味する言葉。それは五感と意識を超え、無意識を含んだ全身全霊で行われる世界との交わりを指す表現、とする。詩において――あるいは言葉の芸術である詩を含む、あらゆる芸術において――は、「認知」よりも「認識」が重んじられる。
  • 知識は、人生の「時」と折り重なったとき、そのはたらきを発揮する。芸術の体験とは姿を変えた「時」との交わりだと須賀敦子は考えている。美の世界へ赴くにはどうしても「時」のちからを借りなくてはならない。
  • 詩において「待つ」ことは、「書く」ことにも勝るとも劣らない創造的な営為であり、ある詩人にとって詩は、言葉の訪れとして経験される。それは人間の作為によるものというよりも言葉と人間との共同の行いである、と彼らは考えている。詩人は、詩を作るというよりも、すでにコトバとして存在している詩に言葉の姿を付与しているといえるのかもしれない。
  • 詩人とは、耳には聞こえない微かな、「信号音」という須賀がいう存在の暗号を聞き分け、それを詩として世にもたらす者の呼び名だという。
第11回 今を生きる詩――高村光太郎と柳宗悦のまなざし
  • 人間の捉えがたい「気」を、言葉をかりて捉えようとするのが詩だ。気は形も意味もない微妙なもので、しかも人間世界の中核を成す。(高村光太郎)
  • 詩の世界は広大であって、あらゆる分野を抱摂する。詩はどんな矛盾をも容れ、どんな相克をも包む。生きている人間の胸中から真に迸り出る言葉が詩になり得ない事はない。(高村光太郎)
  • 詩は、詩情があるところに存在するのであって、詩という形式のあるところに宿るのではない。
第12回 言葉を贈る詩――リルケが見た「見えない世界」
  • 詩を世に生み出すためには、三つのはたらきが不可欠なように思われる。一つは、人間のはたらき、もう一つは、言葉――あるいはコトバ――のはたらき、もう一つは、時のはたらき、より精確にいうと「今」のはたらきがなくてはならない。
  • 詩とは、「出来事」と呼ぶべきものを言葉に結実させようとする、ほとんど不可能といてよい行為への挑みである。それは言語の領域で行われるものではないゆえ、外界を見る「目」とは別な、内なる世界を観る「眼」を開くように、とリルケは諭す。
  • リルケは、芸術は言葉の彼方にあり、神秘的なもので、そのいのち――すなわち美のいのち――は永遠のものだと語る。詩は、人間のかたわらにあって、過ぎゆく肉体の奥に、けっして消えることとないものがあることを告げる。
  • 詩とは、無常を描き、「常」なるもの、すなわち永遠を描き出そうとする営みである。
  • 美は、己が美の使徒であることを認識しない者たちによってこの世にもたらされる。そうした工人たちには、凡てを神の御名においてのみ行う信徒の深さと同じものが潜むのではないか、と柳宗悦は記す。
  • 柳が器で行ったことを、言葉において、それも詩において行うことは可能ではないかと思う。
  • 詩は、うごめいているさまをコトバによってすくいあげようとする営みだということもできる。
  • 人は誰も、自らの詩情を、心情を詠うに十分なコトバを宿している。それを内なる宇宙に探せと、リルケは若者に語りかける。
第13回 自分だけの詩――大手拓次が刻んだ詩の扉
  • プラトンは、知ることはすべて想い出すことだと述べている。本当の意味で「知る」とは、彼がイデア界と呼ぶ世界に存在するものを、この人間界に持ち帰ることを意味していた。プラトンにとって哲学者とは、イデア界から叡知を持ち帰り、人間界にそれを遍く広げようと試みる者のことだった。
  • 色もない、形もない、ばうばうともえてゐる透明なる糸のふるへこそ、わたしの詩のすがたである。(大手拓次)
  • 人は誰もが詩人たりうる。それどころかあらゆる人の心に詩はいつも生まれている。詩を読む、詩を書くことによって人は、誰もが内なる詩人を目覚めさせることができる。それは、大手拓次の動かない信念だった。