[この本に学ぶ]
『勘の研究』『続 勘の研究』
黒田 亮 著
講談社学術文庫(1980年/1981年) 初刊:岩波書店(1933年/1938年)
わが国心理学の古典的名著といわれる『勘の研究』ならびにその続編にあたる『続 勘の研究』。後者は、前者で展開された「勘」に関わる著者の独自理論をさらに発展、深耕させたもの。両書はぜひとも併せて読むことをお薦めしたいので、ここでも、まとめて紹介する。
「勘」とは、俗に「勘が働く」とか「勘がいい/悪い」といった言葉として私たちが日常的に使っている、まさにあの「勘」。そして、その何気なく使っている「勘」とはいったい何なのかを明らかにしようというのが、本書の主旨だ。
勘とは、私たちの感情や判断、意思決定や行為との関係において、どのように位置づけられる知覚なのか? その本質を捉えることができれば、それを基点に、私たちは自分自身の存在のみならず、自分と家族や友人、組織や社会などとの関係の在り様をより的確に知り掴むことができる――そうした信念のもと著者は「勘」の意味を、独自の概念を駆使しながら丹念に読み解いていく。
その内容は、決して易しいとはいえないが、「わが国心理学の古典的名著」の高評は伊達ではない。初刊から80年を経た今でも、私たちに、人間のこと、社会のことを読み解くための、この上なく素晴らしい鍵を授けてくれる。
中でもカギを握る鍵中の鍵は、「識と覚」「那一点と直指」という2つの概念。その意味を、私なりの理解できわめて大雑把に語ってみると――。
私たちの知覚には「識」と「覚」の2つがある。「識」は、従来「意識」の語によって示されものとだいたい同じ意味と考えて差し支えないが、問題は「覚」。この「覚」がほぼイコール、本書のタイトルである「勘」に相当するわけだが、この何たるかの解説は一筋縄ではいかない。そこで、ここでは便宜的に馴染みのある近似の言葉に置き換えて簡便な説明を試みると、識は「左脳的知覚」、覚は「右脳的知覚」といってよいのではないか。つまり識は、言語、文字の認識や計算と算数・数理的推理、論理的思考などを担当する知覚。覚は、いわゆる五感を通じてイメージ的に感じ取る知覚だといえる。また、さらに別の言葉を当てはめてみると、識は「形式知」、覚は「暗黙知」に近い概念ともいえる――ひとまず、そう理解しておこう。
次に「那一点(ないってん)」。これまた著者の独創的なアイデアに基づく概念だが、この言葉こそが、本書のいちばんのキモだといえよう。その意味は「ある限定された意味における通俗の急所であり、対象の全体はこの中に凝集されるとともに、これによって全体を支持し、全体を動かす支点となっている、いわば対象の機能的中心である」と記される。また「直指(じきし)」は、「特定の対象をその那一点において把捉する働きそれ自身」と説かれている。分かりやすい言葉に置き換えれば、「勘どころを押さえる」という日常語の「勘どころ」が那一点に相当し、「勘どころを押さえる」ことが直指だと理解して差支えないだろう。
ゴルフのクラブやテニスのラケットなどで、ボールを打つのに最適の個所を意味する言葉に「スイート・スポット」があるが、この喩えでいえば、スイート・スポットが那一点で、そこをジャストミートすることが直指だとイメージすることができる。
一見、何の変哲もないように思われるこの概念が、なぜそれほどまでに重要な意味を持つのか。それは、私たちが普段、何ら意識することなく行っている、物事の認識や他者とのコミュニケーションといったものの、おそらくすべてが、実はこの「那一点を直指する」ことの連続的反応として行われている、あるいは行おうとしている、と考えられるからだ。
私たちは普段、つどつど膨大な情報処理を行いながら日々の生活を営んでいる。的確な情報処理を行い続けないと、例えば他者とのコミュニケーション活動に大きな支障をきたすからだ。この情報処理をより円滑に行うためには、目の前に次々と展開される事象をできるだけ効率よく把握し、判断していく必要があるわけだが、それを可能ならしめているのが「那一点」とその「直指」というメカニズムだと考えられる。
つまり、目の前に次々と現れるモノや概念やメッセージやらを、それぞれの全体ではなく「勘どころ」で掴むことにより、情報の処理効率を飛躍的に高め、それによってスムーズなコミュニケーションを成り立たせている、というわけだ。
「那一点」は、「識」ではなく「覚」によって捉えられる。そしてその「覚」には、低次のものから高次のものまで、さまざまな「質」のレベルがあると著者はいう。つまり、私の目の前にある、ある対象の那一点は、私がより「高次の覚」をもって臨めば、より的確に把握(直指)することができる。つまりは、より良い「勘が働く」ことにより、より円滑なコミュニケーションが可能になるのである。
「那一点」から派生する重要な概念に「学習」がある。意味は、私たちが日常的に使う「学ぶ」ということに他ならないが、その本質を著者は次のように説く。「学習は直指を究境の目的としてなされなければならない。これを学習の対象についていえば、対象は学習の完成とともに、その那一点において直指されるにいたるのだ。問題解決の秘鍵は、一に繋って問題そのものの那一点を見届けることにあるからである」。
著者が考える「学習」とは、私たちが対象に対して、自ら主体性をもってその那一点を見出していくプロセスということになるが、これは、野中郁次郎氏が唱える「知識創造理論」における「知識」の定義、すなわち「個人の全人的な信念/思いを『真・善・美』に向かって社会的に正当化していくダイナミックなプロセス」とも符合する。両者に共通するポイントは、知識(学習)は、個人が対象(環境)から受動的に得るものではなく、個人が対象(環境)に対して主体的に/積極的に働きかけていく過程で得られるもの、とする点にある。
「那一点」の概念を組織経営の領域に適用してみると、それぞれの組織における那一点は通常「経営理念」という形で示されるもの、ということができる。もっとも現実の組織経営にあっては、本来那一点を言語化したものとして示されるべき経営理念が、的外れな形で掲げられれていることも多く、こうしたケースにあっては、言語化された「経営理念」の表現の見直しが早急に望まれる。的外れな表現のままでは、社員が自身の「覚」を通じて感じ取る会社のあるべき姿や方向性と会社が掲げる経営理念との間に乖離が生じ、「経営理念を那一点として共有する」という理想状態には到底たどりつくことができない。社員の心のバラバラ状態は、日を追うごとに悪化するに違いない。
一方、適切な経営理念が掲げられている組織にあって、これを社員の視点から見た場合、社員にはその言語化された「経営理念」を、単に字面だけで追うのではなく、自らの「覚」の質を磨くことによって、その字面の背後に潜む深い意味を把捉し、より高次の那一点を直指できるよう努めることが望まれる。
日本には俳句という素晴らしい伝統がある。そして私たちは、自らの感性を高める(=「覚」の高次化を図る)ことを通じて、17文字の言葉の背後に広がる深い世界を理解する能力を磨いてきた。この俳句に対するのと同じ構えをもって自社の「経営理念」に向き合い、そのより高次の那一点を社員間で共有する――これこそが、理念を組織に浸透させてゆく最善のアプローチだといえよう。
「直指」は、禅宗の祖師達磨の根本精神である「直指人心(じきしにんしん)」という言葉に由来する。この禅語における「直指」の意味は、直接的に指し示すこと。また「人心」は、生まれながらにもつ不生不滅の仏心(仏の心)のこと。そして「直指人心」は、自分の奥底に秘在する心を凝視して、本当の自分、すなわち仏心、仏性を直接端的にしっかり把握することをいう。つまり本書の著者は、この禅宗の根本精神である「直指人心」に習って、対象をその那一点において把捉する心の働き、その全般を「直指」という言葉で示そうとしたのである。
著者は、本書の末尾を『中庸』に説かれてある「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」の言葉をもって結んでいる。これらから察するに「勘」とは、詰まるところ、私たちに無限の智慧を与えてくれる、目には見えない宇宙からの授かり物、と解されるべきもののようにも思えてくる。

『勘の研究』
第1章 緒言
第2章 勘の字義
第3章 認識および判断に関連して表われる勘
第4章 リンドボルスキーの先覚性図式
第5章 直覚
第6章 下意識(無意識)
第7章 動作および意志過程における勘(1)
第8章 動作および意志過程における勘(2)
第9章 剣法の極意
- 不動智神妙録: 柳生但馬守宗矩のために垂示された沢庵禅師の語録。「不動智」とは、向ふへも左へも右へも十方八方へ心は動きたきように動きながら、卒度もとどまらぬ心。
- 千手観音: 手が千御入り候は、弓を取る手に心が止まらば九百九十九の手は皆用に立ち申すまじき候。一所に心を止めぬにより、手が皆用に立つなり。
- 無住の心: 「十人十度心は働けども一人にも心を止めず」に取り合うところに剣法の極意がある。必要に応じて同時に無限の変化に転ずべき機を孕んでいる「無住の心」すなわち「不動智」を体得するにある。
- 一刀斎剣法: 技を事(わざ)といい、心を理の名であらわす。事と理とは車の両輪鳥の両翅のごとし。事は外にしてこれ形なり。理は内にしてこれ心なり。事理習熟の功を得るものはこれを心に得これを手に応ず。その至るに及んでは事理一物にして内外の差別なし。
- 水月の位: はからずしてよく当たり、求めずしてよく徹する境地。「うつるとも月もおもはずうつすとも水もおもはぬ広沢の池」
- 庖丁の妙技: 庖丁はただ裂け目のある所へ刀を入れればよい。ただ常人には、牛の身体のどこにも裂け目は見えない。すなわち無理無事は事理の過程を一度経てきた後の無理であり無事である。人事を尽くした後の無為であり、また自然である。
- 剣法の最終の眼目は、死地に臨んで生を得ること。この剣法者の態度は、最も価値あるものを造りだそうと努力する農工商のそれと等しく、痛切に内に感ずる願いのあらわれである。しかしていずれにあっても、人が全幅の力を傾倒して事に当たるに際し、そこにある不思議な心の姿が展開される。これが「本質心」である。古来東洋にあってはこの本質心を非常に重要視し、多くはこれを曇りなき明鏡に比して説いた。これが心の本来の姿である。
第10章 役者論語に現れたる覚
第11章 世阿弥の芸術
- 能は、見手すなわち看客を相手にする芸であって、どこまでもこれを無視することはできない。しかしまた同時に、内なる心を忘れて、外なる看客にのみ拘泥するようであってはならぬ。この内外の調和が畢竟「花」として能が生きるための根本条件となっている。
- 技が円熟するにつれて、内なる心の働きはおのずから外に向かっても力強く作用し、主客は同じ一つの流れに捲き込まれて彼此の区別が消滅するに至る、これを「正しき感」と名づけている。この正しき感は、あるいは無心の感といい、無感の感といい、無風の感といい、離見の見といい、これを体得したるものの境地を為手の「正位心」と称する。
- 正位心は「有主風」の位を指し、為手の独自なる全人格の現れであるとともに、為手の現象的個我を離脱した無心無風の位であり、形なき姿であり、すなわちまた「妙」と呼ばれるものである。
- ここに否定の意を寓している「無」は、虚無どころか、かえって非常に積極的な内容を有し、万千の変化に転ずべき機を孕んでいるすこぶる含蓄的なものである、
- 主客の心が能という媒介物を通して不言のあいだに融合するところに「花」が現出する。主客の呼吸の一致したいわゆる「潮時」をはずさず、客の全精神を今から展開させようとする能の真っ只中へ有無を言わせず引き入れるのでなければ、かれらの気持ちをつなぎとめることはできない。これ「時節感当」なり。
- 主客の呼吸がぴったりと一致するか否かは、稽古の親疎いかんに関係することはむろんであるが、そのときの拍子ということもある。世阿弥は後者について「男時女時」のけじめを論じている。俗に仕事に調子が乗るとか油がかかるとかいう時期は男時に相当し、しからざる場合は女時ということになる。女時を強いて男時に転換せんとするは徒労である。
第12章 荘子の解釈
- 道: 荘子は宇宙を支配する原理を「道」と称した。荘子の道は老子と同じく無為自然無欲恬淡何者をも求めるところなきをその本体とする。人間は天地に象って生をこの世に享けたものである。点の運行地の循環の自然なるがごとく、われわれ人間も人為を捨てて天地の自然に則るべきであるというのが、老荘の根本思想である。したがって「無為」は、無為徒食袖手傍観の謂いではなくて、小細工を弄せざれという意味である。
- われわれは無為なる道に合致し、道を体得することによって、単なる物の表面の観察から、その内部に向かっての観照にまで進むことができる。無形に視、無声に聴くとはこの謂いである。かく道をもって言語形容を絶した境であるとする点は、禅の思想と全く同一轍に出ている。
- 荘子が説く「忘」は、忘我であるとともに、主観と客観との完全なる一致、否むしろ主観が客観に埋没して主観それ自身が一時姿を隠すことである。しかし我の形式においていつもは働いている主観は、客観に移行すると同時に、客観それ自身の働きがいままでの主観に対立する主観ではなく、ある違った色彩を帯びてわれわれの自証に反映する。すなわちかかる意味の忘は、一面において我の客体へ向かっての埋没であるが、また他面において我の拡充である。
- 仏教において我法の二執を遮離する目的は畢竟大なる我に開眼の機会を与えんがためであるごとく、荘子の忘もまたそれ自身が最終の目的ではなくして、物の核心に徹するにはこれを措いて他に求むべきものがないから、これに至る工夫を説く。忘を実現するためには、一切の利害を超越しなければならぬ。利害の打算は通例われわれの感覚器官を通じて行われる。それゆえに、目物を見ず、耳物を聴かず、心知るところなき態度をとる工夫がまずもって講ぜられねばならぬ。
第13章 禅の見方
第14章 心理学の定義および概念既定
- 識と覚: 「識」とは、従来意識の語によって示されたものとだいたい同じ内容を有するとみてさしつかえない。「覚」は自証される点において識すなわち意識とまったく同様であり、無意識のそれのごとく、変態心理学または病的心理学の領域に専属するものではない。
- 覚の特徴:
- 覚は「図式的」である。部分をすべて漏らすところなく包蔵しながら、しかも部分に拘泥しない全体の性質を持っている。
- 覚は「含蓄性」を持つ。含蓄されたままの形において把握される場合に、最も生き生きとした覚を自証することができる。
- 覚には「深み」がある。一方、識は平面的なものである。識と覚の分岐は、問題とこれに対するわれわれ自身の態度のいかんに関係がある。
- 覚は自証の世界においてある「位置」を占めている。そして「方向」を未然の形において持つ。覚は「動的」な性質を帯びている。
- 覚は「遠心性」を持つ。現実の客観世界との交渉において、識に比してむしろ間接である。
- 覚は識と相並んで、あるいは単独に働くとともに、ある短縮された、または凝固された形において識の代理をする。覚には最初から覚の形で現れるもののあれば、識から転じて覚に移行したものもある。
- 覚には一種「軽快」な感じが伴う。識と違って、不可抗的な現実に束縛されることが少ない。
- 覚は自我との関係において間接的である。主観の中に在りながら、ある意味の客観性を持っている。識は自証内の主観的方面を、覚はその客観的方面をそれぞれ分担するものと見られる。
第15章覚の具体的意義
- 覚の含蓄性: 特定の構造を持たずに、われわれに自証されるある種の知覚/感情/判断/意思決定/行為。直観的ではなく、含蓄的に与えられる。
- 注意と念: 識内容の明瞭度強度などに現れる変化に対しては「注意」、覚に関しては「念」の語を用いる。念の強度の増加とともに遠心性は逐次増大する。
- 「勘」の諸相は、ほとんどそのごとごとくが覚自証の中に入るべきもの。
第16章 覚の質
- 次位の高低: 覚を質的に特色づける第一因子は、その方向がいずれであるか。第二因子は、その深み。
- 覚の系統を具象的に表徴するものとして円錐形螺旋が考えられる。覚の深みの増大につれて、遠心性がこれに比して増加する。つまりは客観世界との交渉が希薄になる。それを「半径の減少」で表したもの。最高次の覚は、すべての現実の束縛から脱却していわゆる無心を証する位に至る。
第17章 覚の成立条件
- 覚は、識と同様われわれ人間をはじめ一般の生物の生活せんがための必要が生み出した自証の一事実たることに変わりはない。すなわち識も覚もともに生活の要求をそれぞれに特有な方法で充足するために発達したものである。
- 精神の働きに関与する動作には「選択」の余地が賦与されていると考える。ここに選択の余地とは、宿命的な機械的拘束からの自由が認められているという意味である。
- 精神は、動物でありさえすれば、いかにその体構造において単純な現生動物であっても存在する、と私は考える。そういう下等な動物の精神は、おそらく一種の覚とみてよかろうと思う。
- 「分化」はとくに神経系の活動と、また「分節」はより多く運動器官のそれと関係をもつ。すなわちこれまで多くは無差別的に取り入れられた外界刺激に対して、これを弁別的に取捨する機能が生じ、かくして取捨された個々の刺激は、生物に向かって分節的な反応を要求するようになる。ここに「識」の萌芽を見るのである。識とは畢竟生物の外来刺激に対する分節的運動反応に伴う自証であると考えることができる。
- 生物の進化段階を上昇するにしたがって、かれらの環境はより複雑となるがために、それに処するにはやはり複雑な分節的な反応に頼らなくてはならなくなってくる。「識」の発達はこの生活事情の変遷に制約される現象である。
- しかしながら識の成立は本来無差別的な覚の存在を無用にするものではない。生物の生活の中には、分節的反応を必ずしも必要としない領域があるのみならず、この種の反応を繰り返すことのかえって円滑な生活の進展を阻止するに導く場合もある。かくのごとく識と覚とはそれぞれの特殊の使命を持って生まれてきたものである。
- 蕪雑混沌の心から出発して、純一無比の絶対境を証するにはいかにすべきかの方法論が東洋心理学の特色を構成する。無為自然恬淡を説く荘子も、一超直入如来地を目指す仏教とくに禅学も、芸道の奥義に精進する剣法者や世阿弥など、立場は違っていても、その最大の関心事はこの方法論であって、ある意味において、東洋心理学は実践心理学であり、また実践哲学である。
- 自然力を人間の要求に向かって積極的に利用する企ては、かえってその自然に従うところにおいて実現される。
- 仏教でいう無事無理は事理の過程を一度通過した後の無事無理である、すなわち人為を尽くした後の無為である。無為は物をあるがままの誠の姿において捉える道である。
第18章 覚自証の生理的基礎について
『続 勘の研究』
第1章 回顧と展望
第2章 物の見方と那一点
- 那一点: 「那一点」は、ある限定された意味における通俗の急所であり、論理学でいう概念よりももっと具体的で、対象の全体はこの中に凝集されるとともに、これによって全体を支持し、全体を動かす支点となっている、いわば対象の機能的中心。対象を主観とかけ離れた単なる客観的な存在としてではなく、主観とある有機的な関係をもったものとして考え、したがってこれに対して一種の親しみを覚えるのは、那一点の成立している証拠である。主観の生命圏の内部にこれを取り入れることによって、対象は初めて那一点において知覚される。
第3章 心の力学――対象論
- 心の力学: 同一の対象を、主観との関連からしばらく離れて、静的に眺めた場合と、これを主観の要求や意図や興味の方向線に沿うて、移動させる場合とでは、そこに際立った相違が認められる。その相違は、対象そのものにまず気づかれることはむろんであるが、主観の立場もまた違ってくる。すなわち、対象も主観も、静的な位置に置かれる場合と、それが動的な姿態を取る場合があり、後者を主として論じるのが「心の力学」である。
- 動きつつある概念、われわれによって駆使される概念は、その外縁も内包も、急所の一点すなわちその那一点に凝集され、われわれがこれを取り扱うに便利な、手掛かりを提供する。
- 那一点において対象が受け入れられるときが、主観と対象と直接に接近し、これと合致するときである。自然の端的な把捉は、那一点を介して、自然に迫ることである。ここに芸術が生まれ、宗教への門が開かれる。俳句とか禅とかは、那一点を介する自然の認識であり、神の認識である、ということができるであろう。
- 生花: 生花は、一面において、特定植物の自然を生かしつつ、他面において、その植物について、主観の抱く理想をこれに実現させようとするもの。両者がうまく調和を保つところに生花の生命がある。
- 那一点をいかなる辺に見出すかは、作者の自然や人生に対する態度や、その解釈のいかんによって違ってくる。対象をいかなる那一点において把握するか、ここに芸術活動を爾他の活動から区別する最も本質的な分岐点が見出される。
- それぞれの属性は自己に相応した力を放射するが、それらはいずれも一つの焦点に輳合される。この焦点がすなわち那一点である。私の所有する一個の抹茶椀において、私の認める那一点は、私がこの茶碗に寄せる要求と密接な関係を持つ各属性から発する放射力に既定された那一点である点において、個人的主観的の性質を帯びたものではあるものの、それだけ、私の生活圏に取り入れられたものであり、ここに、これを他の茶碗から、本質的に区別しえられる、重要な契機がある。
第4章 心の力学――本質論
- 直指: 直指とは、特定の対象をその那一点において把捉する働きそれ自身。直指の成立する条件は、第一に心は静的な姿態を脱して、動的なすなわち力学的な姿勢をとること。第二に対象の有機化されること。
- 有機化: 対象をよそよそしく取り扱わないで、わが手足のごとく、自由に、しかも同情をもって駆使するところに有機化の意味があり、直指は有機化と並行して成立する、心の働きに他ならない。
- 客観的対象の那一点は、肉眼をもって視、肉耳をもって聴き、肉鼻をもって嗅ぐことのできないもの。心眼、心耳、心鼻の働きをまって、初めて確かめられる。
- 『勘の研究』では、覚を識との対立において考え、その特色を明らかにすることに努めたが、その後の研究によって「那一点」の概念に到達し、対象を把握する主観の作用を直指の概念の下に包摂し、この直指はその本質において、覚の範疇に帰属せしむべきものであるとの結論を得た。
- 対象をわが生命圏に取り入れるとは、主観の責任において、対象と緊密なる因縁を保つこと。有機化とは、自分の血の中に、また肉の中に、これを迎え入れることであり、必ずやわれわれ自身の側における一定の反動を予想するものでなくてはならない。言い換えると、実行すなわち実践躬行を約束する対象との関係づけがすなわちこれである。
- 直指の既定性および積極性: 対象に対するわれわれ自身の内に存する、規定的な積極的な原因こそが直指の本質である。規定的な原因というのは、われわれの態度にあるきまった方向づけが用意されていること。積極的であるとの意味は、われわれの主観が主となって、能動的に外に向かって働きかける姿勢を持しているということ。直指の既定性は、対象をわが生活圏内に取り入れて、これをその本来具有する性質において活かそうとする努力を前提として形成されるもの。この努力の進行過程を「学習」と名づける。
- 学習の主観的意味: 「学習」はひとつの過程であって、便宜上「前」「中」「後」の三段階に区別される。学習活動は、解決を要求する「問題の出現」とともに開始されるが、問題の出現が学習にまで進展すると同時に、学習者は到達せらるべき目標に向かって方向づけられる。この「方向づけ」は、それ自身多くは「覚」の形式において働くものである。
- 練習が十分効果をあげんがためには、単なる反復であってはならない。そこには、つねになんらかの「次元の向上」が伴うことを絶対に必要する。しかして、次元の向上には、学習系列の更新されるごとに、各系列の前段階において、その場に即した適当な方向づけが現れ、これが背景となって、爾後の段階を指導していかなければならない。これは別の言葉で表現すれば「創造」の働きである。いわば日に新たにして、また日々新たなるものを絶えず生み出すことである。
- 永富独嘯庵は、凡百の技は巧思に始まり、拙不思に終わるべきものであるとしたが、ここにいう技は、人事百般の技にわたるもので、質の高下貴賤を問わない。すなわち、これを上にしては、人類の有する最高の文化的活動を包容し、下にしては、日常の最も卑俗なる茶飯事をも嫌うことなく含んでいる。
- 「直指人心見性成仏」は達磨西来の根本精神である。学習は直指を究境の目的としてなされなければならない。これを学習の対象についていえば、対象は学習の完成とともに、その那一点において直指されるにいたるのだ。問題解決の秘鍵は、一に繋って問題そのものの那一点を見届けることにあるからである。
第5章 八面六臂の心の動き
- 学習の効果は、作業能を向上させるなど「働き」の上だけのものではなく、働きの行われる刹那における「気持ち」をも変える。両者をひっくるめて「心の組織」と呼ぶ。学習の重大な意義は、心の組織全体を一変させるところにある。
- 覚は、識と同じく、どこまでも自証の事実であって、第二次意識とか、潜在自我とか、無意識とか、ないしは前意識とかいったものとは、まったく性質を異にするもので、識と並列に、同時に活動する資格をもった心の働きに他ならない。
- 学習: 識も覚も、必要に応じて生誕し、活動するものであって、それぞれその起源を異にする。「学習」は、じつに覚の生誕を必要ならしめる重要な一つの契機である。学習は、一方において、特定能力の開発によって縦に深く掘り下げていく働きであるとともに、他方において、新能力の追加によって、心全体の活動範囲を横に広げる職能を帯びている。かくて学習は、解決せらるべき問題の出現を機として呼び起こされた「分極作用」の進展として解釈される。
- 識も覚もともに「極」をもっている。識における極は常に単一だが、覚には必要に応じて若干の極の成立が可能である。
- 「一時に一事」は、われわれの身体は、はなはだしく時間および空間の制約を受けるから。しかるに心は、各種の刺激を同時に受けとり、同一刹那に幾多の違った事柄を考える。
第6章 直指と分極作用との関係
第7章 盲人における勘
第8章 機
第9章 感情生活と勘
第10章 結び
- 現在生きてる私どもには、現実に即した「生活の意義」なるものが、なければならない。その意義は何であるかというに、私の存在が私自身にとってある価値を持つごとく、私を取り巻く自然――もっと手近いところでは社会――にとっても、私に相応した価値が創造されるように、行動することである。しかして、この二つの目的は、人間各自の持つ職業において統一されることになるがゆえに、職業に生活のひとつの重要なる意義を認めようとするのが、私の立場である。
- 職業は神聖にして貴賤上下の差別がないのは、われわれ個人は、職業(仕事)を通じて、社会構成の一員としての義務を果たし得るからである。
- かくて人間各自がそれぞれ自己に割り当てられた仕事を持つということは、社会生活の健全なる姿であって、同時に個人存在の意義が、これによって確立される。
- 仕事が利己的な小乗的な意義にのみ解されやすいのは、その社会的に重要な半面を持つことが忘れられるためであって、悠久な人間生活の営みも、これを土台にして造り上げられた文化も、個人もしくは個人の集団によって成し遂げられた仕事の成果であることを何人もつねに念頭に置かねばならならない。
- 「平凡なる仕事に含まれる聖なるもの」。世間の多くの人々の考えている平凡は、しかるべき価値なきゆえに平凡であるのではなくして、その価値を見出しえないがためにのみ、平凡と映ずるにすぎないのである。
- 人間のすべての行為は、誠意を中心としてこれから出発すべきであって、教育の理想も、誠意ある人を作ることであり、学問の研究も、誠意から離脱してはなんらの価値もない。
- 学問の研究は畢竟物を正しく視ることである。大学令の精神に現れた「人格の陶冶」とは、物を正しく視る誠意を確立し、これを培養することに帰着する。
- 私は、中庸に説かれてある「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」の語に、不滅の生命を認めんとするものである。