[この本に学ぶ]
『
生きがいの組織論 組織のなかの集団と個人』
川喜田二郎/小林茂/野田一夫 共著
日本経営出版会(1968年)
前回取り上げた『第3の組織論』(≫161202)の著者である小林茂氏が、川喜田二郎、野田一夫という二人の大御所とともに著した組織論。それぞれの持論とともに、3名による「生きがいある組織とはなにか」の鼎談が収められている。こちらもまた50年前に出版された本だが、本書で展開される、人間の本質に視点を置く組織論は、いまこそ真剣に、改めて耳を傾けるべきものと私は確信する。
KJ法の考案者として著名な川喜田二郎は、小林氏とともに、生きがいある組織づくりにおける「小集団」の有効性を強調する。その論点は、要約すると――。
- 前史時代も含めて、人類はもともと「小集団」で生きてきた動物だった。顔も知らない者同士の「組織」まで持つようになったのは、ほんの数千年以前、「都市」というものを持つほどに成長してからの話である。
- 人間は、それぞれの地域や時代に応じて「文化」=「生活様式」を発達させる。文化には一般に、技術、経済、社会組織、価値観の4側面があり、そのいずれもが互いにむすびあって文化様式を造っている。これに呼応して人類は、鉄器を契機に、技術革命→産業革命→社会革命→人間革命という1サイクルの変革を経て、真の都市文明へと乗り入れた。
- 鉄器革命以来の大変革は「近代化」。これにより階級制と身分制度が崩壊し、ますます多くの人間が「組織」のなかに包含されるようになった。だが、組織レベルの組織化は、個人の個性を考慮外に置き、また個人と個人との全人格的接触というものを外した面での努力。「近代化」は、技術革命→産業革命→社会革命の3段階で完了するものではなく、人間革命をもって完了する。
- 真の人間革命は、創造的人間の誕生、少なくともその回復から生まれる。ここにかの原始時代に遡る「小集団」の重要性が浮かび上がってくる。
人類は鉄器の発明以来、以下のような4段階の革命を経て、今日に至る「都市文明」を築いてきた、という説明になる。
- 技術革命: 鉄器の発明
- 産業革命: 農耕の開始(紀元前約3000年~)
- 社会革命: 都市の形成
- 人間革命: 孔子、釈迦、マハ―ヴィーラ、ソクラテスらの登場(紀元前6-5世紀)
「都市文明」の成立の次に押し寄せた大変革は「近代化」であり、その革命の4段階にはそれぞれ次のような要素が当てはまる。
- 技術革命: 蒸気機関の発明
- 産業革命: 18-19世紀のいわゆる「産業革命」
- 社会革命: フランス革命、ロシア革命など
- 人間革命: (未完成)
つまり、この「近代化」の大変革においては、その「人間革命」段階が未だ完成していない状態にある、というのが川喜田氏の見解であり、そしてこの「人間革命」を遂行するに相応しい手段こそが「小集団」というのがその主張だ。
原始時代から人間が生きるための手段として用いてきた「小集団」は、都市文明の発達=大組織の発達プロセスの中で崩壊の途をたどってきた。特に西欧では、一神教のもと、小集団のもつ意味がほとんど無視され、「個人主義」が発達した。
一方、日本は「近代化」の過程の中でも、きわめて例外的に、原始的「小集団」文化を保ち続けてきた。そしてこれこそが、「4. 人間革命」の手段として活かすべき、日本が優位性をもつ資産だと川喜田は力説する。
小林・川喜田を提唱者とする「小集団主義」は1970~80年代、日本の産業界で一世を風靡した。私自身も、むかし勤めていた総合商社で「小集団」活動を行った記憶がある。が、いつしか、この言葉はほとんど耳にすることがなくなってしまった。
理由は、次のように解釈できるのではないか。つまり、これは世の常でもあるが、小林・川喜田らが唱える「小集団」の意義、その本質が理解されないまま、単なる外形的な「活動」の手法として実施され、「なーんだ、時間ばかり費やして、中学生みたいな討論をして。意味ないよ」といった安直な批判が広がった――。だとすれば、偉大な知の資産の、あまりにも勿体ない逸失といわねばならない。
小林・川喜田が提唱する「小集団」を理解するうえで重要な概念に、「機械モデル組織」「生物モデル組織」という分類がある。機械モデル組織は、集団が固定して、その集団外の誰かによって、細かい点まで規定され、動かされている集団。一方、生物モデル組織は、集団自体のなかに、主体的に動く力、育つ力ももっている集団。チーム集団は、自分自身で成長していこうとする力をもち、集団そのものをクリエートしていく。
小林・川喜田が提唱する「小集団」は、いうまでもなく「生物モデル」を目指すものだが、欧米の組織論の基本をなす「機械モデル」は、以下のような理由によっていずれ破綻するのではないか、と川喜田は予言する。
- 人間には「社会性の本能」があり、人間対人間の人格的接触は不可欠なもの。個人と集団を峻別する観念は、それそのものが、歴史的に西欧で創られた観念のワクであり、人為的なものであることを反省する必要がある。個人と小集団の結びつきは、もっと根深く人間性の自然に根差したものといえる。
- 機械をモデルにとった非人格的な組織論は、破綻を暗示しつつある。破綻の断面には「人間が人間らしくあるとはどういうことか」という問題がある。
人間をもっとも生き生きさせるのは「役割」だと私は考える。「役割」という概念は本書には登場しないが、「小集団」とはつまり、この「役割」を、人々にもっとも明確に意識させることのできる優れた手段なのだと思う。

<討議>生きがいある組織とはなにか
人間管理の本質に帰れ
- 厚木工場に入り込んだとき、結局「労働が悪になっている」体制に問題の本質があるとの考えに至った(小林)。昭和30年代の後半からの都市化の大幅な進捗により、経済的プロレタリアであるのみならず、むしろそれ以上に精神的プロレタリアである人びとがたくさん発生した(川喜田)。
- 日本人の本来的な人間観は、おおくの企業で愚かにも表面上軽蔑されながら、実は人びとの本性のなかに、根源的に生きていて、それが日本の企業を支えている(小林)。
小集団主義の発見
- 人間相互の「激励関係」が重要。小集団は「オートマティックに人間同士が激励しあう関係」といえる。なかでもいちばん素晴らしいのは「ペア」だ(小林)。
- 機械モデル:集団が固定して、その集団外の誰かによって、細かい点まで規定され、動かされている集団
- 生物モデル:集団自体のなかに、主体的に動く力、育つ力ももっている集団。チーム集団は、自分自身で成長していこうとする力をもち、集団そのものをクリエートしていく。こうした小集団をつくるためには、その小集団に意義ある仕事を任せてやらせること(小林)。
- 自己形成的な集団には一定の自己形成的な秩序が常に働いていて、その規範力は機械モデルの秩序とはまったく異質の強い規制力をもっている(野田)
生きがいある組織は可能である
- もっとも人間的な人間は、もっとも個性的であるという見方に従うなら、大きな組織体として成功している企業には組織体としての個性がある。そうした組織体の行動を内から規制する一貫した理念のようなものがある。その理念のアクチュアライズされた姿が企業活動になっている。その理念を形づくっているのは結局、真に指導的役割を果たしている人間の存在と機能だ(野田)。
- 組織体をもっとも高等な生物モデルである人間モデルで運用しようと思えば、企業は確たる個性的経営理念を確立しなければならない。傑出して伸び続けた企業は、企業活動の理念において、他と非常に違ったものがあった。違いは、大きな組織体の成員の一人ひとりの活動が、ベクトルの合力を最大にするように同一の方向づけをされていた(野田)。
- 理念とか哲学というものは、一種の「クリエーションの姿勢」だといえる。具体的には「問題解決」。個々の問題というのはみなユニークで個性的。個性的な問題を処理する側の姿勢も個性的でなければならない(川喜田)。
- 集団とか個人という分け方は、あとから人間がつくった便法であって、実際は、なんかしらんこれやりがいがあるというところに、人は惹かれるもの(川喜田)。
- 主体的に働いている人は、組織全体の大きな問題だけを知っていれば、自分が、全体につながっていることを生き生きと意識する(小林)。
- 自分個人では満たせない高次な欲求を、集団を通して満たすことは、戦後の日本の精神状況のもとでは、危険なことだと考えられてきた。この風潮は異常だといえる(野田)。
- 経営者がインスパイアする目標は、職場の小集団が健全で、社員がそこに生きがいあると感じていなければ、意味をなさない(川喜田)。会社のためだとか、自分のためだとかではない。職場の仲間たちのためにやっている、というのが愛社心の健全なあり方だと思う(小林)。
- 人々に訴える力というのは、トップ自身が己の利害を超えた、何か意義あるものにほんとうに挑戦しているときに生まれるもの(小林)。
採用・昇進・報酬への提言
新能力主義論――集団主義の復権 野田一夫
職能主義の限界
- アメリカの能力主義は、企業と従業員とを結びつける媒体としてさまざまな「職務」が確立されている場合が多く、企業体の構造は、企業目的に沿った職務の合理的体系として捉えることができる。
- アメリカ的人事管理の方式は、人間の総合能力を重視しない点で「要素能力主義」と呼ぶことができる。また仕事の遂行過程におけるやりがいとか充足感といったインセンティブよりは、その実績に対して与えられる金銭とか地位といったインセンティブを重視する「対価能力主義」と呼ぶことができる。
- アメリカの労働力は「移民」によって供給された。それは①高価な労働力、②扱いにくい労働力という、2つの特徴的性格をもっていた。企業経営者と労働力とを関係づけるものは、「労働力の提供」と「その対価としての給与」という労働契約以外にはほとんどなかった。
- そこでは、①労働力を資本でもって代替していく=機械化、②労働力を効果的活用する経営手法=マネジメントが発達し、職能別労働市場が急速に形成されていった。
- テーラーの「科学的管理法」は、仕事を単純な要素にまで分解し、個々の要素ごとに労働者の仕事のやり方を合理的に改善していく管理手法。末端従業員の仕事を頭を使わない反復作業にしてしまった。その頂点がフォーディズム。
集団主義を復権せよ
- 日本の年功主義的能力評価は、長期的・持続的な個人の総合能力評価。能力評価の基準は、彼が属している集団の存続・繁栄に対する貢献。アメリカの「職務主義」に対して、日本の人事管理は「集団主義」といえる。
- 日本型の集団主義は、まず企業従業員の「動機」を通して間接的に仕事を管理せんとする。採用、配属、教育、異動、給与、福利厚生などの伝統的制度・慣行は、すべて結局は、集団成員の「動機」への働きかけである。
報酬とはなにか
- アメリカ式の「職務給」の考え方は、およそ次元の低い、貧しい人間観に基づくもの。アメリカのように「会社が人間でなく手(要素能力)を雇う」場合と違って、「会社が手でなく人間(総合能力)を雇う」日本の風土にはなじまない。
- 理想とすべき能力主義は、有能な人材の最大の報酬を、意欲を感ずる仕事につき、自己の個性をフルに発揮し、成果をあげ、自分自身で十分な「達成感」を自覚するとともに、周囲からは称賛や尊敬をかち得て、日々生き甲斐のある生活を送ることにこそ置くべき。報酬能力主義ではなく、仕事能力主義が理想的な姿。
人間・仕事・組織を貫くもの――小集団主義の原理 川喜田二郎
人間と組織とのかかわり
- 前史時代も含めて、人類はもともと「小集団」で生きてきた動物だった。顔も知らない者同士の「組織」まで持つようになったのは、ほんの数年年以前、「都市」というものを持つほどに成長してからの話である。
- 人間は、それぞれの地域や時代に応じて「文化」=「生活様式」を発達させる。ところが「様式化」が洗練され固定してくるほど、今度はその文化様式の脱皮が難しくなってくる。そしてそのため、成長を求める社会を窒息させ混乱させるに至る。それはちょうど「甲殻動物」のカラの成長と完成に似ている。人類は脊柱動物でありながら、あたかも甲殻動物と同じ成長原理を採用せざるをえない。
- 文化には一般に、技術、経済、社会組織、価値観の4側面があり、そのいずれもが互いにむすびあって文化様式を造っている。これに呼応して人類は、鉄器を契機に、技術革命→産業革命→社会革命→人間革命という1サイクルの変革を経て、真の都市文明へと乗り入れた。
- この文化大革命を「組織化」の観点からみると、組織レベル>小集団レベル>個人レベルの3つのレベルへの分化を遂げた。
- 鉄器革命以来の大変革は「近代化」。これにより階級制と身分制度が崩壊し、ますます多くの人間が「組織」のなかに包含されるようになった。だが、組織レベルの組織化は、個人の個性を考慮外に置き、また個人と個人との全人格的接触というものを外した面での努力。「近代化」は、技術革命→産業革命→社会革命の3段階で完了するものではなく、人間革命をもって完了する。
- 真の人間革命は、創造的人間の誕生、少なくともその回復から生まれる。ここにかの原始時代に遡る「小集団」の重要性が浮かび上がってくる。
機械モデル組織の破綻
- 人間には「社会性の本能」があり、人間対人間の人格的接触は不可欠なもの。個人と集団を峻別する観念は、それそのものが、歴史的に西欧で創られた観念のワクであり、人為的なものであることを反省する必要がある。個人と小集団の結びつきは、もっと根深く人間性の自然に根差したものといえる。
- 機械をモデルにとった非人格的な組織論は、破綻を暗示しつつある。破綻の断面には「人間が人間らしくあるとはどういうことか」という問題がある。
作業から仕事へ
- 人間が深い充実と感動と喜びを感ずるのは、物事を創造的にやる場合である。より一層創造的なのは、次の3条件を高度に備えている。①自発的であること、②やり方にお手本がなく創意工夫を要すること、③切実なものごとであること。ただ、この3条件はお互いに矛盾しうる。その矛盾しうる3条件を、実践行為の中に相共に充たし、矛盾でないように解消することこそ、創造的といわれる行為の秘密である。
- 仕事:ひとつの物事を、「問題提起」の段階から「結果を味わう」までの12段階にわたり、おのれの主体性と責任において、首尾一貫して達成すること。(=ワーク)
- 作業:この諸段階を非主体的に行うこと。(=レーバー)
- ワークによる体得:力強く満たされた思いを得る。自分が成長したと感ずる。創造の喜びを知る。やりがいがあったと思う。創りだしたものに愛情を覚える。自身ができる。希望が湧く。
- チームワークによる「創造愛」:仕事的に創造的に仕事をしている人は、その仕事を相共に達成した人びとに対して心の窓を開く。進んで愛を覚える。そしてこのような愛の累積していくところ、ついには人生と世界に対しても広く心の窓が開き、深き愛を抱くに至る。このような愛が支えとなって、その人はいっそう創造的な仕事を切り開いていく。そこには創造的行為と愛との会話的発展がおこる。
事実をして語らしめよ
- 事実をして語らしめよ:事実に近ければ近いほど、われわれは虚心にそれを受け入れられる。ところが、人間の主張に近ければ近いほど、多くの場合われわれは反発する。
創造性と小集団
小集団ほど創造的である――ソニー厚木工場の原動力 小林 茂
「歯車」からの脱皮
小集団は「仕事集団」である
小集団主義の人間的側面