ダイアローグ170210

「自生的秩序」と「個人の自由」「法の支配」


[この本に学ぶ]
いまこそハイエクに学べ
仲正昌樹 著
春秋社(2011年)


前回採り上げた『慈悲と正直の公共哲学』(桂木隆夫著)は、サブタイトルが「日本における自生的秩序の形成」。「慈悲」や「正直」といった日本社会の倫理観が、徳川以来の長い歴史の中で自生的(自然発生的)に形成されてきた経緯を描き出したものだった。

『慈悲と正直-』の著者である桂木隆夫氏は、もともとスコットランドの哲学者デビッド・ヒューム(1711-76年)の研究者で、上掲の書は、ヒュームが唱えた「自生的秩序」(convention)の概念に基づいて日本の中世社会における公共倫理を分析したものだが、今回採り上げるフリードリヒ・ハイエク(1899-1992年)もまた、ヒュームに大きな影響を受け、「自生的秩序」(spontaneous order)の概念を核とした自由主義思想を展開した思想家だ。

『慈悲と正直-』にも見るとおり、「自生的秩序」は、日本文化/日本社会の問題を考えるに際しても外すことのできない概念だといえる。例えば、日本文化の姿を象徴的に表す「神仏儒習合」の思想。それは、支配的宗教が「神→仏→儒」と入れ替わる展開でもなければ、「神/仏/儒」とクラスター状に分かれて勢力を争う展開のものでもない。そうした諸外国で一般的にみられる展開とは異なり、日本では「神+仏+儒」という、前の神が殺されることなく、新しい神がその上へ上へと積み重ねられる(習合される)独特の展開が、まさに「自生的秩序」として生み出されてきた。

最近、2度目の映画化で話題を呼ぶ遠藤周作の歴史小説『沈黙』。江戸時代初期の弾圧下のキリシタンを描いたものだが、この中で、日本での布教を20年間続けた末に棄教するポルトガル人宣教師が、日本におけるキリスト教布教の困難さを次のように、絶望的に語る。「この国は沼地だ。…どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」。

小学校から大学まで、宗教を背景とする日本の学校のうち、3分の2はキリスト教系が占めるという。が、にもかかわらず、キリスト教徒は全人口の1%にも満たず、日本は世界最大の「非一神教国」だといわれている。だが、この「1%未満」という数字は、そもそも「神/仏/儒/基」というクラスター的な分布イメージを前提としたもの。日本における実態は、博愛の観念やクリスマスの習俗の普及にも見られるように、「神+仏+儒+基」という、いわば「神仏儒基習合」の形によって大部分の日本人に「広く薄く受容されている」と解されるべきではないか――。現代における、こうしたありふれた日常の中にも、「自生的秩序」として形成されてきた日本文化の特徴は、色濃く息づいている。

さて、前置きが長くなったが、「自生的秩序」の概念を主軸とするハイエクの思想とは、いったいどのようなものなのか。その全体は、いわゆる“新自由主義者の元祖”的な通俗イメージとは大きく異なり、「自由」の本質についてのきわめて深い考察に基づくもの。それゆえ本書の著者も「ハイエクに限っては、あまりコンパクトに<まとまった像>を作り出さない方がいい」との考えのもと、あえて簡潔な解説は避け、読者自身に考えさせるような記述を採っている。

が、そのままでは本サイトの読者に対する「本の紹介」としては不適なため、著者の意向にそむき、本書で述べられるハイエク思想の輪郭を、私の理解に基づいて<図式的>にまとめてみると――。


ハイエクの思想は、「自生的秩序」に加え、「個人の自由(個人主義と自由主義)」「法の支配」を鍵概念に、それらが相互に高い関係性を保ちながら統合的な体系を成している思想、ということができる。だから、ハイエク理解のポイントは、この3つの鍵概念が、相互にどのような「関係」で結びついているかを読み解くことにある。私の理解は以下のとおりだ。

まず、ハイエクが言うところの「個人主義」とは、通俗的な意味での利己主義とは大きく異なり、次のような意味をもつ。
  • 個人主義は「社会の理論」である。「社会の理論」という表現は、①孤立して自足的に生きている人間ではなく、「社会」の中に生活し、「社会」によってその本性と性格が規定されている人間を問題にしていること ②第一義的には、分析のための「理論」、あるいは方法的な視座であって、分析の結果として導き出される政治的格言は二義的なものにしか過ぎないこと、という2つの側面をもっている。
  • ハイエクの個人主義は、自由に行為する諸個人が相互に働きかけ合い、必要に応じて協力しあうことの帰結として、経済活動をはじめとする社会の集団的な営みを円滑に進めるための諸「制度」が自(然発)生的に形成されてくる、という前提に立つ。
  • ハイエクにとっては、個人主義的な視点から「社会」を分析することと、各個人の行為を制約している習慣、制度、法などを尊重することは矛盾しない。むしろ、自生的に形成された諸ルールを重視するのが、真の個人主義なのである。
次に「自由」。ハイエクは自らを「自由主義者」だという。が、そこにおいてハイエクが意味する「自由」とは、
  • 「他者からの強制なき状態」としての「個人の自由」に限定して「自由」を論じる。ハイエクにとって「自由」は、他人の恣意的な意志による支配からの独立という意味しかない。
そして「個人主義」と「自由主義」は、以下のような関係のものとして深く結びつく。
  • 各人がどのような場面でどのように行為すべきかを具体的に指定する、包括的で単一の倫理的規範は、文明化された社会には存在せず、価値の尺度は個人の内にしかないとすれば、各人の価値や選好を最大限に尊重し、本人に自らが追求しようとする幸福、福祉の内実を決定させるしかない――それが「個人主義」の考え方の核心。だからこそ個人主義は、個人の自由を擁護する「自由主義」と必然的に結びつく。
そして、そうした「個人の自由」は、「法の支配」によって守られる。
  • 英国における、王に対する議会権力拡大の過程を、ハイエクは、「法の支配」という形で、個人の自由が保障される仕組みが(再)確立されていくプロセスと考える。最も大事なのは「個人の自由」を(法的に)保障することであって、民主主義はそのための手段でしかない。
次に「自生的秩序」とは、
  • 古代ギリシア以来二千年にわたって西欧人の思考を支配してきた「自然的秩序」と「人為的秩序」という二分法からの脱出を図るべく考案された第三の秩序が「自生的秩序」。自然界の法則によって出来上がっている秩序でもなければ、人為的な設計による秩序でもない、「人間の行為の結果ではあるが設計の結果とはいえない秩序」。
そして「自生的秩序」と「法の支配」との関係は、
  • 諸個人は、進化の過程で生まれてきた「正しい振る舞いの一般的ルール」としての「法」に従うことによって、自らの私的利益の追求に専念しながらも、社会全体の公益とも合致する適切な行為へと導かれる。
そして最後に、「自生的秩序」と「個人の自由」との関係は、
  • ハイエクは、自分が保守主義者ではなく自由主義者だと明言している。両者の違いをハイエクは次のようにいう。保守主義者は、自生的に成長した諸制度を尊重するが、それらが自己調整能力をもっていることを十分理解していない。何等かの精神的な権威による統制を加えることで、伝承されてきた諸制度を保持しようとする傾向がある。保守主義に対するこうした見方は一方的すぎるとの批判もあるが、いずれにせよ、ハイエクにとって大事なのは、伝統や習慣それ自体ではなく、それらの中から成長してきた「自生的秩序」と、それが保障する――他者から強制されることなく――目的追求することができる自由なのである。
「自生的秩序」「個人の自由」「法の支配」の3つの鍵概念は、以上のように相互に深く関連するものだが、これらが上手く結びついた姿を、ハイエクは古典派経済学の始祖たちの思想にみる。
  • 18世紀後半にタッカー、スミス、ファーガソン、バークといった古典派経済学の始祖たちが、デカルト的合理主義のそれとは異なる「個人主義」を確立したことによって「自由主義」の英国的な伝統は大きく発展した。その中核にあるのは、諸「個人」の間の自由な相互作用を通して形成されてきた慣習、伝統、制度から導きだされてくる、一般的なルールとしての「法」を遵守することを通して、「個人の自由」を保障しようとする思想である。
ところが18世紀末になると、英国でも[デカルト主義―社会契約論―フランス革命]の影響が強まり、フランス流の政治的自由を信奉する論者たちが勢力を増していく。さらに19世紀に入ると、ベンサムに代表される功利主義、及びその政治的実践として広範な社会改革を要求する哲学的急進派が台頭し、「法」を中心に発展してきた英国的な自由の伝統の最も重要な部分が破壊されてしまう――。

ハイエクの思想は、主として国家などの「大きな社会」を対象に書かれたもので、これらの諸概念は、そのまま企業経営に当てはめることはできないものの、企業にあっても、そこに在る秩序は必ずしもタクシス(指令的社会秩序)ばかりでなく、コスモス(自生的秩序)もきわめて重要な役割を担っている。それを代表するのが、企業理念のもとに漸進的に形成れていく「企業文化」や「組織風土」といえるのではないだろうか。




第1章 設計主義のなにが問題なのか?
  • 『隷属への道』: 「全体主義体制」を批判し、「自由」を擁護することを主題とする。全体主義が登場した根本的原因は、西欧世界において「自由」を支えてきた「個人主義」に対立する考え方として、「集団主義」もしくは「集産主義」が広まったこと。
  • ハイエクの「集産主義」批判: 「自生=自発的」な諸力からなる非人格的で匿名のシステムとしての市場を廃し、社会に存在するさまざまな力を「意識的」に管理・組織しようとする考え方として批判。
  • ハイエクの「自由主義」擁護: 各個人の自発的な、管理されることのない努力を尊重する「個人主義」であるとともに、そしした努力の結果として生まれてくる「市場」などの自生的な秩序を信頼する考え方として擁護。

  • 個人主義/自由主義 ⇔ 集産主義/社会主義
    自生(自発)的   ⇔ 意識(計画)的
    英国的自由主義とドイツ的集産主義を二項対立的に対置する思想史理解。集産主義を、1870年以降の西欧の思想史全般において支配的になりつつある反自由主義的・反個人主義的な底流として呈示。
  • 集産主義に共通する特徴: ある決定的な「社会的目標」へ向けて、社会全体の労働を計画的に組織化しようとすること。
  • 各人の「幸福」や「利害」はさまざまに異なる。にもかかわらず集産主義は、人々の「普遍的な利益」の存在を前提に、それを目標とする。厚生経済学や、ベンサム流の功利主義の考え方も集産主義に通ずるもの。
  • 今日までの文明の歴史は、個人の活動が固定したルールで縛られる領域が次第に減少する方向で進んできた。万人を拘束するような「完全な倫理的規範体系」を想定する集産主義は、文明の進歩に反している。
  • ハイエクの「個人主義と自由主義」: 各人がどのような場面でどのように行為すべきかを具体的に指定する、包括的で単一の倫理的規範は、文明化された社会には存在せず、価値の尺度は個人の内にしかないとすれば、各人の価値や選好を最大限に尊重し、本人に自らが追求しようとする幸福、福祉の内実を決定させるしかない――それが「個人主義」の考え方の核心。だからこそ個人主義は、個人の自由を擁護する「自由主義」と必然的に結びつく。

  • 国家は、人々の「合意」に基づいて共通の目的を追求するための組織であり、その活動は原則、人々の自発的合意が成立している領域に限定されるはず。そこで、民主主義的に選出された議会が、「合意」を確認する役割を果たすことになる。
  • 民主主義はあくまでも、恣意的な権力行使に抗して自由を保障するための手段であって、それ自体が究極の目標ではない。
  • 1960年代以降のハイエクは、こうした社会全体を合理的に(再)設計しようとする思想の系譜あるいは傾向を「設計主義」と呼び、自らが擁護する「自由主義―個人主義」に対置した。 
第2章 自由主義の二つのかたち
  • ハイエクの「個人主義」: 個人主義は「社会の理論」である。①孤立して自足的に生きている人間ではなく、「社会」の中に生活し、「社会」によってその本性と性格が規定されている人間を問題にする ②第一義的には、分析のための「理論」、あるいは方法的な視座であって、分析の結果として導き出される政治的格言は二義的なものにしか過ぎない。
  • ハイエクの「個人主義」(2): 自由に行為する諸個人が相互に働きかけ合い、必要に応じて協力しあうことの帰結として、経済活動をはじめとする社会の集団的な営みを円滑に進めるための諸「制度」が自(然発)生的に形成されてくる、という前提に立つ。ハイエクにとっては、個人主義的な視点から「社会」を分析することと、各個人の行為を制約している習慣、制度、法などを尊重することは矛盾しない。むしろ、自生的に形成された諸ルールを重視するのが、新の個人主義なのである。

  • 集団主義と個人主義: 集団主義は「社会」を、それを構成する諸個人とは独立する実体とみなし、それを直接的に認識できる、という立場をとる。それに対して個人主義は、直接的に分析できるのは個人のふるまいだけである、という立場をとる。
  • 合理主義的な疑似個人主義: 社会全体を単一的な“知性”の基準によって合理的に設計することが可能であると想定し、その設計図に基づいて個人の行為を制限しようとする立場として批判。
  • 方法論的個人主義: ひたすら自分自身の私的利益を最大化しようとする「合理的経済人」を想定する、新古典派的な個人観に基づく個人主義として批判。
  • スミスらによる[不特定多数の私的利益の追求→公共の利益の増進]という論法を、ハイエクはむしろ、自然発生的な協力を通しての制度形成という側面から理解。個人主義的な視点から「社会」を分析することと、各人の行為を制約している習慣、制度、法などを尊重することは矛盾しないと考える。

  • 「合理主義的な疑似個人主義」の起源は、デカルト的合理主義にある。デカルト的合理主義者は、すべての個人には普遍的理性が宿っていると想定し、それを発展させ、その理性に対応した社会を構築しようとする。
  • 真の個人主義の特徴(その1): 真の個人主義は、民主主義を信頼するが、多数決が万能であるという迷信を持たない。民主主義が十分に機能するには、①多数派の意見が全員を拘束すべき領域(=公の領域)、②少数派が自らの意見を保持し、多数派を説得することが許容される領域(=私の領域)との間に境界線が引かれなければならない。=「公/私」二分法
  • 真の個人主義の特徴(その2): 真の個人主義は、現代的な意味での「平等主義」ではない。「人々に対して一般的な規則を平等に適用すべきである」という見地に立つ。

  • ハイエクの自由論: 「他者からの強制なき状態」としての「個人の自由」に限定して「自由」を論じる。ハイエクにとって「自由」は、他人の恣意的な意志による支配からの独立という意味しかない。
  • 法の支配: 英国における、王に対する議会権力拡大の過程を、ハイエクは、「法の支配」という形で、個人の自由が保障される仕組みが(再)確立されていくプロセスと考える。最も大事なのは「個人の自由」を(法的に)保障することであって、民主主義はそのための手段でしかない。
  • ハイエクは[イソノミア→法の支配]という系譜の思想こそ、自由主義の英国的伝統の源流とみる。プラトンやアリストテレスは、[イソノミア=人々のあらゆる振る舞いに対する法の平等]は、民主主義よりも優先されるべきだとの見解をもっていた。この言葉は次第に「法の前の平等」「法の支配」といった表現に置き換えられていった。

  • ロックは「主権」という概念を認めることを一貫して拒み続け、権力分割などを通して、権力の恣意的行使を抑止しようとした。そのために「法」が重要になる。ロックによれば立法の目的は、一般的な規則を設定し、その規則による禁止がないところでは、各人が、他人の恣意的な意志によって強制されることなく、自らの意志にのみ従うようにすることができること。
  • 18世紀後半にタッカー、スミス、ファーガソン、バークといった古典派経済学の始祖たちが、デカルト的合理主義のそれとは異なる「個人主義」を確立したことによって「自由主義」の英国的な伝統は大きく発展した。その中核にあるのは、諸「個人」の間の自由な相互作用を通して形成されてきた慣習、伝統、制度から導きだされてくる、一般的なルールとしての「法」を遵守することを通して、「個人の自由」を保障しようとする思想である。

  • アメリカの自由主義の歴史: ハイエクはそれを、英国的伝統がフランス的なものを抑えながら発展してきたものとみる。
  • ハイエクの憲法観: 憲法は、人々の「共通の信念」、言い換えれば、伝統的に継承されてきた同意の一部を成文化したものにすぎない。「共通の信念」に含まれている根本的な諸原理が、憲法を拘束する、より一般的なルールであり、憲法の前提になっている。ハイエクのいう「法の支配」は、伝統や習慣などの明文化されていないルールをも含んだ、広い意味での「法」に基づく支配である。「ルール」は、道徳や掟のようにその共同体の構成員が「正しいこと」と認識し、意識的に従っている行動指針だけでなく、各人が無意識的に従っているルール、つまり、私の心の動きあるいは行為の規則・法則性や傾向性のようなものも含まれている。生物としての人間に生得的に備わっているルールもある。そうした様々のレベルで多層的に作用している私のルールが一部、特に他者との関係に関わっているルールが、意識化・共有化されることを通して、社会的な習慣や伝統が形成される。
第3章 進化と伝統は相容れるのか?
  • ハイエクの「社会的進化論」: 生物学的に優れた資質をもった個体(個人)が勝ち残って子孫を残すことで進化が起こるというスペンサー的な見方ではなく、自分たちの生活環境にフィットしてうまく機能する制度や習慣を採用し、伝達・継承することができた集団が繫栄し、その仕組みが拡大・継承されていくという考え方。
  • マンデヴィルと「進化」: 「自然的秩序」と「人為的秩序」という、古代ギリシア以来2000年にわたって西欧人の思考を支配してきた物事の二分法から脱出する道を示した。それが第三の秩序としての「自生的秩序」。諸個人は、進化の過程で生まれてきた「正しい振る舞いの一般ルール」としての「法」に従うことよって、自らの私的利益の追求に専念しながらも、社会全体の公益とも合致する適切な行為へと導かれる。ここにおいて政府の役割は、賢明な法の枠組みを創出することによって、ゲームのルールを確立することである。

  • 「大きな社会」の秩序: 高度に分業体制や交換関係が発達し、人々の利害や価値観が多様化している「大きな社会」(アダム・スミス)もしくは「開かれた社会」(ポパー)は、社会全体の目標を設定し、その実現に向けて人々に具体的に指示するのではなく、各人の行為を規制する「一般的ルール」のみを採用し、その下で各人の自由の余地を拡大していく。そうしなければ「大きな社会」の秩序を維持することはできない。
  • デカルト主義の二元論: 設計主義的合理主義の誤りはデカルト主義の二元論と密接に関係している。その二元論とは、自然というコスモスの外部に立ち、あらかじめ精神を与えられた人間がその生活を営む社会制度や文化の設計をすることができる、独立に存在する精神的実体の観念のことを意味する。
  • 知識の分散化: 経済学は「大きな社会」における「分業」を長い間強調してきた。が、ハイエクは、分業以上に、その前提となる「知識の分散化」を重視すべきと主張した。例えば、我々の社会のような広範な分業に基礎を置く社会は、「価格メカニズム」なしには維持されえない。

  • 「エコノミー」と「カタラクシー」: ハイエクは、進化した「振る舞いのルール」のおかげで、人々が自分の知らない知識を活用することによって自生的に形成される市場の秩序を「カタラクシ―」と呼んだ。敵対するのではなく、共通の枠組みの中で、相互の利益を調整する、というニュアンスを含んだ概念で、特定の目的のための計画遂行としての「経済(エコノミー)」とは区別される。
  • 「ルール」と「カタラクシー」: 長い進化の過程で生成し、集合的英知を凝縮している「ルール」に即して各人が意識的・無意識的に行為するから、各個人や集団の「エコノミー」が相互に調整され、「秩序」が形成される。カタラクシ―は、個人の「理性」ではなく、非人格的な「ルール」に基づく自生的秩序なのである。

  • 「大きな社会」と「カタラクシ―」: カタラクシ―が発達していることが「大きな社会」の条件となる。「大きな社会」は、異なった目的、価値を追求する人々が生きる「開かれた社会」でもあり、そこに生きる人々が単一の「エコノミー」の下で統一行動をとることはありえないから、一つの「エコノミー」の部族的共同体が統一行動をとる「小さな社会」とは違って、「大きな社会」では、違った目的を追求している人たちが「交換」を通して相互に利益を得られるように調整する「ルール」が必要になる。「ルール」に従うことで、各自の目的追求・計画遂行(エコノミー)にとってプラスになる振る舞いへと“自然と”誘導される仕組みが「カタラクシ―」である。
  • 「自由」と「カタラクシ―」: 「大きな社会」では、「カタラクシ―」のメカニズムが機能することによって、個人の「自由」が保障される。他人に強制・干渉されることなく、自分固有の目的を追求する「自由」である。だからこそハイエクは、カタラクシ―を“省略”し、すべての人を一つのエコノミー体制に組み込み、強引に目的を共有させようとする、あるいは共通目的が不可欠だと思わせようとする、集産主義あるいは設計主義的合理主義に徹底的に抵抗する。

  • 「功利主義」と「カタラクシ―」: カタラクシ―は、各人が自らの目的実現を追求するための最善の「機会」を提供するための抽象的秩序であって、(特定の視点から見ての)欲求充足の最大化=最大多数の最大幸福を保障するものではない。ゆえにハイエクは、功利主義や厚生経済学を批判視する。
  • コスモスとタクシス: ハイエクは、人間社会における秩序を「タクシス」と「コスモス」に二分類する。「タクシス」は人工的秩序、指令的社会秩序、組織を指す言葉、「コスモス」は自然に成長してきた秩序であり、ハイエクはこれを「自生的秩序」の意味で用いている。カタラクシ―は後者に属する。私たちの社会は、コスモスを構成する要素である諸個人だけでなく、家族、農場、工場、企業、会社、各種団体、政府などの組織からもなっている。そして、それらの組織の相互の利害関係も、個人相互の場合と同じように、進化の過程で生まれてきたルールによって調整され、包括的な自生的秩序へと統合されていく。自由で複雑な社会は、2つの秩序の巧みな組み合わせによって成り立っているのである。

  • 政府と社会: 本来はコスモスでしかないものをタクシスと誤認し、組織の論理で自生的秩序に手を加えようとする、設計主義的な誤解がみられる。特に、組織としての「政府」と、自生的全体秩序としての「社会」との関係を考える際に生じやすい。「政府」は本来、「社会」を成り立たしめている諸ルールを人々に強制的に守らせ、人々が自らの目的を追求するために利用しているメカニズムを秩序ある状態に保つことを目的とする、特殊な「組織」である。
  • 国家と社会: 上記の関係において、「政府」の代わりに「国家」という言葉を使うと、混乱が生じやすくなる。「国家」という言葉には、その時々の政府を越えたより上位の抽象的で恒久的な組織であるようなニュアンスもあるが、それと同時に、民族あるいは人民の生を束ねる歴史的共同体のようなニュアンスもある。後者のニュアンスは、一見自生的全体秩序としての「社会」に近そうだが、部族的で運命的な組織体を連想させる。そうした曖昧で形而上学的な「国家」概念を、ドイツでヘーゲル派が「政府」の代わりに用いるようになったことで、“国家”全体が「組織体」であり、それゆえ特定の目的に向けて設計/再設計できるかのような誤解が生じやすくなった。

  • 保守主義と自由主義: ハイエクは、自分が保守主義者ではなく自由主義者だと明言している。両者の違いをハイエクは次のようにいう。保守主義者は、自生的に成長した諸制度を尊重するが、それらが自己調整能力をもっていることを十分理解していない。何等かの精神的な権威による統制を加えることで、伝承されてきた諸制度を保持しようとする傾向がある。保守主義に対するこうした見方は一方的すぎるとの批判もあるが、いずれにせよ、ハイエクにとって大事なのは、伝統や習慣それ自体ではなく、それらの中から成長してきた「自生的秩序」と、それが保障する――他者から強制されることなく――目的追求することができる自由なのである。
第4章 法は社会的正義にかなうべきか?

  • ハイエクは、社会的秩序を、コスモス=自生的秩序/タクシス=組織の2つに区分すべきと主張する。そして、この2つの秩序に対応する2つの法概念(ノモス/テシス)を提案する。
  • ノモス: 裁判官が作った法。ここでいう「裁判官」とは、政府の組織から相対的に自由な立場に立ち、人々の慣習の中から「法」を発見し、判例法を形成してきた英国のコモン・ローの裁判官。
  • テシス: 自生的に成長してきたものではなく、特定の誰かが何らかの目的を実現すべく「措定する」もの。テシスは元来、ノモスとは異なる次元で働く“法”だったが、いつのころからか、コスモスを制御するノモスの論理に、タクシスを制御するテシスの論理が混入し、「立法府」がノモスの領域に属するはずの問題を扱うための“ルール”までも創出するようになった。

  • ノモスとテシス: ノモス=異なる目的を追求する諸個人間の関係を調整する。民法や商法など私人(個人)間の関係を規律する「私法」に相当。テシス=政府の目的の実現に向けてその構成員に具体的に指示する。憲法、行政法、税。財務法など国会と個人の間の関係を規律する「公法」に相当。
  • 憲法: 憲法もまた、公法≒テシスである以上、組織のルールであって、正しい振る舞い方についての一般的ルールではない。むしろノモスという意味での「法」の維持を保障するための「上部構造」とみるべき。憲法は、個々の「正しい振る舞いのルール」が、法として有効であるための形式的特性のみを規定しているのであって、その実質的な内容を定めているわけではない。
  • ハイエクの「正義」論: 「正しい振る舞いのルール」が志向する「正義」とは、様々な立場や階層の人々の間の利害関係のバランスをとることではなく、進化の過程で次第に一般的・抽象的な性格を獲得した目的独立的なルールの下での「競争の条件を整えること」。

  • 民主主義の肥大化: ハイエクは、議会制民主主義を、「個人の自由」と「法の支配」を促進する一方、議会の権力が大きくなりすぎて、無制限の主権を獲得してしまう「民主主義の肥大化」に対して批判的。「社会的正義」に対するハイエクの懐疑は、利益誘導政治に陥りやすい現行の代議制民主主義に対する懐疑に連動している。民主主義的立法を、ノモス、あるいは人々に共有されている「正義」の観念によって制約することが不可欠。
  • ディマーキー: ハイエクは「限定的民主主義」を適切に表現するのを目的に「ディマーキー」という言葉を提案している。民主主義の本来の理想は、「民衆の意志による統治」ではなく、「民衆の意見による統治」であるとの前提に立つもの。
終章 現代思想におけるハイエク
  • ハイエクのいう自生的秩序は、伝統や習慣の中で、うまく機能することが実証されたルールから成る秩序である。この種の秩序、特にカタラクシ―に属する各種の「正義」や「ルール」に依拠しながら行動することによって、異なる目的を追求する人たちが、互恵的な関係を築き、自分たちだけでは達成できない利益を得ることができる。
  • 社会哲学者としてのハイエクの一貫した課題は、“必ずしも合理的ではなく、自分自身を常に制御することができるわけでない個人”、“あまり強くない個人”が自由に生きることを可能にする「大きな社会」のメカニズムを明らかにし、それを守っていくことであったと言え得る。