ダイアローグ160927

日本版“禁欲的プロテスタンティズム”の構造


[この本に学ぶ]
勤勉の哲学――日本人を動かす原理
山本七平 
PHP文庫(1984年) 


勤勉の哲学 山本七平
「日本人はなぜ勤勉なのか。…一体その思想はどのように形成され、どのような影響を与え、どのようにして現在に結果しているのであろうか」。それを探求したのが、知の巨人・小室直樹をして「日本社会科学が産んだ最高業績の一つ」と言わしめた、山本七平の『勤勉の哲学――日本人を動かす原理』だ。

冒頭の「問い」に対する答えを、浅学の筆者が簡潔明瞭に齟齬なく示すのは多くの困難を伴うため、下掲の「NOTE」を参考にしていただくとともに、ぜひご自身で本書を紐解いていただければと思うが、「日本社会科学が産んだ最高業績の一つ」を、難解がゆえに埋もれさせてはならじと、小室氏は本書に85ページにも及ぶ異例の「解説」文を寄稿。本書の理解に必要となる、さまざまな背景知識を懇切丁寧に説明してくれている(=下掲の「NOTE」ご参照)。

本書は、本サイトで以前ご紹介した『日本資本主義の精神』と同じ1979年、同書に引き続き刊行されており、同書で紹介された鈴木正三と石田梅岩という2人の思想家の思想をさらに詳しく分析する、という枠組みの下に書かれている。

冒頭の「問い」に対する答えを、全く不十分ながら、ごくごく概括的に整理すると――。

正三、梅岩はともに、「宇宙の根本秩序」と「人間の内心の秩序」と「社会秩序」の基本は一つであり、後の二者が「宇宙の根本的秩序」に即応すれば、安心立命と社会秩序の二つは同一の合理性の下に保証されるはず、と考えた。そこでこの二つをつなぐ手段として、正三は「農業則仏行なり」「何の事業も皆仏行なり」と説き、労働を「成仏の方法」と位置づけた。梅岩は、正三のこの考えをさらに「消費」の方向へと発展させた。つまり「倹約」を行うことが、「虚栄」をなくすことへと繋がり、消費を「生まれながらの正直」な姿に整えると説いた。

つまり、仏行を行うように仕事に励み、そして倹約に努めることが、自分自身の心の安定・充足を得るとともに、家族をはじめとする皆が安心して暮らせる社会づくりの役に立つ。だから一生懸命に働く。まるで修行をするように、道を究めるように。それは、単に生活の糧を得るための手段を超えた、自らを磨く修練に他ならない――これがおおむね「日本人を動かす原理=勤勉の哲学」の骨子だといえよう。

この「日本人を動かす原理」は、マックス・ウェーバー言うところの、近代資本主義の精神を生み出した禁欲的プロテスタンティズムとほとんど符合するものであり、それが故に日本は、非キリスト教圏の国として世界に先駆けて近代資本主義国家になることができた(その良し悪しは別にして)。

もちろん、そこには問題もある。そして、戦後体制のもと、現在もなお私たちは、この「日本人を動かす原理」に起因する大きな問題に直面している、と著者は指摘する。が、残念ながら本書では、まずは「原理の解明」が中心テーマとなっており、それがどんな問題を含み、今日に至っているかについては、「これはこれで稿を改めるべき大きな問題」として、ほんのサワリ程度にしか触れられていない。

日本人に限らず、エートス(=外面的な行動類型式と、それを内面から支える、あるいは押し進める意識形態、あるいは観念形態としての内面的な行動類型とをあわせたもの)そのものは変わらない。明治維新や戦後体制といった巨大な変化が加わっても、エートス(社会構造)はだけは決して変わることがない。

そしてそれは、一切の秩序の基礎を「日本的風土」という自然秩序におき、同時に人間の精神的秩序もこれを基礎として、この風土的秩序としての自然と、精神的秩序としての自然の間に社会的秩序をおき、この3つの秩序が「自然」という概念で一体化できる状態を理想と考える、「自然神教」的なものと捉えることができよう。

私たちはこのエートスの上に、いま、正三・梅岩を源流とする「日本資本主義の精神」をどの位置づけることにより、精神的秩序・社会秩序の方向づけを行っていくべきなのか――。それは、巷間かまびすしい“ワークライフ・バランス”といった皮相な議論からは答えを見いだすことのできない、「労働」と「消費」に関わる日本人としての深甚なる精神の問題だといえよう。



第1章  勤勉の哲学以前
  • 外来思想の渡来以前: 文字なき思想・言葉なき思想。四季という一回帰年に順応する思想。自然的秩序に即応して労働することが、自己と子孫の継続的生存を可能にし、その自然的継続的秩序に社会秩序もまた即応すべきと考えた。→自然に従うことが「法」。「不自然」は罪悪。
  • 中国思想の輸入最盛期: 587年(仏教受容)~894年(遣唐使の廃止)=中国における「三教合一論」の最盛期・完成期。三教合一的発想を単一の発想として、「権威」として受け入れた。
  • 日本の大きな特徴は、「文字なき思想」を脱したときに、宗教混淆を正統主義としたこと。従来からの自然順応状態の生み出した思想は、中国の三教合一論の基本となっている「自然法」により再把握され、一種の「内心の秩序としての自然」という考え方を基とする思想へと発展した。
  • 自然神教: 意志的に創出されたのではなく、「ごく自然にそうなる」という状態を一つの秩序(コスモス)の基礎におく発想。「化為(なる)」という発想。一切の秩序の基礎を「日本的風土」という自然秩序におき、同時に人間の精神的秩序もこれを基礎として、この風土的秩序としての自然と、精神的秩序としての自然の間に社会的秩序をおき、この3つの秩序が「自然」という概念で一体化できる状態を理想と考える。
  • 文知の時代: 1620年~。文知=「思想の統治」「日本人的思想による統治」
第2章  “肯定的戒命”と治教一致
  • 戦国時代は、あらゆる面で「取引」が行われ、そこには一種の強烈な「個」の意識があった(『平家物語』に描かれるような「一族が一個人」は、失われた状態への美化と詠嘆)。この粗暴なる「個」と、日本という「全体」とをいかなる関係に置けば秩序が確立できるか、が時代の要請。
  • 排キリシタン思想の基本: 宇宙の秩序の基本を「親と子」と家族に置き、また人は「天=父、地=母」の子でこの両親から「正気」を受けているから尊い。この「天地の秩序」とその「正気を受けた」人の内心の秩序はともに「親子の間」の秩序で、これがすべての秩序の基礎である。「…日本は神国・仏国にして、神と尚び仏を敬ひ、仁義の道(儒教)を専らにして、善悪の法を匡す…」(伴天連追放の文)
  • 階層的・家族的秩序: 宇宙すなわち天地は父母であり、人はその子であり、同時に日本は一家のようなものであるから、人はすぐその上にいる父母を天とし、父母である家臣はその主君を天とする形で、その「次第次第」を上へ上へと絶対化していく形で、これを秩序づけようという発想。
  • 階層的・家族的秩序は、一種の「集団主義」。「個」と自分の所属集団との間の摩擦は、家族的関係として処理されるべきであり、最終的には個人の「内心の問題」として処理される。実際的治療方法(=三毒による病気の治療)は、「倒錯」を転回さすこと。心理的転回によって自己を現状に適応させ、外部の秩序と内部の秩序との平衡関係を維持する。この転回は「個」の意識によって行われる。
  • 否定的戒命: 「してはならないこと」と、それをした場合の罰則を規定。例)モーゼの十戒。律する対象は「行為」。禁じられた行為以外は、何を考え、何をしようと本人の自由。
  • 肯定的戒命と治教一致: 人々の発想を制限することにより、結果として秩序を成り立たせ、そこに住む人間の内心の秩序と社会の秩序との間に矛盾を感じさせないという形でこれを統治する行き方。「治」は「教」の成果として自然に生成される。=徳治主義。代表的な論者は新井白石。
第3章  日本的思想の枠組
  • 一種の自然法思想である儒釈道三教合一論が「人は自然法どおりに生きればよい」との思想を生み、あらゆる外来思想を「自然法どおりに生きること」を達成するための方法論と見る思想を生んだ。
  • この思想は今日まで続いている。例えば「自然・不自然」という概念。これには「自然(じねん)」という要素も入っており、ときの経過とともにある状態に「化為(なる)」のが最上であり、一切の「作為(さくい)」は悪と考える。=日本的自然法的意識。ごく自然な人間らしい生き方をするのが「善」、それの招来を阻害するのが「悪」。
  • 心学: 山本七平の定義するところによれば、正三も梅岩もともに「心学」(⇔西欧の「神学」に対比)。心学(ソウロロジィ)にとってはその中心的命題は常に自己に内在する何か――それは「仏性」と呼んでもいいし、「人間性」と呼んでもいい――であり、思想はあくまでも「薬=方法論」であって、思想それ自体を決して絶対視しない考え方。日本は今日に至るまで、あらゆる思想を「薬」として受容し続けている。
  • 心学とは一種のプラグマティズム。プラグマティズムの基本は「個」の自覚。その「個」の中心になるのが「心」。この「心」は、「全体」との関わりのもとにおける「個」。神学のように、「個」が他者との関わりなく外なる絶対者との対決において把握されるという意味の「個」ではない。
  • 日本人にとって「新約聖書」は「新薬聖書」。単なる薬の1つであり、「殉教」という概念は成り立ちえない。
  • 鈴木正三『万民徳用』: 「仏法則世法なり」。士農工商としての各人が「ごく自然に人間らしい生活」ができるよう社会の中で自己を位置付ける方法論=心学としての活用。「己をかへりみて己をしれ」=自己の内なる万人共通の「人間性」を知れ。「個の把握」はそのまま「人類全体の把握」になるはず。「個」と「全体」との調和を阻害すうものは「邪悪=病」。
第4章  鈴木正三と日本的資本主義の精神
  • 貪瞋痴(とんしんち)の「三毒」: 貪欲(とんよく)=自分だけ良ければいいという欲求。瞋恚(しんい)=他人の成功をうらやむ、妬み。愚痴=自分の思い通りにならないことをこぼす
  • 「個」の平等と社会秩序との関係: 境遇の違いは「先世の業因」による。この世における自己の位置を招来したものは前世における自分の行為の結果=「自己の責任」。
  • 「農業則仏行なり」「何の事業も皆仏行なり」: この考えは労働を宗教的救済の方法と見、これに徹する者ほど精神的に健康と規定しているわけで、これが日本人の農業観・労働観・職業観の基礎をなし、同時に日本的資本主義の基礎となっている。この「成仏の方法=仕事」という発想はおそらく日本独特のもの。
  • 仏法則世法: 「世俗秩序」と「神聖秩序」の分離を否定(⇔キリスト教の「教会の壁の中」は別の秩序)。→神聖秩序を基に世俗秩序を非難し改革しようという発想の基盤がなくなり、現体制の否応なき絶対支持に陥る。例)戦前の「超国家主義」が戦後、一変して「超戦後主義」に。何の事業も仏行となれば、結局、脱宗教体制への実質的移行となる。
  • 「己を知れ」=自己の内なる「本有の自性=人間性」への把握と自覚=「信仰」=自身を信じるということは、仏の心を信じること ⇔ 「自分が信じられない」=自己の内なる人間性(仏性)が信じられない
第5章  日本人の仕事観
  • 本人が「私が悪かった」と言い、相手が「いや社会が悪いのだ」といえば万事は落着する。これが正三における「個」および「個と社会との関係」の把握の方法。人心には本心と悪心とがあり、本心になるのが成仏。日本人は性善説というよりも「性仏説」と言った方が適切か。
  • 日本人の職業観は「道」に通ずる。農業は、剣道や書道と同様、一種の悟りに達する「農道」であり、そう考えることによって、労働の中に「生きがい」を見いだしていく。あらゆる職業人は「芸術家」といえる。
  • 「売買せん人は先得利の益すべき心づかいを修行すべし」。修行すべき「心づかい」とは「一筋に正直を学ぶべし」。正直・不正直の判定は一に「私心」の有無にある。内心で何かを企む「私心ある証言」は真実の証言でも正直でなく、たとえ偽証でも「私心なき偽証」は正直。
  • 正三は「商業則仏行」とは規定していない。商売を進めるにあたっては、「有漏善」ではなく「無漏善」でなくてはならない。「一筋に国土のため万人のためを思ひ」、「諸人の心に叫ふ」ようにさまざまの地のあらゆる物資を円滑に流通させ、その仕入れ・販売のため「国々をめぐることは、業障を尽くすべき修行なり」と考えよ。
  • 日本人の「仕方がない」: 「仕方がない、ま、一生懸命働くことにしよう」。
  • 日本人の「反省せよ」: 裁きは一に「内なる自分の心が心を裁く」べきこと。反省せよは「自分で自分を裁け」の意。正三は「天罰」「因果応報」を前提としている。本人が本当に反省し罪を自覚し「悪心の根」を自ら断ち切っているなら処刑の必要はない、と考える。
第6章  世法・仏法と正三
  • 正三は、処方としての宗教の任務を否定はしない。「薬・磨種」すなわち方法論としての価値は認め、「回心」もないのにその分別・道理を否定する者を厳しく否定する。その方法論を諸思想の修得のみに求めず、修行としての労働においた。正三も梅岩も、一方で他方を否定することはしない。
第7章  正三・梅岩とその思想背景
  • 人間は平等であり、現世の階級は一種の「職能」。政権は武士が担当し、その下で「医し」を行うことによって秩序維持を図るのが僧侶の役目。それは一種の「仏法体制」と呼べるものであり、それがプラグマティズムを生み、日本的資本主義の精神を形成した。
  • 正三のような発想が精神面から、寺請制度が制度の面から、ともに併行して日本の脱宗教体制・近代的世俗化を推進した。
第8章  石田梅岩の世界観
  • 無知の聖人=赤子: 「草木は天にたがわざるに因りて、教えはいらず。人は喜怒哀楽の情に因りて、天命にそむく。故に教えをなして人の道に入れしむ」。≒エデンの園において知恵の実を食う前の人間の始祖の始原的状態
  • 絶対善: 「浄土といえども我が心のことなり」と規定し、これを「内心の実在」としても、各人の外にある「外的な実在」とはしていない。いわば、この現実の世界が仏土であり、それを仏土とするもしないも本心の一念である。「仏」という概念は、人格的な「大医王」ではなく、本人の内なる状態。正三の「先世の業因」という考え方も否定。
  • 梅岩のいう「善」とは、宇宙の継続的秩序といった意味。それはいわば「絶対善」であり、「善・悪」という対立的概念とは別物。孟子のいう「性善説」における「善」もこの絶対善と規定。
  • 「赤子トモ云ツベシ」心境と現実生活における実践倫理とをどう関係づけるか →「絶対善」なるものを基礎とした社会倫理の樹立が必要 =町人の「実践的日常倫理」乃至は「経営哲学」
第9章  “理屈屋”梅岩の実践的日常倫理
  • 人間の「思想」は常に、自己の内なる合理性と外なる合理性との関係を、どのように把握するかある。梅岩にとって、「宇宙の秩序」どおりに生きることは、「内なる合理性」と「外なる合理性」の一致の基礎だった。そしてそれを一致さすための方法論を「日常性」に置いた。
  • 人間には必ず「内省」があり、この内省によって自分の「心」を常に検討している。つまり「知ル心」をさらに「知ル心」があることになる。この「二心」を「本心」の方へ一体化することが「本心を知る」ということ。つまり「自然の秩序」にあるか否かを検討している自分も、検討されている自分も、共に自然の秩序の中井にあることを悟るという形で、二心を一体化した状態に到達する。
  • 「性は目なしにこそあれ」=回心(心学では「発明」):無自覚的に本心の言うままに生きている状態。実践倫理としては、欲を離れ、私欲なき状態になることに「学問の土台を立つべし」と考えた。
  • 形が心: それぞれの「形」が生物の生き方・感じ方の基本を定める、という考え。人は労働によって食を得る「形」に生まれている生物であり、その心を持つがゆえに、労働をすれば「心は安楽になる」ということは、これは一種の本能的な行為であるがゆえに、それが自然に対応する秩序であり、同時に社会秩序のもととなる。それを具体的な形として表したものが「礼」。
第10章 勤勉の哲学
  • 「倹約をいふは畢竟身を修め家を斉えん為也」。「宇宙の根本的秩序」と「人間の内心の秩序」と「社会秩序」の基本は1つであり、後の2者が「宇宙の根本秩序」と即応すれば、安心立命と社会秩序の2つが同一の合理性のもとに保証されるはず。この二つをつなぐ手段として、梅岩は「倹約」をとりあげた。
  • 名聞・利欲・色欲は愚痴・虚構の世界 →虚構を捨て倹約に努める →結果として資本の蓄積を招来
  • 正三は「働く」ということを成仏の手段とした。梅岩はこの考えを「消費」の方向へと発展させた。梅岩は「消費」を「正直」に到達する手段とし、その手段として行う消費の方法を倹約といった。ここでいう「正直」とは「生まれながらの正直」。ありのままの姿。正三の貪瞋痴の三毒に「虚栄」という一毒が加わった状態に対する「医し」の方法論。
第11章 石門心学と後継者たち
  • 神儒仏: 梅岩の思想は、「神」が中心で、規範としての「儒」があり、「仏」には儒との合一性を基本とした一種の心理療法的な効果しか認めず、いわば「薬効」しか期待していなかった。「仏国」という意識はなく、「神国」の方が明確に表に出てきて、一種、民族主義的な面が見られる。
  • 「宗教は貨幣なり」。三教合一論を極限まで押し進めた一種の脱宗教思想ともいえる。
  • 梅岩没後の石門心学: 梅岩の思想が箴言化。安易な処世訓として、ずんずん民衆の間に浸透した。
  • 「固定した秩序の中でいかに生きるべきか」が主題となり、変革を求める思想が皆無となっていった。現状肯定、秩序維持、その中での各人の心構えや生き甲斐の探求という保守思想になってしまった。→明治維新も、実質的には石門心学的秩序の明治版に。→戦後体制も、石門心学戦後版に。=戦後体制の絶対化 ←正三にも梅岩にも「歴史」意識が欠けていた。
第12章 日本人の心学的科学観
  • 布施松翁「機会装置=からくり論」
  • 鎌田柳泓“進化論”
  • 明治は、ちょうど戦後の日本人が戦前を無視するような形で徳川時代を否定し無視したが、それをすることによって逆に過去の思想の再把握ができなくなり、その明治版へと落ち着いていき、戦後もこれと同じ行き方をした。
  • 日本人の底流をなす思想は「禅」。禅と心学とは、名を異にしても同じ。農業もすべての事業もまた消費も、それを行うのは禅の修行と同じことであるという発想であり、この“仲継”となったものが“剣禅一如”といった武士的発想。→「世俗の倫理としての禅」。その体系化には儒教が活用されたが、あくまでも援用であり、断章取義。→世俗化、箴言化 →石門心学的秩序の固定化


解 説  (小室直樹)
  • 近代資本主義を生み出したのは「資本主義の精神」である(ウェーバー)。資本主義は、それに相応しい「人間類型(ヒューマン・タイプ)」が形成されないことには、生まれてくることはできない(大塚久雄)。
  • 現代の経済学が前提とする「経済人」=ロビンソン・クルーソー的人間類型=目的合理的、伝統主義と魔術から自由 ⇔ 前近代的商業の本質は「投機」
  • ウェーバーにおける「資本主義の精神」の中心をなすエートスは「世俗内禁欲」。エートスとは、外面的な行動だけでなく、内面的な行動(=外面的な行動様式を内面から支える意識形態)をも含む行動様式。
  • 中世カトリック修道院における禁欲生活は。合理的で計画化されたもの。修道院の内と外では根本的に異なる二元規範の世界 →カルヴィニズムなどの禁欲的プロテスタントは、すべての俗人にレヴェルの高い規範を要求=万人司祭主義=世俗的禁欲 →資本主義の精神を形成
  • 禁欲の目標は、意識的、覚醒的かつ明哲な生活をなしうることであって、これに従う人々の生活態度に秩序あらしめることがその最も重要な手段となった。神は、意識的な理性で対決すべきもの。「行為による救い」。
  • 社会構造が大きく変わっても「社会構造」は不変。禁欲的プロテスタンティズムの禁欲によるエートスの変換は、世界史上唯一の例外。
  • 禁欲的プロテスタントと正三・梅岩の一致点: 世俗内における職業的労働を宗教的行為とみていて、それを実行することによって救済に至りうると確信している。
  • 正三における勤勉と覚り: 両者の関係は、因果関係ではなく、即時的同一。これは仏教的論理ではなく、日本独特のもの。⇔キリスト教における救済は、神の「恩恵」を得ること。禁欲はその恩恵を得るための方法。労働によって得られる満足感は、自分はすでに恩恵が与えられている、乃至は、将来与えられるであろうと信ずることができるということ。労働と救済との関係=下図
  • プロテスタンティズムの信徒たちは、私欲のためではなく、隣人愛の実践として一生懸命に仕事をした=正三の思想も同じ。ただし正三のいう「正直」は「私心のないこと」を意味し、両者の意味は大きく異なる。
  • 前近代社会においては、商人と盗賊の区別はなかった。海軍と海賊の区別はなかった。正三は、ただ世の人のために一生懸命働いた結果としての利潤だけを是認した=近代資本主義の独立宣言=近代資本主義が作動するためには、経済活動が規範化されなければならない。
  • 勤労を要請する宗教的前提: ピューリタンは、唯一絶対的人格神による要請。梅岩の場合は「社会秩序維持」の要請。正三・梅岩の宗教に「神」は存在せず、そこに在るものは心(soul)である。
  • 日本資本主義の特異点:
    ①職業および組織間移動の困難性
    ②契約の不在=誠意をもって協議する
  • 革命思想にならない正三・梅岩の思想: 革命の論理は、人間社会の外に絶対者を求め、彼に座標軸を設定させる必要がある。