[この本に学ぶ]
『
自由からの逃走』
エーリッヒ・フロム 著
東京創元社(1951年)
およそ40年ぶりに、この本の表紙を開いた。長年、友人とともに4人で続けている読書会の課題図書として読むことになったからだ。そのため今回の本欄は、このところ続いた“自生的秩序”路線からいささか流れが変わるか――と思いきや、結果は意外な形で結びつき、むしろ別の角度からの新しい視界が拓けてきた。
『自由からの逃走』は、ご存知ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロム(1900-1980)の代表作。近代人にとっての「自由」の意味を分析するともに、それによってファシズムの心理的起源を明らかにしようとしたもので、論旨は次のように整理される。
- 自由は近代人に独立と合理性を与えたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独は耐えがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。
- すなわち近代人は、個人に安定を与えると同時にかれを束縛していた前個人的社会の絆からは自由になった(消極的な自由/~からの自由)が、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由(積極的な自由/~への自由)は、まだ獲得していない。
「消極的な自由(~からの自由)」に関する分析はさすが、原書刊行(1941)から70年以上を経た今日でも高い説得力をもつ優れたものと感心した。が、ならば「積極的な自由(~への自由)」はどうすれば実現できるのか、という問題に関しては、残念ながら納得のゆく答えは示されていない。
フロムは、本書は自由の意味を心理的に分析することを目的とするもので、「経済的問題を取り扱うことや、未来に対する経済的プランをえがくことは本書の目的ではない」としながらも、「しかし私は、解答が存在すると思われる方向について、いささかの疑問も残したくない」との主旨で、その「方向性」を次のように示す。
- デモクラシーの未来は、個人主義の実現にかかっている。今日の文化的政治的危機は、個人主義が多すぎるということにではなく、個人主義が空虚な殻になってしまったことに原因がある。自由の勝利は、個人の成長と幸福が文化の目標であり目的であるような社会、…個人の良心や理想が、外部的要求の内在化ではなく真にかれのものであって、かれの自我の特殊性から生まれてくる目標を表現しているような社会にまで、デモクラシーが発展するときにのみ可能である。…今日われわれが直面している問題は、人間――組織された社会の成員としての――が社会的経済的な力の主人となって、その奴隷であることをやめるように、それらの力を組織化することである。
- デモクラシーへの進歩は、…なによりもまず、すべての人間存在にとって根本的な活動である仕事ということにおいて、個人のじっさいの自由、創意、自発性を強めることにある。
「積極的な自由」は「自発的な活動」のうちに存在し、それを代表する行為として、フロムは「愛」とともに「仕事」を挙げる。そして仕事が、「個人的創意」のもとに行われることが望まれると説く。
- 個人的創意は、自由主義的資本主義のもとにおける経済的組織と人間的発展の一つの大きな刺激であった。…それは、無数に多くの独立した経済的単位に活動の余地をあたえた資本主義の、高度に個人化した競争的場面において、もっともよく作用した原理であった。…もし今日この原理を実現させ、パースナリティ全体が自由になるようにこの原理を拡大させようと思うならば、それは全体としての社会の合理的協調的な努力の上にたち、そして組織の最小単位による真の、純粋な、積極的共同と管理を保証することのできる多くの分権によってのみ可能であろう。
フロムは、上記のような「仕事」の理想を実現できる環境は「計画経済」だとするのだが、その問題はさておき、筆者(馬渕)がここで注目したいのは、「積極的な自由」を実現する環境として、「無数に多くの独立した経済的単位」「組織の最小単位による…積極的共同と管理を保証することのできる多くの分権」といった表現が用いられていること。つまり今日の資本主義社会でいえば、企業共同体のような小さな組織こそが、その実現のカギを握るということ。フロムは、バラバラとなった社会に生きる個人に対し、たった「独りぼっち」で力強く立ち向かえと説いているわけではないのである。
そして、ここで想定される共同体は、もちろん中世の教会のような近代がその束縛からの解放を目指した共同体ではなく、「新しい安定」を生み出す基盤としての共同体である。
- 新しい安定は、個人が外部のより高い力から与えられるような保護にもとづいているのではない。新し安定はダイナミックである。それは保護にではなく、人間の自発的な活動にもとづいている。それは人間の自発的な活動によって瞬間ごとに獲得される安定である。それは自由だけが与えることができ、まぼろしを必要とする諸条件を排除しているが故に、なんらまぼろしを必要としない安定である。
「積極的な自由」を実現する、「愛」あるいは「仕事」を基盤とする分権的組織。それは、具体的には「家庭」あるいは「企業共同体(組織共同体)」ということになるだろう――。本書で示された、このフロムの言葉を反芻しつつ「経営理念」への考察をさらに深めていきたいと思う。
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第1章 自由――心理学的問題か?
- 人間の性格の「個人差」をつくる、愛と憎しみ、権力に対する欲望と服従への憧れ、官能的な喜びの享楽とその恐怖、といった種類の衝動は、すべて「社会過程の産物」である。社会は単に抑圧的な機能をもっているだけでなく、創造的な機能ももっている。人間の性質や情熱や不安は文化的な産物である。
- 動的な心理学: 社会心理学の仕事は、社会過程の「結果」として、情熱や欲求や不安が、どのように変化し発展するかを示すだけでなく、このような人間のエネルギーが、今度は逆に、どのように生産的な力となって社会過程を作っていくかも示さなければならない。「人間性」は歴史的進化の所産ではあるが、ある種の固有なメカニズムと法則をもっている。
- 「静的な適応」と「動的な適応」: 神経症は、本質的には非合理的な外的条件、一般的にいえば子供の成長発達にとって好ましくない外的条件(とくに幼少期の)に対する「動的な適応」である。
- 社会心理的現象: 神経症的現象に比較できる「社会心理的現象」、たとえば社会集団における破壊的なサディズム的な衝動のようなものも、やはり非合理的な、そして人間の発達にとって有害な社会的条件に対する「動的な適応」である。
- 人間性の欠くことのできない部分となり、どこまでも満足を求めようする要求には、①生理的組織に基づいた要求、②外界と関係を結ぼうとする要求/孤独を避けようとする要求がある。個人は、何年間も肉体的にはひとりぼっちでいても、しかも理想や価値と、あるいは少なくとも共同感と「帰属」感を与える社会的な行動様式と関係を結んでいるであろう。こうしたつながりを失っていることを「精神的な孤独」(⇔肉体的な孤独)ということができる。
- 孤独の恐怖はなぜ強いか? ①人間は、他人となんらかの「協同」なしには生きることができない、②「主観的な自己意識」の事実、あるいは自己を自然や他人とは違った個体として意識する思考能力
- 人間が自由になればなるほど、「個人」になればなるほど、人間に残された道は、①愛や生産的な仕事の自発的ななかで外界と結ばれるか、②自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、のどちらかになる。
第2章 個人の解放と自由の多義性
- 個人がその原始的な絆から次第に脱出していく過程=「個性化」の過程には2つの側面がある。①意志と理性によって導かれるひとつの組織化された構造が発達する。「自我の力の成長」過程、②孤独が増大していく過程。
- 個性化の過程は自動的に起こるのに反し、自我の成長は個人的社会的な理由で、いろいろ妨げられる。この2つの傾向のズレが、耐え難い孤独感と無力感を生み出し、そしてこの孤独感と無力感とが、こんどは逆に、逃避のメカニズムを生み出すことになる。
第3章 宗教改革時代の自由
第4章 近代人における自由の二面性
- カトリック教会では、個人の神に対する関係は教会の一員であるということに基礎をおいていた。教会は個人と神とを結ぶ媒介であり、一方に人間の個性を制限しながら、他方個人を集団の構成部分として神に向かわせて。ところがプロテスタンティズムは、個人をただひとり神に向かわせた。個人は神の前にひとりで立たされると、圧倒感に襲われ、完全な服従によって救済を求めざるをえなかった。
- 精神的個人主義は経済的個人主義とそれほど異なったものではない。神に対する個人主義的な関係は、人間の世俗的活動における個人主義的な性格に対して心理的準備となった。
- 中世社会では、経済活動は目的に対する手段であった。その目的は、人生そのものであった。資本主義においては、経済活動や成功や物質的獲得が、それ自身目的となる。「資本の蓄積」のために働くという原理は、主観的には、人間が人間をこえた目的のために働き、人間が作ったその機械の召使いとなり、ひいては個人の無意味と無力の感情を生み出すこととなった。
- ルッターやカルヴァン、カントやフロイトの思想の根底にある仮定は、利己心と自愛とは同じものであるという考え。すなわち他人を愛するのは徳であり、自己を愛するのは罪であり、両者は相容れないとい考えだが、これは愛の性質について、理論的に誤った考え。⇔ 愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求。すなわち愛は「好むこと」ではなく、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追求であり、内面的なつながりである。従って、私自身もまた他人と同じように、私の愛の対象である。
- 利己主義と自愛とは同一のものではなく、まさに逆のもの。利己主義は自愛の欠如に根差している。同じことはナルシス的人間にもあてはまる。ナルシス的人間は、他人をも自分をも愛していないのである。
- 弱体化した自我を支える要素: ①財産の所有 ②名声と権力 ③家族 ④国家的な誇り(階級的誇り)。これらの要素は、単に不安や懸念を埋め合わせることを助けたにすぎない
第5章 逃避のメカニズム
- 逃避のメカニズム: 人は、個人の外部の圧倒的な力に比較して感じられる自己の無意味感を克服するために以下のようなさまざまな「逃避のメカニズム」を利用する。
- 1)権威主義: 人間が個人的自我の独立を捨てて、その個人には欠けているような力を獲得するために、彼の外側の何者かとあるいは何事かと、自分自身を融合させて、新しい「第二次的」な絆を求める。服従と支配への努力、マゾヒズム的/サディズム的努力のうちに現れる。
- 共棲: サディズムとマゾヒズムのどちらの根底にもみられる共通した目的。自己自身の統一性を失い、お互いが完全に依存しあうように一体化する。
- 外的権威と内的権威: 権威は、義務、良心あるいは超自我の名のもとに「内的権威としても現れる。プロテスタンティズムからカント哲学までの近代思想の発展は、外的権利が内的権威に置き換わる過程として特徴づけられる。人間の自然的傾向を克服し、理性、意志、良心などによって決定的に支配することが「自由」の本質だと考えられた。
- 最近になって「良心」の重要性は失われ、「匿名の権威」が支配する。それは常識であり、科学であり、精神の健康であり、正常性であり、世論である。
- 2)破壊性: サド・マゾヒズム的な追求と深くからみあっているが、「破壊性」が異なるところは、対象との共棲を目指すものではなく、対象を「除去」しようとするところ。
- 3)機械的画一性: 文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを、完全に受け入れる。そして他のすべての人々とまったく同じような、また他の人々が彼に期待するような状態になりきってしまう。個人的な自己を捨てて自動人形となる。「私」と外界との矛盾は喪失し、それと同時に孤独や無力を恐れる意識も消える。現代社会において、大部分の正常な人々のとっている解決方法。しかし、彼は「自己の喪失」という高価な対価を支払うこととなる。
- 思考や感情や意志について、本来の行為はしばしばにせの行為に代置される。そしてそれは、遂には「本来の自己」が「にせの自己」に代置されるところまで進んでいく。本来の自己とは、精神的な諸活動の創造者である自己。にせの自己とは、実際には他人から期待されている役割を代表し、自己の名のもとにそれを行う代理人にすぎない。
- 自己の喪失とにせの自己の代置は、個人を烈しい不安の状態になげこむ。同一性の喪失から生まれてくる恐怖を克服するために、彼は順応することを強いられ、他人によってたえず認められ、承認されることによって、自己の同一性を求めようとする。
- 以上は、文化的に重要な意味をもつ3つの「逃避のメカニズム」だが、他にも「個人心理的」に重要な意味をもつものとしては、4)外界が脅威を失うようにする方法、5)自己を心理的に拡大して外界を相対的に縮小する方法、などがある。
第6章 ナチズムの心理
第7章 自由とデモクラシー
- 近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる「自動人形」となっている。この幻想によって個人は、みずからの不安を意識しないですんでいる。
- 同一性の喪失: 私はなんの同一性ももたない。他人が私にそうあるように期待していることの、反射にすぎないような自我以外に、自我などは存在しない。私は「あなたが私に望むままのもの」である。
- 人間は自由でありながら孤独ではなく、批判的でありながら懐疑にみたされず、独立していながら人類の全体を構成する部分として存在できる。そのような自由は、自我を実現し、自分自身であることによって実現できる。
- 積極的な自由: 自我の実現は、たんに思考の行為によってばかりでなく、人間のパースナリティ全体の実現、かれの感情的知的な諸能力の積極的な表現によって成し遂げられる。「積極的な自由」は、全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する。
- 自発的な活動: われわれは活動ということを「なにかをなすこと」とは考えず、人間の感情的、知的、感覚的な諸経験のうちに、また同じように人間の意志のうちに、働くことのできる創造的な活動と考える。「自発的な活動」は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道である。ひとは自我の自発的な実現において、かれ自身を新しく外界に――人間、自然、自分自身に――結びつけるから。「愛」はこのような自発性を構成するもっとも大切なもの。「仕事」もいま一つの構成要素である。
- 第一次的絆を克服した「新しい安定」は、ダイナミックである。それは保護によってではなく、人間の自発的な活動によって瞬間ごとに獲得される安定である。それは「自由」だけが与えることができ、まぼろしを必要とする諸条件を排除しているが故に、なんらまぼろしを必要としない安定である。
- デモクラシーの未来は、個人主義の実現にかかっている。今日の文化的政治的危機は、個人主義が多すぎるということにではなく、個人主義が空虚な殻になってしまったことに原因がある。自由の勝利は、個人の成長と幸福が文化の目標であり目的であるような社会…にまで、デモクラシーが発展するときにのみ可能である。今日われわれが直面している問題は、人間――組織された社会の成員としての――が社会的経済的な力の主人となって、その奴隷であることをやめるように、それらの力を組織化することである。