[この本に学ぶ]
『
自民党政治の変容』
中北浩爾 著
NHKブックス(2014年)
ダイアローグ170221で採り上げた『公共哲学とはなんだろう』(桂木隆夫著)。この本で著者は、公共性のあり方について、これまでは人権の保障とか、安定した秩序の実現とか、愛国心の涵養などといった、なにか特定の基本的な価値を実現することが説かれてきたが、大切なのは、そうした特定の価値の実現ではなく、むしろ「さまざまな価値のバランスを追求すること」ではないか――という視点を提示している。
この考え方の背後には、これまで本欄でなんどか採り上げてきた「自生的秩序」の概念がある。改めて述べれば、それは、人々の多様で自発的な活動がときに激しくぶつかり合い、また混乱の様相を呈しつつ、歴史状況や偶然にも左右されながら、試行錯誤を経て、誰の意図した結果でもないいわば意図せざる結果として、徐々に、相互性に基づく秩序が形成される――という考え方をいう。
こうした「さまざまな価値のバランスを追求すること」が、政治的取り組みとして、日本で実際に行われた時代があった。それは、大平正芳内閣(1978.12~1980.6)ならびに中曽根康弘内閣(1982.11~1987.11)の時代に採られた「日本型多元主義」と呼ばれる理念に基づく政策で、本書『自民党政治の変容』は、そのあたりの事情を詳しく伝えてくれている。
「日本型多元主義」を理論面で支えたのは香山健一、村上泰亮、佐藤誠三郎、公文俊平らを中心とする学者グループ。その構想は要するに、それまで日本が採ってきた「追いつき型近代化」の終わりという時代認識に基づき、近代的な集権国家とともに個人主義を批判し、西欧をモデルとする近代主義の立場から「封建的」と批判されてきた日本の伝統的な集団主義を再評価したうえで、それをさまざまな政策的手段を用いて補強しつつ新たに発展させていく、というものだった。
“戦後政界屈指の知性派”と評される大平総理。その政策ブレーンとして中心的役割を果たした香山は、大平が首相に就任した1978年に著した『英国病の教訓』で、西欧の福祉国家を批判するとともに、背景にある個人主義的な考え方は、人間生命の時間的連続性や空間的つながりを見落としてしまうものとして、その限界を力説。日本が誇るべき、国家と個人との間に存在する家族・職場・地域といった集団を基盤とした「分権化された、多元的、自立的な相互扶助システムで運用されていくことが望ましい」と主張した。
施政方針演説で「家庭基盤の充実、田園都市構想の推進等を通じて、公正で品格のある日本型福祉社会の建設に力をいたす方針であります」と語った大平は、この構想を実現すべく「田園都市構想研究部ループ」「家庭基盤充実研究グループ」「多元化社会の生活関心研究グループ」「文化の時代研究グループ」等々9つの政策研究会を設置。そこには延べ130名にも及ぶ学者・文化人が集結して、21世紀に向けての長期ビジョンが考究された。
就任から1年半。大平は惜しくも志半ばで急逝し、上記政策研究会によって取りまとめられた報告書の完成も大平の死後になってしまったが、このお蔵入りの運命にあった報告書の内容に注目し、自身の政策として継承・復活したのが、大平の2代後の総理大臣を務めた中曽根康弘だった。中曽根は、政策ばかりでなく大平のブレーン集団も併せて引き継ぎ、構想の実現に奔走。かずかずの改革をなしとげて、「日本型多元主義」の黄金時代を築いたのである。
だがその後は、リクルート事件、佐川急便事件という相次ぐ激震、さらにはそれらを受けた小選挙区制導入などの逆風が吹き荒れ、「日本型多元主義」の高邁な理想は1990年代の半ばを境に政治の表舞台から姿を消した。以来、この国の国権の最高機関では、今日の「森友問題」のようなテレビのワイドショーうけする近視眼的論争ばかりが延々と繰り広げられている(少なくともマスコミ報道からはそうした印象をぬぐえない)――。
次回、本欄では『文明としてのイエ社会』(1979年刊)という本を採り上げる予定だが、日本社会の特性を斬新な切り口であぶり出した名著といわれる本書を執筆したのは、大平・中曽根内閣のブレーンの中核を担った村上泰亮、佐藤誠三郎、公文俊平の3氏。本書を通じた分析は、両内閣の政策立案にも直接・間接に採り入れられたわけだが、こうした、きわめて根源的な分析の上に精緻に築かれた「多元主義社会・日本」の構想が道半ばにして潰えたことは、この国にとって計り知れない損失であったに違いない。
その再興に少しでも役立てばとの願いととともに、今回ならびに次回の本を紹介する。

「日本型多元主義」盛衰年表
『自民党政治の変容』をもとに、「日本型多元主義」関わる主な事柄を抽出し時系列で整理した(馬渕)。
- 1969年 ウシオ電機の牛尾次朗社長が「社会工学研究所」を設立。1970年に香山健一が加入し、佐藤誠三郎、公文俊平らとともに活動。
- 1972年 自民党基本問題懇談会(香山を含む6名の学者で構成)が報告書「21世紀を準備する新しい型の政党へ」を作成。多元主義に基づく「新しい型の政党」を提案。
- 1974年 このころから、香山が「グループ1984」の筆名で『文藝春秋』に論文を寄稿。グループ1984には佐藤、公文も参加。
1975年 香山が論文「日本の自殺」を『文藝春秋』に発表。経団連会長・土光敏夫が激賞。 - 1976年 経済同友会の広田一が中心となって「政策構想フォーラム」が設立される。村上泰亮が代表世話人に。佐藤、公文らの学者とともに、堤清二、飯田亮、稲盛和夫、椎名武雄らの財界人がメンバーに。資本原理で日本の経済運営を行い、分権的方向で国民生活を充実させる革新的保守が目指された。
- 1976年 大平正芳(当時蔵相)が、『中央公論』に掲載された村上・公文・佐藤の「イエ社会」論に共鳴。「家とか派閥といった、近代化されていない点に日本の強みがある」と発言。
- 1977年 大平正芳(当時幹事長)の主導により、党改革実施本部に「自由国民会議」の結成を検討する第二委員会を設置。香山が委員に就任。同年4月、総裁予備選の導入、自由国民会議の設置を含む党改革が決定される。
- 1978年 香山が『英国病の教訓』を出版
- 1978年 初の総裁予備選挙で大平が勝利し内閣総理大臣に就任。「家庭基盤の充実、田園都市構想の推進等を通じて、公正で品格のある日本型福祉社会の建設をめざす」施政方針が掲げられた。また香山らとともに「日本型多元主義政党」をめざした改革が進められた。
- 1979年 「大平総理の政策研究会」(総計9)が相次いで発足。香山が佐藤、公文らとともに研究会の中核的役割を果たす。
- 1979年 村上、公文、佐藤が『文明としてのイエ社会』を出版(政策構想フォーラムが研究を助成/1975年以降『中央公論』に断続的に発表された論文を収録)。「日本がウジ社会から機能的で能動的なイエ社会に移行していたがゆえに、個人主義的な西欧とは異なる独自の集団主義的な近代化に成功した」と主張。
- 1980年 大平総理が急死。
- 1981年 土光敏夫を会長する第二臨調(鈴木善幸内閣)が発足。公文が専門委員、佐藤が参与に。「大平総理の政策研究会」の報告書を反映して、「大きな政府」を否定し、個人の自助や家庭・地域・職場の互助を強調する「福祉社会の実現」が基本理念とされた。
- 1982年 中曽根康弘が内閣総理大臣に就任。鈴木首相には受け入れられなかった、9つの政策研究会の報告書が、中曽根によって引き継がれる。
- 1986年 自民党が衆参ダブル選挙で歴史的大勝利。第3次中曽根内閣が発足。「1986年体制」のもと、日本型多元主義が黄金時代を迎える。
- 1988年 リクルート事件発覚
- 1989年 自民党「政治改革大綱」党議決定
- 1991年 政治改革関連3法案を国会に提出(のち審議未了・廃案へ)
- 1992年 金丸信、東京佐川急便献金問題で議員を辞職。政治改革の機運が高まる。
- 1993年 細川護熙内閣発足
- 1994年 政治改革関連4法関連案が成立、小選挙区制の導入が決まり、日本型多元主義の時代は終わりを告げた。