ダイアローグ170221

「市場」は平和を維持する仕組み


[この本に学ぶ]
公共哲学とはなんだろう[増補版]民主主義と市場の新しい見方
桂木隆夫 著
勁草書房(2016年)


前々回に取りあげた『慈悲と正直の公共哲学』の著者である桂木隆夫氏が、自身の専門分野である「公共哲学」について一般向けに易しく解説したのが、本書『公共哲学とはなんだろう――民主主義と市場の新しい見方』。題名ともなっている「公共哲学とはなんだろう?」との問いは、実は、著者が自分自身に対して投げかけたもので、それに対する「自分なりの一応の答えを出してみよう」というのが、本書執筆の意図とのこと。「公共哲学とは何か」という問いは、それほどまでに、簡単には答えの出せない問題だといえるが、本書において著者が採る立場は、次のような2つの特徴によって示される。

ひとつは、公共哲学の役割は、民主主義や市民社会を論じるだけでなく、「市場」についての新しい見方を示す必要があるのでないか、という考え方。従来の公共哲学が、市場についての考察を等閑視し、あるいは経済学に委ねてもっぱら市民社会論や民主主義理論に傾注するイメージであったのに対し、もっと市場の公共性や、市場と民主主義の関係について掘り下げる必要があるのではないか、という視点だ。

そしてもう一つは、公共性について、これまでは人権の保障とか、安定した秩序の実現とか、あるいは愛国心の涵養などといった、なにか特定の基本的な価値を実現することであると考えられていたのに対し、そうした特定の価値の実現ではなく、むしろ「さまざまな価値のバランスを追求すること」ではないか、という視点である。

本書はもともと、著者(学習院大学法学部教授)の大学での講義用テキストとして書かれえたものなのだろうか? 「公共哲学とは何か」という問題に関する幅広い解説が、著者のスタンスを明確に示しながらも、実に簡明に、しかも体系的に述べられていて、中身は「濃厚」そのもの。エッセンスをコンパクトに紹介することはとても叶わない。

そこで、戦後日本の<平和と民主主義>という象徴的な事例を通じて、著者の立つ「公共哲学」の考え方をあぶり出してみると――。

戦後日本の経験とは何かといえば、<平和と民主主義>を生み出したことでしょう。私の考えでは、この<平和と民主主義>は、特定の知識人たちや特定の政治勢力、ましてや特定のイデオロギーによって生み出されたものではありません。むしろこの精神は、様々に対立し矛盾する諸力のぶつかり合いから、相乗的に生まれてきたのです。…

この戦後日本の経験は、日本の歴史に照らしても、決して特異なものではない…われわれの文化や伝統そのものが、相乗的重層的であり、シンクレティズム(哲学や宗教において様々な学派や宗派が混じり合って統合されること)であるということです。明治以来の国家神道を別にすれば、日本の神道は習合神道であり、…明治の神仏分離令以前の日本の仏教も同様に、…習合宗教の形を示しています。…この習合という発想は、終戦直後のGHQの指令による国家神道の廃止などもあり、また戦後の自由な雰囲気のなかで、再び力を得て、社会の様々な場面で影響を及ぼしてきたように思います。…

<平和と民主主義>とは、…矛盾する諸力のぶつかり合い(相乗共生)から生まれてきたものであり、現在も生成しつつあるものです。<平和と民主主義>は、いわば戦後日本における市民の責任倫理の標語的表現なのです。

以上の例に見るように、著者が示す「公共性」の概念には、「特定の価値の実現ではなく、さまざまな価値のバランスを追求すること」という原則が常に宿っている。そしてまた、その基底には、前々回の本欄で詳しく触れたデビッド・ヒュームの「自生的秩序」の概念が脈々と流れている。

「公共性」という概念は、多義的でいろいろな要素を含んでいるが、大切なポイントは2つ。ひとつは、公共性というのは「一人でやるのではなく、みんなで協力する」ということを意味しているということ。もう一つは、「無秩序ではなく、秩序を求めるという志向性を含んでいる」ということ。つまり公共性とは、<協力と秩序>によって形成されるもの、ということができる。

企業などの組織における文化や風土。それらもまた<協力と秩序>によって形成される「公共性」の、ひとつの形態に他ならない。組織文化のあるべき姿――といったことを考えるに際しても、本書はきっと、問題の核心を突く、的確な視点を提供してくれるに違いない。



第一部 公共哲学の諸潮流

第1章 公共性とは何か
  • 公共性: 公共性とは公共の利益ということ。「一人でやるのではなく、みんなで協力する」「無秩序ではなく、秩序を求めるという指向性を含んでいる」という2つのポイントがある。
  • 協力: 協力には「自発的な協力」と「非自発的な協力」がある。自発的な協力は、主として利他的な動機に基づくもの。非自発的な協力は、法的なあるいは社会的な制裁という手段によって可能となるもの。さらに協力には、「意図的な協力」と「意図せざる結果としての協力」がある。後者は、市場経済における自由な競争によって可能となる。人々は利己心から、自分の利益を実現しようとして行動するのだが、それを越えて、相互の利益が達成される。
  • 権力による上からの公共性だけでなく下からの公共性を考えると、[公―公共―私]という三分法的な視点が重要。また、協力したり秩序を形成したりする場合には、仲間という視点だけでなく、他者の視点を組み入れる必要がある。そして、公共性の存在性格としては、公共性というのは、あらかじめ明白な理念や規範として存在するのではなく、程度の差はあれ、不確実な要素を含んだ状況における諸力のぶつかりあいにより生成しつつあるものである。
第2章 ハーバーマスとアーレント
  • ハーバーマスの「市民的公共性」: 17-18世紀のロンドンで流行ったコーヒーハウス。ハーバーマスは、このコーヒーハウスから市民的公共性あるいは市民社会が形成されたと考える。そこで生まれた「公論」(パブリック・オピニオン)とは、世間一般の声ではなく、判断力を持った公衆の議論で、真理を求める姿勢や理性と教養、およびそれらを支える財産と結びついている。また、それは「すべての国家活動は、公論によって公認された諸規範の体系によってコントロールされるべきである」という理念に結びつくものと考えた。ハーバーマスの公共哲学は、18世紀の市民社会が育んだ公共性の潜勢力を再びよみがえらせようとする企てだといえる。
  • ハーバーマスの「対話的合理性」: 市民的公共性とは、市民がおたがいに「対話的合理性」を発揮しつつ社会的実践を行っているとき、そこに市民的公共空間が形成されるという考え方。マックス・ウェーバーの「目的合理性」(=短期的・戦術的な合理性&長期的・戦略的な合理性)のように目的(成功)を志向する合理性ではなく、他者理解(合意)を志向する合理性。他者を手段とみなすのではなく、自律した人格として尊重する考え方。

  • ハーバーマスの「討議民主主義」: 公共圏とは、合意を形成していくための討議の空間たるべき。討議とは、よりよい論拠(理由づけ)のもつ力以外のあらゆる権力の作用が無効にされるコミュニケーションの反省形態である。討議の参加者がそうした「合理的動機づけ」をもつ限り、不合理な論拠はしだいに退けられ、やがては参加者の間に一定の合意が形成されていくはずである。
  • 新しい市民社会: 政治的に活動する市民でも、経済的利益を追求する市民でもなく、日常の生活世界において連帯する生活市民の活動の積み重ねから形成されるもの。ただし、これらの活動は討議民主主義の内実を持っているものでなければならない。
  • 多数決の原則: 可能性としては究極的に真理を志向する討議を通じての意思決定を、限られた時間で意志形成を行うべしとする強制力と両立させるための取り決めとして理解できる。

  • 討議と多数決と試行錯誤: 徹底した討議も、限られた時間の中で決定をくださなければならないという現実がある以上、多数決原則を受け入れざるをえない。しかしそれは、多数決による決定が誤っているかもしれないという認識を、討議に参加する人々が共有している場合に限られる。
  • ハーバーマスの「ダム決壊論(滑り坂理論)」: 最初は議論の方向が少しずれただけなのに、その議論のずれによってなされた決定が独り歩きし始めて、議論のずれがどんどん大きくなり、ついには全く非人道的な政治的決定が平然となされるようになってしまう。

  • ハンナ・アーレントの「ポリス的公共性」: 画一主義や全体主義的な傾向に対して、自発的な公共空間(=ポリス的公共性)を作っていかなければならない。
  • アーレントの「悪の凡庸さ」: 凡人の無思想性がときとして、人間の悪の本能のすべてがもたらす以上の猛威を振るうことがある。
  • ヒットラーの「定言的命法」: カントの定言命法は「あなたの生活ルールが普遍的な生活ルールとなることを、あなたが自分自身で本当に意思しうる場合にのみ、その生活ルールによって行為しなさい」。→アイヒマンによる「凡人の日常の用に供するためのカント解釈」=総統の「定言的命法」=「ヒットラー総統が汝の行動を知ったとすれば是認するように、行動せよ」
  • アーレントの公共性に対する著者の見解: 他者に対して開かれた共同体あるいは公共空間とは、他者を他者(自分とは異なる公的人間)として認識するだけでなく、他者を有用な存在(自分とは異なる経済活動あるいは生活を行っている存在)として認めつつ、そのような他者と対話し、そのことによって、公共性を形成するということではないか。
第3章 アメリカにおける公共哲学
  • ウォルター・リップマン: 西欧の民主主義社会が「公民の伝統」を失いつつあるところに危機をみる。「公民の伝統」とは、まじめな質疑と合理的な討論によって、真と偽、正と邪を見分け、人間的諸目的の実現に導く善と、公民道の破壊と死に導く悪とを識別しうる合理的な秩序が存在するという信念、および立憲主義の理念からなるもの。

  • マイケル・サンデル: リップマンの思想を基本的に受け継ぎ、公民の伝統の衰退をもたらしたものとして、リベラリズムを批判。
  • サンデルのリベラリズム批判: ①リベラリズムが、価値の相対化や公共的価値についての無関心を生み出し、利己主義的な考え方を助長しており、それによって、自治の精神やコミュニティの存立を危うくしている。自由にはコミュニティ意識や公共心が必要と主張。②リベラリズムの自我概念を空疎な自我概念、「負荷なき自我」として批判。③たとえ不正義不道徳と思われる目的や行為に対しても中立であるべしと説く、リベラリズムの正義と法の概念を批判。国家は道徳的な観点から、より積極的に介入すべしと主張。④多様性を認めることがコミュニティの存立を危うくするような場合には、相互尊重というような曖昧な理由によってそうした多様性を認めようとする政治的合意に委ねられるべきではない。 →リベラリズムには、民主的生活によって重要な、人々の道徳的エネルギーを引き出す力はない。

  • 人権: 人権とは本来、市民と市民の間に成立するものではなく、国家と市民との間に成り立つもの。絶対主義国家が成立したときに、武力が国家に一元化され「強力な国家権力と裸の個人」という事態が社会に生じた。そこで、国家権力の乱用から人々を守る防波堤として、立憲主義と人権という制度が徐々に成立してきた。そしてこの基本的な考え方の上に立ちつつも、個人対個人という新しい観点から、つまり犯罪者対犯罪被害という観点から、犯罪被害者の人権をどう認めていくかが、最近論じられるようになってきた。
  • 公共性の基準に関する「正と善」: 「正」=人権を守る、人権を侵害されないようにすることが公共性の基準=ロールズの立場。「善」=コミュニティの基礎にある社会道徳つまり公共善の観念こそが公共性の基準=サンデルの立場=アメリカの公共生活、アメリカの民主主義にとって重要なのは、人々の道徳的エネルギーである。人々がアメリカ社会において道徳的に善い生活とは何かを追求する意欲である。
第4章 モラルサイエンスの公共哲学
  • モラルサイエンスとは: 人間学あるいは人間科学。人間を実証主義的あるいは没価値的に捉えるのではなく、むしろ多様な価値的ないし規範的観点から、人間及び人間が作り出すもののあるべき姿を考察しようとする立場。論理的整合性や首尾一貫性が問われるというよりも、むしろジレンマの中でのバランス感覚が問われる問題を考察の対象にする。
  • 「健全な懐疑主義」の公共哲学: 人権の理念や共同体の理念の特権的な性格について疑いつつ、これらの理念のバランスを模索する。公共性とは、客観的な存在ではなく、基本的な諸価値のバランスである。それは動態的なバランスであり、それぞれの状況に依存したバランスであるとともに、生成しつつあるバランスである。

  • ヒュームの「法の規範性」: ヒュームは法の規範性を、権威の原理と相互利益(自発性)という2つの原理のバランスによって説明する。多様な観点あるいは複眼的なものの見方が含まれている。⇔ 現在の経済学が前提としている「合理的経済人」の仮設や、法律学が暗黙のうちに前提している利己心仮説や性悪説は、利己主義的な観点以外の観点を排除しがち。
  • 山脇直司の[公―公共―私]の三分法: 従来の公私二元論ではなく、公と私の間に「公共」という領域をはさむ考え方。「公共」の領域が、「公」の領域や「私」の領域に刺激を与えることによって、全体のバランスがとれてくる。
  • 山脇直司の「活私開公」: 「私」の領域の活性化が、公共哲学の重要な課題。「私」を活かすことが「公」や「公共」の領域を開くことにつながる。

  • ヒュームの「社会的共感の形成」: 山脇の「活私開公」はヒュームの哲学と親和的。ヒューム的な利己心である「限られた思いやり」は、他者とのコミュニケーションを通じて社会的共感へと発展する。
  • ヒュームの「一神教と多神教」: 一神教は、論理的に整合的で体系的な宗教。一方、多神教は、有限な能力を持った不完全な神々、人間より少しだけ優越した神々が存在する。人間は神々と競おうとし、そこから人間の自発性や勇気、自由への愛といった精神が生まれてくる。こうした体系性への信仰と、多元性あるいは開放的競い合いの価値とのバランスをどうとってゆくか。
  • ヒュームとアダム・スミス: 両者は同時代人で深い交流関係にあり、共に、人々の自由な経済活動が公共の利益にむすびつく(=開放性と体系性の両立)と考える。国民の経済秩序は、為政者の特定の観点や単一の指令によってではなく、数多くの人々の多様な動機や目的からなっている。そうした経済活動から、いわば「意図せざる結果」として、国民の経済秩序が生み出される。

  • 合理主義的な公共性=事実の領域/規範の領域の二元論。意図せざる結果としての公共性=事実の領域/生成(責任倫理)の領域/規範の領域の三分法。この責任倫理の概念は、経済の領域だけでなく、社会の領域や政治の領域における公共性の生成の問題を含むものとして考えられるようになってきた。
  • 自由社会の「伝統」: 下からの公共性(責任倫理)の生成の領域が、社会にしっかりと根付いているということ、そうした公共性の生成と変化の感覚がわれわれ自身に共有されていることが、自由社会の「伝統」の意味するところ。

  • モラルサイエンスの公共哲学: 公共性の(下からの)生成の領域と(上からの)創出の領域の二つに着目し、両者の相互作用の重要性を認識すること、両側面の相互作用を「試行錯誤のプロセス」として理解することが重要。
  • 公共哲学の源流: バーバーマスやアーレントの公共哲学はカント哲学の、共同体主義の公共哲学はルソーの哲学の影響を受けている。カント、ルソーの共通点は公共性概念の「純粋性」(=公共性が市場によって汚されてはならない)を主張したこと。公共性は「利益」(みんなの利益)というよりは、(誰もが納得する)「正しさ」だと考えた。そしてこの公共性(正しさ)を生み出す意志は「純粋」でなければならないと考えた。ルソーはこの純粋な意志を「一般意志」と名付けた。カントはルソーの一般意志に強い影響を受け、より普遍的な「世界市民」の意志、「人権を尊重すべし」という意志だと、定言命法によって定式化した。
第二部 公共哲学の基本問題

第4章 他者
  • 「公共性の生成」とは、見知らぬ「他者」と協力し信頼を築くということ。アーレントやハーバーマスの場合、他者とは、われわれが理性を発揮して相互理解を推進し協力と信頼を築くべき存在と考えられている。これに対し、モラルサイエンスの公共哲学は、人間の理性について懐疑的である一方、人間の感情について、他者との協力と信頼を築く要素として、慎重ではあるがポジティブに考えている。
  • 囚人のジレンマ: DC>CC>DD>CDの構造のもと、お互いに他者であるもの同士が理性的に行動すると、協力ではなく非協力に陥ってしまう。お互いの誤解と偏見により不信はさらに増大し、「偏見と憎悪によって増幅された囚人のジレンマ」(非協力の悪循環)を生む。
  • チキンゲーム: DC>CC>CD>DDの構造をもつジレンマ。裏切り(非協力)の悪循環は避けられるが、お互いに協力の状態が不安定であることに変わりはない。

  • 人間は他者に対して、両義的な感情をもつ存在。不信感や不安を抱くと同時に好奇心を抱いている。囚人のジレンマ状況のなか、他者との公共性問題に対処するためには、むしろ好奇心や勇気といった感情的あるいは必ずしも合理的でない資質を発揮しつつ、合理的な判断力を駆使する必要がある。
  • ジレンマを克服する3つの条件: ①「ゲームは続く」という条件を作り出す ②囚人のジレンマの双方のイメージの食い違いを是正する努力 ③ジレンマの構造を囚人のジレンマから別のジレンマの構造に変えていく努力
第5章 民主主義
  • われわれの社会が成り立つためには、他者との公共性(協力と秩序)のための「3つの努力」が制度化されなければならない。「民主主義」と「市場」は、本来、自由な社会において、他者との公共性を生み出すために、3つの努力を慣習化し、さらには制度化したもの(社会制度)であり、両者はいずれも、他者との持続的なコミュニケーションのための、相互理解のための、そして相互不信を協力へと転換するための社会制度だといえる。

  • 民主主義と市場はいずれも、他者との公共性問題を解決するために、上から、権力を行使する仕組み(法律)であると同時に、下から、社会の自発性を支える仕組み(慣習)でもある。この「上からの公共性」と「下からの公共性」をバランスよく発揮する必要がある。
  • 民主主義のあるべき姿: ブキャナンの「公共選択理論」と、ガットマンおよびトンプソンの「相互尊重的熟議民主主義理論」が相補うような形での民主主義を構想することが、我々の民主主義における(知的エリートによる)代表と(知的大衆の)自発性のあるべきバランスであると思われる。=相補的民主主義


第6章 市場
  • 福祉国家: 20世紀初頭から第二次世界大戦へと至る過程で、資本主義諸国に深刻な失業問題と社会不安が生じ、「市場の失敗」が明らかになった。市場と資本主義は貪欲であり、弱肉強食の世界であり、許されざる不平等を生み出し、国民を裏切るものであると考えられた。そこで「福祉国家」=国家こそが、中立性と公平性の観点から、社会的利益と負担を公共的に配分することによって、雇用機会を創出し、それによって失業問題を解決できるという立場が示された。
  • 民営化と小さな政府: 1970年代後半、失業問題の解決を民間にゆだねるという考え方に舵がきられ、サッチャリズムとレーガノミクスが登場した。このときに「市場の倫理性」(下からの公共性)という考え方が打ち出された。

  • 新たな福祉国家: 失業問題についての世界各国の考え方は現在、福祉国家論と市場主義の間をさまよっている。市場の公共性の概念をみとめつつ、市場と国家の相補性によって、市場がよりよく公共性を発揮するための仕組みを模索している。福祉国家は、自由主義経済を前提として、そのゆがみを是正するという副次的な役割を担うもの。本来、市場に敵対するものではなく、むしろ「上からの市場主義」ともいうべきもの。福祉国家(上からの市場主義)と市場倫理(下からの市場主義)のバランスを模索することが求められる。
  • 反市場論: 反市場論には「普遍的商品化論」や「市場のドミノ効果論」などがあるが、それらは市場をあまりに単純化する誤った思考法といえる。だが、市場のレトリックの力は侮れない。市場レトリックが一人歩きして、われわれの存在のあり方を規定するような危険性をはらむ。こうした点に対し、マーガレット・レディンは「incomplete commodification」という考え方を提示する。「われわれは普段、どんな商品やサービスについても、それを100%貨幣的価値によって判断しているわけではない」。こうしたバランス感覚を絶えず発揮し続けることが市場の健全性につながる。

  • アマルティア・センの「基本的潜在能力」: 市場が本来の機能を果たすには、基本材の形式的な保障だけでなく、「基本的潜在能力」の実質的な保障が国家によってなされる必要がある。
  • 市場とは: われわれの生活に含まれている多様な価値観や対立する諸力のぶつかり合いから生じる、むき出しの力の対決を回避して、それらの価値観や対立する諸力の間の複雑で動態的なバランスをとることによって、平和(市場平和)を維持する仕組み。特定の価値(効率や自然権)を実現するものではない。われわれはモノやサービスがもっている貨幣価値と生活価値のバランスを絶えず考えながら、市場において取引する必要がある。貨幣価値に捕らわれて拝金主義に陥ってしまうと、市場はバランスを失い、結果として社会生活に大きなダメージを与えることになる。

  • 市場平和論(1): 市場の起源は、異なる共同体や部族の間で、それぞれの共同体や部族の境界の外に立てられた平和的な空間(関係)である。その最も原初的な形態が「沈黙交易」。市場の平和とは、共同体の外に成り立つ平和。「形式上平和な関係」であり、「油断のならない平和」、一皮むけば相手を食い物にしようという思惑がぶつかり合っている、緊張感みなぎる平和。市場とは、無縁者の集まる「平和な」場。
  • 市場平和論(2): 市場平和は、異なる共同体をつなぐ関係、バランスとして成立するが、そのバランスは、静態的あるいは固定的なものではなく、もっと微妙で絶えず変化する、動態的なバランス。市場がその健全な姿を維持するためには、①異なる共同体をつなぐ「平和」、②異なる市場共同体をつなぐ「平和」、③普遍的な市場と、そのもともとの基盤である生活共同体との「平和」、という3つの動態的バランスを認識しながら、全体としての市場平和を模索する必要がある。

第7章 寛容
  • 欧米人の「寛容」の観念には「自分あるいは自分たちは、彼あるいは彼らたちとは違う」という強い自覚が含まれている。その起源は、キリスト教という一神教の伝統における唯一神への絶対的な信仰、ならびに特に近代以降の合理主義的な個人主義という考え方にある。だが、「寛容は他者性の認識であり、その先は公正やフェアなルールの問題である」と主張することは、相互無関心と不寛容を再生産するだけになってしまうのではないか。他者性の認識だけでなく、その先の、協力と相互変容のプロセスを含むものとして考えることはできないのか。
第9章 公共精神
  • 公共精神には、「公」を支える公共精神と、「公共」を支える公共精神がある。「寛容」は、「公」の精神と「公共」の精神の相互変容を通じて、公共精神の生成変化を促す触媒であり、公共精神に不可欠なもの。
  • 「公共」の精神: 市民的公共性。「市民」という存在の多義的な性格を反映した多義的な概念。「市民」とは、「公」に対して批判的精神を発揮する人であるだけでなく、家族や友人とそしてコミュニティで生活する人であり、しばしば国境を越えたマーケットで経済活動をする人。「公共」の精神とは、市民の責任倫理。
  • 「公」の精神/「公共」の精神: ①質実剛健/フェアな社会実践の勧め、②国を守る気概/国を開く気概、③何かひとつの大きなふるさと(共同体としての国家)を思う心/それぞれの(自分の生まれ育った)ふるさとを思う心

  • 商業精神: 「公共」精神としての市民的公共性は、いわば、地に足の着いたヒューマニズムであると同時に、現場に根差した商業精神でもある。ヒュームは、市場における商業活動(私的利益の追求)が、公共の利益にかなうことを指摘しただけでなく、そうした商業活動が人間精神の洗練化をともなっていると主張した。
  • 相互変容としての寛容(触媒としての寛容): 欧米にはあまりみられない概念で、自己と他者の間にある差異を差異として認めつつ、他者とどう折り合いをつけ、それによって自分がどう変わっていくかという問題関心が含まれている。
  • 共生の思想: 「合意」とは、当事者の抱える判断・意味づけの枠組みを、当事者自ら組み替えることによって、新たな関係をつくりだしていく行為。「共生」とは、生の形式を異にする人々が、自由な活動と参加の機会を相互に承認し、相互の関係を積極的に築きあげていけるような社会的結合。不況和音やきしみを、社会的病理としてではなく、健康な社会の生理として捉え直す。
  • 相乗共生: 当事者がお互いに良い点を刺激し補いあって、高めあうような共生。「自己変容」「相互性」の二つの要素が含まれる。

  • 平和と民主主義: ジョン・ダワー「(平和と民主主義は)上からの権威主義的支配、天皇制の受容、下からの多様な自発性という矛盾した諸力のぶつかり合い(相乗共生)によって生み出された」。平和主義は、ナイーブに平和を希求するものではなく、戦争責任の観念、勝者のダブルスタンダード、被害者意識などの矛盾する諸力が複雑にぶつかりあって形成されたもの。
  • 習合信仰と相乗共生: 日本の宗教の特徴は「習合信仰」。この信仰形は、日本の八百万の神々や仏教の神々、中国の道教の神々といった矛盾する諸力のぶつかり合いから相乗的にうみだされてきた。習合信仰には、異なる宗教の出会いは、反目と破壊を生むのではなく、お互いの力を出し合ってより大きな力を生み出すという考え方、寛容性と相乗性の観念が認められる。

  • ご利益(りやく): 個々の具体的な利益を指すのではなく、もっと一般的な利益、不確実性や迷いの中で生活の指針や安心を与えるもの。例えば「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」は、私利私欲を追い求めることによって人々の対立や争いを招くようなものではなく、むしろ人々の信頼や社会の安定を願うもの。ご利益(りやく)の観念には「社会性」が含まれている。
  • ご利益をもたらす神は、もともとは災いをもたらす神、畏怖すべき神。疫(厄)が福を内包し、福も疫(厄)を内包するという両義性をもつ。
  • 習合信仰は「公共」の精神ではない。ただ、習合信仰には、相乗性、寛容性や、ご利益の観念に認められる謙虚性が含まれている。これらの要素が、触媒としての相乗共生の実践を促し、現代日本の「公共」の精神である<平和と民主主義>がより普遍的でより開かれたものとなるきっかけを与えるのではないか。
  • 現代日本の「公」は、いかなる習合宗教や国家神道と結びつくものではなく、立憲主義と国民主権に基づく象徴天皇制という新たな基本的枠組みとして成り立っている。