ダイアローグ161124

人類ゲームの「最後の乗り物」


[この本に学ぶ]
死をふくむ風景 私のアニミズム
岩田慶治 
NHKブックス(2000年)


梅原猛は、「草木国土悉皆成仏」という言葉のなかに日本文化の神髄を見出し、その源流には縄文文化の「森の思想・アニミズム」があると考えた(≫161114)。この「森の思想・アニミズム」についてもっと知りたいと思い、本書を紐解いた。

著者の岩田慶治は、東南アジアを中心とした徹底的なフィールドワークを通じ、生涯にわたってアニミズムを追及し続けた文化人類学者。アニミズムを「一神教や多神教や何らやかんやらの宗教を超えて、それらを木っ端微塵にしたところに現れてくる世界の風景」「すべての宗教を含む世界」だとし、人類にとっての、その偉大な意味を礼賛する。

岩田氏が本書を通じて縷々語りかける、アニミズムの偉大な意味については、大いに納得させられる。だからそれを、分かりやすく簡潔にご紹介できればと思うのだが、残念ながら、私の能力ではかなわない。アニミズムとは、そもそも言葉を超えた世界であるからして、ここは、氏が紡ぎだし、本書を通じて語り掛ける言葉をひとつひとつ丁寧に噛みしめながら、その神髄に近づいていくしか方法はないだろう。下掲の「NOTE」に、そうした氏の言葉の一端を書き出しているので参考にしていただければと思う。

とはいうものの、それだけでは本書をまともに紹介したことにはならないので、稚拙ながらも、私が理解する“岩田ワールド”のあらましを「NOTE」の再構成によってご紹介する。また、それを通じて、『死をふくむ風景』という奇妙な書名の意味を解題する。
  • われわれはいつも「言葉」で考えているが、そうすると、言葉でつくりだされた世界、言葉の世界をつくってしまい、言葉の綾とりで何となくわかったような気分になる。言葉の辻褄を合わせる。しかし言葉の綾とりでは、真実、あるいは実相には近づけない。「言葉」ではなく、「風景」のなかで考える。「死」という問題を風景のなかに位置づけて考えたらどうなるか――そうした考え方を行ってきたのが、アニミズムに他ならない。
  • シャーマンはアニミズムを象徴する存在だが、その本質を理解するには、シャーマンという「人(行為)」に注目するのではなく、それが行われる「場所」に視線を転じてみる。つまりは、それを「風景」としてとらえる。すると、シャーマンは「同心円」の中心に立ち、その力が、雨のように周囲の人々に降り注ぐ。普通の場が、魂の場となり、「同時(シンクロニシティ)空間」が誕生する。それはまた「無限」の世界でもある。
  • 東南アジアの伝統社会では、村落社会という人間の構築物のなかに「無限」ということが根をおろしている。大きな柱のように、村のなかに深く根をおろして、ずーっと無限の柱が天上の見えないところへ繋がっている。村人は時に応じて、そこへ行って無限を実感している。そして、「ひと」は風景のなかに縫い込められている。
  • 人間と生きものの生活があり、そのうしろに魂の空間がある、その両方を合わせると、それこそが「風景」だといっていい。風景のなかに民族文化の構図があり、そのなかを魂という目に見えないものがせわしなく往来している。今日のわれわれの問題は、われわれがいつも風景の外部にいることだ。
  • 東南アジアの伝統社会では、民族の生活様式は、この世だけでなく、必ずあの世とこの世が一つになってその民族を支えている。伝統的世界観は、そうした循環的な世界観によって築かれており、そこで生きている人のなぐさめ、心を安らかにするための文化装置を備えている。そうした文化が、本書の書名となっている「死をふくむ風景」である。
  • 文化が環境にイカリを下ろす。そうすると文化が自分自身を象りはじめ、その部分がきちっと結びついて統合されていく。社会はそれによって安定し、文化は統合される。
  • 人類が南方で誕生し、北に向かって進化と特殊化をとげ、そこで文明国になったといっているのだが、どうやらその道が袋小路に入ってしまったのかもしれない。南の生き方からやりなおす。その必要が予感される。
  • イメージとしては、北から南の方向は、弥生文化から縄文文化へさかのぼることだ。宗教から呪術へといってもよい。人間についていえば、それは身体からこころへ、こころから魂への方向である。こころの世界は二元的で、形を離れない。山と海、善と悪、子供と老人、男と女の差異があり、葛藤がある。魂の世界は一元的で、形がない。名前のない世界だ。そこはもろもろの形のもと、根っこだ。
  • 我々は無限のごく一部をとらえて、象徴的にカミと名づけているが、ほんとうは「無限」そのものが「カミ」なのだ。
  • 今のところ、人類というのは名ばかりの虚構かもしれない。実体のない言葉の空洞かもしれない。しかし、それでは困るから、人と大地が力を合わせて新しいゲームを、そのルールとフィールドを作りださなければならない。人類ゲームの核はどうしても神だ。最高の価値。そこに向かう運動だ。神が民族を束ね、人類を最高の目標に運んでくれる最高の、そして最後の乗り物なのだ。
今日、私たちは産業社会と呼ばれる社会を生きている。そこでは効率向上が至上命題とされ、私たちはそのために血眼となって格闘する。が、それはあくまでもオモテの世界の話にすぎない。「風景」は、そのウラ側に必ず時空を超えた魂の世界をともなっているのだが、オモテの世界の、それもごく一部の事象ばかりに目を奪われてしまう私たちには、「風景」の全体像が見えなくなってしまっている。

そうした、忘れられた感覚を呼び覚ましてくれるのがアニミズムであり、近代文明が行き詰まるなか、私たちが頼りにすることのできる「最後の乗り物」ではないか。そして現に、私たちはそのことに気づき初めているのではないか、と著者は観察する。そしてそれを「縄文の深層が弥生の表層を破って突出しようとしている」という言葉で、私たちに語りかける。



第1章 アニミズムの世界
  • 今のところ、人類というのは名ばかりの虚構かもしれない。実体のない言葉の空洞かもしれない。しかし、それでは困るから、人と大地が力を合わせて新しいゲームを、そのルールとフィールドを作りださなければならない。…人類ゲームの核はどうしても神だ。最高の価値。そこに向かう運動だ。神が民族を束ね、人類を最高の目標に運んでくれる最高の、そして最後の乗り物なのだ。
  • シャーマニズムを「場」の構造として理解する。シャーマンは「同心円」の中心に立っているだけではない。その力が、雨のように周囲の人々に降り注いているのだ。普通の場が、魂の場となり、「同時(シンクロニシティ)空間」が誕生する。
  • 「木」のかたちは、一つの宇宙である。天と地を内蔵し、見えるところと見えないところが一体となって、荘厳な姿をつくりあげている。
第2章 森の思想
  • 人類が南方で誕生し、北に向かって進化と特殊化をとげ、そこで文明国になったといっているのだが、どうやらその道が袋小路に入ってしまったのかもしれない。南の生き方からやりなおす。その必要が予感されるのだ。
  • イメージとしては、北から南の方向は、弥生文化から縄文文化へさかのぼることだ。宗教から呪術へといってもよい。…人間についていえば、それは身体からこころへ、こころから魂への方向である。こころの世界は二元的で、形を離れない。山と海、善と悪、子供と老人、男と女の差異があり、葛藤がある。魂の世界は一元的で、形がない。名前のない世界だ。そこはもろもろの形のもと、根っこだ。
  • 文化が環境にイカリを下ろす。そうすると文化が自分自身を象りはじめ、その部分がきちっと結びついて統合されていく。…社会はそれによって安定し、文化は統合される。「魂」「心」「自分」の関係を家に例えると、自分は家、心はその周りの庭、魂は円形である。空といってもよい。…魂はなければならないが、心はなくてもよい。…魂というのは「無限」の別名である。…我々は無限のごく一部をとらえて、象徴的にカミと名づけているが、ほんとうは無限そのものがカミなのだ。
  • 人間についても同様である。成長し、生死し、輪廻する全体が人で、その人が魂に裏打ちされているのだけれども、その一部、誕生と死のさいに、祭りのなかで魂に出あう。魂は出会いのときに姿をあらわす。…魂をこういうふうにとらえると、魂そのものがすでに個を超え、種を超えている。人の魂はネコの魂で、また、稲の魂で、草木の魂なのだ。
  • 人間と生きものの生活があり、そのうしろに魂の空間がある、その両方を合わせると、それこそが「風景」だといっていい。風景のなかに民族文化の構図があり、そのなかを魂という目に見えないものがせわしなく往来しているのだ。自分はもちろん風景のなかにいるが、だからといって外部に出られないわけではない。――というより、今日の問題は、われわれがいつも風景の外部にいることだろう。
  • 東南アジアの文化を便宜的に2つに分けると、「わかりやすい文化」「分かりにくい文化」に分けることができる。それぞれは下表のような特色を有し、前者は弥生文化、後者は縄文文化に符合する。
  • 今日の見方からすれば、縄文の深層が弥生の表層を破って突出しようとしている、ということではないか。
第3章 宇宙樹のコスモロジー

第4章 死をふくむ風景
  • われわれはいつも「言葉」で考えているが、そうすると、言葉でつくりだされた世界、言葉の世界をつくってしまい、言葉の綾とりで何となくわかったような気分になる。言葉の辻褄を合わせる。しかし言葉の綾とりでは、真実、あるいは実相には近づけないのではないか。「風景」のなかで考える。そういう新しい方法を考えることはできないだろうか。「死」という問題を風景のなかに位置づけて考えたらどうなるだろうか。
  • 「宗教体験」は、死後の世界へたどりつく王道であり正道。臨死体験はその脇道にしかすぎない。日常的な驚き、あるいは深い感動、または忘我の体験といった日常のなかに潜む深さのなかに宗教体験を見出すことが大切。いのちの根源に触れ、そのいのちが限りなく広がっていくような、すばらしい宗教体験を。
  • 民族というのは、人生と歴史の変化に対応できるように巧みに文化を編み出してきた。死んでいく人がさみしくないように、ちゃんと受け皿がある。
  • 「ひと」は風景のなかに縫い込められている。「ひと」は風景とどういう共同生活をしていけばよいのか。臨死体験にみられるような体験を、日常の経験のなかにはめこんだ方がよい、と思う。
  • 東南アジアの伝統社会では、民族の生活様式は、この世だけでなく、必ずあの世とこの世が一つになってその民族を支えている。伝統的世界観は、そうした循環的な世界観によって築かれており、そこで生きている人のなぐさめ、心を安らかにするための文化装置を備えている。
第5章 円相のなかの生死

第6章 私という空間に去来する雲

日常のなかの奇蹟
  • 村落社会という人間の構築物のなかに「無限」ということが根をおろしている。大きな柱のように、村のなかに深く根をおろして、ずーっと無限の柱が天上の見えないところへ繋がっている。村人は時に応じて、そこへ行って無限を実感している。
    漢字の「神」: 人間の文化が作り上げた神。家畜化された神。
    カタカナの「カミ」: 一瞬の出会い頭に現れてくる神様。いつ出て来て、いつどこへ帰っていくか分からない神。家畜化されない原始の神。
    漢字の「神」はカタカナの「カミ」を含む幅広いものであってほしいと思う。