ダイアローグ191017

すべては「関係性」において存在す


[この本に学ぶ]
ホワイトヘッド『過程と実在』
   ――生命の躍動的前進を描く「有機体の哲学」
山本誠作 著
晃洋書房(2011年) 


野中郁次郎氏が説く「知識創造理論」は、「知識」を、人と人との交わりから生まれる経験と結びついて創造し生成されるもの、と捉えるところからスタートする。ここでは人と人、人と環境における「関係性」こそが、最もカギを握る概念と位置づけられているが、野中が採り入れたこの概念の提唱者がイギリスの数学者、哲学者であるホワイトヘッド(1861-1947)。つまり、世界の経営学をリードする野中の「知識創造理論」は、ホワイトヘッドが説く「有機体の哲学」を土台として組み立てられている――というわけで、「知識創造理論」をより深く理解したいとの想いで本書を紐解いた。

「知識創造理論」におけるホワイトヘッド哲学の位置づけは、野中の著書『流れを経営する』(#170823)に以下のように記されているが、これらの記述はまた、本書『ホワイトヘッド「過程と実在」』のエッセンスを理解する上でもとても有用なものゆえ、その説明も兼ねて引用させてもらうと――。キーワードは「関係性」だ。

「意味ある情報」としての知識の最大の特徴は、「人が関係性の中で作る資源である」ということである。知識は天然資源のようにだれかに発見されて回収されるのを待っている自己充足的な物的資源ではなく、人が他者あるいは環境との関係性の中で創り出すものであり、そのときの状況や知識を使う人の特質(思い、理想、主観、感情など)によってその意味や価値が異なってくる資源なのである。[『流れを経営する』P6]

知識ベース企業の理論を構築するにあたり、われわれは知識を「個人の信念が真実へと正当化されるダイナミックな社会的プロセス」と定義する。これは、知識の重要な特性はその絶対的「真実性」よりむしろ対話と実践を通して「信念を正当化する」点にあるとの考えに基づく。多様な関係性の流れの中において個々の人間が獲得する経験を基礎として、「個人の信念(思い)が人間の相互作用を通して、何が真・善・美であるかを問い続けるプロセスであり、そうした信念(主観)と正当化(客観)の相互作用にこそ知識の本質がある。[同P8]

組織における知識創造のプロセスとは、知識ビジョンなどの「どう成りたいか」という目的に動かされた成員が、互いに作用しながら自身の限界を超えて知識を創造することにより将来のビジョンを実現させるプロセスにほかならない。そして、それは結果的に自らに加えて周囲の人々も組織も環境も変化させていく。企業組織とは、そのような動的関係性、すなわち場を積極的に作り出し、その中での幅広い経験から学び、知識として蓄積し、それを用いて社会的な価値生成を持続的に行う重層的な場と捉えることもできるのである。[同P16]

本書は、きわめて難解といわれる、ホワイトヘッドの主著『過程と実在』のエッセンスをとても分かりやすく読み解いてくれるコンパクトな入門書だが、本書を読むと、野中の上記論述は、「関係性」を鍵概念とするホワイトヘッドの「有機体の哲学」(すべてのものを一つの生きた有機体とみなす考え方)を土台としたものであることがとてもよく分かる。そしてその上で、野中の「知識創造理論」を読み返すと、「ああ、なるほど、そういうことだったのか」という新たな発見が次々と湧いてくる。

本書には『生命の躍動的前進を描く「有機体の哲学」』という副題が付けられているが、ホワイトヘッドの哲学の核心は、まさにこの「有機体」的な自然観による「生命の躍動的前進」という点にある。

ホワイトヘッドは、デカルトの「思惟する我」に始まる近代主義を批判し、それを超克するための思想として「有機体の哲学」を構想した。「主観主義者原理」に基づくデカルトらの思想は、科学知識を産み出し、それによる科学技術を生み出す原動力になったとはいえ、諸事物を実体という仕方で、死んだバラバラなものとして捉える機械論的自然観、ならびに世界観の温床になったとするのがその批判であり、ホワイトヘッドはこうした世界観を「科学的唯物論」だとして糾弾する。
つまりは、人類が有史以来あたり前のものとして寄り添ってきた有機体的自然観が、近代主義の登場によって駆逐されてしまった――というわけだが、ホワイトヘッドの哲学思想とは、こうした有機体的自然観をもう一度復権して歴史の檜舞台に再登場させようとする試みに他ならない。ホワイトヘッドは言う。「生命は自由に向かっての努力である」と。「生命の躍動的前進」は、そうした「自由」と「努力」にこそあるのだ。


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序章 ポスト・モダニズムの先駆的試み
  • 資本主義的市民社会を支える3つの原理: ①個人主義、②楽観主義、③合理主義[2]
  • 3つの原理の変貌: 個人主義はむきだしの自利の追求としての孤立主義へと変質し、個と全体との楽観的な調和統一は、孤立主義と集団主義との対立へと変貌し、合理主義は、事物を主―客分離の立場で対象的に捉える表象主義の立場と、こうした立場にもとづく機械論的自然観ならびに世界観へと徹底された。[2]
  • ルネッサンス: 中世においては、宗教的なものと世俗的なものとを区別した上で、前者の後者に対する優位にもとづいて両者を総合統一しようとした。それに対してルネッサンスは、理性を信仰のくびきから解放することであり、また天上的瞑想よりも現実的世界を謳歌するという意味合いを持っていた。[4]

  • 宗教改革: 信仰を理性との結びつきから断ち切って純化し、キリスト教を宗俗の総合に由来する腐敗堕落から清めることにより、その原精神に復帰させようとする、もともと純粋に宗教的動機に発する運動だった。[4]
  • 個人主義の変貌: アダム・スミスの個人主義は、人間が道徳の一般的規則にしたがって自愛とか自利を制御することによって成立する自制の原理に基づいている。かかる個人はフェア・プレイの精神に裏打ちされているがゆえに、個人主義は共同体主義と一つに成立している。だが利己主義は、人間が自己自身の殻の中に閉じこもって、そこからすべてのものを見、判断し行為する、いわば自己内閉鎖的な孤立主義に他ならず、孤立主義―集団主義というパラダイムを生んでいった。[10]
  • 合理主義の変貌: デカルトによって先鞭をつけられた思惟する我は、誰でもあると同時に誰でもないような匿名性の我に他ならない。そして、人間をこういう仕方で認識主観として措定することによって初めて、すべてのものを死んだものとして客観視し対象的に表象しようとする機械論的自然観、物体観が成立しえた。[15]

  • 科学的唯物論: 人間疎外の根底には、人間を匿名の認識主観として立て、そこからすべてのものを死んだものとして対象化しようとする、主観―客観関係にもとづく近代的主観性の立場がある。こうした立場は、物事を知るにあたって、それを構成する諸要素に分析した上で、今度はこれらの要素を加減し自由に操作して物事を捉えようとする。[17]
  • 有機体の哲学: ホワイトヘッドにおいては、現実的実質はなんであれ、一つの生きた有機体とみなされている。個が真に個になることは、全体的秩序との調和統一において成立する。理性的思考とは、ものを死んだものとしてではなく、全体との繋がりをもった生きた一つの有機体として捉えることである。[18]
  • 独断的究極主義: 有機体的自然観は「情的理性」に基づいて成立する。機械論自然観は、より根源的で具体的な有機体的自然観から導き出される抽象物に他ならない。にもかかわらず、それがあたかも最も具体的で絶対的な立場であるかのように主張し振る舞い錯覚するところに問題の根本原因がある。ホワイトヘッドはこうした錯覚の立場を、「具体者置き違いの誤謬」にもとづく独断的究極主義と呼んでいる。[19]
第1章 ホワイトヘッドの哲学体系における『過程と実在』の位置づけ
  • 現実的実質: 現実的実質は、それ自身の環境的世界―実在―のなかに置かれて、それによって限定されつつ、自らを限定する「過程」とみなされる。そしてこの過程は、被限定即能限定的に終息にもたらされると、「消滅」し、こんどは後続する現実的実質に与件として「客体化」される。客体化されるということは、後続する現実的実質にとっての環境的世界―実在―を構成するその最終的事実となることを意味する。[26]
  • 形而上学的宇宙論: このように、現実的実質が、それ自身、「過程」でありながら「実在」となり、「実在」がまた「過程」となるということは、それが「世界」に含まれつつ、「世界」を含むことに他ならない。こうして現実的諸実質は世界によって創られながら、世界を創っていく。世界、つまり宇宙は、因となり果となって生成流転している現実的諸実質を媒介にして、絶えず自らを形成していく有機的全体である。[27]
  • 普遍的相対性: 世界のうちのどれ一つをとっても、それだけで自存しているものはないであろう。どれもみな、他のすべてのものと関係をもっている。[27]

  • 主体―自己超越体: ホワイトヘッドにおいては、主体は常に「主体―自己超越体」(subject-superject)としてのみ捉えられる。自己超越体とは、自らを越えでて後継者に客体化されるものに他ならない。[28]
  • 「新しさ」の創造: 現実的実質は、過去を記憶として保持し、未来を予想しながら、被限定即能限定的に「新しさ」を創造していく。そしてそれは、こうして創造した新しさを、それがそこから出てきた世界に付加し、貢献するのである。[29]
  • 連続性/非連続性: 現実的実質は、連続的時間的であると同時に非連続的時間的である。この相反する性質は、物理的エネルギーの流れに認められる波動性と粒子性にそれぞれ対応している。それが連続的だというのは、その置かれた過去的世界によってそのまま限定されるということ。そしてそれはその限りにおいて「物的」といえる。けれども、そこに新しさを創造していく。その限り「心的」という性格も意味している。現実的実質はどれもみな、物的と心的の両極性を具えている。[29]

  • 焦点的領域: 現実的実質を自己形成的な「焦点的領域」として絶えず創造的に前進しつつある世界も、物的であると同時に心的である。換言すれば、世界は移ろいゆく無常なものであると同時に、恒常的なものである。[30]
  • 万有在神論的: 神や人格的存在者として、世界にたいして、超越すると同時に内在する。神と世界と各現実的実質とのこうしたダイナミックな関係は、「万有在神論的」として捉えられよう。[31]
第2章 現実的実質とは何であろうか
  • 両極性: ホワイトヘッドは、AがBによって限定を受ける側面を物的(physical)と呼び、こうした限定を越え出る側面を概念的(conceptual)ないし心的(mental)と呼んでいる。したがって、石といえども物的であると同時に心的な両極性を備えている。ただ無機物においては、心性は極小に近づくが、皆無とはいえないだけである。[34]
  • エポック的時間論: 人間の経験は「今、ここでのわれ」の経験である。「今」とは、物理的時間における「一瞬時」(instant)ではなく「瞬間」(moment)のこと。瞬間は幅をもって持続する現在であり、こうした持続する現在を彼は「エポック的時間論」という形で捉えている。エポックとは、そこでは時が停止することを意味する。[35]
  • ホワイトヘッドの「われ」: ホワイトヘッドが「普遍的相対性」と呼んだ事態は、「われ」が過去的なものによって因果的に限定され、未来的なものによって目的論的に限定されながら、世界において他のすべてのものと結びつくという仕方で、その都度、世界の自己形成作用の「焦点的領域」となることを意味している。…こうした「われ」は、デカルト的な「思惟する我」でもなく、またカント的な有限的理性存在者でもない。[36]
第3章 思弁哲学と範疇の構図
  • カントの批判哲学: カントの批判哲学は、人間の認知能力を徹底的に検証することによって、その範囲と限界を明らかにした。そして人間の認知能力を現象界に限局することによって、とどのつまり、現象界とそれを超えた叡智界とを区別する二元論に陥った。ホワイトヘッドの思弁哲学の思想は、何よりもまず、こうした二元論を否定して、それにとって替わる両極性を主張した。[39]
  • ホワイトヘッドの思弁哲学: 「われわれの経験のすべての要素を解釈しうる一般的諸観念の、整合的で論理的で必然的な体系を組み立てようとする試みである」[40]
  • 現実的実質の合生過程: 現実的実質の合生過程は、①原初相、②補完相、③最終相の3つの相(phase)から成っている。現実的実質は、その合生過程において多を一へと統一していくという仕方で、それはそれであるところのもの(it is what it is)、つまり実体(substance)となり、自己を実現する。実現し終わると、それはなるほど消滅するが、このことの意味は、その主体的直接性が蒸発するにすぎない。そしてそれは、今度は、実体で「ある」(being)こととして、後続する現実的実質に与件として客体化(objectification)されるのである。…こうした仕方で、自己は他のすべての物と結びついているのである。[43]

  • 多が一になる: 「多は一となり、一つだけ増し加える」。こうした新しさの産出は、現実的実質の自己実現の結果である。その有り様は、西田哲学の言い回しを使っていえば「多即一」ということになる。そこに生成(becoming)から存在(being)への移行がある。[44]
  • 創造性: 創造性はすべてを貫いて働いている純活動であり、「すべての形相の背後にある究極的なものである」。ホワイトヘッドは、現実的実質を「自己創造的被造物」と呼んでいるが、ここで被造物とは「創造性によって創られたもの」という意味である。[45]
  • 成る―為す―ある: ①成る(現実的実質は与えられた多なる与件を、さしあたってまず、自らへと感じとる)、②為す(人間は経験の主体として、こうして感じ取られた多なるものを客体として表象し、思惟する)、③ある(現実的実質は物的なものと観念的なものとを統合することによって、自己を実現する)[46]

  • 意識: 意識は物的抱握ならびに概念的抱握と呼ばれる「いずれのタイプの抱握の主体的形式にも、必ずしも含まれていない」。意識はむしろこれら2つの抱握のコントラストのうちに現れてくる。「意識が生起するのは、総合する感じが、物的感じを概念的感じと統合する場合である」「意識は、われわれがいかにして、肯定―否定コントラストを感じるかということである」。[52]
  • 実体―属性=主語―述語: 従来の立場は意識の主体にもとづいて、ほかのすべてのものをその客体として対象的に捉えようとする。…そこに主―客の関係が成立するが、意識はこうした関係に立って事物を実体―属性の結びつきで捉えようとする。そして事物をこうした仕方で捉えて、それを主語と述語の結びつきに成立する日常言語に表現する。[53]
  • 両極性: 両極性は、二元論と区別されなければならない。両極性は生命に意を配っているが、それに反して二元論は諸事物を死んだバラバラなもの、つまりそれ自身存在するために他の何物も必要としないで、空間のなかで単に位置を占める実体として、捉えようとする。これに対して、両極性は、なによりもまず、AからB、BからCへといった生命、ないしエネルギーの流れを正当に評価しようとする概念なのである。[54]

  • 相対性原理: 現実的実質を構成する合生の過程における最終相は「満足」と呼ばれる。そしてそれは実体として「ある」(being)のである。存在であるということは、それが他者の生成に寄与貢献する潜勢的なものとして客体化されるという仕方で、後者に「相対的」なかかわりをもってくることを意味している。ゆえに、こうした事態を「相対性原理」と呼ぶ。[54]
  • 神: 神はその原初的本性において、ある現実的実質に内在し、後者の未来に向かっての自己創造過程を教導する主体性指向は、そこから導きだされてくる。そして現実的実質がこの主体的指向を実現し終わると、それは消滅する。消滅は3つの意味をもっている。①後続者に与件として客体化される。このことは、後継者の記憶のうちに保持される。これは、自己に死して他者に生きるということ。②世界の一要素になるということ。「一が多になる」ということ。③神の記憶に保持されること。現実的実質が自己に死して神に生きること。死復活。「原初的本性における神」は概念的であり、「結果的本性における神」は客体化された世界、つまり物的なものを受容する働きであるから、物的である。神は概念的なものと物的なものを、こうして自らのうちで統合にもたらす。[59]
  • 創造性: 神は決して世界を「無から創造する者」ではない。神を通した創造性の働きは、いつでも世界を前提にし、世界と共に始まるというのが、ホワイトヘッドの宗教思想の根本的立場。そこに、哲学と宗教と科学の密接な関係が成立する。「哲学がその主な重要さを達成するのは、宗教と科学とを一つの合理的な思考の構図に接合することによってである」。[61]
第4章 知覚論と延長的連続体
  • 合生と移行: 現実的実質の自己実現の過程は「合生」と呼ばれ、いわゆる「時が止まる」持続において成立した。持続においては、時が止まるゆえに、空間的な広がりがひらかれてくる。それが同時的世界である。…「合生と移行」という働きは、非連続的であると同時に連続的であり、空間的であると同時に時間的である、このことは、物理的領域においてエネルギーを構成する各要素が粒子的であると同時に、波動的であるという二つの相補的な性格をもつことと類比的である。[63]
  • 延長的連続体: 各現実的実質はその合生過程において、原子的個体性を実現するその都度、後継者へと連続的に移行していく。それは世界によって創られながら、世界を創っていく。世界の自己形成作用の焦点になる。そして絶えず創造的に前進しつつある世界もまた、空間的であると同時に時間的であり、非連続的であると同時に連続的である。現実的実質は時空的統一体であり、世界もまた時空的な延長的連続体である。[64]
  • 情的知: 知性はそれに先立つ情的なものと二者択一的な排他的関係に立つものではなく、むしろ前者は後者から導きだされ、またそこへと帰っていくものである。「知性は感じの特殊形体である」。[66]

  • 象徴的関連づけの様態における知覚: 物理的な性格をもつ「因果的効果の知覚」は、曖昧で漠然としており、また原始的として、無機物をはじめ植物、動物、人間などすべてによって共有されている。それに反して「現示的直接性の知覚」は、動物とか人間などの高度な現実的実質にのみ顕著に表れてくる知覚であり、過去的順応性から自らを解放して、自由において新しさを創造するという性格をもつ。この2つが「象徴的関連づけの様態における知覚」によって結びつけられることによってはじめて、われわれが眼前に空間的広がりのなかで明晰判明に見る事物のイメージが、現実世界においてわれわれの眼の網膜を刺激する外的事物と象徴的関連をもつことを理解することができる。[71]
  • 為す: 「為す」ということで意味されているのは、単に知識を獲得することだけではない。それは自己を創っていく倫理的行為であり、美の創造を目指す芸術的行為、社会とか国家を創っていく社会的・政治的・歴史的行為でもあり、あるいはまた、神とか仏と呼ばれる究極的関心事と関わる宗教的行為でもある。[84]

  • 構造的秩序化: 自然的世界であれ、社会的世界であれ、その構造的秩序は、被限定即能限定的な現実的実質を媒介として、それらと世界ならびに神との協同により形成されたものであり、自然を秩序づける自然法則も、けっしてその例外ではない。[85]
  • 社会の生命: 「生命は自由を求めんとする努力である」。社会の生命が枯渇する危険を回避するためにとるべきわれわれの戦術は、矛盾対立したものを意識の後背に配することによって、それらをコントラストへと、あるいはコントラストのコントラストへと還元して、今度は、それらをコントラストの調和という形で、意識の前景に立ち現わせる努力をすることであろう。[85]
第5章 抱握論
  • 知覚論と抱握論: 知覚論は主として諸事物の知識の獲得にかかわり、抱握論はそうしたことのみならず、何よりもまず、自己とか社会を創り国家や世界の平和を構築し、美を造形し宗教的関心事をもつことなどの諸経験に関わっている。したがって、知覚論は抱握論の一形態といっても差し支えない。[88]
  • 意識: 「意識は、われわれがいかにして、肯定―否定コントラストを感じるか」の仕方である。動物が本能に従って環境に適応しながら生きている限り、意識は発動しない、と思われる。なぜなら、そこには習慣に基づく過去の繰り返しの再演のみがあるからである。こうした過去の繰り返しの再演が否定されて、つまり、それを越え出て、未来に向かって自由において新しさを創造していくとき、意識が登場する。「生命は自由に向かっての努力である」。[92]
第6章 ホワイトヘッドの宗教観
  • 永続的: 神は「永続的(everlasting)」ではあるが、それは「永遠的(eternal)」と区別されなければならない。「永遠的」は、流動する世界を超え出る超越的領域に関わっている。もし神が永遠的と性格づけられるとすれば、ここでは、恒常性と流動とは二元論的に区別されることになるだろう。[105]
  • 恒常性と流動性: 恒常性と流動性とは、二元論的に対立したものと考えられるべきではなく、むしろ宗教における根本問題は、それらがいかにして両極的に関係づけられうるのかを解決することである。[106]
  • 自然宗教: ホワイトヘッドの宗教思想は、啓示宗教としてではなく、自然宗教として性格づけられるであろう。それはちょうど仏教において、仏陀の教え、つまり仏法が、諸事物の本性に宿る智慧を表現しているのと同じである。[110]

  • 理神論: キリスト教神学は、特殊啓示に対して一般啓示をも主張してしているが、ホワイトヘッドは一般啓示の立場だといえる。一般啓示においては、神は自らの意志を、イエス・キリストを通じて以外に、さまざまな他のものを通して、例えば、人間の理性(トーマス・アクイナス/カント)、人間の歴史(アウグスティヌス/ヘーゲル)、自然の秩序(ニュートン)、経済現象を支配している秩序と法則(アダム・スミス)、諸事物の自然本性(モンテスキュー/ホワイトヘッド)を通して人間に示してくる、となす考え方である。[113]
  • 縁起の理法: ゴータマが示す縁起の理法によれば、諸事物は相依の関係にある。そしてこうしたことが諸事物の実相だとすれば、どれ一つをとっても、他の全てのものと因となり縁となって結びついているが故に、他とは無関係に、それ自身で存在しているものは、何一つないことになる。[117]