[この本に学ぶ]
『
<いのち>の自己組織 共に生きていく原理に向かって』
清水 博 著
東京大学出版会(2016年)
著者の清水氏は、もともとは生命科学者。だが既存の科学(=「現象の科学」)的アプローチによる真理究明の限界を知り、それを補う方法論としての「存在の科学」を提唱。NPO法人「場の研究所」の所長として、その啓蒙・普及に努めている。
タイトルにある<いのち>も、いわゆる「生命」とは異なる独自の概念で、それは、人間を含めたあらゆる生きものが共通してもっている「(未来に向かって)存続し続けようとする能動的な活(はたら)き」のこと。この<いのち>を、私たちは、一人の人間として、さらには組織や社会として、どうすればいきいきとした状態に保つことができるのか――という問題に対し、根源的な原理とともに、きわめて実践的な方法論として、その見解が示されている。
氏が展開する「存在の科学」は、「組織経営」のあり方についても、本質を突いた、多くの示唆を与えてくれる。それは、独自の概念や用語によって組み立てられているため、内容を簡単に紹介するのは困難だが、試しに、「<いのち>の自己組織」論を企業経営に適用した場合の考え方を著す部分の本文ならびに<図>を抜き書きしてみると――
企業がその危機を克服するためには、…企業の<いのち>を、<いのち>の居場所としての地域社会や地球へ与贈することができる形態をつくることが、企業経営の最も重要な課題となります。そこで必要なことは、「一」という、企業の<いのち>の発見です。そして、「一から多へ」の、自己組織的発展の実践です。個としての個性が消されるボーズ粒子の状態から、従業員の主体性とのその自主的な活きを重んじて、個としての唯一性が重視されるフェルミ粒子に飛躍させる非同一性化が必要となります。従業員のモチベーションが上がって、生き生きとした活動が生まれるためには、企業そのものが地域社会や地球に存在する公的な生きものとして自分自身の非同一性を示すことができるような使命感をもたなければなりません。そして経営者は、このことの重要さを株主に対して説明できるだけの身についた哲学を必要とするようになるでしょう。
清水氏の「存在の科学」に初めて接する方には、おそらくチンプンカンプンの内容かと思われるが、筆者(馬渕)は本書を丹念に通読し、きわめて精緻に構築された「<いのち>の自己組織」理論に深く共鳴した。
ちなみに、本サイトの主題である「経営理念」について、「<いのち>の自己組織」理論は、それを、同理論が究極的にめざす「<いのち>の与贈循環」を生み出すための最初の一歩にあたる、経営者の<いのち>として、次のように大切に位置づけている。
統合体では、全体と個の二種類の拘束条件が必要になります。第一の拘束条件は「一から多へ」における統合体の全体=「一」のあり方を限定するものです。たとえば企業が興されるときの夢(理念)に相当し、夫婦が結婚して新しい家庭を作るときの家庭の夢に相当するものです。統合体として出発した企業が、新しい世代の経営者に次々と受け継がれて、次第にその経済的規模が大きくなっていく過程において、新しい時代に相応しい「一」の活きを絶えず創出していく「形態形成」が必要です。それを怠ると、いつの間にか、収益を少しでも多く上げて株主の期待に応えること、すなわち<いのち>の自己組織に関係なく設定される外在的世界の目標が事業の目的に変わってしまいます。そしてそれにともなって、「一から多へ」の統合体から「多から一へ」の集合体へ、言い換えると「生きもの」から「機械」へと、企業体の性格が変質してしまうのです。それに応じて、従業員も、創業者の<いのち>を内側から受けて活動する能動的な「生きもの」からマネーのために働く受動的な「部品」へと変わるため、モチベーションが低下して、企業に危機が生まれることになります。
清水氏が「存在の科学」を提唱する背景には、私たちが身を置く近代文明(現代文明)に対する、氏の、以下のような基本認識が根底にある。
- 近代科学は様々な自然現象の法則性を明らかにすることを目的とする「現象の科学」。一方、私が考え続け来たのは「存在の科学」。
- 現代文明の大きな、そして危機的な特徴は、「現象としてみる世界」と「存在としてみる世界」の間に深刻なギャップがあり、その2つをつないで1つの整合的な世界像をつくることができないという点にある。
- <いのち>の居場所である地球と、人間の間を切り離して主客分離的に捉えてきた科学によってつくられた近代文明。その急激な発展と広範な浸透によって、人間は<いのち>の居場所としての地球や地域社会を失うと同時に、その居場所の<いのち>に媒介されて成り立っていた互いの<いのち>の繋がりを失っている。
- 生命科学とは異なる出発点から出発して、地球における人間を含めた生きものの共存在を研究する「もう一つの科学」=「存在の科学」を急いでつくる必要がある。それは「生きていく」という生きものの「存在」から出発していく「地球の形而上学」に相当する「<いのち>の科学」である。
まったく同感だ。清水氏が数十年にわたる深い考察を通じて構築されてきた「<いのち>の科学」に学ばせてもらいながら、「組織経営」ならびにその中核をなす「経営理念」のあり方に対する考察を、今後さらに深めていきたいと思う。

プロローグ <いのち>という出発点から
- 人間は、地球が無限に広いことを暗黙の前提として「文明」をつくってきた。しかしその前提が成り立たなくなってしまい、人間と自然との間に深刻な矛盾が生まれている。
- そうした問題を解決すべく、これまでの科学も宗教も否定しない<いのち>からの出発を提案する。<いのち>とは、「存在し続けようとする能動的な活き」のことをいう。
- 一から多へ: はじめに<いのち>をもらった一個の受精卵があり、次にその受精卵を居場所として、その中に多くの細胞がそれぞれの<いのち>をもって次々と生まれてくる。出発となる「一」は、すべての「多」の内在的世界。
- 「生きている現象」には内在的世界がなく、「生きていく存在」は内在的世界にある。
- 競争原理から共存在原理へ変わることは、競争がなくなることでも、また悪がなくなることでもない。共存在状態が全体的に自己組織され、共存在原理が成り立って、制限のない「競争のための競争」が抑えられることが重要。
- 地球に多様な生きものが共存在できる「<いのち>の居場所」が広がってきたのは、<いのち>の与贈循環による。「<いのち>の自己組織」という<いのち>自身がもっている自然(じねん)の活きが、与贈循環の力を生み出す。
- 私たちにとって本当の富とは、<いのち>の与贈によって生まれる豊かな内在的世界。
外材的世界と内在的世界
- 近代科学は様々な自然現象の法則性を明らかにすることを目的とする「現象の科学」。一方、私が考え続け来たのは「存在の科学」。
- 現代文明の大きな、そして危機的な特徴は、「現象としてみる世界」と「存在としてみる世界」の間に深刻なギャップがあり、その2つをつないで1つの整合的な世界像をつくることができないという点にある。
- <いのち>の居場所である地球と、人間の間を切り離して、主客分離的に捉えてきた科学によってつくられた近代文明。その急激な発展と広範な浸透によって、人間は<いのち>の居場所としての地球や地域社会を失うと同時に、その居場所の<いのち>に媒介されて成り立っていた互いの<いのち>の繋がりを失っている。
- 生命科学とは異なる出発点から出発して、地球における人間を含めた生きものの共存在を研究する「もう一つの科学」=「存在の科学」を急いでつくる必要がある。それは「生きていく」という生きものの「存在」から出発していく「地球の形而上学」に相当する「<いのち>の科学」である。
- <いのち>とは、人間を含めたあらゆる生きものが共通してもっている「(未来に向かって)存在し続けようとする能動的な活き」のこと。生きものが「生きていくこと」は、生きものがその<いのち>の能動的な活きを、居場所に具体的に実現していくこと。生きものに自身にとっての「価値」や「意味」を生成する主体的な活きがそこから生まれる。
- 生きているとは「現在」のこと。生きていくためには「未来」が要る。
- ベルクソンの「純粋持続」: 科学者(数学者)が考える時間は「現在」という時間的な1点の一次元的集合。これに対して、生きものが生きていくときに現れる時間は、切れ目なく「持続する時間」。すなわち「純粋持続」が生きものの存在そのものを示している。居場所の<いのち>がなければ、生きものは、「生きていく」という本来の存在の形をとることができない。
- 外在的世界と内在的世界: 人間は自己の存在と意識の対象を主客を分離して、その対象を自己の存在の外側の世界(外在的世界)に位置づけることができれば、それを明在的に認識することができる。このようにして明在的に認識される対象が集まっている世界を「外在的世界」と呼ぶ。自己自身の活きと分離できない世界を「内在的世界」と呼ぶ。もともと1つの世界を、主として脳の構造にしたがって、人間が外在的世界と内在的世界とに分けて認識しているのであり、真の世界は、この両世界を相互整合的な関係になるように統合したものに近いと思われる。
- ライプニッツの「モナドロジー」: 内在的な世界は個人に固有なものであり、外からはのぞき込むことができない「窓のない部屋」に相当すると考え、それを「モナド」と名付けた。モナドは、個人に互いに異なる主観的な意味や価値を与える。モナドは外在的世界に包まれつつ、その世界を内側に内在的に包んでいる。西田幾多郎は、モナドに相当するものを深い井戸にたとえた。
- 外在的世界(黄身の世界)と内在的世界(白身の世界)は本来一つの世界。外在的世界が明確になっていくことによって、その世界に欠けているものも次第に明確になり、内在的世界の存在が否定できないものになっていく。双方が相補的関係となるように進むことで、それぞれの正しい方向性を得られる。
- 競争がすべて悪いのではない。幻想にもとづいて行われる競争が矛盾をつくりだす。競争が「共創」をつくり出すかどうかによって、競争の質を知ることができる。
- 地球の未来を開いていく夢は、暗在的な<いのち>の世界から、境界を通じて明在的世界にやってくるが、欲望に駆動される夢は明在的な世界で生まれる。
- 内在的世界しか存在しないと考えて文明をつくっていくと、「宗教的世界」が生まれ、やがて異なる宗教や宗派の間の対立がおきて激化する。異なる居場所の間に繋がりが生まれるかどうかは、居場所の「境界」のあり方に関係するが、宗教的宇宙には境界の論理が存在しないから。
<いのち>の居場所
- 近代文明は、欧米における「自我」の発見によって生まれてきた人間中心的な生命観の上に発展してきた。その結果、人間の主体性が「自我」の活きに結びつけて理解され、それが近代文明の強い浸透力によって世界に広がっている。それに対し、本書では、生きものの<いのち>そのものの活きを、その生きものの主体性として受け入れる、「生きものの主体性」という広い考え方を採用する。
- 主体性には、生きものの存在が歴史的であることにから生まれる種差、性差、個体差、地域差、文化差などにもとづく多面性があるのに、それを近代社会では「自我」という一面からしか捉えてこなかったことが、現在の危機的な状態を地球に生み出した原因の一つになっている。
- 居場所の構造(=卵モデル): 外在的世界に設定された境界(器)の内側の空間(場所)に内在的世界が生まれて「居場所」となり、そしてその居場所では、家族全体の<いのち>を取り入れた居場所の<いのち>としての家庭の<いのち>に包まれて、個々の家族の<いのち>が存在している。
- 二領域構造: 居場所は、①生きものが集まっている外在的世界という面と、②生きものの<いのち>がつながっている内在的世界という面の二領域構造をもっている。本当は内外両世界を相互整合的に統合した一つの世界が実在しているにもかかわらず、人間の意識がその世界を二つに分けて認識した上で統合することしかできないことを反映しているのではないか。
- <いのち>は、「外在的世界」では生きものにそれぞれ個々に宿っている独立した「粒子」としての性質を示すのに、「内在的世界」では(その居場所に<いのち>を与贈しながら存在している)それらの生きものをすべて包む「場」としての性質を示す。場が生まれるのは、居場所に広がった居場所の<いのち>が自己組織的に生成されるから。
- <いのち>の粒子の非同一性: 居場所における<いのち>の「粒子」の状態はすべて互いに異なっていなければならない。<いのち>はオンリーワンであり、原理的に互いに置き換えることはできない=フェルミ粒子(⇔ボーズ粒子)。
- 居場所の即興劇モデル: 居場所における<いのち>は、居場所に広がる場を「舞台」にして、多様な「フェルミ粒子」としての非同一的な活きをもつ「役者」たちが同じ<いのち>のシナリオを舞台から与贈されつつ「<いのち>のドラマ」を演じている、とみることができる。
- 居場所は、外側の世界と内側の世界が出会う場所であり、両世界が相互整合的になるためには、その境界の活きが重要である。境界は、観客席の観客にたとえられる。
- 「創造」は、地球上に新しい「<いのち>のドラマ」を生み出す<いのち>の能動的な活きであり、<われ―なんじ>の根源語が使われる場所から生まれる。新しい空間が生まれ、時間が生まれるところに現れる。
<いのち>の自己組織
- ハーマン・ハーケン「スレービング原理」: 山と谷が揃った秩序の高い光の波が(散逸構造として)自己組織される現象をもとに、様々な領域に見られる自己組織現象に応用できる一般的な形式を抽出した。
- 要素の活きの「型」を「誘導」する活きを持っている空間を「場所的空間(居場所)」と呼ぶ。要素の活きと空間の活きを二つに分離できる集合体のことを「線形系」、二つに分離できない(被分離の)集合体のことを「非線形系」と呼ぶ。「自己組織」という現象は、非線形系でしかおきない。
- ボーズ・アインシュタインの凝縮: ボーズ粒子が群れ合って集まる現象。
- 自己の意識が外在的世界にあるときには、その<いのち>にボーズ粒子としての活きが現れ、内在的世界にあるときにはフェルミ粒子としての活きが現れる。そのことが「現象の世界における自己組織」と「存在の世界における自己組織」とを本質的に異なるものにしている。複雑系の科学が研究してきたのは前者の自己組織、<いのち>の自己組織は後者。
- 現象の自己組織が「ある空間において生きている状態の自己組織」に相当するのに対し、存在の自己組織は「ある<いのち>の居場所において、共創的に生きていくドラマの自己組織」に相当する。前者の空間には<いのち>が存在していないのに対し、後者の居場所には新しい<いのち>が継続的に自己組織的に生成されて、その居場所に存在する生きものとの間で<いのち>の与贈循環が続けられて時間を生み出している。
- 生きものの<いのち>という多様な「役者」がまずあって、その組み合わせによって居場所としての地球という舞台が生まれるという「主語的な論理」(「多から一へ」という論理)は誤りであり、歴史的に続いてきた居場所としての地球という「舞台」がまずあって、そこに「役者」としての多様な生きもの<いのち>が現れては消えていくという「述語的な論理」(「一から多へ」という論理)が正しい。
- 「多から一へ」はイベント型、「一から多へ」はドラマ型。人々を、そのドラマの二人といない役者だと認識することが大切。「多から一へ」への自己組織にあっては、「一」を生み出す「多」の活きがもともと受動的で、<いのち>のように能動的でないため、外から与えられる誘導や、たまたま生まれた秩序パラメーターによる「支配」がなくなれば、要素の活きの間のつながりも消えてしまう。
- 生きものは「一」に「多」が包まれるという<いのち>の二重構造(二重生命)をもっている。また、その「一」が細胞たちの内側から活いて、「多」としての多様な活きに同一の方向性を与える。「包まれつつ包む」というモナドの形が生まれる。だが、同じ「<いのち>のシナリオ」を受け取っても、そのフェルミ粒子としての<いのち>の具体的な表現は、生きものの居場所におけるそれぞれの位置にしたがって異なる。
- <いのち>の統合体: 「一から多へ」という<いのち>の自己組織によって生まれ、維持されていく大きな生きもの。⇔集合体
- 統合体の場合は、まず生きものがそれぞれ自分自身への執着を捨て、自己の<いのち>を居場所に与贈する。そこで生まれた居場所の<いのち>は「公共のもの」として生きものに共有される。すると、居場所の<いのち>を通じて、生きものの<いのち>が互いに繋がり、相互信頼と相互受容が生まれるため、互いに安んじてフェルミ粒子としての自分自身の気持ちや存在を表現することができる。これに対して集合体の場合は、自己防衛の必要性から自己の姿を隠そうとするため、プライバシーが大切になる。結果として、外から与えられるルールに同じように従うため、ボーズ粒子のように主体性のない「群れ合い」状態が現れる。
- 企業の<いのち>: 企業や家庭の「夢」は、居場所に自己組織される「一」としての居場所の<いのち>の拘束条件に相当する。「一から多へ」の統合体から「多から一へ」の集合体へ、言い換えると「生きもの」から「機械」へと、企業の性格が変質してしまうと、従業員も、創業者の<いのち>を内側から受けて活動する「生きもの」からマネーのために働く受動的な「部品」へと変わるため、モチベーションが低下して、企業に危機が生まれる。
- <いのち>が「ボーズ粒子」として活いて自己組織された場: 外在的世界に生まれる外在的な場。「イベントの場」「共感の場」「共にいきている場」「自力の場」
- <いのち>が「フェルミ粒子」として活いて自己組織された場: 内在的世界に生まれる、暗示的にしか表現できない内在的な場。「共存在の場」「共に生きていく場」「他力の場」
- 外在的世界の<いのち>には「生」しかないが、内在的世界の<いのち>には「生と死」があり、生きものたちが居場所としての地球において「死」を共有している。生とは「私は地球であり、地球は私である」ということの意味を知る旅、死とはその意味を知ったものがそれを実現するための旅だといえる。
- 西田幾多郎の「一即多、多即一」における「一」は、内在的な場に相当するのではないか。
- 市場は本来「他力の場」。企業が、直接的な利害関係のない「見えざる人びと」や「見えざる生きもの」の存在に寄与することを目的としている限り、その企業は共存在の居場所=「一」となって「一から多へ」という形をつくることができる。
- 共存在の原理: 地球を<いのち>のドラマの「舞台」として、弱者も重要な役割を演じていく「役者」となって生きていくことができる<いのち>のドラマをつくる原理。企業にも、この共存在の原理によって経営がなされるような経営改革が求められる。
- 市場の内在化: 多様な生活者が共存在している<いのち>の居場所を積極的に市場として選んで、そこに存在するすべての生きものを「顧客」と考えることによって、市場を内在的世界に戻していくことを敢えて決断し実行する経営が求められる。
- 居場所論は、相対論的であると同時に量子論的である。
- <いのち>の自己組織の拘束条件: 統合体では「全体」と「個」の2種類の拘束条件が必要となる。全体の拘束条件は、「一から多へ」における統合体の全体=「一」の在り方を限定するもの。たとえば企業が興されるときの夢(理念)に相当するもの。
- 「舞台」と「役者」が交互にその<いのち>を表現しながら、即興的に進めていく「<いのち>のドラマ」のつくり方――<いのち>の居場所における秩序創出の文化的風土――が、暗在的な拘束条件として、全体と個の拘束条件を縛って変化しにくいものにする。これは一方では文化的な伝統を守っていく役割をするが、他方で自己防衛反応に結びついて必要な変化に抵抗する活きを生む危険性がある。これを避けるためには、大きな居場所との<いのち>の与贈循環によって、人々の内在的世界を開いていくことが必要。
- 個体の<いのち>をつなぐ活きがあってこそ、生きものの共存在(共に生きていくこと)は可能。その<いのち>をつなぐ活きは、居場所の<いのち>の自己組織によって生まれる。
- 感応道交: 「感応道交」とは、居場所の内在的空間に自己組織された居場所の<いのち>が、帰ってくる(回来してくる)ときに伴ってくる未来を感じ取っていくこと。多細胞生物の<いのち>の自己組織では、散逸構造のスレービング原理よりさらに複雑な「感応道交の原理」が成り立っている。この「感応道交」の能力を失ったしまった「ニヒリズムの細胞」がガン細胞。
- 曽我量深: 和とは「感応道交」なり。和ということは、二あるものを一に結びつけることではない。本来一のものが二つに分かれてきたということである。
- 場の文化: 日本文化の特徴である「場の文化」は、表層的な共感の文化ではなく、その本質は多様性に富む「共存在文化」。
- 場の統合的回来: 「自己組織的に生成した場が未来の方から回ってやってくる」。
共存在とその原理
- 「共存在」とは、居場所との<いのち>のつながりを通して、互いの存在を助け合う関係を共創しながら主体的に存在していくこと。
- <いのち>の共存在の原理: 居場所における<いのち>の暗在的な形での自己組織にともなっておきる「<いのち>の与贈循環」によって、居場所における生きものの共存在が――居場所において生きものの<いのち>が互いにつながる状態が――生まれる。また、<いのち>の自己組織が止まれば、<いのち>の与贈循環も止まり、<いのち>のつながりが切れていくので、いきものは共存在できなくなる。人間中心的な近代文明を創造したことにより、<いのち>の居場所としての地球への人間の<いのち>の与贈を止めることになり、人間は地球における<いのち>の与贈循環から外れて、地球のガン細胞的な存在になってきた。
- 「死」は、一つしかない自己の<いのち>が永遠に消えることだが、<いのち>の居場所としての地球にとっては、それはその創造性を維持していくための<いのち>の能動的な活きそのものである。
- <いのち>の居場所としての地球の持続可能性は「弱者の論理」でなければ実現できない。地球という「舞台」により多くの役者を上げることが必要だから。強者の論理は、舞台から役者を排除してしまう。
- 私たちの常識では、過去、現在、未来は時間的につながっている。そのつながりを確かめるものが因果律。ところが、<いのち>の与贈循環にあっては、因果律が成り立たない。それは、自己の<いのち>の与贈という因が外在的世界で始められることであるのに対して、自分の力が直接的に及ばない内在的世界(他力の世界)で<いのち>の自己組織が暗在的におきて、その果として生まれる居場所の<いのち>が内在的世界に場として現れてくるから。場は、未来の方から自己の存在を包み、未来へ導き、生きていく形を自己に与える。
富としての<いのち>
- レーザーでは、自己組織されたレーザー光線の一部がレーザーの内部に「秩序パラメーター」として残っていて、同様なレーザー光線を連続的に生成する活きをする。これと同様な役割をするのが「<いのち>のシナリオ」。生きものが居場所に生きていく間、生きものと居場所の間で、<いのち>の与贈循環が続いて、<いのち>のシナリオが生成され続け、<いのち>のドラマが演じられ続けていくために、歴史的に生きていくという生きものの存在の形が、居場所に持続されていく。
- 「富としての<いのち>」とは、生きものが互いに共有できる<いのち>のことであり、「一」という居場所において<いのち>の与贈循環をしている、「一」から「多」へ与贈される<いのち>のこと。
- 「創造」とは、新しい価値をつくること。これまで知られているような独創的な創造(名前の残る創造)の他に、「一から多へ」という形で、制作者の<いのち>の与贈を伴いながら創造する「共創」がある。それは、1つの制作目標を達成するために、適切な居場所に多様な制作者が集まり、自分の<いのち>をその居場所に与贈することによって生まれる<いのち>のドラマによって、互いにつながりながら創造的に制作すること。
- 「貨幣経済」は、<いのち>の生産と統合と流通の活きを、商品の生産と市場の活きと通貨の流通の形で、人間の社会に取り込んだものと見ることができる。また「通貨の流通」は、居場所の<いのち>という暗在的な<いのち>の活きの流通に相当する。
- 通貨と<いのち>の2つの流通を比較すると、まず地球を<いのち>の居場所とする<いのち>の与贈循環の活きがあり、市場を通貨の居場所とする市場経済がその一部として成り立っている。つまり、人間の市場経済は地球の生命活動の一部であり、この関係を逆転させることは、<いのち>の居場所としての地球における人間の活動をガン化させることに他ならない。
- 「市場」は、アダム・スミスがその働きを「神の見えざる手」にたとえたように、本来暗在的なものだった。社会という居場所の<いのち>につながる「他力の場」という性質をもっていたが、金融市場が明在的な「自力の場」に変わってしまったことが、グローバル化した現在の市場経済におけるいちばん深刻な問題点となっている。
- 企業が長く存続していくためには、企業としての<いのち>の生産が不可欠。そのために、企業の<いのち>を居場所としての地域社会や地球へ与贈することができる形態をつくることが、企業経営の最も重要な課題となる。
- 企業の<いのち>の与贈とは、その通貨を商品の形で市場へと送り出すこと。そこにおける「競争」は、より多く所有するための競争原理による自己中心的な競争ではなく、よりよい与贈のための共存在原理による競争になる。
エピローグ 「他力」の時代へ向かって
- 他力思想: 地球における人間を含める生きもの存在の未来は、人間の「自力」の及ばない「<いのち>の自己組織力」という地球の暗在的な活き――「他力」の存在――を受け入れることになる。それがここでいう「他力思想」。
- 浄土真宗による救済(曽我量深): 「天上の救主」である阿弥陀如来と、「地上の救主」である法蔵菩薩による二領域的救済という形でおきる。法蔵菩薩は阿頼耶識である。阿頼耶識は、宇宙が「一即一切、一切即一」という共存在原理をみたす形で展開していく際の基体となるもの。
- 「所有」を前提として成立してきた資本主義経済による、「供給するものと、されるもの」「支援するものと、されるもの」というこれまでの自他分離の社会構造が、急速に終焉に向かっている。
- 次の時代の企業経営は、「一から多へ」型の経営に変わらなければならない。暴威を振るっている末那識の活動を鎮めて、人間の無意識を阿頼耶識の活きに戻す必要がある。
- 「金が金を生む形」で行われている競争原理での競争は、もうこれ以上続けるべきではないが、共存在原理にしたがって「<いのち>が<いのち>を生む形」で行われる競争は、自然界同様、<いのち>の創造的な活動のために必要。競争原理での競争は、多数から少数を選ぶ競争。一方、共存在原理による競争は、より多数のための居場所づくりの競争。前者の競争は「自分だけがいきている」ことを目標にするが、後者の競争は、より多くの生きものが一緒に生きていく「<いのち>のドラマ」の「舞台」の創出を目標にする。