ダイアローグ170914

「場所的感情」を共有する


[この本に学ぶ]
場の思想
清水 博 著
東京大学出版会(2003年)


本書の著者である清水博氏が提唱する「場の理論」とは、ひと言でいえば、生きものを「生命という活き(はたらき)」から見て、そこに共通する原理を探ろうとするもの。したがって、地球上の生命体が織りなすすべての活動を説明しうる、きわめて汎用性の高いものであり、事実「場の理論」は教育学、社会学、経済学、人類学、言語学、情報通信学などさまざまな学問分野で、その応用研究がなされている。なかでもとりわけ盛んに研究されているのが経営学の分野で、本欄でも紹介した伊丹敬之氏(#170904)、野中郁次郎氏(#170823)らの研究はその代表例といえる。

本書『場の思想』は、こうした清水氏の理論が最も体系的に述べられた本。その内容は、簡単に語りうるものではないので、「組織経営」と「経営理念」に関わる記述部分の抜き書きを通じて、そのエッセンスを紹介すると――。

実践の論理は人々を動かす論理である。人々を動かすためには「情理を尽くす」といわれるように、パトスとロゴスの双方が必要となる。しかも…具体的な戦略が存在していなければ、どんな夢もユートピアに終わってしまう。…

実践の論理には、まず実現したい夢が必要である。夢を具体化しようと考え続けることから未来に関するイメージが次第に明確になり、やがて具体的な目的として共有できるようになる。夢のある明確な目標を共有し、それを実現するための舞台を想定することから変革のイメージが生まれ、そのイメージをビジョンにすることから戦略が生まれてくるのである。戦略が生まれてくるためには、イメージに具体的な形態を与えなければならない。この形態はパトスだけでも、またロゴスだけでも生まれない。パトスとロゴスを統合することによって生まれるのである。…

悟性(ロゴス)と感性(パトス)という質の異なる知性を統合して新しいイメージを作り出す創造的な知的能力、これが構想力である。…ここでいうパトスは個人的な感情(自己中心的なパトス)のことではない。それは場所的な感情(遍在的パトス、情感)のことである。人々がこの場所的感情を共有することが共感である。共感は舞台づくりの初めにどうしても必要になるものであり、人間が信頼感を確立する上で重要な働きをする。

しかし、それだけではまだ異なった立場にいる人々が共に働くことはできない。共に働くことができなければ、多用な活きを一つのドラマとして統合することはできない。統合のためには、場の共有とその場におけるそれぞれの位置づけが必要である。人々が共に働くためには、それぞれの役割を発見して、統合的な見地から相互に調整しながら、それぞれの役割を決め、その役割に期待されている責任を果たすことが必要である。

上記は、組織とそこで働く人々がいきいきと活動を続けるためにはどうすればいいか、といったことを述べている部分にあたるが、これだけでは分かりづらいと思うので捕捉をすると、まず「場の理論」の前提には「生命の二重存在性」という考え方がある。つまり「生命」というのは、私たちが通常理解するところの「個物」として存在するばかりでなく、同時に「場」としても存在している、ということ。これを清水氏が唱える「自己の卵モデル」を使って説明すると――。(以下では「生命」一般を「人間」を例として説明する)

ボウルの中に3つの卵を割り入れる。すると、3つの黄身はそれぞれ独立した形で白身に浮かんだ状態になる。だが白身はそれぞれが混じり合ってボウルの中で一体化する。この状態で、黄身に相当する部分を「局在的生命」(=通常の理解でいうところの「個人」)、白身に相当する部分を「遍在的生命」(=通常の理解では存在しない「場」としての生命)と捉え、生きものには常にこの2種類の生命が同時に存在するとするのが「生命の二重存在性」。局在的生命は物質に強い結びつきをもった生命であり、遍在的生命は活き(はたらき)としての生命相互の繋がりと空間的な広がりを濃厚にもった生命という特徴をもつ。

上記の引用文では、ロゴスとパトスを融合させることの大切さが説かれているが、これを「自己の卵モデル」を使って説明すると、ロゴスの働きは黄身と黄身との関係によって、集団的なパトスの働きは白身の間に自己組織される状態によって表現される。

つまり、組織とそこで働く人々がいきいきと活動を続けるためには、そこで働く人々が「黄身としての私」ばかりでなく、「白身としての私(=場としての私)」の存在を常に意識しながら両者を統合するような形で場に働きかけていくことが何よりも大切だ、と清水氏は説く。

日本は約一世紀に及ぶ長い戦国の戦乱を経て、仏教を基礎に普遍的な「場の文化」を生み出した経験をもつ世界でも特殊な国である。世界が場に注目をはじめているこの好機に、なぜ「場の文化」の創造というこの歴史的経験を現代に活かそうとせず、何時までも外に「正解」を求め続けていくのであろうか。重要なことは、広い世界を舞台にしたドラマをさまざまな国と共演することである。…

これからの日本にとって重要なことは、まず自分自身をよく見つめ、自己の存在を普遍的な論理によって表現することである。その上で、互いの違いを認め会うことによって、世界の多様な人々や生き物と共に一緒にドラマをする道を作り出すことである。絶望を乗り越える創造的精神をもたなければ、このとことは不可能なのである。

日本社会の危機とその克服に向けて場の思想的構想力を磨いていく――。清水氏の視線は、広く世界へ、そして遠く未来を担う世代へと注がれている。


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構想力と場づくり 1
  • 西田幾多郎: 実在するものは「場所(場)において在る」。生命は「活き(はたらき)」であるが、その存在は身体によって自己表現する活きである。それは結局、その活き自身を持続的に存在させる「創出的循環」の活きである。
  • 生きものには「局在的生命」と「遍在的生命」という2種類の生命が同時に存在している。局在的生命は物質に強い結びつきをもった生命であり、遍在的生命は活きとしての生命相互の繋がりと空間的な広がりを濃厚にもった生命である。
  • 生命的存在の原理: 「局在的生命」と「遍在的生命」とは「相互誘導合致」する。相互誘導合致とは、局在的生命が遍在的生命に包まれるように互いに相手を誘い合いながら、次第に結びつくこと。生命の重要な諸性質のうち、最も基本的な性質は「創造性」であり、それはモノという面からだけでは明らかにならない。

  • 生命の二重存在性: 生命は「場」として存在し、また同時にその場に位置づけられた「個物」として存在している。
  • 「存在」とは: 存在者は場に位置づけられることによって「存在existence」を獲得する。活きや意味に直接結びつかない「物理的存在presence」と区別して考える必要がある。存在者には「身体」があるために、場の同じ位置に複数の存在者が位置づけられることはない。それぞれ固有の活きや意味をもつ「顔のある個」である。一方、物理的時空間に位置づけられた諸要素は位置によって活きや意味を変えない「顔が見えない要素」である。生きものを物理的存在物として取り扱うのが「科学的認識」の立場。
  • 生命のさまざまな二重存在的関係のうちでもっとも基本的なものが個体(遺伝子の担い手)と純粋生命(最も大きな生命)である。他の関係はこの基礎的関係を拘束条件として二次的に生成したものである。

  • 素粒子には、粒子性という局在性と、波動性という非局在性(遍在性)の二重の性格があり、この両者は「相補的関係」にある。
  • 生命の自己表現性: 生命は場に位置づけられた存在をその場へ表現するかたちで活きている。生命はそれ自身をそれの上へ表現する「場的界面現象」(場的境界の生成現象)といえる。
  • 生命の即興劇モデル: 局在的生命の活き=役者の演技的表現、遍在的生命の活き=舞台の演劇的表現

  • 評論家と選手: 評論家は結果から原因のほうへと時間的に逆行してできごとを見ている。選手は、時間が進行する方向に向かって順行しながら、原因のほうから結果を予測している。評論家は知識(概念)の世界の住人であるが、選手は行為(実践の世界)の住人である。
  • 創造とは: 「評論」は頭脳の活きによる一領域的活動。「行為」は頭脳の活きと身体の活きによる二領域的活動。「創造」は二領域的活動。
  • 「自己」の二重存在的活き: ①自己中心的領域=「局在的自己の活き」「頭脳性」に相当。②場所的領域=「遍在的自己」「身体性」に相当。身体性には情緒的な働きも含まれる。人間のこの二領域的世界に対し、「科学」は知識の世界から見た生きものの姿を明らかにしていうが、「場の論理」は行為の世界における生きものの姿をつかむことを目的にしている。

  • 場の理論(まとめ): 生きものを生命という活きから見ると、局在性と遍在性という二重性がある。局在的生命と遍在的生命とはそれぞれ自己表現をするが、双方の表現のあいだには相互誘導合致をともなう否定的循環(相補的関係)がある。遍在的生命は(局在的生命が宿る)空間的に個を越えて広がる活き(場)を生成する自己組織能力をもっている。局在的生命と遍在的生命の表現のあいだに否定的循環(創出的循環)が生まれることから、生命は「絶え間ない動態」に置かれる。
  • 局在的生命: 局在的生命には、生きものの局在的な性質(個別的な性質)が反映している。その意味から局在的生命の活きは、独立的であり、個別的であり、また多様である。そして局在的であることから、モノとしての性質に大きく左右される。
  • 純粋生命: 限りなく遍在的な生命のこと(空間的局在性によっては表現できず、純粋な働きとしてしか表現できない生命)。すべての局在的生命は純粋生命と相補的な関係にある。

  • 科学的表現の限界: 場(生命場)を切り捨てた科学の記述では、場に代わって物理的な時間軸と空間軸とが与えられ、また「全体」という概念に代わって「全部(合計)」という概念が使われる。だから全体(場)のなかに新しく生成した部分を位置づけること、すなわち存在が表現できないのである。
  • 自己の卵モデル: 自己は卵のように「黄身」(局在的自己)と「白身」(遍在的自己)の二重構造をもっていると考える。白身が広がった範囲が「場」である。全体は器の形態によって与えられるが、それは白身が広がろうとする活きと純粋生命が白身を包摂しようとする活きのバランスによって生成する。器の形態を決める活きを「場の形成作用」という。
  • 即興劇モデル: 卵モデルの黄身に相当するのが「役者」、白身に相当するのが「舞台」、器が舞台の境界、観客が純粋生命。

  • 身体の境界: 私たちの身体(白身)には、局在的な自己(黄身)の活きを外へ向かって発散するように伝えていく「外向きの意識の波動」に相当する活きと、その逆に身体の外側の状況を局在的自己に向かって収束しながら伝える「内向きの意識の波動」に相当する活きが共存している。そしてこれらの波動の活きが均衡するところに身体の活きの「境界」が形成され、その境界の内側が場となるように意識の舞台が生成する。
  • 場の変化をドラマ的時間に位置づける自己(黄身)とその自己の演技をドラマ的空間に位置づける場としての自己(白身)の二つが相互誘導合致の過程で相互に循環的に活動することによってドラマが進行する。
  • 空間的な「間」: 空間的な「間」とは、白身がつくる場的空間において黄身が存在できる位置づけ可能な間隔のこと。竜安寺の石庭=場という庭園空間全体のなかに要素を位置づけるときに使われる間がデザインの尺度を与える。⇔ベルサイユ宮殿の庭園=物理空間に対する固定的尺度の適用

  • 時間的な「間」: 要素的創出の間の時間的間隔。
  • 日本語と「間」: 日本語は場の文化が生み出した言語だから、場の状態をメディアとして行われる暗在的表現が重要な役割をしている。そのために明在的な言語的表現の方には曖昧性が残される。
  • 生活劇場と人生劇場: 生活ドラマが次々と人生劇場に移されて、そこで蓄えられ、人生という一本の筋の通った歴史ドラマのかたちに編成される。

  • 構想力: 構想力とは、未来に使われる生活劇場や舞台を想像し、それを設計する能力のこと。未来への想像力と場の設計能力(場づくりの能力)が結合した総合的能力といえる。
  • 戦略と戦術: 戦術を立てるときには、自己と場は非分離状態になっている。戦略を立てるときには自己と場とは分離する。
  • 生活サイクルと歴史サイクル: 生活サイクル=生活の場の状況に合わせながら、その方針にもとづいて生活ドラマを実行する「戦術ステップ」。歴史サイクル=人生観に基づいて生活ドラマを進める「戦略ステップ」。

  • 脳における生活劇場と人生劇場: 一本の歴史ドラマとしての人生を「一」、即興的な生活ドラマを「多」として、両者の間を整合的にしようとする活きが人間にはある。人生という歴史ドラマは、長期記憶のかたちで存在している多様な生活ドラマを変遷する(反省的に編纂する)ことによって創出される。@大脳新皮質/レム睡眠
  • 人間の暮らしの一つひとつには多くの「作業仮説」が存在している。作業仮説を立てなければ生活ドラマが先に進まないから。「宗教」が人生ドラマの筋を示す役割をした時代があった。その人生ドラマが生活ドラマに枠を設定して、欲望が野放しになるのを防いだ。しかしこの束縛が強すぎると、人間は宗教的な縛りから解放される生活を望む。
  • 近代という時代を迎えた人間が最終的に行きついたのは、解放された欲望に経済的発展を結びつけることによって生活ドラマを先へ進める生き方=大量生産・大量消費型の市場経済だった。
  • 隷属化原理: 人々の活動に何らかの自己増殖機構が存在すると、その自己増殖性によってシステム内部に「共動的な活動」が生まれること。隷属化により、人々は、人間にとってもっとも重要な主体性(自己が自己の人生を編成する活き)を失うことになる
構想力と場づくり 2
  • 場の枠: ①固定した枠→閉じた場「群れ合いの場」 ②開いた枠→開いた場「出会いの場」。群れ合いの場では、閉じた場の枠が閉鎖集団に特有の自他分離構造をつくり、「我々のエゴイズム」を生む。出会いの場では、人々が「我と汝」として出会い、「ともに活かされている」との自覚が働くことによって、異質の背景をもつ人々の間で「共創」が生まれる。
  • 陽明学: 陽明学の骨子は「良知の導きにしたがって人生の志を立てること」、そして「その良知を致すこと、すなわち良知と知行合一の実践をすること」。良知とは、人間が学ばずしてもっている根源的な知。純粋生命が人間の内部に活いて生み出す根源的な知。志を立てるとは、純粋生命が示す道に自己の人生の目標を置くこと。自己の活きを純粋生命の活きに一致させること。
  • 生死の場: 生死の場は、生活劇場と人生劇場をともにその内部に包み込むことができる。つまり生活の場が生死の場に包まれることによって、そのまま人生の場となる。「知行合一」とは、生死の場の活きによって、生活劇場における生活ドラマが隙間をいれずそのまま人生劇場における人生ドラマとなること。

  • ブロック的構築と箱庭的構築: ①積み上げ型=さまざまな部品(要素)を積み上げて全体をつくる作り方「主語的論理」。②位置づけ型=最初に「我」をその一部として包含する「全体」を想定し、つぎにその「全体の状況に合致する」ように位置づけながらつぎつぎと部品を置いて構造物をつくっていく方法。
  • 文明には箱庭型文明とブロック型文明がある。ブロック構造物では、一個の部品を新しいものに取り替えようとすると全体の構造が崩壊する可能性がある。箱庭構造物では、部品の間に補完的関係があり1つの構造物を取り替えても全体の構造が全面的に崩壊する可能性はほとんどない。またこのために絶えず変化していくことができる。人間と自然の調和、人間と社会の調和の原理はブロック構造物の構築原理では達成できない。
  • 創造的跳躍: 無限の可能性をもっている「未来の世界」は、限りなく自由である純粋生命(無文節的で無限定的)からしか生まれることはできない。だから、新しい世界の発展の方向は純粋生命の活きに合致していなければならない。問題を純化する→問題を抱いて眠る。

  • 創造とは: 創造とは、過去からの軌跡の上を生きている局在的生命としての自己が限りなく遍在的な純粋生命の場に出合い、その場によって相互誘導合致を受けることによって、自己の存在の根底に暗在的な状態として移された状態から何ものかが自覚可能な表現の形で意識の上に現出すること。自己の身体が開かれて全宇宙の智慧が活く動的な状態に置かれたときに、その身体が全宇宙の法則性である縁起の活きを実現して宇宙的な活動を創出すること。
  • 道元: 道元思想の柱の一つは「智慧に満たされた身体」。般若とは、分節化を受けていない限りなく遍在的な活き。渾身とは、全身般若と化し、「万法に証せられる」菩薩の身体全体のこと。心身脱落即脱落心身。道元は自分の渾身が瞬時にして滅び、「仏の御いのち」として蘇るのを自覚していた。この滅びの自覚したものが「色即是空」。蘇りの自覚したものが「空即是色」。
  • 宗教とは、自己の存在が純粋生命の活きによってその存在を深める動的活動。
新しい時代への場づくりについて
  • 出会いの場と群れ合いの場: 日本では、社会の大きな転換点になると、生存への危機感から精神的「贅肉」が抜け落ちて、人々は生死の場に生きていることを自覚し始め、限りなく遍在的な生命の活きに目を向ける。生命への危機感によって「出会いの場」が社会に生まれ、その場において人々が出会い、そこから社会的創造の活き(共創)を拡大させていく。転換が成功して平安な時代が来ると、人々の精神に「贅肉」がつき始め、やがて精神活動が頽廃する。その結果「群れ合いの場」が生まれる。
  • 共創: 「我々」には、関係に拘束されて我々となっている状態(拘束された我々)と、関係から解放されて我々となっている状態(解放された我々)がある。「共創」では、我と汝の関係にある人々が互いの間を拘束する関係から解放されて自由な我々となり、互いに他を受け入れながら協力して創造に向かう、その一人一人に純粋生命が我々に活きかけてくる。

  • ともに生きる: 出会いとは、凝縮した生命が凝縮した生命に遭遇する現象。そしてその遭遇によって凝縮していた生命が結合し、新しいかたちをとって空間に解放される(縁起による創造)。その一瞬一瞬の創造を輝かせていくことが「ともに生きる」ということ。
  • 転換期に出現する諸問題に通底する本質的な問題を見抜いて、それを包摂できる適切な場をつくることが重要。転換期における諸問題こそが、新しい時代における創造の推進力になる。
  • 米国主導の投機的な経済は「群れ合いの場」の上に成り立つ経済であり、経済的な活動にとって最も重要な創造性と倫理性の基盤をもっていない見せかけの活動である。
日本社会の危機とその克服に向けて

1.問題の所在――病気の社会と社会的諸制度
  • 私にとって意味のあることは、「認識」ではなく「存在」である。それは、何を、どのように実践することが私たちにとって善いことなのかを発見することであり、そしてどうすれば、その善いことが私たちにとって嬉しいことになるかを発見することである。
  • 社会の即興劇モデル: 人間の集まりにおける人々の内面(身体化された心)の働きを重視して、その心の状態が外へ表現されて社会的現象を引き起こし、その現象が再び人間の内面に影響を与えて次の現象を生み出す循環的変化が社会の動態の本質であると考える。
  • 自己の卵モデル: 即興劇モデルにおける役者を「自己の卵モデル」で考える。黄身と黄身の関係によって「ロゴスの働き」を、白身の間に自己組織される状態によって「集団的なパトスの働き」を表現し、黄身と白身の相互誘導合致によってロゴスとパトスの心身一如的統合を考える。
  • ドラマが停頓してしまう閉塞的状態では「自己言及のパラドックス」という論理矛盾が生じている。「クレタ人は嘘つきであると、クレタ人が言った」
  • 社会が健康なときには「操作の論理」が使われるが、病気のときには「創造の論理」が使われなければならない。
  • 「和魂洋才」の破たん: 日本は明治維新以来「和魂洋才」を唯一の発展原理としてきた。文明におけるロゴスとパトスの働きを分離し、前者を西洋式に後者を和式にして折衷する原理。両者の分離から生じている矛盾は、両者を統合することによってしか乗り越えることができない。

  • 自己創造の論理: 消滅と生成の二つのドラマにかかわりあって生きる生き方こそ、自己創造の変態的変化――自己創造に共通する型。転換期における変態的変化に必要なことは、自己の内側からの声への強い使命感である。
  • 純粋生命の中における生死を人生と考えることによって、相互信頼の意味がわかってくる。志は、この相互信頼を前提として成立するもの。自己の中に「悪人」を発見する。悪から善への変態的な転換が自己創造のドラマを進める力となる。
  • 経済的収益性という秩序に照らして「正しい」という基準によって成立してきた企業が、社会的に「善い」という基準によって成立する企業に企業存立の基盤を変更しなければならない。これは合理性から倫理性への基準変更である。倫理的基盤の上に目的を設定している企業では、社員が誇りをもち、使命感を感じて働くためにパトス的エネルギーが上がって困難な社会的状況に耐えて生き抜いていくことができる。
2.問題解決への戦略――場の思想的構想力
  • 実践の論理: 実践の論理にはまず「夢」が必要である。夢を具体化しようと考え続けることから未来に関する「イメージ」が次第に明確になり、やがて具体的な「目的」として共有できるようになる。夢のある明確な「目標」を共有し、それを実現するための「舞台」を想定することから変革のイメージが生まれ、そのイメージを「ビジョン」にすることから「戦略」が生まれてくる。戦略が生まれてくるためには、イメージに具体的な「形態」を与えなければならない。この形態は「パトスとロゴスを統合」することによって生まれる。
  • 自他非分離的統合: 悟性(ロゴス)と感性(パトス)という質の異なる知性を統合して新しいイメージをつくり出す創造的な知的能力が「構想力」である。構想力とは「共創の場」をイメージする活きのこと。ここでいうパトスとは「場所的な感情(遍在的パトス)」のこと。人々がこの場所的感情を共有することが「共感」である。しかし共感だけでは、多様な活きを1つのドラマとして統合することはできない。「統合」のためには、「場の共有」とその場におけるそれぞれの「位置づけ」が必要である。人々が共に働くためには、それぞれの「役割」を発見して、統合的な見地から相互に調整しながら、それぞれの役割を決め、その役割に期待されている「責任」を果たすことが必要である。
  • 未来はロゴスの上では無限定(=原理的に分からないこと)であるが、パトスの上に移ると必ずしも無限定ではない。無限定な未来に向かっているときは、パトスはロゴスを越えるのである。

  • 「現在」は、ロゴス的世界(過去の世界)とパトス的世界(未来の世界)の分岐点であり、この2つの世界を相互誘導合致によってつなぎながら生きていくのが「自己を生きる」ということ。
  • パトスの働きは場によって変わる。場を語らなければパトスの働きを語ることにはならない。精神的エネルギーはパトスの働きによって生まれる。ロゴスそのものにはエネルギーはないため、ロゴスによっては閉塞的状況を突破できない。
  • 「善く生きる」とはいきいきと生きることだと思う。「創造」とは、限りなく遍在的生命が表現する生命の進化というドラマの一部として、人間が自己表現を創出することであ-ろう。

  • どのような状況にあっても信頼されるのは「慈悲心」から出た行為である。純粋生命の活きに精一杯応える「慈悲の表現」こそが、不信の時代を人間の創造力によって超える原理である。「慈悲」とは、自己の生命の活きを他者に与えることである。慈悲の活きに導かれて、大きなドラマの中で人生を演じていくことが「道に行きる」ということである。
  • 日本の未来は、草莽の知と活力を興して、社会の創造力と活力を上げ、草莽のレベルからパトスのエネルギーを上げていくしかないと私は信じている。
あとがき
  • 共存在の社会技術: 現役世代が次世代にかけている負担を、少しでも減らそうとする活動が共存在の社会技術で、3つの部分からできている。①誰が現世代であるかと分け隔てして考えない。②誰が次世代であるかと分け隔てしない。③慈悲の活きが次世代の誰にも分け隔てなく行き渡るように分け隔てを作らない手段を使う。
  • 狂気の果てに: 狂気は、人間が死ぬべき存在として生を受けているという単純な事実から目をそむけ、死を自分のこととして受け入れないことから生まれてくる。
  • 宗教の通分: 宗教心とは、自己の存在が二重生命であるということを自覚し、人間としての実存を深める活動。大切なことは、宗教も政治と同様に、一中心的時代から多中心的時代に移行するための努力をしなければならないということ。そのためには各宗教が宗教心に里帰りして、それぞれのストーリーを純粋生命と自己の関係によってできるかぎり単純な形式に整理する必要がある。そしてその整理された概念の上で相互関連を見出すこと(=宗教の通分)が必要。

  • 秩序: 西洋では、秩序といえばブロックを積み上げたような「線形的秩序構造」が想定されるようになってきた。他方、東洋では仏教の縁起思想にその典型が見られるように箱庭型の「非線形的秩序」を想定してきた。そして秩序の型の差は神の国と仏の国の差となって宗教に現れ、そしてその宗教から影響を受けて哲学や文化の発展の型が決まってきた。
  • 私はこれまで生きものは自律的な複雑なシステムであり、「生命」はそのシステムの内部に生まれる特殊な散逸構造であると考えてきた。散逸構造とは、集団運動によってシステムの内部に生成するちょうど流行のモードに相当する秩序構造。
  • 場のアトラクターは一般にストレンジ・アトラクターであり、その内部に様々な「秩序」ばかりでなく、様々な「無秩序」も包摂しているため、どのようなシナリオに対しても即興的に対応できる。その意味では人間は本質的に「悪人」であり、純粋生命に導かれなければ秩序を生成することができない。