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『
慈悲と正直の公共哲学 日本における自生的秩序の形成』
桂木隆夫 著
慶應義塾大学出版会(2014年)
現代に生きる私たち日本人の公共倫理。それは「徳川家康の統治思想」を源流に、今日まで脈々と続く流れのなかで形づくられてきたもの、といえるのではないか。すなわち、「天下布武」から「天下泰平」を将来するという理念のもとに、仏教と儒教と権力の思想(覇道)が習合した慈悲の観念を中心とする「家康の武士道」が生み出され、またその意図せざる結果として、鈴木正三や白隠慧鶴にみられるような庶民の自治(正直)の観念を中核とする「商人道」が広まった。そして、そうした武士道と商人道の思想からなる日本独自の「君主的ヒューマニズム」が、250年に及ぶ徳川社会の安定性と持続性をもたらすともに、今日に通じる日本人の倫理的エートスを生み出してきた――と、本書『慈悲と正直の公共哲学――日本における自生的秩序の形成』の著者は独自の論を展開する。
著者はもともと18世紀イギリス(スコットランド)の哲学者デビッド・ヒュームの研究者であり、本書の基底にはヒュームの「自生的秩序」の概念が流れている。それは、人々の多様で自発的な活動がときに激しくぶつかり合い、また混乱の様相を呈しつつ、歴史状況や偶然にも左右されながら、試行錯誤を経て、誰の意図した結果でもないいわば意図せざる結果として、徐々に相互性に基づく秩序が形成されるという考え方をいう。そして本書のサブタイトルは、日本の公共倫理が「徳川家康の統治思想」を核に、まさに自生的に形成されてきたものであることを語っている。
著者の論旨をもう少し詳細に、順を追って整理してみると――。
- ヒューマニズム(神なき人間中心主義)を基礎とする政治秩序は不安定たらざるをえない。それはいかにして安定的なものにしうるか。方法は2つ。①公民的(市民的)ヒューマニズム=公共的市民への信頼を根拠として政治秩序の安定性を模索する道。②君主的ヒューマニズム=君主への信頼を根拠として政治秩序の安定性を模索する道。
- マキャベリは『君主論』で「君主的ヒューマニズム」の可能性を考察したが、結論は否定的。近代ヨーロッパのヒューマニズムは、「市民」の観念と結びついて①「市民的ヒューマニズム」の流れを生み出した。
- 近世日本の公共思想には、いわば「神と仏をかたわらに意識しながら、現生に生きる存在としての自己を見つめつづける人間」という観念が見られる。これは、いわば「日本のヒューマニズム」といえる。そして、その治世の形態は②「君主的ヒューマニズム」といえるのではないか。
- ①市民的ヒューマニズムは、市民が合意した基本ルール(法)によって市民が設立した(信託した)公権力の腐敗と濫用を防止する「一元的統治構造」で、法の支配、法治国家の概念を生み出した。一方、②君主的ヒューマニズムは、権威の象徴としての君主と公権力の行使の主体としての君主とを分けることによって公権力の腐敗と乱用を防止する「二元的統治構造」。
- 家康の統治思想は、君主的ヒューマニズムという二元的統治構造のなかに、公権力行使の主体たる君主(治者階級)を支えるエートスとして武士道の観念が、庶民(被治者階級)の生活の営みを支えるエートスとして商人道の観念が胚胎した。
- 徳川家康の統治思想にみられる「天下布武」から「天下泰平」を将来するという理念のもとに、仏教と儒教と権力の思想(覇道)が集合した慈悲の観念を中心とする武士道を生み、またその意図せざる結果として、鈴木正三や白隠慧鶴にみられるような庶民の自治(正直)の観念を中核とする商人道を生み出した。そしてこうした武士道と商人道の思想からなる「君主的ヒューマニズム」によって、徳川社会の安定性と持続性が可能になった。
- 明治政府が掲げた「富国強兵」の観念は、もともと東アジアにおける治者の統治倫理であった儒教の天や理の観念を市場(民の売り買い)に適用(習合)することで商人道(市場における正直)が成立したということが前提となっている。そして、この正直の社会倫理が埋め込まれた市場をあらためて治者の立場から捉え直したときに、治者の統治倫理としての富国強兵の観念が成立した。
- 福澤諭吉は、「公=官VS私=民」という二分法的二項対立を越え、日本の公共とは「官民協調」であり、公私の調和であるべきと論じた。この日本の公共(立憲政体)のエッセンスは「権力平均の主義」にあり、この主義に基づいて皇室(権威)と政権(権力)と人民(自治)が拮抗しつつ協働する、国会はその媒介の場となるべきであるという考えを説いた。
未曽有の大災害に襲われながらも決して秩序を失わない姿が、世界の人々を驚嘆させた東日本大震災。この例に象徴される、日本人の世界に比類なき倫理観は、以上のような背景のもと、長い長い時間を掛け「自生的秩序」として形成されてきたものなのである。
治者階級のエートスたる「武士道」は、為政者は庶民のところにまで降りていって苦楽を共にすべしという「日本的平等主義」や、奢りを断って権力を用いるべしという「覇道の慈悲」の観念を基盤とするもの。一方、庶民の生活の営みを支えるエートスとしての「商人道」は、正直や倹約に努めることが、商業が社会のために役立つ道と説くもの。こうして、武士は武士らしく、商人は商人らしく、それぞれの「道」を究めるなかに、自らの「生」を見出してきた日本人。こうした先人たちの「慈悲」と「正直」の、計り知れない積み重ねのうえに今日の私たちの暮らしは築かれていることを、忘れてはならない。

第1章 日本のヒューマニズムはどこから来たか
- 日本のヒューマニズム: 西洋中世の神学的発想では、人間は「神という絶対的存在を見つめつづける存在」であり、西洋のヒューマニズムでは、「神なき存在としての自己を見つめつづける存在」であるのに対し、近世日本の公共思想には、いわば「神と仏をかたわらに意識しながら、現生に生きる存在としての自己を見つめつづける人間」という観念が見られる。西洋のヒューマニズムとは違うが、これが、いわば日本のヒューマニズムといえるのではないか。
- ヒューマニズムとは: ここでいう「ヒューマニズム」とは、人道主義や博愛主義だけを指すのではなく、より広く、現生に生きる人間を肯定する立場、いわば来世主義に対する現世主義(世俗主義)という意味で、人間という存在のみを根拠にして人間社会の成立を構想し、政治のあるべき姿や道徳規範ないし社会倫理を問うときの人間中心主義の姿勢一般を指すもの。
- 近世ヨーロッパのヒューマニズム: 人間の本性には、善き本性もあれば悪しき本性もある。そうしたアンビバレントな存在としての人間をトータルに捉え、それを出発点として政治秩序の成立根拠とあるべき姿が模索された。こうしたリアリズムを基盤に、その後、近世政治秩序の確立につれて次第に博愛主義に変わっていった。
- リアリスティックなヒューマニズムの出発点: 西洋はマキャベリ。日本は徳川家康。家康は、信長・秀吉の「天下布武」の事業を引き継ぎ、それを「天下泰平」へと発展させた。
- ジャン・ポールコック『マキャベリアン・モーメント』: ヒューマニズムを基礎とする政治秩序は不安定たらざるをえない。ゆえに、それをいかにして安定的なものにしうるかという問題関心(=マキャベリアン・モーメント)が生ずる。方法は2つ。①君主的ヒューマニズム=君主への信頼を根拠として政治秩序の安定性を模索する道。②公民的(市民的)ヒューマニズム=公共的市民への信頼を根拠として政治秩序の安定性を模索する道。
- マキャベリは『君主論』で「君主的ヒューマニズム」の可能性を考察したが、結論は否定的。近代ヨーロッパのヒューマニズムは、市民の観念と結びついて「市民的ヒューマニズム」の流れを生み出した。
- 近世ヨーロッパのヒューマニズムを象徴するのは「剣と土地所有」。日本のヒューマニズムを象徴するのは「剣と商業」。
- 徳川社会: 「徳川家康の統治思想」にみられる「天下布武」から「天下泰平」を将来するという理念のもとに、仏教と儒教と権力の思想(覇道)が集合した慈悲の観念を中心とする武士道を生み、またその意図せざる結果として、鈴木正三や白隠慧鶴にみられるような庶民の自治(正直)の観念を中核とする商人道を生み出した。そしてこうした武士道と商人道の思想からなる「君主的ヒューマニズム」によって、徳川社会の安定性と持続性が可能になった。
第2章 君主的ヒューマニズムと徳川家の公共思想
- 一元的/二元的統治構造: 市民的ヒューマニズム=市民が合意した基本ルール(法)によって市民が設立した(信託した)公権力の腐敗と濫用を防止する一元的統治構造。法の支配、法治国家の概念を生み出した。君主的ヒューマニズム=権威の象徴としての君主と公権力の行使の主体としての君主とを分けることによって公権力の腐敗と乱用を防止する二元的統治構造。
- 武士道と商人道: 君主的ヒューマニズムという二元的統治構造のなかに、公権力行使の主体たる君主(治者階級)を支えるエートスとして武士道の観念が、庶民(被治者階級)の生活の営みを支えるエートスとして商人道の観念が胚胎した。
- 武士道や商人道は、哲学やイデオロギーではなく、倫理的エートス。武士という立場におかれた者、商人(庶民)という立場におかれた者がそれぞれ、武士は武士らしく、商人は商人らしくふるまうための倫理的姿勢をあらわす。
- 丸山真男『日本政治思想史研究』: 丸山は、徳川期の公共思想の「本質」を儒教イデオロギーと規定。林羅山を中心とする徳川前期の朱子学的自然的秩序観から、荻生徂徠の古文辞学的秩序観への展開として捉え、その転回の中に主体的契機という近代的意識の「思われざる」萌芽が生じて、それらが明治維新後の「近代」思想の論理的鉱脈を準備したと主張する。←こうした理解が一般的だが著者は否定的。
第3章 武士道について
- 公共道徳としての武士道: 武士道は日本の公共道徳の一側面として「為政者集団としての武士世間を構成する君主と家臣の倫理的エートス」を表す。名誉と慈悲と奉公の複合観念であり、また神道、仏教、儒教イデオロギーのバランスによって成り立つ習合観念である。
- 山本常朝『葉隠』: 本書は従来、もっぱら<武士道=「死に狂い」(死への超越的純粋心情)>という図式の下に読まれてきた。だが『葉隠』の武士道は、新渡戸の『武士道』にいう「大和魂」に象徴される神道的な「死への純粋心情」だけでなく、儒教的な奉公と仏教的な慈悲が習合した非体系的な観念である。
- 鈴木正三「死習い」: 『葉隠』は鈴木正三の思想の影響を受けている。「死習い」の清浄さとは、我が身に巣くう様々な欲と、そこから生じる三毒を滅して我が身を清浄にし、邪心を捨てて本心に帰るという、仏教的ニュアンスを含みつつも、それぞれの人間がそれぞれの立場で志向すべきより普遍的で規範的な心の状態を指す。
第4章 武士道と慈悲の観念
- 「武士道」は従来、以下の3つの区分の枠組みの下に理解されてきた。①徳川社会の正統イデオロギーとされた儒学およびそれと結びついた「士道」の思想、②士道の思想の枠に収まりきらない、もやもやとした、しかしやむにやまれぬ道義的心情、利害打算にとらわれない純粋心情、③下剋上の戦国時代に生まれ『甲陽軍艦』や『三河物語』で示された「武士的精神」
- 「家康の武士道」: 著者が提言する、三者の有機的な一体としての武士道。武士道の核心を、三者に共通する「慈悲」の観念とみる。「武士道は慈悲を根本として正直・慈悲・智慧が一体である」という思想で、あるべき規範として徳川時代全体を通じて、武士階級に広く浸透していたと思われる。
- 『東照宮御遺訓』: 『東照宮御遺訓』の原型に近い版によれば、家康は元来、敬虔な浄土宗信者であり、阿弥陀如来の力によって天下統一を成し遂げたとされる。そうした仏教治国論が、貝原益軒によって比較的儒教色の強いものに改訂されたという経緯があるが、そこにおいてもなお、『甲陽軍艦』や『三河物語』以来の「家康の武士道」と神儒仏習合の慈悲の観念がその思想的中核をなしている。
- 慈悲と平等主義: 「家康の武士道」の第一の特徴。慈悲の観念は、神儒仏習合という多神教的多宗教的精神を背景としている。政治の宗教に対する優越という枠組みの中で、君主という現世的存在と不可分に結びついている。慈悲を施すものが慈悲を受けるもののところまで降りていって苦楽をともにするというある種の平等主義的、あるいは現場主義的観念が見られる。
- 覇道と慈悲: 「家康の武士道」の第二の特徴。「覇道」という文脈における慈悲という考え方。覇道の慈悲においては、不祥の器である武力を用いざるをえない。それゆえに慈悲は「奢りを断つべし」という観念や「知恵と正直と一体となって発揮されるべし」という規範的観念を含まねばならない。
- 「死習い」の奉公: 「家康の武士道」の第三の特徴。「死習い」の奉公という観念は、鈴木正三に由来する。「死習い」とは、勇猛心を発揮して貪欲、瞋恚、愚痴の三毒を根絶し本心を取り戻すという仏道修行と重ねられた武士道修行の在り方。これに奉公という儒教的な観念が習合している。
- 武士道とは、市井に生きる人々に「死に狂い」の奉公を求めるものではなく、なにより政治を志すものに慈悲の心構えを問うもの。「徳川家康の武士道」は、日本的平等主義(為政者は庶民のところにまで降りていって苦楽を共にすべし)や、覇道の慈悲(奢りを断って権力を用いるべし)、そして世代間倫理(将来世代のための奉公)といった観念は、現代日本の立憲民主主義において、為政者のリーダーシップと決断を支える倫理的エートスないし心構えとは何かを問いかけている。
第5章 商人道における正直、その思想的系譜
- 欧米の「寛容」のエッセンス=「自立と相互尊重」⇔日本的寛容のエッセンス=多神教的多宗教的シンクレティズムの文化風土を背景とする「習合と相互変容」。「習合」観念の特徴は、「殺さない」「その上に加える」。
- 西洋の近代自由主義哲学が「市民の自由こそ正義である」という観念を生み出したのに対して、日本の商人道は「庶民の自由とは正直であることだ」と述べている。
- 鈴木正三: 勇猛心を発揮して三毒(貪・瞋・痴)を根絶し、私心を去って本心を取り戻すことが正直、すなわち庶民の自由である。「己が心に勝ち得る時は、万事に勝って物の上と成りて、自由なり」。「商人道の正直」の思想は、来世信仰から切り離されて、世俗倫理としての色彩をより強めることとなった。
- 白隠慧鶴: 現生に徳を積むことが未来の世代の幸せにつながるという「世代間倫理」(=世俗倫理と来世信仰の中間的な形)につながる教えを説いた。その手段として「施行歌」を普及させた。
- 石門心学: 庶民の世俗倫理が来世信仰と切り離されて独自性を獲得すると同時に、鈴木正三によって示された正直=庶民の自由の観念がその世俗倫理の中心を占めることになる。「倹約」とは奢りやその根源である愚痴を抑えて、商いの正直の心である仁心を取り戻すための方法。この「倹約」の思想によって、商人道の思想は、世代間倫理としての性格がより明確に打ち出された。また倹約の方法とそこから導かれる正直の観念は、単なる個人倫理のレベルを超えた社会倫理としての性格を有することになった。
- 海保青陵: 「正直」の立体構造を明らかにした。つまり、人がものごとに対して正直であるということは、その物事について自分の利害を離れて、いろいろな立場に立って考えてみて、それらを比較してできるだけ客観的な態度で対処するということ。「我観我→我為物→皆利我」の智を身につけるという考え方は、デビッド・ヒュームやアダム・スミスが主張した「共感」の概念に似ている。
第6章 富国強兵と枢密賞
- 富国強兵: この言葉は、もともとは軍国主義的な「強兵」や上からの「富国」に力点があったというより、むしろ地方(藩)に根差した商売や交易の活性化という意味での下からの(多様な)富国に力点が置かれていた。富国強兵の観念は、もともと東アジアにおける治者の統治倫理であった儒教の天や理の観念を市場(民の売り買い)に適用(習合)することで商人道(市場における正直)が成立したということが前提となっている。そして、この正直の社会倫理が埋め込まれた市場をあらためて治者の立場から捉え直したときに、治者の統治倫理としての富国強兵の観念が成立した。
- 商人道の形成と統治思想としての富国強兵論: 17世紀前半に鈴木正三が来世信仰としての仏教の世俗倫理化の道を拓き、18世紀には白隠慧鶴が施行歌、および儒教や福神思想と習合した禅画などによって世代間倫理と世俗倫理の道を推し進める一方で、石田梅岩は主として儒教思想を商いに適用することによって、世代間倫理と世俗倫理としての「商人道の正直」の思想を社会倫理に高めると共に、市場という存在を見出した。そして19世紀の青陵は、市場の尊敬=覇道という立場から、正直の方法論を治者の統合の方法という観点から捉えなおすことによって富国強兵論を導いた。
第7章 福澤諭吉とマシュー・ペリー
- 権力平均の主義: 福澤の公共思想の中心をなすのは「権力平均の主義」だと考える。『文明論之概略』における、至強の将軍と至尊の皇室の平均という考え方にその萌芽がみられる。「日本人は多事なり」(日本人は二つの価値尺度を持っている)という指摘がなされ、それが「多事争論」と自由の気風の源であると主張されている。
- 「権力の平均は、たまたまもって競争の媒介となり、国民の文事武事より百工枝芸の末に至るまでも一つとして進歩せざるはなく、人文の進歩とともに人民自治の風も次第に熟して、国を治るに必ずしも絶対君治の要用なきを悟り、…その素因久しくして特に徳川の治世に在りと言わざるを得ず」(福澤「国会の前途」)
- 福澤の「真の日本文明論」: 西洋の物質文明を受容しつつ、日本人の生活という視点から、欧米社会における社会契約説的な政府と独立市民の権力の平均とは異なる意味での、君主的ヒューマニズムという枠組みの中で日本的立憲民主主義における権力平均の主義の可能性を論ずること、であったのではないか。
第8章 福澤諭吉の公共思想
- 日本の公共はこれまで、「公=官VS私=民」という対立図式で考えられてきた。これに対して福澤は、こうした二分法的二項対立を越えて、日本の公共とは「官民協調」であり、公私の調和であるべきと論じている。この日本の公共(立憲政体)のエッセンスは「権力平均の主義」にあり、この主義に基づいて皇室(権威)と政権(権力)と人民(自治)が拮抗しつつ協働する、国会はその媒介の場となるべきであるという思想は、現代日本の公共を考える上で多くの示唆を含んでいる。