ダイアローグ170226

「厚い伝統」としての経営理念


[この本に学ぶ]
ハイエクを読む
桂木隆夫 編
ナカニシヤ出版(2014年)


#170207#170221と2回にわたり本欄で採り上げた桂木隆夫氏が、今度は編者となって、若手ハイエク研究者による12編の論考を集めた『ハイエクを読む』。「多面的思想体としてのハイエク思想を通して現代を読み解く」というのがその主旨で、目次にも見られるとおり(=Noteご参照)、さまざまなテーマのもとハイエクの思想が多角的に論じられているが、今回本欄では、組織経営という本サイトの取り組みテーマにもっとも関係の深い「第3章:ハイエクの共同体論」(土井崇弘著)を採り上げる。

ハイエクは、いわゆる“新自由主義者”の通俗イメージとは異なり、「伝統」を非常に大切なものと考える。それは彼が「行為ルールとしての伝統」と呼ぶもので、「共同体」は、その「行為ルールとしての伝統」が形成・適用される「場」として、同じく非常に大切なものと位置づけられるわけだ。どういう意味か? 簡単に説明を加えると――。

ハイエクはまず、個々人の自由な活動を最大限に尊重する自由な社会を可能とするためには、「法の下での自由」という構想が不可欠だと考える。そして、そのような特徴を備えた「法」とは、知性による命令としてではなく、個々人の自由な活動の相互調整に基づく「自生的秩序」として形成された「行為ルールとしての伝統」を言葉で表現したものに他ならない。だから、自由社会が機能するために不可欠なのは、設計によらないルールや慣習に従うことであり、伝統的なものに対する敬意である、という論理になる。

ハイエクは、これもまた通俗的な“個人主義”のイメージとは異なり、人間の「社会性」を重視する。であるがゆえに、「行為ルールとしての伝統」が形成・適用される「場」としての「共同体」、各々の個人が自由に活動するための基盤としての「共同体」を大切なものと考える。

さて、「ハイエクの共同体論」のここから先を手短に説明するのはきわめて難しい。そのため、以下は、本書を読んでの、筆者(馬渕)自身による今後の考察に向けての“つぶやき”を書きとどめることとする(ここに至る途中経過はほとんどすっ飛ばした不親切な書き方になっています。ご了承ください)。
  • ハイエクの共同体論は基本、「大きな共同体」を前提としている。そうした「大きな共同体」が成立するためには、同じ具体的な目的や価値観を共有しないもの同士にまで適用可能な、内容が希薄化された一般的で目的独立的で抽象的な行為ルールが必要となる。つまりハイエクの共同体論は、「大きな共同体」で形成・適用される「薄い伝統」を重視したものだといえる。(「社会(society)」「結合体(association)」「共同体(community)の用語の使い分けについては、下掲Noteご参照)
  • これに対して、マッキンタイア(コミュニタリアニズム)は、「厚い伝統」が形成適用・される場としての「小さな共同体」を想定する。「厚い伝統」と密接に関連する「共通善」があるひとつの共同体で達成されるためには、熟議が存在せねばならず、それを可能とするのは「小さな共同体」だけだから、というのがその理由。

  • ハイエクとマッキンタイアの両者は、上記のように「大きな社会VS小さな社会」でお互い譲らないが、デイヴィッド・ボウツ(リバタリアニズム)は、市民社会の内部に存在する「自発的な結合体(=小さな社会)」は特定の目的を達成するためにつくられるが、「全体としての市民社会(=大きな社会)」はいかなる目的ももっていない、と両者の関係を整理する。
  • 筆者(馬渕)は、このボウツの整理の仕方が妥当だと思う。本サイトが考察の対象とする企業組織という共同体は、上記の「自発的な結合体」に相当するが、そこには当然のことながら固有の組織文化が存在する。そうした固有の文化こそが、当該組織の<協力と秩序>の水準を高める基盤であり、「厚い伝統」に他ならない。

  • ならば、この「厚い伝統」に支えられた自発的な結合体(=企業)は、「大きな社会」との間でどのようにして親和的な関係を保つことができるのか? その役目を果たすものこそが「交換」ではないか。「交換」とは、市場を通じて単にモノやサービスを交換するばかりでなく、固有の目的や価値観のもとに独自の活動を展開する「小さな共同体」が生み出すさまざまな価値を交換することを通じて「大きな共同体」を形成する、という機能をも果たしているのではないか、と筆者は考える。
  • だからこそ、それぞれの自発的な結合体(=企業)は、独自の目的や価値観のもとに活動を展開することが可能となり、それが結果として「大きな社会」の成長にもつながっていくわけだが、ここにおいては、当然のことながら「交換」性のより高い価値、すなわち、より多くの、他の自発的な結合体や個々人に受け入れられる価値の創出が期待され、各結合体は、それに沿った行動を執ることになるだろう。そしてそれが「自生的秩序」の形成へとつながっていくのではないか。

  • 考察の精度をより高めるためには、共同体を「所与の共同体」と「自発的な共同体」、つまり家族や国家など生まれながらにして属する、個人にとって選択の余地のない共同体と、企業組織など個人に選択の可能性が与えられた共同体、という概念によって分けて考えていくことも不可欠だろう。
本サイトがテーマとして追求する「経営理念」は、「小さな共同体」における「厚い伝統」と深く関係するもの。大雑把にいえば、“厚い伝統を築くための骨太の方針”と位置づけることが出来るのではないか。これらの諸点については、さらに考察を深めたうえ、機会を改めて述べみたいと思う。




第Ⅰ部 ハイエク思想の多面体

第1章 ハイエクの「法の支配」

第2章 ハイエクの保守主義

第3章 ハイエクの共同体論
  • 個々人の自由な活動を最大限に尊重する自由な社会を可能とするには、すべての人々の同一の自由を保障するために各々の自由を制限する「法の下での自由」という構想が必要不可欠。そのような特徴を備えた法は、「行為ルールとしての伝統」を言葉で表現したものである。そしてそうした「行為ルールとしての伝統」が形成・適用される「場」が共同体である。
  • ハイエクは、「個性」を共同体の達成物と解釈することで、個人主義とコミュニタリアニズムとの論争の解消に貢献した、ということができる。ハイエクは、人間の社会性を重視し、各々の個人が自由に活動するための基盤である共同体の価値を強調する。

  • 「社会(society)」: 特定の具体的な目的を持たず、この点において組織と明確に区別される、自生的な全体秩序を指し示す場合に限定して使用。
    「結合体(association)」: 社会のなかに存在するより小さな集団の中で、特に個人と国家との間にある自発的な結合体。
    「共同体(community)」: 具体的な目的や価値観を共有している人間集団だけに限定されない多様な意味を有する言葉として、「社会」に対しても、「結合体」に対しても、さらにはまた別のもの(例えば部族社会)に対しても使用する。

  • 人類が文明を持って進歩をとげたのは、我々が部族社会という「小さな社会」を抜け出して、「大きな社会」あるいは「開かれた社会」の住人となったから。偉大な前進を遂げられたのは、抽象的な行為ルールが具体的な義務的目的に漸進的に取って代わり、それが自生的秩序を育んだから。それは部族間の「交換」から始まった。
  • 「大きな共同体」が成立するためには、同じ具体的な目的や価値観を共有しないもの同士にまで適用可能な、内容が希薄化された一般的で目的独立的で抽象的な行為ルールが必要不可欠。ハイエクの共同体論は、「大きな共同体」で形成・適用される「薄い伝統」を重視したものといえる。

  • マッキンタイア(コミュニタリアニズム)による共同体理解: ある一人の船員にとっての善は「すべての船員にとっての善が実現されるために、自分自身が果たすべき役割は何か」という観点から定義されなければならない。個々人の善を明確化する際における「共通善」の重要さを強調。「厚い伝統」が形成・適用される「場」としての「小さな共同体」を想定する。
  • デイヴィッド・ボウツ(リバタリアニズム)によるコミュニタリアニズム批判: 個々人は自由で自発的な同意によって様々な人々と様々なやり方で関係を取り結び、その中で共同体――それは、自発的に選択した多数の結合体に所属する、自由な個々人からなるひとつの共同体である――が出現する。市民社会の内部に存在する結合体は特定の目的を達成するために作られるが、全体としての市民社会はいかなる目的も持っていない。
第4章 ハイエクの社会科学方法論

第5章 ハイエクの心理学と進化論

第6章 ハイエクのファシズム論

第Ⅱ部 ハイエクとその批判者たち

第7章 ハイエクとナイトⅠ

第8章 ハイエクとナイトⅡ

第9章 ハイエク、ケインズ、マルクス

第10章 ハイエクとシュンペーター

第11章 ハイエクとロールズ

第12章 ハイエクとサッチャー