[この本に学ぶ]
『儒教入門
』
土田健次郎 著
東京大学出版会(2011年)
戦後の日本人は、戦前の日本をことごとく捨て去り、180度転換した戦後体制を受容して、ほとんど完璧なまでの変身を遂げた。明治維新は、それとまったく同じように、徳川時代を否定し無視することで、世界史上類例のない革命を実現した。そしてその大変革の陰で、儒教は“封建的なるもの”として十把一絡げに捨て去られていった。
だからだろう。いま儒教(儒学)のことを学ぼうとしても、初学者に相応しい入門書が見当たらない。本書の著者は長年、早稲田大学で「儒教概論」を講じてきたが、やはり「なかなかよいテキストをみつけられないでいた」。そこで、講義メモをベースに自身で教科書を書くことにした。それが本書だという。
本サイトで前回紹介した石田梅岩にしろ、その思想は儒教の影響を大きく受けている。だから、例えば「日本人の労働観」の源流を探ろうとすると儒教の知識は不可欠なものとなる。ところが、まだまだそこかしこに儒教の遺香漂う戦前をも捨て去った戦後の日本は、人々が儒教に接するためのインフラが壊滅状態にある――という環境下、本書は非常に貴重な、ありがたい存在だといえる。
本書は、儒教の全体像を分かりやすく解説してくれているものであり、その概要は下掲「NOTE」をご参照いただくとして、ここでは本書の最終章で取り上げられている「儒教の現代的意義」について考えてみる。
著者は、儒教の現代的意義として、以下の8項目を挙げている。
- 個人に対する過剰な意味付けの緩和。社会と個人との調和
- 個人と社会の結び目としての家族の重視とそのあり方の提示
- 公に対する献身の意味を民族がはぐくんできた美意識に連結させて語ること
- 建前としては平等を標榜している現代社会でも現実には存在する上下関係への対処のしかたの提示
- 自己陶冶の再認識
- 他人との関係の円滑化、言語を補うものとしての礼
- 複数の宗教や思想の共存の基盤の形成
- アジアにおける精神的連帯の基礎の形成
筆者(馬渕)は、これらのいずれにも深く首肯するのだが、なかでも1.4.6.といった項目については、とりわけ儒教の活躍に期待したい。
江戸の初期、治世を志す者は誰もが皆、南北朝時代、戦国時代のような全国的戦乱をいかにして防ぐか、そのための秩序をどう築けばよいかに腐心した。そして、中国で隆盛していた朱子学や陽明学を学び、それを日本の風土の適した形にアレンジして、秩序構築のための思想の確立に努めた。石門心学も、先人達のそうした苦闘の末に生み出された成果のひとつだった。
儒教(儒学)は、なにせ紀元前から2000年以上の永きにわたり、ほぼ一貫して、世界屈指の大帝国の正統思想として君臨し続けてきた、比類なき実績を誇るもの。「人類がこれまでに築いた、おそらく最強の体系的政治イデオロギー」(渡辺 浩『日本政治思想史』)であり、そこには人類の至宝たる幾多の知恵が散りばめられている。そしてそれらへの理解が、治世を志す者たちの知のインフラとなり、その土俵(=共通言語)の上で、思想の切磋琢磨が行われてきた。
翻って、今日の我々を取り巻く環境を眺めてみるに、そこには、かつてと同様の秩序崩壊という深刻な問題が横たわっているにもかかわらず、はたして、それに対処していくための知の営みは抜かりなく行われているのだろうか? 社会秩序の適切な形成のためには、それを先導する思想の確立が不可欠と思われるが、テレビから流れる映像や新聞の報道を見るかぎり、思想は液状化の一途をたどり、筆者の目には、江戸にも遥かに及ばないレベルにまで退行しているように映るのだが、いかがなものだろう。

1. 儒教とは何か
- 狭義の儒教と広義の儒教
- 道家対儒家: 反道徳主義と道徳主義。「無」の思想と「有」の思想。(仏教の「虚」の思想に対する儒教の「実」の思想)
- 墨家対儒家: 儒家側の墨家攻撃として代表されるのは「兼愛説」
- 法家対儒家: 基本的には、法治主義対徳治主義。民の自主性を認めないという点で決定的に異なる。法家は儒家以上に上下秩序の厳守を説く。法家と対置した場合、儒家はむしろ国家に対する家族の優位性、個人の道徳的自立、主君と臣下の間の相互規制を説く。
- 仏教対儒教: 儒教の仏教批判=①仏教は社会的道徳や秩序をないがしろにする、②仏教は夷狄の思想であって、それゆえ中国の文化や価値観に反する、③仏教はありもしない霊魂の不滅を説く(輪廻転生)。儒教は道徳主義、現世中心主義
- 西洋近代思想対儒教: 儒教は「反平等」「反自由」の思想とされた
2. 儒教道徳
- 儒教は、実践道徳(忠、孝、悌、貞という限定された人間関係における道徳)とより抽象的な道徳(仁、義、礼、智、信という種々の人間関係に適用可能な道徳)という2つの層が重層的に存在する。「三綱五常」は、この2つの層をまとめて表現したもの。
- 三綱: 君は臣の綱、父は子の綱、夫は妻の綱。大きなものが綱、小さなものが紀。
- 五常: 四徳(仁義礼智)に「信」を加えたものが五常の道。孟子の五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)。
- 仁: 孔子が力説した儒教の最高道徳。自分の心内の欲求を自覚し、それをもとにして他者の心中をおもいやること。個人の内的欲求と社会的調和を両立させるもの。
- 「専言の仁」(諸徳を包み込んだ仁/孔子)、「偏言の仁」(他の徳と横並びの仁/孟子)。専言の仁は宇宙論的に広がり、万物を限りなく生生する徳であるとされる。万物一体の仁。
- 義: 仁は、遠心的に他者に向かって広がっていく心情のニュアンスが強い。義は、静的な秩序、あるいはその秩序を維持する心性を指し、求心的な印象をあたえる。仁と義は相補的な関係にある。
- 信: そのものが本質どおりのあり方をすること。つまり、仁、義、礼、智、それぞれの徳がその本質どおりの徳としてあることが信であって、ゆえに信は、仁、義、礼、智、それぞれにふくみ込まれている。「信」は「誠」に通じている。
- 忠と孝: 母子関係は「愛」のみ、君臣関係は「敬」のみであって、その両者を兼ねるのが父子間の「孝」である。父子間の「孝」こそは生物的愛情と制度的敬虔を統合する位置に存在する(孝経)。父子間の「孝」は、君臣関係に転移できる。孝なるがゆえに忠なりうるというのは、両者を結ぶ重要な論理。
- 儒教は、忠と孝を2つの中心とする楕円形であって、2つが重なり合って円になることはない(島田虎次)。中国では孝が優先されるのに対して、日本では忠が優先される傾向があった。
- 忠孝一致論: 中国よりも日本で目立つ。特に明治時代以降、天皇を中心とする一君万民論のもと、日本の美風として強調された。中江藤樹のように孝でくくる場合と、儒家神道のように忠で括る場合がある。
- 諫言: 儒教は上位者への単純な服従を説く教説ではない。君主への忠誠を要求しながら、同時に君主に対して諫言や教育(帝王学)を行い、天災をもとに君主の反省を求める思想でもあった。
- 忠の対象―組織か個人か: 「殉死」は日本だけのもので、中国では見られない。中国では、新たに君主に即したお世継ぎに使えることこそが「忠」。殉死の基盤には、君主と臣下の間の個人的関係、情緒的関係がある。君主への忠誠は、片思いの心情(≒男色)だと山鹿素行、山崎闇斎などの儒者は否定。
- 日本の「忠」は、主君個人よりも藩などの組織に対する色彩が強い。「押込」=主君が無能あるいは非道ならばその主君を押しこめて、別の主君を立てること。これがある程度まで公認されていた。
- 悌: 狭義には、兄に対する献身。この道徳は同時に血族内の目下の者が目上の者につかえる道徳に敷衍され、さらには親族を超えた長幼関係にまで適用されていく。
- 貞: 本来は男についても使用されたが、妻が夫に献身する道徳として定着。「貞」は未婚女性、「節」は既婚女性に対して、と使い分ける場合もある。
- 中/中庸: ①状況に応じて、過不及がないよう中央に位置すること、②不動の中心に中(あた)ること。
- 和: 秩序と調和する
3. 儒教における天の意味
- 「天」には、単なる「天空」の意味もある。一定の方向性はあるが、神格はない(朱熹)。天は無口であり、天帝の遺志は、自然界や人間界の動向の中に現れるのみ。天には複数の意味があり、いずれの意味を中心に解釈するかは、儒者の思想的個性に関係する。天には「自然」の意味もある。人為を加えない自然は人間の内面の本質、人為を加えた状態は本来のものでない外からの借り物。
- 天空としての天、神としての天、理法としての天、内面の状態としての天=多様な意味を紡ぎ出せる幅を維持した。そして、天より高次の原理や神格は存在しない。
- 天の意向によって道徳内容が変更されることはない。天とは、それ自体が特別な意味を持つことはなく、物事の自然な状態こそが理想的状態であること、そして「道徳」とは、人間にとっての自然な状態であることを権威づけるために機能しているもの。
- 外面的天(政治的天): 天人相関思想は儒教の柱のひとつ。天と人を切り離してしまうと、天子たることの正当性の保証を得難くなるから。天人相関思想は、天を借りて野放図に広がる皇帝権力を規制するという効果をもった。
- 内面的天: 「天が命として人間に付与されたものが性」(礼記中庸)。天は価値の源泉ゆえ、性は善なるものとなる=性善説の論拠。
- 儒教の祭祀には「国家祭祀」と「個人祭祀」の両者がある。国家祭祀は、天子・諸候・大夫、士という実社会のヒエラルキーに並行して行われれる。社会安定を目的とするものであり、個人の魂の救済には直接結び付かない。個人祭祀は、それぞれの家で父祖の祭祀として行われる。儒教では個人祭祀の場合も家族を媒介とし、個人が個人として天なり神に向かいあうという場面は多くない。祭祀の対象は、祭祀を行っている時になって初めて反応してくるのであって、対象側が随時人々にかけていくのではない。
- 養子の否定: 親の気が子に伝わるゆえに親と子とは気が同じであって「父子一気」、それゆえ子の気に故人の気が感応できる。だから養子は否定される。
- 死: 人間は気が集まって生まれ、散ずれば死ぬ。気とは生命力的エネルギー。気が散ずるというのは、陽の気(魂)と陰の気(魄)とが分離すること。理は気の上に泊まるもの。気は死んでもすぐには散りつくさないので、祭祀をすると理が反応する。
4. 儒教思想の基本型
- 陰陽: 明るく動的な面と、暗く静的な面を示す原理。相互変化(消長/陰から陽へ、陽から陰へと相互に変化する)と相互作用(感応/陰と陽とが反応しあう)。
- 五行: 木、火、土、金、水。万物を構成する素材を示す概念。陰陽五行は「気」である。気とは、万物を構成する物質であり生命力的エネルギー。日常の運動作用はすべて気のエネルギー
- 性善説=天人合一論、性悪説/性無善悪説=天人分離論。性悪説(荀子)=単なる生まれつきのままでは禽獣のようになってしまうので、後天的努力によって自己を向上させる必要を強調。
- 人間の本性は「性」、具体的に心が動く状態は「情」、情の内で特に波立つものが「欲」。儒教の基本は禁欲主義だが、それは欲望の完全消滅を言うものではなく規制をかけるものであって、その規制の強度もかなり幅がある。
- 感情の3分類
- 道徳的感情:四端の心=惻隠の心、羞悪の心、辞譲の心、是非の心
- 道徳的にも不道徳にもなりうる感情:七情=喜、怒、哀、懼、愛、悪、欲
- 道徳的に警戒あるいは否定されるべき欲望:飲食男女=飲食、男女
5. 儒教的人格
- 「修己治人」(大学):自己の修養と他社の感化を同時に行うのが儒教
- 三綱領:「明明徳」(明徳を明らかにす/個人の修養)、「新民」(民を新たにす/他者の感化)、「止至善」(至善に止まる/前二者が全うされた結果全てが本来あるべき場所に位置すること)
- 八条目:格物、到知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下。万人がそれぞれのつとめを果たすことで「平天下」に貢献する。
- 人々が聖人を目指す時に必須なのが「学問」と「修養」。学問とは経書の学習。朱熹が説いた修養法は「敬」。心を敬虔にして対象に集中させることで、心が本来もっている善なる機能を全開しようというもの。
6. 儒教の規範
- 中国の法とは律令。律=刑法、令=行政法。ローマ法は民法が発達したが、中国の法は刑法が代名詞。「政治で導き、刑で秩序あらしめようとすれば、民は逃れても恥じない。徳で導き、礼で秩序立てれば、民は廉恥心を起こして改心する」(論語)。法は他律的だが、礼は自律的。
- 礼は、家族以外にも及ぶものだが、家族の礼が重きを占める。礼教社会は、家族主義、宗族主義と重なる。
- 儒教は死者の再生を認めない。巫術から脱却したがゆえに儒教たりえている。
7. 儒教の社会観・政治観
- 徳治主義: 儒教の理想的政治は、王者の徳による統治である「徳治」。士大夫の有徳は、経書の学習経験によって保証される。
- 公と私: 中国における公/私の境目は、社会/家の意味合いが強い。家族個人主義=家が私であって、それらの私が細胞のように限りなく並んでいる世界。日本における「公」は、家族(私)と勤務先(公)、勤務先(私)と国家(公)という具合に外へ外へと拡大していく。
- 忠と孝: 中国では孝が優先する傾向あり。日本では両者同等かむしろ忠が優先。
- 革命: 革命とは「天命が改まる」こと。民心の動向は天の意思の現れであって、民が王から離反し、別の人間を推戴するようになったときは、その王を討伐して政権を取ってもよい(孟子)。
8. 儒教の地域的/時代的変容
- 家職: 日本における家は、血統だけで存立するのではなく、社会の中での職掌の継承でもある。「家元制度」などの擬血縁結合。
- 日本では「公」の観念が外へ外へと拡大。これが、より上位の集団への献身へと移行していくことを容易にした。家族を超えた「孝」の拡大、「忠」の拡大。→「全体への孝」(中江藤樹)。忠孝一致論。
9. 現代における儒教