[この本に学ぶ]
『
神々の明治維新――神仏分離と廃仏毀釈』
安丸良夫 著
岩波書店(1979年)
Facebookの「プロフィール・ページ」の基本データには、入力項目として次の8つが設けられている。①誕生日、②誕生年、③性別、④血液型、⑤恋愛対象、⑥言語、⑦宗教・信仰、⑧政治観――。だが、たいがいの日本人は「⑦宗教・信仰」「⑧政治観」を入力することに戸惑いを覚えるのではないか。なにせ子供の頃から「政治と宗教の話はタブー」と教え込まれてきているのだから。が、アメリカ文化を基盤とするFacebookの世界では、この2つは、自己紹介にあたっての「基本データ」と位置づけられるものらしい。ちなみに余談だが、⑤の恋愛対象は「恋愛対象の性別」を設定するもので、このあたりにもアメリカらしさが漂っている(あるいは、これらにはもっと別の意図が潜んでいるのか?)。
さて、私たちの社会では、なぜ「政治と宗教の話はタブー」と言われてきたのだろう? こうした“タブーの背景”を突きとめることは、日本の組織文化の特性を知る上でもきわめて重要と思われるが、本書『神々の明治維新』は、こうした疑問にも有力な手がかりを与えてくれる。
著者はまず、私のFacebookに対するものと同様の問題意識を、次のような例によって投げかける。
…日常的には神社崇拝とほとんど無縁な私たちではあるが、元旦や結婚式や家屋の新築などに関しては、神社神道の世話にならないと、どこかおさまりが悪く、内心おちつきと安らぎがえられないらしい。…これらの宗教的行為がふかい宗教性なしになされるのは、その由来からしても当然のことなのである。ふかい内省なしに、雑多な宗教的なものがほとんど習慣化して受容されている、といえよう。そして、ほとんど無自覚のうちにそのなかに住むことを強要してくる習俗的なものが圧倒的に優勢で、そこからはみだすとおちつかなくなり、ついにはほとんど神経症的な不安にさえとりつかれてしまうところに、私たちの社会の過剰同調的な特質があるのであろう。
そして著者は、私たちの社会のこうした体質をつくりあげた動因として、「神仏分離」と「廃仏毀釈」が大きな影響を及ぼしたことを指摘する。これにより、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた、というのだ。
その説明を簡潔にまとめるのは困難だが、上掲の「…これらの宗教的行為がふかい宗教性なしになされるのは、その由来からしても当然のこと」の部分につき、その“由来”だけを簡単に記すと――。祭政一致や神祇官制のもとに実現がめざされた「神道国教体制」は短期間のうちに失敗に終わり、それは結果的には、神社祭祀という儀礼的側面に後退したのちの「国家神道」によって疑似的に引き継がれた。つまり神道は、“宗教”ではなく“習俗”との位置づけで導入され、それによって「政教分離」が形式的に行われ、「信教の自由」がこれまた形式的に実現された。神道は、その“宗教性”を排除することによって始めて「国家神道」となったわけであり、そんな歴史のなかで“無宗教の日本人”は形成されていった、という次第だ。
著者がいう「…ほとんど無自覚のうちにそのなかに住むことを強要してくる習俗的なものが圧倒的に優勢で、そこからはみだすとおちつかなくなり、ついにはほとんど神経症的な不安にさえとりつかれてしまうところに、私たちの社会の過剰同調的な特質があるのであろう」という表現の中にも、私たちは、現代社会にそのまま当てはまる、日本人の特徴的性向を注意深く読み取る必要がある。なかでも“過剰同調”という言葉には、とりわけ注意が必要だ。
「神仏分離」政策は、読んで字のごとく、もともとは神と仏とを「分離」することを目的とするもので、新政府としても、朝廷に関係の深い大社寺から漸進的に進めればよいとの意向をもっていた。が、あに図らんや、蓋を開けると急速な廃仏毀釈運動へとエスカレートしてしまった、という代物。そこには、良くも悪くも“過剰同調”という日本人の性向が大きな影響を及ぼしている。今日における組織経営を考える上でも、忘れてならないキーワードといえるだろう。

Ⅰ幕藩制と宗教
1. 権力と宗教の対峙
- キリシタン禁制:江戸時代の宗教統制が、キリシタン禁制を中心に展開させていくのは、キリシタンというもののうちに、宗教がもついっさいの「反秩序性」「異端性」を集約させることができたから。「懺悔によって罪が消える」との教えでは、刑罰の効果が失われ、勧善懲悪の手段を失ってしまうから
- 中世後期に一般的な、地域的な一揆、党、惣村などの「横断的結合」は、上下の身分制的秩序編成に対立するような性格をもっていた。争いごとの「自力救済」が禁じられ、「喧嘩両成敗」が家臣団統制の重要な原理となった。
- 儒教:人間関係の全体を君主権と中核とする上下の身分制的秩序に一元的に編成する論理として相応しかった。怪・力・乱・神を語らぬ現世的教説であることも好都合だった。
- 武士道:主君の権威が神仏を超えるほどの絶対性をもつ、好都合な思想だった。
- 寺壇制・本末制:仏教はその民心掌握力ゆえに、かえって権力体系の一環に組み込まれ、国教ともいうべき地位を占めた。
- 仏教は、次のような背景のもとに民衆からも支持された。
- 仏教と祖霊祭祀とが結びついた「仏壇」が成立した。
- 多様な現生利益的祈禱と結びついた。民衆の日常生活のなかにあるさまざまな願望が、仏教の様式をかりて表出されていった。
2. 近世後期の廃仏論
- 会沢安『新論』:幕末尊王攘夷思想の代表作。対外関係の切迫のもとで国体論による人心統合の必要を強調し、そのための具体的方策を国家的規模での祭祀に求め、祭・政・教の一体化を主張した。後の教育勅語や修身教育の淵源となる性格の強い書物。
- 幕藩制社会のもと、人々は漠然とした「不安」にかられ始めていた。『新論』は、人々のこの不安の感覚に点火してそれを危機意識にまで高め、そこから状況を突破する巨大なエネルギーを引き出そうとした。
- 典礼教化:村々の産土社を底辺におき、天社・国社を頂点においた国家的祭祀の体系。キリスト教、仏教に対抗するためには、死者の魂の行方を明らかにして「幽明」を治める「祀礼」が、国家的規模で確立されねばならないとした。
- 幕藩体制のもと、宗教的世界は次の順で「反秩序的」な存在とされた。キリスト教 ≧かくれ念仏・不受不施派 ≧一向宗・日蓮宗 ≧流行神や御霊 ≧民俗信仰 ≧仏教一般
Ⅱ 発端
1. 国体神学の登場
2. 神道主義の昂揚
- 国体神学は、①記紀神話などに記された神々②皇統につらなる人々③国家に功績ある人々、を国家的に祭祀し、それによってこれらの神々の祟りを避け、その冥護を得ようという思想。日本人の神観にもたらした決定的な転換は、これらの神々をこそ祭祀すべき神々として措定し、それ以外の多様な神仏を祀るに値しない俗信、淫祀として斥けたことにあった。
- 幕末の宮中では、仏教や陰陽道や民間の俗信などが複雑に入り混じった祭儀や行事が行われていた。明治4年を画期に、宮中における神仏分離(仏教色払拭)が進んだ。
- 外国交際の発展とそれにともなうキリスト教の進出とが避けられないとすれば、それから影響されないように民衆の心を捉える信念体系の確立こそが焦眉の課題であり、そのためには、神道国教主義的な教学と教学体制を確立しなければならない、とされた。…仏教がこうした役割を果たすことが国政次元で期待されるになるのはもっと後のことであり、明治元年~3年ごろまでの情勢のなかでは、キリスト教への危機意識は、神道国教主義の昂揚へとほとんど直結していた。
Ⅲ 廃仏毀釈の展開
- 明治政府の指導者が確保したいのは、天皇を中心とする新しい民族国家への国民的忠誠心であり、国学者や神道家の祭政一致思想や復古神道的な教説は、わりきっていえば、そのためのイデオロギー的手段として採用されたものだから、国家的忠誠心を有効に確保してくれそうなどんなイデオロギーも、新政府と結びつきうる可能性があった。そこに、仏教再生の道があった。
Ⅳ 神道国教主義の展開
1. 祭祀体制の成立
- 神祇官が神祇省に格下げされ、さらに教部省に改組される制度改革により、祭政一致の理念は、現実政治の場での神政的装いをいっそう失って、天皇という至高の権力者=祭祀者による皇室祭祀という祭儀形式の次元へと後退していった。だが、神政国家的な祭政一致を主張する急進派を斥けることで、祭の次元と政の次元が区別されることになると、祭祀の体系を制度的に整備することが却って容易になった。こうして明治4-5年段階で国家による神々の祭祀は、いっそう体系的に整備されていった。
2. 国家神の地方的展開
Ⅴ 宗教生活の改編
1. “分割”の強制
2. 民俗信仰の抑圧
- 国家的祭祀の体系を地域の宗教生活の中核に持ち込むことは、その対極にいた土俗的な神仏の抑圧没落を意味していた。だが、そのさい、土俗的な神仏は、対等の敵手として抑圧されたのではなく、迷信や呪術としてされたのだった。そのため、その過程は、例えば産穢忌憚の停止、女人結界の廃止、僧侶の蓄髪・妻帯の自由などの啓蒙的改革ともあいともなっており、さらには裸体・肌ぬぎ・男女混浴・春画・性具・刺青の禁止などの風俗改良にもつらなっていた。
- 民俗信仰が猥雑な旧慣のなかに一括されて、啓蒙主義的な確信にもとづく抑圧策の前では、ひたすらに否定的にしか意味付けられなかった。こうして民間信仰の世界は、意味や価値としての自立性をあらかじめ奪われた否定的な次元として、明治政府の開化政策にむきあってしまう。
Ⅵ 大教院体制から「信教の自由」へ
1. 大・中教院と神仏合同布教
2. 「信教の自由」論の特徴
- 島地黙雷の三条教則批判:島地の趣旨は、ヨーロッパの宗教事情を踏まえた「政教分離」の主張にあった。宗教は「神為」のもので、政治権力が「造作」できるものではない。…政教の混同は鋭く批判したが、皇祖皇霊・国家の功臣・祖先などへの崇敬そのものを批判する意思はまったくなく、むしろ、神道の神々を近代的な通念と矛盾しないようなものへと救いだそうとした。時代の動向に敏感に対応していく天皇の統治こそが真の神道だとした。
- 啓蒙思想家たちの「信教の自由」論も、人間精神の自由の根源的なあらわれとして信教の自由を求めていたというよりも、政教分離の原則に立つ近代国家の制度の模倣にすぎなかった。彼らの論理では、国会の安寧や秩序の方が「信教の自由」よりも優先しており、国家の秩序と対立する異端の教派はもとより、民衆の民俗信仰的な宗教生活の大部分も、同じ立場から否定された。
- 明治8年1月に真宗四派の大教院離脱を内示し、同年5月には大教院は解散して、以降は各宗派で独自に布教することになった。そのさい、三条の教則の遵法が独自の布教活動を共約する原則とされており、むしろこうした国家のイデオロギー的要請に対して、各宗派が自ら有効性を証明してみせる自由競争が、ここから始まった。こうした日本型の政教分離は、明治15年に神官の教導職兼補が廃止されて、神官は葬儀に関与しないこととなり、教派神道の諸教派が神道から分離独立することによって、いっそう決定的となった。神道非宗教説に立つ「国家神道」は、このようにして成立した。
- 国家神道は、実際には宗教として機能しながら、神社祭祀へまで退くことで国教主義を継続しながらも、神道国教化政策の失敗と国体神学の独善性に懲りて、宗教的な意味での教説化の責任からまぬかれようとした。それは、実際には宗教として機能しながら、近代国家の制度上のタテマエとしては、儀礼や習俗だと強弁されることになった。そして、この祭儀へと後退した神道を、イデオロギー的な内実から補ったのが「教育勅語」だったが、これもまた「この勅語には世のあらゆる各派の宗旨の一を喜ばしめて他を怒らしむるの語気あるべからず」(井上毅)という原則によってつくられた。