ダイアローグ170112

<私>が集まって<私たち>の問題を解決する


[この本に学ぶ]
<私>時代のデモクラシー
宇野重規 
岩波新書(2010年)


前回に引き続き宇野重規氏の本を取り上げる。本書は、現代社会の激動は、トクヴィルのいう「平等化」がグローバルなレベルで実現しているものとして理解できるのではないか、との仮説から出発し、平等化の新たな波の下、ますます強まる<私>の平等と個人主義を前提に政治を立て直す道筋を模索したもの。その前提となる<私>時代を生きる人々の諸特性は、組織で働く人々にも重なるものであり、その意味で、本書で模索される道筋は、そのまま<私>時代の「経営」のあり方を示す道標にもなるといえよう。

本書が拠って立つトクヴィルの「平等化」は、独特の概念だ。すなわち「平等化」の時代とは、人々の平等が実現し、安定した秩序が構築される時代ではない。むしろ、人々の平等・不平等をめぐる意識が活発化し、結果として異議申し立ての声をあげた勢力が政治の舞台にあがり、既存の秩序が動揺していく時代だとトクヴィルは言う。階層間を隔てる「壁」の存在があまりにも自明で、その存在すら意識されなかった時代と違い、平等化の時代においては、人々は、平等であるがゆえにさらに自他の違いに敏感にならざるをえないからだ。現代社会の激動は、「平等化」にこそ遠因する。

こうした「平等化」ないし「個人化」という時代の流れを、著者は、良くも悪くも避けえないものと考え、そのことを「所与の前提」に社会の諸問題を解決していく道筋を提言する。それが、本書の題名ともなっている「<私>時代のデモクラシー」だ。

提言の根底には、著者の「デモクラシーとは、<私>ではなく、<私たち>の力によって生み出していくもの。一人の力ではどうにもならない問題があるとき、人々が集まって<私たち>を形成し、<私たち>の意思で<私たち>の問題を解決していくこと」との信念がある。

本書では、デモクラシーという「政治」のあり方を探るにあたり、その前提としての「社会」のあり方に多くのページを割いている。グローバルな平等化時代のもっとも弱い環である政治の機能を回復させるためには、狭義の政治だけを考えるだけでは不十分であり、何よりもまず「社会」という不思議な存在から検討を始める必要がある、というのがその理由。

であるがゆえに本書は、「経営」の前提ともなる「社会」について、多くの有益な示唆を与えてくれる。例えばドラッカー。本書には、「日本にとって最大の問題は経済ではなく、社会だ」とする、ドラッカーの見解も登場する。いわく「社会とは、一人ひとりの人間に対して<位置>と<役割>を与え、社会としての基本的枠組み、目的と意味を規定するもの」。諸個人にとって不安が急速に高まっている、この危機を乗り越えるためには、新たな「機能する社会」が不可欠だという。

また、社会とは「人生の意味を創出するメカニズム」であるとするピエール・ブリュデューの見解、人間を「希望する主体」として捉え、社会を希望と社会的機能を生み出し、分配するメカニズムと考えるガッサン・ハージの見解などを紹介しながら、<私>時代においても、あるいは<私>時代においてこそ、「社会」の意義はますます大きくなると著者は言う。

そして、そうした人々の生の参照軸として機能しうる「社会」を作り出していく手段として有用なのが、<私>が集まって<私たち>を形成し、<私たち>の意思で<私たち>の問題を解決していくデモクラシーに他ならない、と著者は結語する。

この点を、もう少し「経営」に引き付けた事例で語れば、著者は「アゴラの機能不全」という問題を取り上げる。古代ギリシアの政治においては、ポリス(都市国家)の全構成員に関わる問題が取り扱われる領域としてのエクレシア(公的領域)と、家事や家政に関わる問題が取り扱われる領域としてのオイコス(私的領域)とが厳密に区別されたうえ、両者の間に、いわば「私的/公的領域」としてのアゴラ(広場)が存在し、この領域が、デモクラシーの、そして政治の活性化にとって極めて重要な意味をもっていた――

だが、このアゴラの領域にあって人々を組織化してきた中間集団がいまやその機能を低下させ、崩壊の危機に瀕している。つまりは、このアゴラとしての領域をいかに再組織化するかが、現代日本政治の決定的な課題だと本書は指摘するが、「社員がイキイキと働ける職場づくり」という経営課題は、まさに、このアゴラ領域における中間集団の再組織化、すなわち、人々の生の参照軸となる「社会」づくりに他ならない。

<私>時代にあっては、組織経営にも、<私>が集まって<私たち>の問題を解決していく、デモクラシーの手法を深く理解し実践することが求められるといえようが、そういえば、箱根駅伝3年連続優勝の偉業を成し遂げた青山学院大学陸上部、原晋監督の指導法は、この論をまさに地で行っているように見受けられる。




はじめに
  • デモクラシーとは、<私>ではなく、<私たち>の力によって生み出していくもの。一人の力ではどうにもならない問題があるとき、人々が集まって<私たち>を形成し、<私たち>の意思で<私たち>の問題を解決していくこと。
  • 一人ひとりが<私>の意識をもち、他人とは違った自分らしさを模索しているなか、そのような<私>が集まって、<私たち>をつくっていかなければならない。それこそが本書で考える<私>時代のデモクラシーである。
  • デモクラシーが出す答えが常に正しいとは限らない。だが、デモクラシーは「正しい答え」が見つからないからこそ必要なのだ。
第1章 平等意識の変容
  • 現代において求められる「平等」とは、ただ単にすべての個人が等しく扱われるということではなく、一人ひとりが――少なくとも他の人と同程度に――特別な存在として扱われること。ここには、誰もが「オンリーワン」であることを認めてもらいたいという願いがある。
  • 「平等化」の時代とは、人々の平等が実現し、安定した秩序が構築される時代ではない。むしろ、人々の平等・不平等をめぐる意識が活発化し、結果として異議申し立ての声をあげた勢力が政治の舞台にあがり、既存の秩序が動揺していく時代である。

  • 自分が「オンリーワン」な存在であることに誇りを感じる個人は、同時に自らが、同じく自分を「オンリーワン」だと思っている大勢のうちの一人にしかすぎないこともわかっている。結果として、自分らしくあることに人一倍敏感な平等社会の個人は、逆説的に、自分の同等者の総体である社会の声に対し、無力感にさいなまれてしまう。
  • 平等意識の変化は、空間感覚だけでなく、時間感覚においても生じており、トクヴィルは、平等社会における個人の意識や欲望が「いま・この瞬間」に向かいがちであることを深刻な問題と考えた。デモクラシーによって<私たち>の問題を解決していくためには、社会の利益を長期的な視点に立って考える必要があるからだ。「世代間格差」の問題はその典型。
第2章 新しい個人主義
  • 「個人化」は、かつては、伝統的な共同体や宗教の束縛から個人が解放され、自らの運命を自分で決められるようになることを意味した。だが現代において語られる「否定的な個人主義」においては、個人であることは脆弱であること、無力であることを意味する。そうした社会においては、「社会的なものの個人化」(ピエール・ロザンバロン)、「社会的不平等の個人化」「リスクの個人化」(ウルリッヒ・ベック)などがみられる。
  • リポヴェツキー「ポスト・モダンのナルシシズム」: かつての個人主義においては。「個人であること」が求められる一方で、「およそ、個人とはかくあらねばならない」というモデルが不可分のセットになっていた。これに対し「第二の個人主義革命」においては、個人的な活動を動機づけているのは固有のアイデンティティの探求であって、普遍性の探求ではない。人々はますます自分に関心を払い、人生に成功すること以上に自己実現に執着する――こうした事態に危惧の念を表明する。

  • テイラー: 「自己実現に忠実であれ」との理想をかかげ、現代的な個人主義の道徳的価値を擁護する。人は自分のアイデンティティを、その「背景」と照らし合わせることでしか定義できない。背景とは、自然や歴史と並んで社会のことで、このような背景があってこそ「問の地平」は形成される。一人ひとりの人間による、この<私>にとっての人間らしさの追求が、最終的には社会に問い直しにつながる。
  • ルフォール: 近代の民主主義革命の本質は「確信の指標の解体」(=超越的起源の拒否)にある。自分たちの社会は、自分たちの意思でつくりだしたものであり、その出発点も、価値の源泉も、自分たち自身のうちにある――というのが根本的な信念となっている。参照すべきは自分自身にしかなく、たえず自らの意思を、メディアを通じて表現される「世論」を通じて確認しようとする。だが「確信の指標の解体」を嘆いてもはじまらない。むしろ、そのことを前提にデモクラシーを発展させるべきだ。

  • 現代社会は「自己コントロール能力」が万民の徳目として要求される。米プラグマティズムの心理学者、ジェームズの言葉「行動が変われば習慣が変わる/習慣が変われば人格が変わる/人格が変われば運命が変わる」が信奉されている。
  • 春日直樹「オーディット文化」: 絶えず説明を求められる個人や組織は、やがて他人にも説明を求めるようになり、誰もが自己を規律し、説明するオーディット文化が社会の各領域に広がっていった。
  • ロバート・ベラー「セラピー文化」: セラピー文化とは、個人が社会で暮らしていくなかでの困難を、すべて自分の「心」の問題として受け止め、自己コントロールしていくことを求めるもの。そうしたセラピストの「イデオロギー」は過酷なもので、人は休む間もなく意識を張り詰め、自己と他者の感情を絶えずチェックしなければならない。

  • リチャード・セネット「ノー・ロングターム」: 長期的な目標の追求や、永続的な社会関係の維持が困難な社会。長い時間をかけて陶冶すべき「人格」の形成は困難になる。また人生の「物語」を紡いでいくことも困難になる。
  • 鷲田清一「前のめりの姿勢」: 先に先にと目標を設定し、逆にその目標から現在なすべきことを規定する思考法。「待つことができない社会」
  • アンソニー・ギデンズ: 自分がどういう生き方をするかをすべて自分で選択するためには、自分の思考、感情、身体感覚に対する意識を高めることが必要となるが、このことは何ら否定的に捉えるべきではない。これを真に意味あるものにするためには、時間に「溜め」があること、すなわち、時間に追われるばかりでなく、自分に必要なタイミングを主体的にとれることが大切。
第3章 浮遊する<私>と政治
  • 新しい個人主義の台頭の結果、「不満の私事化」が進み、それは「政治」の領域に最も顕著に表れている。政治とは本来、人々の不満の声が集まり一つの力となることで、社会変革への道を探るものだから。
  • 現代のデモクラシーを語るにあたり、多数者の声を素朴に想定することがますます難しくなっている。もはやデモクラシーとは単なる多数者支配ではなく、自分らしくありたいと思う、一人ひとりに個人の異なった声と向き合うことである。
  • 人々の不満や不安が、適切に代議制デモクラシーの回路へと接続されていない状況が続き、政治に対する絶望やシニシズムが増大する一方、たまった政治的情念のマグマはその噴出場所を求め代議制の外部へと向かっている。

  • バウマン「アゴラの機能不全」: 古代ギリシアにおいては、エクレシア(公的領域)とオイコス(私的領域)とが厳密に区分されたが、もう一つ、公的/私的領域としてアゴラ(広場)が存在した。バウマンは、この中間領域がデモクラシーの、そして政治の活性化にとって死活的意味をもつとして重視した。だが、このアゴラ領域にあって、人々を組織化してきたさまざまな中間集団はいまやその機能を低下させてきている。現代日本政治の決定的な課題は、このアゴラ領域をいかにして再組織化するかにある。
  • <私>と<公>とをつなぐ伝統的な回路は弱まっているが、逆に法的・政治的過程を媒介とすることなく、<私>と<公>をとストレートに結びつける政治スタイルがみられる。これらはアゴラがうまく機能していないことに起因する。

  • 香山リカ「<私>の愛国心」: 過剰なまでの<私>の内面への志向が、無媒介に「愛国心」へと短絡してしまう。
  • ガッサン・ハージ「パラノイア・ナショナリズム」: 自国とその文化が脅威にさらされているのではないかと「憂慮する」人々にとっては、「ナショナル・アイデンティティ」こそが希望のパスポートに見える。

  • <私>の不満や不安を、脅威とされる他者の排除へと結びつけないためには、<私>の問題を<私たち>の問題へと媒介するデモクラシーが回路を取り戻すしか道はない。<私>のナショナリズムの克服は、デモクラシーによって実現されるしかない。
  • 現代における政治の貧困をもたらしているのは、新たな平等化の波によって、政治的に声をあげる人がふえ、政治的なアクターが増えるなか、共通の理念的土台の不在が露呈していることによる。新たな民主政治の指導者に求められるのは、多様な声に対する柔軟な対応力であり、コミュニケーション力。いいかえれば、正統性の理念の提示を通じて、調停者、媒介者としての役割を果たすことが、政治の新たな使命だといえる。
第4章 <私>時代のデモクラシー
  • 社会とは>ピーター・ドラッカー: 一人ひとりの人間に対して「位置」と「役割」を与え、社会としての基本的枠組み、木庭と意味を規定するもの。社会には。価値、規律、正統な権力、組織がなければならない。
  • 社会とは>ピエール・ブルデュー: 社会とは「人生の意味を創出するメカニズム」である。人間が自らの生を意味あるもの、価値あるものとする上で社会がもつ権力は、神に等しいものがある。それは社会が、もっとも希少なもの、すなわち承認、敬意といった人間の存在理由を与えてくれるから。生存には無意味と偶然性がつきまとうが、そこから脱却するために、人は自らが目的に向かっているという感覚、あるいは社会的使命を託されているという感覚を求める。人が自らの属する世界に関心をもつのは、その世界に意味と方向性があり、自らもまたその世界のゲームに参加しているという感覚を持つことができるとき。そのとき人はまた時間感覚を持つことができる。このようなチャンスがある一定水準を下回るようになると、人は未来に対する感覚を失う。

  • 社会とは>ガッサン・ハージ: 人間を「希望する主体」として捉え、社会を希望と社会的機会を生み出し、分配するメカニズムと考える。希望とは、有意義な未来をつくりだす方法であり、そうした未来は社会の内部においてのみ可能。人間は、社会を通じてのみ自らの人生に意味を持たせることができる。
  • 社会が人々の生の参照軸として機能してはじめて、人々の<私>の追求も可能になる。<私>時代においても、あるいは<私>時代においてこそ、社会の意義はますます大きくなる。
  • トクヴィル「正しく理解された自己利益」: 民主社会において、人々に自己犠牲を強いることを前提に社会やそのモラルを構築することはもはや不可能。ゆえにトクヴィルは、自己利益の追求を正面から認めたうえで、それをより長期的で、より公共的な視点からとらえることを民主的社会に生きる諸個人のためのモラルとして推奨した。トクヴィルは、人々が等しく自由と権利を享受できるという意味での「平等」をこを目指すべきと考えた。

  • <私>時代のデモクラシーにおいて、人々が自分と他者を比較する上で、もっとも重要な意味をもつのは「リスペクトの配分」。<私>を、他者に、社会に承認してもらいたいのに、その願いを受け止めてもらっていないという思いが、現代社会のあらゆる不満の根底にある。
  • 名誉と尊厳: 「名誉」の概念の基盤にあるのは階層秩序。一方「尊厳」は、普遍主義的かつ平等主義的に使われる。尊厳こそが、民主的社会と両立する唯一の理念。
  • 平等社会においてもっとも大切なのは、一人ひとりが、自分は「大切にされている」という実感をもてること。そして自分は大切にされているのだから、他者も大切にしなければならない、ひいては、その構成員が大切にされる空間としての社会を守っていかなければならない、と思えること。<私>の尊重がエゴイズムではなく他者の尊重につながることーーこのような倫理的感覚が定着し、「心の習慣」になってこそ、平等社会のモラルが可能となる。

  • アダム・スミス「共感」の理論: 人は、他者の共感を得ようとして、自ずと他者の共感にふさわしくありたいと願うようになる。他者の共感を得ることが、自らの欲望になる。その場合も、他者からの視線を意識することが主体性の欠如へと向かうのではなく、むしろ「公平な観察者」を内面化することによって、自己反省と自己修正を実現することが重要。この洞察のもとに、利己心と共感は一致する。
  • デモクラシーとは何か>クロード・ルフォール: 近代の民主的社会では、それ以前の社会では一体だった権力・権利・知が、3つの原理あるいは領域として分離された。この分離は、異議申し立てや論争を生み出すことでデモクラシーを活性化する。社会の統合の象徴的な中心であり、伝統的にはそこに君主が君臨していた「権力の場」は、民主的社会においては「空虚」に保たれており、デモクラシー社会の独特な不安定さの原因となっている。デモクラシーとは、そもそも「答えのない」状況にいて、それでも社会的な意味をたえざる議論と論争を通じて創出していくプロセスだといえる。

  • 「答えのない時代」を正面から受け止め、まさにそのことを自律と自己反省の契機とすること、静的で自己完結的な安定性ではなく、動的な自己批判と自己変革を目指すこと、そのために必要な他者を見いだし、その他者とともに議論しつづけるための場をつくり続けること、それこそが<私>時代のデモクラシーの課題にほかならない。
むすび
  • 本書は、現代社会の激動は、トクヴィルのいう「平等化」がグローバルなレベルで実現しているものとして理解できるのではないか、との仮説から出発し、平等化の新たな波の下、ますます強まる<私>の平等と個人主義を前提に、政治を立て直す道筋を模索した。その主張は以下の3点に要約される。
  1. <私>は、<私>の実現のために社会を必要とする
  2. <私>の意識こそが歴史の発展を生み出す
    <私>の意識から出発した異議申し立てが、少しずつではあれ社会を変えていく原動力となることを承認し、そのために他者による異議申し立てに対する耳をすますこと。このことがやがては自分自身の境遇の改善へとつながっていき、再び、歴史の進歩や発展を語ることを可能にする。
  3. <私>意識の高まりがデモクラシーの活性化を求める
    公共の利益が自明でないからこそ、それが何なのか人々が共同で政治的に決定していく過程としてデモクラシーは発展してきた。一人ひとりが真に自らの<私>と向き合うこと、その上で、<私>に立脚して声をあげることこそが、デモクラシーの機能を活性化する上で不可欠である。
  • <私>を排除した<私たち>にはグロテスクなものがあるが、<私たち>のない<私>は絶望にほかならない。<私>から<私たち>へ、そのためのデモクラシーへの希望がいま求められている。