ダイアローグ170119

“共通善”としての経営理念


[この本に学ぶ]
日本を甦らせる政治思想 現代コミュニタリアニズム入門
菊池理夫 
講談社現代新書(2007年)


<プラグマティズム型>の民主主義は、「政治」という枠組みには適しているものの、必ずしも「組織経営」向きの思想とはいえない旨を前回、本欄に書いた。今回採り上げる「コミュニタリアニズム」は逆に、「政治」への現実的な適用にはさまざまな困難を伴うものの、むしろ「組織経営」とは非常に相性のよい、学ぶべき点の多い思想だといえよう。

コミュニタリアニズムは1980年代の前半、当時アメリカにおいて支配的だったリベラリズムやリバタリアニズムが、個人の自由や権利をあまりにも重視しすぎることを批判する思想として登場した。人間のつながりや共通性を強調し、コミュニティにおける自由で平等な成員が、熟議を通じて共通の目的を実現していく民主主義の政治を主張する。NHK教育テレビ『ハーバード白熱教室』で話題となった、あのマイケル・サンデル教授らが唱える政治思想だ。

コミュニタリアニズムは、一言でいえば「共通善の政治学」。「共通善」とは、「自由で互いに平等な人々」に共通して内在する価値であり、お互いを尊重し、協力しあいながらコミュニティを維持していくために必要なもの。アリストテレスを起源とする、この「共通善」の実現を図ることこそが「政治」の目的と考える。

例をあげよう。トマス・ホッブスは、人間の自然状態を「万人の万人に対する戦い」と考えたが、これはいわば、17世紀のイギリス思想が一般的に共通してもっていた「共通善」の前提を否定した思想。孤立した「原子論的個人」の利己心から国家が形成される社会契約論とみることができる。一方、ジョン・ロックは、「共通善」を、国家権力を制限するものとして位置づけるとともに、コミュニティの権力は「人民の平和、安全、公共善以外の目的には向けられない」と主張する――コミュニタリアンを自称する著者は、ホッブスとロックの社会契約論の違いを「共通善」の有無を軸に、こう解釈する。

ところで、古代ギリシアにまで遡る「共通善」という概念が、今日のような多元的社会においても有効なのか?という疑問は当然おきる。この点に関してコミュニタリアンは、「多元的社会を肯定し、多くの対立があることは前提としている」とした上で、「コミュニティとしての国家」、さらには「グローバル・コミュニティ」までをも視野に入れ、「開かれたコミュニティ」を主張する。が、実態としては小規模コミュニティにおける政治実践が重視されている、と言えよう。

そして本書でも、その例として「家族」「地域社会」「コミュニティ・ビジネス」などに関わる問題が取り上げられているが、なぜか一般の「企業組織」に対する言及は見られない。一般的な企業や団体などの「職場」こそが、これからの「コミュニティ」を考えていく上で最も重要なターゲットと認識されるべきではないか、と私は思うのだが。

「アリストテレスにとって、この共通善の実現が政治の目的です」

という一文が本書にはあるが、企業にとっての「経営理念」は、まさに「共通善」に他ならない。したがって上の一文は、次のように書き換えることができよう。

企業経営者にとって、この経営理念の実現が経営の目的です」

1934年にフランスで発表された「共通善のために」という宣言を起草したといわれるジャック・マリタンは、「共通善」を以下のような言葉で表しているが、この「国家」を「企業」に、「国民」を「社員」に…と読み替えていくと、企業が実現すべき「共通善」(=経営理念)が、見事なまでに浮かび上がってくる――
  • ジャック・マリタンの共通善: 「国民の福祉に役立つ公共財(道路、港、学校など)」「国家の健全な財政状況とかその軍事能力」「正しい法律や善良な習慣や賢明な諸制度」「国民の偉大なる歴史的記念物…その生ける伝統」、さらにはより精神的な「もっと人間的なもの」「公民的良心、政治的諸徳及び権利と自由の意識」「道徳的正しさ、正義、友愛、幸福」など
企業もまた、「共通善」の実現をめざして、社会に対する責任を果たしていくべき政治的存在に他ならない。





第1章 批判や誤解に答える

第2章 コミュニタリアニズムとは何か?
  • リベラル・コミュニタリアン論争: アメリカのリベラルは「正(ライト)」、つまり個人の「権利(ライツ)」を尊重する「正義」を何より優先させる。これに対して、コミュニタリアンは「善(グッド)」、つまり普通の人々が共通して持っている「善」、あるいはコミュニティの成員すべてが原則として追求していく「共通善」を優先させる。
  • アラスディア・マッキンタイア: 人間は、家族、近隣、都市、部族などのコミュニティの一部であることに「埋め込まれ」、政治的コミュニティにおける「共通の事業」としての「善き生」を目的とするもの。「普通の人々」によるローカルなコミュニティにおいては、合理的に熟議して「共通善」の実現を求める日常的な政治や、お互いを助け合う福祉が実行されていると主張。

  • チャールズ・テイラー: 「原子論的個人主義」に基づく、近代の学問を批判。人間は自らが属するコミュニティのなかで、言語を通して自己解釈していく存在であるという「解釈学」を擁護した。また自己の欲求を量的にしか区別できない「弱い評価」よりも、自己の欲求を質的に区分しより高いものを求めていく「強い評価」によって、自己のアイデンティティを構成してく「哲学的人間学」を擁護した。原子論的個人主義は批判するものの、西欧近代における個人主義の発展を基本的に認め、社会全体とのつながりをもった個人主義(全体論的個人主義)は肯定。原子論的個人主義に基づき、個人の権利や個人の業績を認める議会制民主主義や企業社会は、現在では容認せざるをえないと主張する。現代のコミュニタリアニズムの中心にはテイラーの思想がある。

  • マイケル・サンデル: ロールズが立脚する人間観を「負荷なき自我」と批判。人間とは「間主観的」な存在であり、特定のコミュニティ、その歴史や伝統などを共通してもつ「負荷ある自我」と主張。コミュニティ回復のためには、アメリカの伝統として存在している「公民的共和主義」を再活性化させる必要があると強調した。
  • 現代のコミュニタリアニズム: 人間は、言語、歴史、伝統、コミュニティ、倫理(善悪)などの「負荷」が共通に与えられた存在。そのような負荷から、自己と他者の「関係性」や「共通性」を意識して、自分が帰属するコミュニティをともに形成し、「共通善」の実現をめざして、コミュニティに対する責任を果たしていく政治的存在である。
第3章 共通善の政治学
  • アリストテレスの共通善: 「共通善」とは、「自由で互いに平等な人々」に共通して内在する価値であり、おたがいを尊重し、協力しあいながらコミュニティを維持していくために必要なもの。そして、この「共通善」を実現するのが「政治」の目的。
  • アリストテレスの共通善は、「多元的社会」である現代社会でも可能か? コミュニタリアンは、マッキンタイアを別にすれば、多元的社会を肯定し、多くの対立があることを前提としているが、小規模なコミュニティにおける政治実践を重視する。

  • ジャック・マリタンの共通善: 「国民の福祉に役立つ公共財(道路、港、学校など)」「国家の健全な財政状況とかその軍事能力」「正しい法律や善良な習慣や賢明な諸制度」「国民の偉大なる歴史的記念物…その生ける伝統」、さらにはより精神的な「もっと人間的なもの」「公民的良心、政治的諸徳及び権利と自由の意識」「道徳的正しさ、正義、友愛、幸福」などで、カトリック信仰を背景にしている。
  • イギリスにおける伝統: トマス・ホッブスは、17世紀のイギリスの政治思想が一般的に共通してもっていた「共通善」の前提を否定した。彼の社会契約論では、孤立した原子論的な個人の利己心から国家が形成されるのであり、政治社会が「共通善」によって形成されるとの考えを認めることができない。一方、ジョン・ロックは、「共通善」を権力を制限するものとして位置づけ、コミュニティの権力は「人民の平和、安全、公共善以外の他の目的には向けられない」と主張した。

  • アリストテレス的な「共通善」は19世紀末、トマス・ヒル・グリーンによって復活された。彼はそれを「他の人格の善を自分自身の善として欲求すること」として、どのようなコミュニティであっても前提とすべきこと、人間が行動する前に従うべき義務と考え、このような共通善をもった「法や習慣の知的な協動的主体」があるからこそ、権利を有することが承認されると主張した。
  • ハロルド・ラズウェルの共通善: アメリカ人は「みえざる手」を信じ、私的な利益の追求が公共的な利益、共通善になると考える傾向があるが、直接的な利益と長期間の利益との重要な区分を見逃している。この「長期的な利益(=共通善)」を高めるためにはヴィジョン、知識、共通の道徳的目途がなければならない。

  • 「公共善」と「共通善」は区別する必要がある。「公共善」は、政治的エリートの政治的徳が体現するものであり、大衆を「公益」へと駆り立てたり、ときにはエリートの利益の正当化のために使われる恐れがある。一方「共通善」は、あくまでも大衆に内在した共通する善であり、強制されるものではない。
  • 共通善には、コミュニティを形成する普通の人々に内在する「前提としての共通善」とは別に、その実現に向かったともに熟議し、ともに実行していく「共益」や共通の価値とった「目的としての共通善」がある。
第4章 現代の政治理論との関係と影響力
  • 環境主義: 個人主義的リベラリズムでは、環境問題の解決は不可能であると主張。人間を「原子論的自我」ではなく、「関係的自我」としてとらえ、そのような人間から構成される身近で、小規模な民主的コミュニティにおいて、環境問題の解決を図ることができると考える。
  • 民主主義理論を根源的に再構築することによって、その再活性化を図ろうとする「ラディカル民主主義」。コミュニタリアニズムは、その「ラディカル民主主義」のなかの「熟議民主主義」と位置づけられる。熟議を通じて、理性的な合意を形成していくことをめざす。
第5章 家族と教育

第6章 地域社会

第7章 経済政策と社会保障

第8章 国家と国際社会