ダイアローグ161114

日本文化の原理は「草木国土悉皆成仏」


[この本に学ぶ]
人類哲学序説
梅原 猛 
岩波新書(2013年) 


著者の梅原猛は、国際日本文化研究センターの初代所長を務めた、いわずと知れた日本文化研究の大御所。その氏が、90歳を前に、自らが重ねてきた思索の集大成として行った講演をもとにまとまとめられたのが、本書『人類哲学序説』だ。

広範な学問分野に跨る氏の論考は「梅原日本学」の名で知られるが、氏の研究対象は、実はデカルト、ニーチェ、ハイデッガーなどの西洋哲学から始まり、40歳頃になってから日本文化に転向した。「近代西洋文明に疑問を感じ、人類文化を持続的に発展せしめる原理が日本文化のなかに存在するのではないかという予感を抱いた」からだった。

以来約50年。さまざまな分野にわたる学問的渉猟の末に氏が見出した日本文化の原理が、本書で述べられる「草木国土悉皆成仏」という思想。人間や動物はもとより、草木や国土に至るまですべてのものは仏性を持ち成仏ができるという考え方だ。

詳細については、ぜひ本書を紐解いていただければと思うが、氏の言説の論旨を私なりに整理すると以下のようになる。
  • 日本には豊かな狩猟採集・漁労採集文化である縄文文化があり、それが日本の基層文化となっている。特に東日本の河川にはサケ・マスの遡上があり、魚を容易に捕獲することができた。
  • 縄文文化は、世界の狩猟採集文化に共通するアニミズムであり、自然にはいたるところに霊があると考えた。例えば縄文遺跡の貝塚は貝の墓であり、貝の再生を願った場所。アイヌのイヨマンテは、クマをあの世に送る再生のお祭りであり、そこには「草木国土悉皆成仏」の思想が見られる。とりわけ「森」」は重要であり、「神様は森にいる」と考えられた。
  • 弥生時代に稲作農業が日本に入ってきた。そして、稲作に不可欠な「太陽と水」の崇拝思想が形成された。水田耕作には水が不可欠だが、その水を蓄え、絶えず川に供給し続ける機能を果たすのが「森」であり、縄文以来の「太陽と水の崇拝の思想」とが結びついた。
  • こうして形成された、弥生以来の「森+太陽と水の崇拝の思想」が、6世紀に輸入された仏教に大きな影響を及ぼし、10~11世紀ごろに「草木国土悉皆成仏」の思想が形成された。それは、天台宗の思想と真言宗の思想が合体してできた「天台本覚思想」の中心をなす思想だといえる。
  • ヨーロッパの思想は、牧畜と小麦農業文明が生み出した世界観に基づいている。森は文明の敵であり、木を伐り、森を破壊することによって文明が始まるという思想に導かれている。
  • 自利と利他の調和を説く思想こそが、近代西洋的な人生観に替わって、人類の思想になる必要がある。生きとし生けるものと共生する哲学が必要であり、科学や科学技術も、そのような哲学に裏付けられたものでなければならない。そしてその答えが「草木国土悉皆成仏」にある。
梅原猛は、以上のような論拠をもって、日本文化の本質を解くカギはこの「草木国土悉皆成仏」(天台本覚思想)にあるのではないかと結論づけるが、この氏の考え方は、私としても非常に腹落ちするもの。この枠組みを拠り所としながら、日本文化の本質、日本人にとっての「生きること」「働くこと」の意味をさらに探っていきたいと思う。




第1章 なぜいま、人類哲学か
  • 天台本覚思想: 天台宗の思想と真言宗の思想が合体してできた「天台密教」の思想。円珍・円仁が中国密教を学び、天台宗を密教化。良源が完成させる。「草木国土悉皆成仏」という言葉でおおむね表現される。
  • インド仏教で「命」を持つのは動物まで。中国の天台宗にはあったが主流とならず。「草木国土悉皆成仏」は日本仏教の思想といえる。鎌倉新仏教のすべては、この思想を前提としている。
  • 「草木国土悉皆成仏」の思想は、仏教ばかりでなく、日本文化の原理といえる。
  • 日本文化の基層をなす、アニミズムをベースとする縄文文化が、6世紀に輸入された仏教に大きな影響を及ぼし、10~11世紀ごろに「草木国土悉皆成仏」の思想が形成された。
第2章 デカルト省察
  • 「われ思う、ゆえにわれあり」: デカルトは「肉体がないわれ」(=精神=理性)を「実体」と考えた。実体とは、他のものの存在に拠らずにそれ自身のみに拠っているもの。つまりデカルトは、疑う「われ」を、まさに「他のものの存在に拠らないもの」と考えた。
  • アリストテレスの影響下にあるスコラ哲学による「自然」は、神の意志を実現するために存在すもの。デカルトはこうした考えを一切斥け、「自然」は、まったく機械的に数学的公式によって把握されるものだと考えた。そして「実体」には、①神という完全な実体、②内側にある、思惟を本質とする精神という実体、③外側にある延長を本質をとする物質という実体、の3つがあるとした。
  • デカルトは、生きている人間に肉体を離れた精神を与えた。だがデカルトが近代哲学の基礎に置いた「われ」は、実は身を離れた幽霊だったのではないか。そして近代哲学は、そのような幽霊(理性・精神)によって導かれていった。
  • 「思惟するわれ」は思惟する機械であり、そこには肉体がない。肉体がないということは、生物としての歴史を持たないということ。「思惟するわれ」は、肉体を持たないことによってまったく孤独なものになってしまう。その概念によって構成される世界は、まったく無機質なものであって、命のないものになる。
第3章 ニーチェ及びハイデッガー哲学への省察
  • ニーチェは、神は、弱い人間が強い人間に復讐するためにつくった幻想だと考えた。だが、「すべての神は死んだ。いまやわれわれは、超人が生きんことを欲す」とする、その「権力の意志」の哲学は、ヨーロッパ哲学の通弊である人間中心主義をまぬかれてはいない。
  • 人間の本性を理性におき、その理性が、対象的な自然を支配することを肯定するデカルト以来の理性哲学が「積極的な人間中心の哲学」であるとすれば、人間を不安の相や死の相で見るハイデッガーの実存哲学は「消極的な人間中心の哲学」といえる。
第4章 ヘブライズムとヘレニズムの呪縛を超えて
  • プラトンは、人間の魂を不死とした(イデアの思想)。それにより、人間は永遠の存在となり、すべての動植物よりはるかに優位を獲得した、その人間優位は、まさに西洋哲学の主張となった。ハイデッガーは、プラトンをして「存在の最初の隠蔽者」とした。古代ギリシアに発するこのような理性の哲学から、デカルトに始まる近代の理性の哲学が生まれた。
  • イオニアの自然哲学においては、自然を重要なものとしているにもかかわらず、そこには「太陽」がはいっていない。ヨーロッパ人は、自分たちの文明に対するエジプト文明(=太陽の神ラーを最も崇拝)を無視しようとしている。が、ギリシア文明もユダヤ文明も、エジプト文明の大きな影響のもとにあったのではないか。唯一神アテンによる世界初の一神教も、古代エジプトで生まれた。モーゼの一神教も、このエジプト生まれの一神教の影響のもとに生まれたのではないか。
  • 日本人はずっと、太陽の神(=お天道様)と水の神を崇拝してきた。密教においては、大日如来が太陽の仏、観音菩薩が水の仏。

第5章 森の思想
  • 日本は、古代エジプト同様、古来より太陽と水という2つの神を崇拝してきた。それは、稲作農業が日本に入ってきた弥生時代以降の信仰であろう。それと、縄文時代以来の「草木国土悉皆成仏」の思想が結びついた。水田耕作には水が不可欠だが、その水を蓄え、絶えず川に供給し続ける機能を果たすのが「森」。こうして、「太陽と水の崇拝の思想」と「森の思想」とが結びつき、日本文化の基本を形成した。
  • 日本には縄文時代から、「神様は森にいる」という考え方があった。だから神社には必ず森(鎮守の森)がある。
  • 宮沢賢治は、父が信仰する浄土真宗には利他行がないと思い、利他行を説く日蓮宗に入信した。賢治は、仏教思想を普及する手段として詩や童画を書いた。
  • 伊藤若冲は、禅の世界を絵画で表現しようとした。若冲は、動植物における食い合い殺し合いの世界を大変華麗な世界に仕上げている。そういう世界でありながら、この世界は素晴らしい、と言おうとしているのではないか。
  • 親鸞の本質は、「歎異抄」で語られる悪人正機説にあるのではなく。「教行信証」で語られる二種回向にある。
  • ヨーロッパの思想は、牧畜と小麦農業文明が生み出した世界観に基づいている。森は文明の敵であり、木を伐り、森を破壊することによって文明が始まるという思想に導かれている。
  • 自利と利他の調和を説く思想こそが、近代西洋的な人生観に替わって、人類の思想になる必要がある。生きとし生けるものと共生する哲学が必要であり、科学や科学技術も、そのような哲学に裏付けられたものでなければならない。