[この本に学ぶ]
『
縄文の思考』
小林達雄 著
ちくま新書(2008年)
日本文化を語る際、しばしば「ユニークな」といった枕言葉が冠せられる。そして、その種の話は往々にして、話者の予めの構えに沿った手放しの礼賛が、何の根拠を示すことなく独善的に繰り返される。だから、指向を異にする人たちは、それらの言説にかえって反発を覚え、両者はますます離反する――悲しいかな、この国では戦後、こんな対立が延々と繰り返されてきたように思えてならない。
日本の文化は、事実として、長い歴史のなかで素晴らしい独自性を育ててきた(と私は確信する)。問題は、それらの根拠となる事実がきちんと語られる機会がなく、日本人の間でほとんど共有されていない点にあるのではないか――。本書『縄文の思考』は、そうした問題に確かな理解を得るためのさまざまな知識を、私たちに授けてくれる。
本書によれば、日本文化の素晴らしい独自性は、以下のようなプロセスを経て形成されてきた(以下は、本書で述べられている著者の見解を中心に、必要に応じて、他の資料に基づく補足説明を馬渕が加えて再構成している)。話は、縄文時代にまで遡る。鍵となる言葉は、「ムラ」と「ハラ」あるいは「ノラ」だ。
- 最後の氷期が終わり、間氷期に入ったのは今からおよそ1万5000年前。その後、黒潮の勢いが増し、約8000年前の縄文早期に「対馬海流」が誕生。日本海に流れ込んだ暖流が温暖湿潤な気候をもたらし、世界有数の「森」が形成された。
- 縄文文化は、明らかに旧石器文化の次の段階であるにもかかわらず、新石器文化の範疇から除外され継子扱いされてきた。世界基準では、「狩猟採集/非定住」が旧石器文化、「農耕/定住」が新石器文化とされるが、縄文文化は「狩猟採集/定住」が基本で、世界基準の新石器文化に合致しないからだ。だが、ここにこそ縄文文化の独自性があり、その独自性を基盤に、ユニークな日本文化は形成されてきた。
- 縄文人はなぜ「農耕」を選択せず、「狩猟漁労採集」を続けたのか。照葉樹林(西日本)とナラ林(東日本)が一面に広がる豊かな「森」の恵みがあったからだ。特に東日本では、サケ・マスの遡上という容易に捕獲できる蛋白源もあった。つまり人為的な農耕を採り入れるのではなく、あくまでも山海の恵みを専ら享受するという選択を行ったのである。
- 縄文人は、次のような空間的広がりの中で定住生活を営んだ。イエ→ムラ→ハラ→ヤマ/ウミ→ソラ。「ハラ」はムラを取り囲む半径5~10キロ程度の生活圏。生命を維持していくための食糧庫であり、また資材庫の役目を担うが、その限られたエリア内の限られた資源を有効活用することによって生活を成り立たせるべく、さまざまな工夫や知恵を開発していった。
- 限られた資源環境のもと、必要な食物を絶滅に追い込むことのないよう、生態学的な調和を大切にする共存共生の思考を身に着けていった。食べることが可能なものは、ことごとく食用に供し、多種多用な食料資源を開発した。またこうした過程で、例えば、食べられるもの/食べられないものを峻別し知識を共有ために、縄文人は、コトバによる名づけを発達させた。
- さらには、名前だけでなく、関係する諸現象をも重ね合わせ、自然の仕組みや、からくりについての理解を深め、知の体系を築いていった。縄文人こそは、史上稀なる博物学的知識の保持者だった。
- 一方、縄文人が選択しなかった「農耕」は、これはと決めた2-3のごく少数の栽培作物に手間をかけ、時間をかけて育て上げ、食うに困らないだけの収量の確保を目的とするスタイル。ムラの外には、もうひとつの人工的空間としての農地、すなわち「ノラ」を設けてこれにあたったが、少数の栽培作物による生活設計は旱魃等の高いリスクを伴うため、それに備えて自然を征服する志向を拡大して止むことがなかった。
- 縄文の「ハラ」には、また豊かな「森」があった。森には森の精霊がいる。縄文人がハラと共存共生するというのは、ハラにいるさまざまな動物、虫、草木を利用するという現実的な関係にとどまるのではなく、それらと一体あるいはそこに宿るさまざまな精霊との交感を意味する。それはどちらが主で、どちらが従というのではなく、相互に認め合う関係である。
こうして「狩猟採集/定住」という世界標準とは異なる生活スタイルを、1万年以上という、これまた類例のない長期にわたって、きわめて安定的に、かつ平和裏に保ち続けた、奇跡ともいえる縄文文化。これをして「ユニーク」と言わずんば、何をか言わんや。
先人たちが、このような素晴らしい文化を、1万年以上の長きにわたって営々と築いてきてくれたことに万謝する。

第1章 日本列島最古の遺跡
第2章 縄文革命
- 明らかに旧石器人かの次の段階であるにもかかわらず、本格的な農業をもたない縄文文化は新石器文化の範疇から除外され、継子扱いされてきた。…人類史における第2段階には、少なくとも農業の有無による対照的な2つの文化がある、ということである。
- 土器の製作・使用こそが、日本列島を舞台とする人類文化の第1段階から第2段階への飛躍、縄文革命の引き金となった。土器を用いた煮炊き料理がもたらした食料事情の盤石の安定化などの諸要素が整ったのである。こうした条件整備によって定住生活が可能となり、この定住的ムラの出現こそが、新しい縄文的世界の展開を保証した。
第3章 ヤキモノ世界の中の縄文土器
- 縄文土器の文様は、縄文人の世界観を表現するもの。装飾性とは無関係に、世界観の中から紡ぎだされた物語であり、文様を構成する単位モチーフはそれぞれ特定のいみ、概念に対応する記号なのである。弥生の装飾性と縄文の物語性という2つは、互いに動機を全く異にする。縄文土器においては文様としての独立性はなく、それがゆえに土器本体から分離することはできない。
第4章 煮炊き用土器の効用
- 縄文社会が、大陸における農業を基盤とする新石器社会と肩を並べるほどの文化の充実を保障した有力な要因は、「煮炊き料理の普及」にあった。煮炊き料理によって、植物食のリストが大幅に増加した。
第5章 定住生活
- 森には森の精霊がいる。縄文人がハラと共存共栄するというのは、ハラにいるさまざまな動物、虫、草木を利用するという現実的な関係にとどまるのではなく、それらと一体あるいはそこに宿るさまざまな精霊との交感を意味する。それはどちらが主で、どちらが従というのではなく、相互に認め合う関係である。
- 神からハラの中で生存を保障されている「負い目感情にみあう返しの行為」は、他にかけがえのない最上等のものでなければならない。それが供儀である。
- 人類がとる自然との関係における特徴的な2つの方向性:①自然と共存共栄をめざす=狩猟漁労採集 ②自然を従属させて、自然に対して主導権を握り、ときには積極的に征服を意識したりする=農耕
- 農耕民: ムラの外に、もうひとつの人工的空間としての農地すなわち「ノラ」を設けて、さらに拡大して止むことはない。
縄文人: ハラを生活圏として自然と密接な関係を結ぶ。共存共生共栄こそが自然の恵みを永続的に享受し得る保障につながるとの世界観が醸成され、それが次第に日本人的心の形成の基盤となった。
第6章 人間宣言
第7章 住居と居住空間
第8章 居住空間の聖性
- 竪穴住居の床の中央に作られた「炉」は、暖房用でも、灯りとりでも、調理用でもない。家は「炉」によって物理的日常的空間を超越して象徴性、聖性の次元にまで高められたのである。こうして縄文住居空間は、縄文人の心を包み込む家=イエの力をもつにいたる。
第9章 炉辺の語りから神話へ
第10章 縄文人と動物
第11章 交易
第12章 交易の縄文流儀
第13章 記念物の造営
第14章 縄文人の右と左
第15章 縄文人、山を仰ぎ、山に登る
- ムラの設営や記念物の設計に際しては、特別な山に方位を合わせたり、二至二分の日の出や日の入りを眺望できるような位置取りがなされた。周囲の山並みの中で抜きんでて目立つ存在を誇示している山がその対象となった。
- ムラを取り囲む自然環境を単なる景観としてではなく、景観の中のいくつかの要素の存在を意識的に確認することによって自分の目で創る風景とする。縄文人は、そうした風景の中に特別視した山を必ず取り込もうとしてきた。後世の霊山信仰、修験道へとつながっていった。
結びにかえて
- 縄文文化は、ちょうど日本列島内に収まり、樺太、朝鮮半島には異なる文化が対峙していた。まさに縄文列島あるいは縄文日本語列島の名に値する。彼我とはコトバが違い、文化が異なっていたのである。
- 「農耕」とは、これはと決めた2-3のごく少数の栽培作物に手間をかけ、時間をかけて育て上げ、食うに困らないだけの収穫の確保を目的とするもの。かたや、縄文時代の狩猟漁労採集は、文字通り山海の恵みを専ら享受する構えをとる。食料を極端に少ない特定種に偏ることなく、可能な限り分散して万遍なく利用することで、いつでも、どこでも、食べるものに事欠かない状態を維持できるのだ。まさに「縄文姿勢方針」の真骨頂がここにある。
- 「縄文姿勢方針」を貫くことは並大抵のことではない。まず第一は、食用に適すものと適さないものとを区別するための正しい知識が必要となる。縄文人は、そのため、コトバによる名づけを発達させた。名前だけでなく、関係する諸現象をも重ね合わせ、自然の仕組みや、からくりについての理解を深め、知の体系を築いていった。縄文人こそは、縄文語に基づく史上稀有な博物学的知識の保持者だった。