――前回の話(≫160310)のポイントは、互恵関係に基づく共同体的な組織づくりをめざす、ということか?
そのとおりです。①家政 ②互恵 ③交換 ④再分配の4つ経済システム(=助け合いのシステム)はバランスよく組成されるべきものですが、戦後「交換」の割合が急速に拡大し、いまも拡大を続けている。例えば、本来、家庭内にあって「家政」によって営まれてきた事柄が、どんどん「交換」に置き換えられてきた。古くは、洗濯をするという機能がクリーニング店に、食事をするという機能が外食店に、家庭学習という機能が学習塾に、といった具合にアウトソーシング化が進み、家庭の機能が空洞化していった――この例に見られるように、私たちの「社会」を支える経済システムは、あらゆる面でどんどん「交換」化されてきたのです。
もちろんそれは、悪い面ばかりではありません。それによって、私たちが大きな便益を受けてきたのは紛れもない事実です。ただここで注意しなければならないのは、前回も述べた、交換という機能が本来的にもつ「精算」という性質。「交換」が必要以上に膨れ上がると、私たちの「社会」はバラバラに分断されてしまう。そして私たち個人個人は、まるで砂粒のような存在になってしまう。経済人類学者のカール・ポランニー(1886-1964)は、市場社会がもたらすこうした状況を“悪魔のひき臼”と呼んでいます。
「交換」がもつ危うい性質。それを私たち日本人は誰もが何となく肌感覚で知っており、無意識のうちに遠ざけている。いい例が、定年後のボランティア活動です。経済的にある程度ゆとりのあるサラリーマンの多くは定年後、好んでボランティア活動に熱中する。「交換」行為によって対価を得るよりも、無償で「互恵」活動に勤しむ方が満足を得られることを本能的に感じとっているからだと思います。
「互恵」は、私たちに「交換」以上の大きな満足を与えてくれる――それは何故でしょう? 答えは簡単。私が「働く」ことによって創り出された価値は、交換関係においては「○○円」という形で数量化されたうえマネーによって精算されて、はいオシマイ。私が「働く」ことの意味は、「○○円」という数字に還元されしまうため、それ以上の歓びを感じるのが困難になる。
一方、これが互恵関係においては、数字への還元が行われないため、私が「働く」ことの意味は、それをそのまま「意味」として受け取ることができる。相手が喜ぶ姿を、そのまま自分の歓びとして感じることができる。さらには「精算」というプロセスもないため、両者の関係性が断ち切られることなく継続する――そこに私たちは満足を感じるのだと思います。
私たちは民間企業における経済活動を、一見、交換=競争のただなかで行われている行為と理解しがちですが、「交換」はあくまでも対外的な取引関係におけるものであり、交換価値を生み出すための組織内活動は、実は「互恵」関係の上に営まれている(#150307)――この点への理解が、経営理念に基づく共同体的な組織づくりをめざすうえでの、ひとつの大きなポイントになると、私は考えています。