[この本に学ぶ]
『江戸の思想史 人物・方法・連環
』
田尻祐一郎著
中央公論新社(2011年)
前回取り上げた『日本資本主義の精神』で山本七平氏は、この国の経済を育てた根源的な「精神」を鈴木正三/石田梅岩の二人の思想家に見出し、今日に至るその道筋を明らかにした。その説明は、実に説得力を持つものだが、両氏の思想が江戸時代の思想史全体の中でどう位置づけられるものなのか――それを確かめるべく、本書『江戸の思想史~人物・方法・連関』を紐解いた。
結論から言うと、鈴木正三/石田梅岩の二人の思想は、決して特異な位置づけのものとはいえない。江戸時代には朱子学、陽明学、古学、国学、神学、蘭学などさまざまな思想が、それぞれ独自の展開を見せたが、それらの底流には、すべて共通したものが流れている。同じ土壌の上に異なる花を開かせている、と思えてならない。
本書の著者は、それを<人と人との繋がり>という言葉で捉えているが、鈴木正三/石田梅岩の思想を淵源とする商人哲学も、やはりそうした<日本的なるもの>の上に築かれたと見て間違いない。山本七平氏の言葉を借りれば、“共同体”化のプロセスであり、その下で醸成される“勤勉の哲学”ということになるだろう。
それで思い出したのは、今年5月に開催された伊勢志摩サミットでのこと。国際メディアセンターに設けられた「三重情報館」のイベントで紹介された「伊勢型紙」が、多くの外国人記者から注目を集めた。伊勢型紙は、友禅や浴衣、小紋などの柄や文様を生地に染める際に用いられる型紙。和紙を加工した型地紙に、細かな文様が彫刻刀で丹念に彫り抜かれたものだが、そのあまりの精緻さに「とても人間技とは思えない!」と驚嘆の声が浴びせられたのだ。
江戸時代、商人たちはお客様との間に“信用”を築くことが何よりも大切と考え、より良い品の仕入れに努めた。そして職人たちは、そうした商人の要請に応えるべく、より良い品づくりに傾注した。また商人たちは、そのために倹約・勤勉・正直であることに注力した。職人たちは、自らを律し、技に磨きをかけることを誇りとした――「伊勢型紙」は、そうした商人文化/職人文化のもと、高度な技術が、根気と忍耐の極限状態にまで挑み続けた職人たちにより、千有余年の長きにわたって受け継がれ、産み出されてきた逸品だ。
本書『江戸の思想史』を読むと、武士もまた「士・百姓/町人」(いわゆる「士農工商」の身分制度は、今日ではこうした3区分が正しいとされており、百姓と町人との間には身分の上下がほとんどない)の身分体制のもと、“泰平の世”にあって「武士は何のためにあるのか」という問いに納得のゆく答えを出すことが、江戸時代を通して大きな課題となっていた。そして例えば、「日々の労働だけで精一杯の農工商の三民に対し、人倫(道)の手本を示すのが士の職だ」としたのが山鹿素行の答えであり、同じような認識のもと、自らの身を修めることに、武士もまた勤しんだのだった。
農民とて例外ではない。二宮尊徳は、農作業は太陽や大地、あるいは水、そして穀物の生命力といった自然の「慈愍(じびん)」を受け止める営みであり、自然の恵みと人間の労働の結合として、はじめて「人道」が成り立つと、その意義を唱えた。
士ならびに三民それぞれにおける労働の意味は、こうして意義づけられ、日本における“勤勉の精神”が江戸時代を通じて形づくられていった。
「経営理念」の問題に引き寄せたとき、本書でとりわけ興味を惹いたのは、日本の「イエ」は、東アジア漢字文化圏の他国で見られる「家」とは異なり、本質的には一つの“経営体”である、との指摘だ。同様の指摘は山本七平氏『日本資本主義の精神』でも為されているが、“経営体”という表現まではされていない。いわく――
- 日本の「養子」は、血縁的な連続のない者を「イエ」の保持のために後継者に選ぶこと。だが、生業や居所とは関わりなく、父祖から子孫への「気」を連続させる男系のタテの繋がりが「家」であると考える中国や朝鮮の観念からは、このような養子慣行は説明できない。
- 日本の「イエ」は、その家産・家名・家業と一体のもの、つまり本質的には一つの“経営体”であって、経営体としてのイエの維持と発展が自己目的になっている。
- 「隠居」もまた「イエ」ならではのものである。経営体としての「イエ」の維持・発展が優先されるから、活力や判断力の衰えた主人は、次の若い主人にその権能を譲ることになる。
事実、とりわけ商家では、一族としての「イエ」と、企業体としての「イエ」とが混然一体のものとなって“家族主義経営”が営まれてきた。P.F.ドラッカーが適わぬ夢として断念した“共同体としての企業組織”が立派に成立しうる文化的素地を、私たちは江戸の昔からずっと育んできた、と言っていいのではなかろうか。

序章 江戸思想の底流
- 南北朝から応仁の乱にかけて、日本社会はかつて経験をしたことのない「質的な転換」を遂げた。
- 近世世界は、生産力の飛躍的な高揚によって、人々が世俗生活(家族生活・職業生活・地域生活)を送り、そこに生きがいを見いだしていく社会であるとともに、そこでなされる社会生活と自己自身(心身)の規律化が深く進行する社会だった。
- 近世日本で広く確立した「イエ」は、東アジアの漢字文化圏で一般的にいわれる「家」とは異なった独特な構造をもっている。日本の「イエ」は、その家産・家名・家業と一体のもの、つまり本質的には一つの「経営体」であって、経営体としてのイエの維持と発展とが自己目的となっている。「養子」「隠居」などの制度もそれを反映したもの。
- 江戸は<書物の時代>。それを支えたのは高度な木版印刷技術。書物を通して人々の間に「常識」が形成され、書物によって常識に言葉が与えられた。
- 江戸の思想史を背骨のように貫くものは、「世俗的な秩序化」の意味を人々がそれぞれのせいの根拠において問い返し、よりよい生のありよう、人と人との繋がりの形を模索し希求した歴史。
第1章 宗教と国家
- <徳川の平和>は、徹底的に弾圧された宗教一揆の上に築かれたもの。世俗権力は、①権力者の「自己神格化」、②「神国」イデオロギーの構築によって、宗教一揆に対抗した。
- 「神国」の観念: 「仏の化身としての神々によって守護される神聖な国土」として神国。神仏の守護する国土の秩序を乱すものは、すべて「邪法」との論理。
- 宗教一揆は、島原・天草のキリシタン一揆が壊滅された時をもって終結。後、「寺檀制」が隅々にまで行き渡っていく。
第2章 泰平の世の武士
- 山鹿素行: 「武士の門に出生」した者は、世を治め民を安んじる責任があるから、「身を修」めなければならない(=朱子学を批判)。「職業」としての日々の労働に精一杯である「農工商」の三民に「人倫」の手本を示すのが「士の職」だ。
第3章 禅と儒教
- 仏教が築いてきた厚みはやはり圧倒的に偉大なものであり、江戸時代の初頭においても、<人間とは何か>という根源的な問題に突き当たった時、人々は、禅をはじめとする仏教から学ぶことで、自らの思索を深めようとした。藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎はいずれも臨済宗の名刹で禅の修行をすることから学問を始めている。
- 「敬」は、朱子学では「動静」を貫く工夫として重んじられた。「心」が緊張と熱量を湛えながら静かに止まっている次元(未発)と、「心」の発現・躍動の次元(己発)と、その二つを一貫して、「心」をあるべきものに保つのが「敬」の工夫である。
- 現実の「心」は不自由で不確実である。それは、本来の自由で活発霊妙な「心」が、自分の中の何ものかによって縛られているから。禅も儒教もそれを「自力」の立場で突破しようとした。禅は自ら「悟る」ことにより、儒教は自ら「学び修める」ことにより。
- 中江藤樹: 藤樹の本領は、宇宙的な生命と自己が一体であることを「孝」において直感するところにあったが、そこから、人間としての生き方や社会の規範には不変の形が定まっているのではなく、宇宙大の生命を、時代や状況の中で生かすことが大切だと考えた。「心迹(しんせき:本質と形式)の差別」「時処位の至善」
- 山崎闇斎: 「人の一身に五倫備わる」。私たちが何か行動するのは、必ず人間関係の網の目の中で、ある役割を担ってのことである。私がいて役割を担うのではなく、時と場合に応じた役割の総体が私だと言っていい。禅の捉える「心」の様態は、人間は社会的(人倫的)な存在としてはじめて人間であるという事実を見失ったその出発からして誤っている。
- 熊沢蕃山: 経世論とは、「経世済民」、世を経(おさ)め、民を済(すく)うための統治論で、ある体系をもって経世論が展開されるのは蕃山から。池田光政、保科正之、徳川光圀といった名君が、藩政確立のための強固な理論を求めたことも経世論の展開を促した。
- 伊藤仁斎: 朱子学は、仏教(禅)に対抗すべき深遠な枠組みを構築して、そこから無理に『論語』や『孟子』を再解釈しようとした試みであって、それは『論語』や『孟子』の意義を殺してしまう。孔子や孟子が説いているのは、朱子学のような思弁的・抽象的な体系ではなく、より平易で卑近な、日常生活に即した教えであるとして、朱子学を徹底的に批判した。
- 荻生徂徠: 漢文を「和訓廻環の読」(訓読)することに異を称え、「六経」を、平明な日本語、人情に近い適切な日本語に「訳」して理解することを主張した(古文辞学)。
第5章 仁斎と徂徠②
- 伊藤仁斎: これまで父子や兄弟は、もっぱら「気」の連続という面で語られてきたが、仁斎は、たとえ父子や兄弟であっても別個の人格だとし、それらを繋ぐのが「四端の心」だとした。
- 仁斎ほど、「寛容」とともに「卑近」の意義を力説した思想家はいない。大事なことはすべて「卑近」にあって、「卑近」から離れた「高遠」は偽物だと述べる。父子の親愛をはじめとして、すべては「愛」の「実心」から出てくる限りで意味をもつので、普遍的な「愛」に裏打ちされない差等愛は「偽」だとされる。
- 荻生徂徠: 「先王の道は先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり」。江戸の社会は綱吉の頃より大きく変容を遂げ、貨幣・商品・市場の力が浸透して、伝統的な人間関係が、人々の気付かないうちに解体を始めたと見る。「面々構」
第6章 啓蒙と実学
第7章 町人の思想・農民の思想
- 年貢高が村単位で定められ(村請制)、武士が農村に土着することはなく(城下集住)、入会地の利用、用水や山野の管理、治安や防災など、名主・組頭・百姓代など上層の農民によって農村の経営は為されていたため、このクラスの農民の経済的・文化的能力は高かった。また、農村の生活は孤立的なものでなく相互扶助的なもので、繁栄は一村全体の反映でなければならないと考えられていた。
第8章 宣長――理知を超えるもの
- 「もののあわれ」論は、儒教や仏教のような道徳的・宗教的な規範を前提に文学を論じることを戒め、文学の本質が、人間の感情表現にあることを説いたもの。理知的・ 意思的で自信に満ちた人間であっても、実はその奥には、女々しく、おどおどした、好色で愚かな実情が潜んでいるのが人間の本当の姿であり、自分にもどうしようもない弱さ、愚かさに翻弄されるのが恋であって、恋において、人はもっとも深くしみじみと「もののあわれ」を知る。その「もののあわれ」を「知る」ことが、人間らしい共感なのである。
- 理知の延長線上に神々を置いてはならない。人間的な世界(道徳や規範)から完全に切り離されて、不可思議なるもの、霊妙なるものとして神々はある。
第9章 蘭学の衝撃
- 富永中基: 「加上」説=後世になればなるほど、議論は前のものに付加された部分が重なっていくことで精緻になり、より古い時代のものを装うようになる。また教説は、歴史的に形成されるというだけでなく、精神的に風土によっても形成される。インドは「幻」=空想癖、中国は「分」=装飾癖、日本は「絞」=懐の深さや長期的な見通し、スケールの大きさに欠ける。
- 三浦梅園: 「反観合一」=「陰陽」という伝統的な範疇を用いながら、「反観」、広く客観的に対象を観察してその矛盾や対立を解きほぐす中から、それを高い次元で止揚する「一」を突きとめていく方法によって、「陰陽の面目」に接近できる。
- 司馬江漢、平賀源内、山片蟠桃らに見られるように、専門の蘭学者より、蘭学に衝撃を受けてそれをバネに個性的な思想を形成した人物において、徹底した批判精神が発揮された。
第10章 国益の追求
- 海保青陵、本田利明、佐藤信淵、ある種の蘭学者たちに共通するのは、停滞のうちに沈むアジアからの離脱・脱却しなければ日本はどうにもならないという危機感であり、国家利益の追求を至上価値とする即物的な合理主義の台頭であり、その立場からの武士支配への不満の高まりである。
- 「国益」(この言葉を儒教の古典に見ることはできない)。儒教の論理からは「武国」「強国」への志向は出てこないはず。儒教は<文>の力によって民を教え導くことが政治の本質的な役割と考えるから。
- 「経世済民」の実学も、儒教的なエトスのものから、<日本の後れ>を克服するという危機意識に立つことで、西洋をモデルとして大胆に制度や価値観の転換を主張するものへと変化した。
- 農本主義的なモデルは放棄されて、市場主義の発想が押し出されてくる。これによって、それまでの学問や思想が身に帯びていた倫理的な使命観は拭いさられ、国家利益の公然たる追求を価値とする思考法が打ち立てられた。
第11章 篤胤の神学
第12章 公論の形成――内憂と外患
- 幕末の思想は、内憂外患に揉まれながら鍛えられた。内憂とは、農村の一揆や都市の騒擾。民衆の間に「世直り」への待望が日ごとに強まっていた。「公儀の御百姓」「天下の御百姓」など、判を越えた自分たちの拠りどころを掲げて、政治的な主張を行なった。
- 大塩平八郎の乱: 幕府や知識人に計り知れない影響を与えた。
- 後期水戸学: 金沢正志斎『新論』。内憂外患の時代に、何が問題の本質であり、どのような国家として徳川体制を立て直すべきか――。定まってあるべき「民心」が浮遊していることが問題。→①「忠」と「孝」の一体化を図る(対武士階級) ②祭祀を通じて民心の統合を図る(対庶民)
- 佐藤一斎: 朱子学と陽明学の弁別よりもその「異中の同」を求めた藤原惺窩を継ぐことを標榜したが、思想的な核心は明らかに陽明学に近い。門人に渡辺崋山、佐久間象山など。『言志四録』は、西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬などに大きな影響を与えた。
- 横井小楠: 国益は、国家を超える価値としての「天地公共の実理」によって支えられていることが重要と説く。江戸の思想史において初めて、国家と国家の繋がりが何によるべきかが原理的に問い直された。
- 吉田松陰: 武士の存在意義とは何か? 「忠孝」をもって他日に報ずるのが、「三民の首」としての「士」の使命。「国の恩義」が特色。水戸学と違い、国(日本)と一人ひとりの武士が直接に向き合っている。松陰は、孔子・孟子を超えて、孔子・孟子の求めるべきであったものを求めようとした。
第13章 民衆宗教の世界