[この本に学ぶ]
『
民主主義のつくり方』
宇野重規 著
筑摩書房(2013年)
三たび、宇野重規氏の本を採り上げる。本書は、困難に陥った現代民主主義の再生を図るべく、その方法を探るものだが、具体的には、<ルソー型>から<プラグマティズム型>へと、民主主義像の転換を図ることを提案する。民主主義の再生、すなわち、<私たち>の問題を<私たち>の力によって解決していく機能の向上は、ひとえに「政治」のみならず、「組織経営」にもそのまま通底する課題であり、本書で述べられる、本質にまで遡った議論から学ぶことは多い。
<プラグマティズム型>の民主主義とはどのように理解されるべきものなのか。そしてなぜ、著者はそれを、民主主義再生のための有用なアプローチと考えているのか――まずはその概要を描き出してみると;
- 従来の民主主義、すなわち<ルソー型>のそれの背景には「主権論」がある。君主主権から人民主権へというのは確かに大きな転換だった。が、一つの優越的な意志が存在するという主権論のロジックにはいささかの変化もない。
- <ルソー型>民主主義にみられる、こうした、一つの明確な意志をつねに前提とする考え方は、はたして妥当か。人間とは、はるかに多様な情念に突き動かされている存在ではないのか? プラグマティストたちは、ある理念がそれ自体として真理であるかどうかには、ほとんど関心も持たなかった。ある理念に基づいて行動し、その結果、期待された結果が得られれば、さしあたりそれを真理と呼んでもかまわないと主張した。重要なのはむしろ、各自が自らの理念をもつことに関する平等性と寛容性である――<プラグマティズム型>の民主主義とは、こうしたプラグマティズムの考え方をベースに、人民の単一の意志の優越という民主主義モデル(=ルソー型)から、「実験」としての民主主義モデルへの転換を図ろうとするものである。
- <私たち>の意志は、行為の前にその理論的根拠や格率を探すよりは、むしろ行為を通じて確認していくことの方が需要ではないか。そして、そのような人々の意志が、行為を通じて相互に影響を及ぼし、社会全体のダイナミズムを生み出していく過程にこそ、注目すべきではないか。民主主義もまた、時間のなかで生成変化していくような、動的イメージを取り入れる必要がある。
社会の平等化や個人化がますます進む今日、さまざまな意志をもった人々による活動を、より自由な環境のもとに促進する<プラグマティズム型>の民主主義は、「政治」という枠組みにあっては、非常に重要で不可欠なものと思われる。一方、その枠組みの下で活動するそれぞれの中間団体にあっては、<プラグマティズム型>民主主義の考え方から学ぶべき点は多いものの、なお<ルソー型>の併用が望ましいと思われる部分も残されている。それが、他でもない「経営理念」に関する考え方だ。
- プラグマティズムの中核をなす概念に「習慣」がある。「知識とはつねに社会的なものであり、習慣とは社会的信念が結晶したものである」というパースの考え方こそが、根底において、プラグマティズムの習慣論を支えている。
上記は、「社会的信念」を「経営理念」に置き換えれば、そのまま「経営」にもあてはまる。「習慣」は、組織経営にとってもこのうえなく重要なものであり、例えば企業文化はその集積体だといえよう。だが、「経営理念」については、プラグマティズムが重視する「実験」という概念には馴染みづらい。
経営理念は、<ルソー型>民主主義が前提とする「一つの優越的な意志」に他ならない。実験や検証の結果を見ながらコロコロと変えるようなものでなく、床の間の中央に、変わらぬ姿勢でデンと居座り続ける性質のものだといえよう。だがそれは、あくまでも大きな方向性(枠組み)を示したもの。絵画でいれば、写実画ではなく抽象画であって、そこには、さまざまな解釈を可能とする「幅」がある。
それぞれの中間団体にあっては、そうした「幅」をもつ「一つの優越的な意志」、すなわち変わらぬ経営理念の下、<プラグマティズム型>民主主義の手法により、<私たち>の問題を<私たち>の力によって解決していくのが良いのではないか。それが組織の活力を高める最善の方法に違いないと、本書を読んで確信した(←この「確信」も、プラグマティズムの思考に基づき動的に捉える必要があるとは思いますが(笑))。

はじめに
- 本書は、困難に陥った現代民主主義の再生の方法を探るもの。その際、<ルソー型>から<プラグマティズム型>へと、民主主義像を転換することを目指す。
- ルソーの「一般意志」の概念の背景には、主権論がある。君主主権から人民主権へという議論は、確かに目覚ましい展開にみえる。が、一つの優越的な意志が存在するという主権論のロジックには、いささかの変化もない。
- こうした主権論を克服すべく、「市場モデル」や「合理的選択理論」など、すべて優越する一つの意志の存在を前提としない理論も登場しているが、はたして、共同の意思決定としての民主主義を完全に放棄してしまっていいのか? 意志とは、事後的に発見されるものだという視点も必要ではないか。
- <プラグマティズム型>の民主主義: プラグマティストたちは、ある理念がそれ自体として真理であるかどうかには、ほとんど関心も持たなかった。ある理念に基づいて行動し、その結果、期待された結果がえられれば、さしあたりそれを真理と呼んでもかまわないと主張した。重要なのはむしろ、各自が自らの理念をもつことに関する平等性と寛容性である。人民の単一の意志の優越という民主主義モデル(=ルソー型)から、「実験」としての民主主義モデルへの転換である。
第1章 民主主義の経験
- 民主主義とは、移民社会であるアメリカにおいて、名も無い人々が実際に経験したことや、その感覚である。その感覚とは、いわば自分たちが誰にも服従していないという感覚である。(トクヴィル)
- イソノミヤ: 古代ギリシアにおける原始的な平等感覚。この言葉を、アレントは「無支配」、ハイエクは「法の前の平等」と解釈しているが、こうした感覚がアメリカ民主主義の基層に存在する。
- トランセンデンタリズム: カルヴィニズムの原罪に対抗して登場した、個人の良心を強調する思想。荒野で孤独に開拓を進める個人が、巨大な自然を前に感じる思いに近い。イソノミヤと並び、アメリカ民主主義の基層をなす。「自己信頼」と「不服従」が鍵。
- プラグマティストにとっての「経験」: ものごとの本質は、プラトンのイデア論のように、日常経験の彼方や背後にあるのではない。さらにいえば、経験とは、個人が所有するものでもない。経験とは、人々が他者とともに、その行動によって世界とかかわっていくプロセスである。
- オリヴァー・ホームズ「リアリズム法学」: 法の生命は論理にではなく、経験に宿る。
- ウィリアム・ジェイムズ「多元的宇宙」: 世界は単一の合理性によってすべてが決定されるものではない。世界はいわばモザイク状にできており、その未来はつねに可能性に開かれている。
- ジョン・デューイ: 人の成長は、集団的経験や社会的に共有された経験と密接に結びついている。人々が交流することによる葛藤と調和に注目し、意味が共有されることを何よりも重視した。
- 南北戦争の荒廃から再出発したプラグマティスとたちは、政治を覆いつくすかに見えたイデオロギー対立の彼方に「経験」を見出した。経験まで立ち返ることによって、アメリカ社会とその民主主義を立て直そうと考えた。
第2章 近代政治思想の隘路
- チャールズ・テイラー「緩衝材で覆われた自己」: 厚い緩衝材によって外界と隔てられた「内面」が形成され、その「内面」が自分にとってのあらゆる意味の源泉になる。「孔だらけの自己」から「緩衝材に覆われた自己」へという近代における自己感覚の変質が、外界から隔てられ内面に閉じこもった個人が、自然的世界を統御していくというモデルを産み出した。近代的個人は、世界から自分を疎隔することの代償として、自由の感覚を得た。「孔だらけの自己」にとって「不信仰」という選択肢は事実上なかった。「世俗化」とは、せんじ詰めれば「不信仰」という選択肢があるかどうか、ということに等しい。
- 宗教をはじめとする内面的諸価値から切り離されることにより、政治は「やせこけた概念」となった。こうした政治の概念を、所有権を中核とする人権の理論によって意味づけたのが社会契約論だった。そして、所有権理論に立脚する近代社会契約論もまた「緩衝材で覆われた自己」という自己イメージの産物だった。
- 近代の政治思想においては「依存」が忌避されてきた。その背景には「主権国家」の問題がある。主権国家体制においては、一方には権力を集中した国家と、他方にはさまざまな封建諸関係から切り離された諸個人とが向き合うことになった。そしてその両者を媒介する論理が「社会契約論」である。社会契約においては、人々のつながりはいったんなかったものとされ、あらためて個人の意思にもとづく同意によって政治社会が再構築される。近代の政治思想は、人と人との所与のつながりを切断することで確立した主権国家を前提としている。
- トクヴィル「依存のパラドクス」: 民主的社会の諸個人は、かつてないほど独立を望み、一人でいることに誇りを感じる反面、かつてないほど世の中の動きに左右され、国家権力に依存することになった。
- すべての依存を等しく敵視し、政治の領域から排除することには重大な問題がある。いかなる依存をどの程度まで認めるかが本質的な課題となる。
- 宗教的内乱から出発した近代の政治思想は、やがて人と人との直接的な接触を回避し、一人ひとりの個人が孤独な利益計算を行うことで、暴力を回避する道を選んだ。このことが最終的にもたらしたのが、経済学的な思考の優位だった。ロールズの『正義論』は、「パレート効率性」というモデルが思考の原理となっている。このモデルにおいて、人々は相互に関心をもたない。ただひたすら自己の利益の最大化を目指し、他者とのかかわりを回避するのである。
第3章 習慣の力
- パースの宇宙論: 宇宙の構造は秩序(コスモス)と無秩序(カオス)との相互作用によって生まれ、それを媒介したのは「成長する習慣形成の力」であった――。パースの宇宙論における「習慣」とは、個別的な偶然性を全体的な秩序へと媒介する存在であり、新たな状況に応じて変化し成長する力でもあった。習慣とはいわば、つねに新たな要因を導入し、それを継続・保持し、さらなる変化へと接続していくための媒体であった。
- 学習された人間の行動様式としての「習慣」: 習慣とは<would be>と深く結びついている。すなわち「もし~なら、このような仕方で行動する準備ができている」ということ。ここで重要なのは、習慣が過去からのしがらみよりはむしろ、未来における行動との関連で意味をもっていること。
- 習慣とは、人間による学習された行動様式であり、それは不断に検証され、修正されていくもの。定着し性向になった行動様式であるとともに、つねに変化に対して開かれているもの。
- 知識とは常に社会的なもの。習慣とは社会的な信念が結晶化したものであり、人々に共有され、受け継がれていくものーーこうしたパースの考え方こそが、根底において、プラグマティズムの習慣論を支えた。
- プラグマティストにとって、ある信念がそれ自体として真であるかどうかは、それほど需要ではない。むしろ、その「信念」が人々のいかなる行動を生み出し、いかなる結果をもたらしたかが肝心である。
- ジェイムズの習慣論: 社会に安定性をもたらし、社会の再生産を可能にするのは「習慣」である。人があることを信じて行為し、その結果が望ましいものであったとする。それが繰り返されれば、成功した信念はその人の習慣となる。ある意味で、信念は経験によって検証され、最終的には習慣という形で定着する。
- デューイの習慣論: 習慣は個人的なものにとどまらず、むしろ社会的な射程をもつことを強調。他者との相互作用やコミュニケーションを通じて、生産され、再生産される。習慣は人間の社会的自然を構成する。習慣がその人の欲望を事実上形成し、活動を生み出す。習慣こそがその人の自我であり、意志でもあるといえる。
- アメリカでは、習慣は早くから個人化し、個人によって実験され、その結果がただちに社会に伝播する、いわば一つの社会的なメディアとなっていた。「社会変革としての習慣論」というアイデアもまた、アメリカという土地であるからこそ発展した。そこでは習慣の個人化を前提に、人と人とが習慣を通じてつながっていく可能性が示された。
- 習慣とは人と人とをつなぐメディアであり、多様な場所で行われた実験の結果を集積することで、変革への梃子となっていく社会的装置である。
- プラグマティストに重要なのは、個人と個人との関係であり、習慣や行為を介して結びついた人と人との動態的なつながりである。このようなつながりが民主主義を構成するという信念こそが、プラグマティズムの民主主義観へと結実した。
- ハイエクの習慣論: 「われわれの習慣と技能、感情的態度、道具、そして制度はいずれもみな過去の経験への適応であり、それは適合性の劣る行為を選択的に排除することによって成長してきた」。ハイエクは社会を習慣の集積とみている。「市場」のイメージに近いが、それはむしろハイエクの「市場」のイメージが、そもそもプラグマティズムにおける習慣論に近いものだったといえるだろう。
- テクノロジーの発展は、ウェブへのアクセスを飛躍的に拡大することで、文字どおり人を「平等」にした。いったん完全に原子化した個人は、「ソーシャル」の概念のもと、組み合わせ、モジュール化することが目指されている。「ソーシャル転回」に示される現代的な民主主義は、固定的な人間関係(=共同体)を前提としていない。構成員はつねに入れ替え可能であり、出入り自由なのである。
第4章 民主主義の種子
おわりに プラグマティズムと希望
- 人々の意志が、行為を通じて相互に影響を及ぼし、社会全体のダイナミズムを生み出していく過程にこそ注目すべき。民主主義もまた、時間のなかで生成変化していくような、動的なイメージを採り入れる必要がある。
- プラグマティズムにおいて、民主主義の動的側面を表現するのが習慣。民主主義社会において、すべての個人はその生を通じて「実験」を行う権利をもつ。人は、習慣を取り入れることで別の個人と結びついていき、その習慣に込められた「理念」を継承する。