ダイアローグ160913

「西洋」と「日本」の葛藤の狭間で


[この本に学ぶ]
近代日本思想案内
鹿野政直 
岩波書店(1999年) 


私たちが今日引き継ぐところの日本の「思想」は、幕末から大正時代にかけての時代状況のなか、どのような現実と立ち向かいながら、どのような変遷を遂げてきたのか――。それを分かりやすく概説してくれているのが、本書『近代日本思想案内』だ。

本書を読むと、それぞれの時代状況のなか、さまざまな立場の人たちが、それぞれ止むにやまれぬ想いのもと、各人の「思想」を真剣に唱え、社会に向かって働きかけてきた歴史の諸相を知ることができる。

私は、個人的にはここ20年来、いわゆる左翼思想には眉をひそめてきた方だが、本書を読んで、自身の視野の狭さを反省させられた。それは例えば、社会主義にしろ、初期のそれは、当時の国家による度を越した「近代化」政策のもとに噴出したさまざまな社会課題に対し、人間としてのあるべき姿を取り戻すためにはどうすべきか、といった切実な想いに駆られた真剣なものであり、それはそれで一面の正しさを含んだもの、と考えるに及んだからだ。

例えば、幸徳秋水の思想の根底には、「金銭=財貨がいかに人びとを苦しめ堕落させているか」との問題意識があり、それを超える制度としての社会主義に人類の未来を見いだそうとした。方法論としての社会主義の適否はともかく、「金銭=財貨」の問題は、いま現在、私たちがまさに直面する問題であり、これを克服していくための「思想」の構築を、私たちは、これら先人たちの足跡に学びながら進める必要に迫られている。

日本における「近代化」のプロセスにあって盛衰したさまざま思想は、日露戦争を境とする2つの時代にあって、それぞれ以下のような基本的構図のもとに展開されたと著者は言う。
  • 日露戦争前: 「近代化」を、西洋を本位として行うべきか、そのなかで無視されがちな伝統を本位とする姿勢で行うべきか――。「啓蒙思想」が伝統の否定のうえに西洋の摂取を主張し、「民権思想」が伝統のうちにも西洋と同質の思想をみいだしたのに対して、「国粋主義」は、近代化が圧倒的に西洋化と認識されているなかで、非西洋型の、つまりもう一つの近代化への道を示そうとした。
  • 日露戦争後: 日露戦争の勝利は、富国強兵の目標が一応達成されたことを意味し、目標の再構成への機運をもたらした。近代国家の建設に代わり、「世界的日本」の追求が新たな目標となり、対外的な積極政策が採られた。一方国内的には、国家建設のため置き去りにされていた「民権の伸長」が課題として意識されて、いわゆる「大正デモクラシー」が展開した、この二つの目標の追求は、相互間の矛盾を激化せずにはいなかった。
いずれの立場をとるにせよ、それぞれの思想の基底には、先の幸徳秋水の例にも見られるような、日本人の“まじめさ”が流れているように私には思えてならない。

その、日本人の民族意識ともいうべき“まじめさ”のようなものとは、いったい何なのか――。それを探り出すことを通じて、現代に生きる私たちにとっての働き甲斐や生き甲斐の基本構造を明らかにしたいと思っている。



1 幕末という時代
  • ペリー来航から幕府倒壊までの基調
1.「西洋」の発見
1.1.西洋の学習
1.2.西洋への対抗
1.3.中国観の転換
2.「日本」の発見
2.1.皇国意識を抱えての独立と統一の希求
2.2.割拠制と身分制を打破しての「国民」の創出
2.3.能力本位の社会への主張
  • ペリー来航は、高まりはじめていた「日本」意識を沸騰点まで駆け上らせた。「危機感」に裏付けされた「日本」意識は、しばしば実体を超えて肥大し、水戸学で打ちだされていた「皇国」意識・「神州」意識として劇発した。世界つまり水平方向への開眼は、憑むべき軸としての垂直意識つまり歴史への関心を呼び覚まし、栄光の「上世」や、独自性の体現者とみられる「天皇」への渇仰を強めた。こうして、「天下」と「異国」という平常心の関係は、「皇国」と「夷狄」という緊張感をはらむ関係へと変わった。尊王攘夷思想として凝集するこの意識は、やがて天皇をシンボルとする明治維新をもたらし、天皇制国家を造り上げるエネルギー源となった。
2 啓蒙思想
  • 文明開化: 国家建設に当たって、外観からインテリアに至るまでを規定した様式。
  • 啓蒙思想: 国家という建築物が造られるのに呼応して、その住人を造り上げることをめざした思想。啓蒙思想家たちは、「民心の改革」に向けて2つの活動に奮闘した。①目標とする国家や社会の制度・機関・学術・ものの考え方などを紹介し導入しようとした、②それらへの知見を軸として「気風」を改造しようとした。この二つを複合させつつ、人びとの視野を変えようとした。
  • 「導入」においては西洋はモデルとされ、それを体現するシヴィリゼーションの摂取に主眼がおかれ、「改造」に西洋は多分にライヴァルとされ、それと向かい合うナショナルなものの発芽・育成がめざされた。
  • 気風の改造: 西周『国民気風論』。日本人の美意識とされてきた「忠諒易直」(まごころを尽くし素直なこと)を、専制政府のもとでは「外国ノ交際始マリ…智力ヲ以テ威力ニ勝ツノ浮世」となったいまは、「無気力」の代名詞にすぎないと否定し、法意識(つまり権利意識)を高めることを気風改造の方策として提起している。
  • 啓蒙思想家たちの言論活動は、既成の価値観をあけすけに否定することで、日本の知的風土に亀裂をはしらせた。そしてそこから、唱導者たち自身が必ずしも想定していなかった“魔物”――自由民権運動が立ちあがってきた。
3 自由と平等
  • 自由民権運動は、政府が天皇制を軸とする国家整備を急ぐとき、もう一つの国家構想をもって立ち向かった運動だといえる。政府の国富国権路線に対し、民富民権路線という基本性格を有する。
4 欧化と国粋
  • 欧化と国粋: 近代化を、西洋を本位として行うべきか、そのなかで無視されがちな伝統を本位とする姿勢で行うべきかの、構想と提示の論争
  • 「啓蒙思想」が伝統の否定のうえに西洋の摂取を主張し、「民権思想」が伝統のうちにも西洋と同質の思想をみいだしたのに対して、「国粋主義」は、近代化が圧倒的に西洋化と認識されているなかで、非西洋型の、つまりもう一つの近代化への道を示そうとした。「国粋」とはnationalityの意味。それぞれの特色を生かして、世界への進出あるいは貢献を目指す思想だった。
  • 欧化主義は日本を西洋と同一化させるという文脈で、国粋主義は日本を西洋と対抗させるという文脈で、ともに日本のアジア支配の論理を準備したという側面をもつ。
5 信仰の革新
  • 仏教は、幕府という光背を失い、廃仏毀釈の嵐に曝されるとともに、原則として信教の自由が解禁されたことによって、諸宗教の一つへと相対化された。新政府は国家神道を樹立し推進し、作り変えられた神道は国教的な位置を獲得することになった。
6 国体論
  • 国体: 水戸藩士・会沢安『新論』(1825年)の記述を起源とする。民衆が外夷にたぶさかされることへの強い恐怖感があり、その彼らの心を吸収するために「国体」が強調されなければならなかった。国体論は、①天皇の一系支配、②天皇と億兆の親密性、③億兆の自発的でやむにやまれぬ奉仕心、という3つの要素を軸とする国柄、との論にゆきつく。
  • 国体論は、大日本帝国憲法(1889年)、教育勅語(1890年)で、制度と精神の天皇制として定式化された。以来、「国体」の2文字を振りかざせば沈黙を余儀なくされる、という知的風土がつくられた。
  • 民法典論争: 1890年、御雇外国人であったフランス人ボアソナードの影響下に、個人主義的な色彩の濃い民法が公布されると、民法典論争が激烈にたたかわされた。穂積八束(東大憲法学)は、国体の基礎としての家父長的な家族制度を強く擁護し、キリスト教的な個人本位の法理にたいして、祖先教の日本という構図を押しだし、廃案化に大きな影響力を及ぼした。「家」制度を家族法の中心とする民法が公布・施行されたのは1898年だった。
7 生存権・人権

8 民本主義と教養主義
  • 日露戦争の勝利は、富国強兵の目標が一応達成されたことを意味し、目標の再構成への機運をもたらした。近代国家の建設に代わり、「世界的日本」の追求が新たな目標となり、対外的な積極政策が採られた。一方国内的には、国家建設のため置き去りにされていた「民権の伸長」が課題として意識されて、いわゆる「大正デモクラシー」が展開した、この二つの目標の追求は、相互間の矛盾を激化せずにはいなかった。
  • こうした情勢を背景に、思想界でも新たな展開がさまざまに起きた。2つの基調となるのが、民本主義と教養主義、
  • 民本主義: デモクラシーの訳語で「国家の主権の活動の基本的の目標が政治上人民に在るべし」との意味で、憲法の根柢はこの民本主義にあると吉野作造は主張した。民本主義の二大綱領は、①政治の目的は一般民衆の幸福にあること、②政策の決定は一般民衆の意向によること。そしてその完成のために、言論の自由の尊重や選挙権の拡張を提言した。
  • 教養主義: 国家よりも、人生を優先させるという価値観を母胎として誕生。「愛国者」として国家にひたむきに関わることから自らを離脱させ、「人生」を主題とする思考が生じた。
9 民俗思想

10 科学思想

11 社会主義
  • 社会主義が、近代日本の社会にとってつよい衝撃力をもったのは、基本は、地主・小作関係を基軸に深く根をおろした「貧困」だった。さらに近代日本が、西欧社会に「追走」と「対抗」という2つのスタンスをとったことが、輸入の対象としてばかりでなく、西欧を超える社会構想を内包する思想として魅力的だった。
  • 日本の社会主義は、①ロシア革命以前の社会主義(初期社会主義/空想的社会主義)、②ロシア革命以降の社会主義(マルクス主義を中心とする科学的社会主義/革命を通じてその実現化をめざす)に二分される。
  • 初期社会主義の足跡:
    1. 既存の社会を否定するとともに、初めて社会主義的社会像の骨格を提示した。幸徳秋水が指導的理論家。金銭=財貨がいかに人びとを苦しめ、また堕落させているかを指摘し、それを超える制度としての社会主義に人類の未来を見ようとした。
    2. 平民社が日本史上初めて本格的に、「非戦論」を展開していった。
    3. アナキズムの母胎となった。幸徳秋水:「直接行動」論者としてアナキズムの旗頭の役割を担った。大杉栄:根っからの自由人をめざした。石川三四郎:人々の自治に根差す土の哲学ともいうべき「土民哲学」を提唱した。
  • マルクス主義:「物心一如」というようなかたちで日本の思想の伝統となっている「精神的雑居性」を原理的に否認する役割を担ったのが「明治のキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義に他ならない」(丸山真男)。日本の知識世界は初めて、社会的な現実を相互に関連づけて総合的に考察する方法を学ぶ一方、「理論信仰」という自家中毒を起こさせる原因ともなった。
12 フェミニズム

13 反戦論・平和論

14 日記・伝記・随想・書簡

むすび――戦中から戦後へ